おいおい、なんだってんだいヨルのやつ。
いきなり指鳴らしたかと思ったらさ、里に張った結界あっさり消しちまったじゃないか。
ふーー、はーー、ってな具合に息を吸って吐き、肩をぐるりと回してぐーぱーぐーぱー。体の調子をみてるってのかい?
なんだかよく分かんないけどこの隙にさ、胸に抱えたごっちゃんがどっか怪我してないか確認確認。
見れば良庵せんせも治癒の呪符取り出して、お姫さま抱っこしたしーちゃんの脚を癒やしてるみたい。
床しか残ってない庵からぴょんと降りて、辺りを見回しせんせの方へ近づくあたし。ちょっとドキドキしちまうねぇ。
この辺りは黒狐の里でも少し小高い丘の上。
周りはあんまり何にもないけど、遠巻きに里の連中が様子を伺ってるのがちらほら見える。
前に姉さんから聞いた、ずいぶん昔に姉さんと母様が住んでた家だろうと思ってたけど、よく考えりゃ建て替えしてるだろ。
そんな何百年も保つ家にゃ見えませんよ。ま、もうすでに束と床しかないしどうだって良いけどねぇ。
「ありがとね、せんせ」
「何がです?」
せんせがそっと優しくしーちゃんを立たせました。どうやら斬られたしーちゃんの脚も癒えたらしいですね。
「しーちゃんの怪我治してくれたのと、こんなとこまで追い掛けて来てくれたこととか……他にも色々です」
「当たり前じゃないですか、僕らは夫婦なんだから。あ、もしかしてあんな書き置きだけで離縁したつもりだとか言わないでしょうね?」
――ありがとうございました 葉子――
自分で書いといてなんだけど、充分にそうとも取れる書き置きだねぇ。
「そんなつもりじゃないですけど……でも……でも良庵せんせ。あたしの正体……姉さんから……」
「妖狐だそうですね。しかもお葉さんがあの睦美先生、なんでしょう?」
「あの脳筋姉そんな事まで言ったのかい?」
「え? いや菜々緒さんからはあんまり何にも聞いてませんよ」
そうなのかい? なんだかよく分かんないけど姉さんの事だからしょうがないねぇ。
「いやぁ、それにしても僕はほんと運が良い」
「は? ニコニコして何言ってんです? こんなややこしい女に引っ掛かってこれ以上ないくらい運悪いでしょうに」
せんせがきょとんとした顔です。
「心底惚れた女がたまたま妖狐で、さらに野巫の先生だったんです。僕にとってはこれ以上の出逢いはありませんよ絶対」
にっこり笑ってそんなこと言うんです。
ちょっともうなんなんですかウチの亭主。怖いくらいに可愛い過ぎですよほんと。
「せんせはその……あたしで――妖狐のあたしで……良いのかい?」
「妖狐かどうかなんてほんとどうでも良いんです。お葉さんが良いんです」
せんせ――あたしも……あたしも良庵せんせじゃなきゃ嫌なんだ。……こりゃせんせにあっさり泣かされちまいそうだねぇ。
「あ、でも……お葉さん。言っておかなきゃいけないことが」
「……なんです? やっぱり嫌でした?」
「その……お葉さんには申し訳ないんですが、ほんの三十年ほどで僕は先に死ぬでしょう。けど、それまでで良いですから、僕が歳をとって死んでいくのを……側で見ていてくれますか?」
……もうダメ。あたしもう涙堪えらんない。
察してくれたかごっちゃんがとてっと腕から降りてくれたの切っ掛けに、俯いた顔を両手で覆って溢れる涙を隠すけど、幾らでも溢れてどうにもなりゃしませんよ。
「――あ、あたしも……ホントはっ、せんせと一緒にっ――歳、とりたかっ、た。でも、嬉しいよ。あたし、せ、んせが死ぬまで、ずっと側で、見て、ますから――」
我ながらカッコ悪いねぇ。もうすぐ五百になろうって女が小さい子みたいにぐすぐすひっくひっく泣いちゃってさ。
でも、すっきりしたよ。
「せんせ」
「はい」
「無事に生きて帰ったらさ」
「生きて帰ったら?」
「せんせの子供が欲しいんです。あたしにくれませんか?」
「……子供って…………そ、それは――っ」
あははは。せんせ顔真っ赤っか。きっとあたしもだね。あはは。
「さて、ヨーコにリョーアン。話は済んだか?」
「まだまだ話し足りないから待っててくれるかい? もう三十年くらいさ」
にやっと一瞬だけ笑うヨル。腹立つねぇ。
「待ってやっても良いが、千載一遇の機会を失う事になるぞ?」
なに言ってんのさ。せんせにきりきり舞いだったくせにさ。
結界も無くなったしこのまま二人でぼかんとアンタやっつけて、それであたしらお手々繋いで帰るんだから。
そういやヨルのやつ、なんで結界消しちまったんだい?
「オレの格子の図柄。あれが何か知っているか?」
隣のせんせは首捻ってます。そりゃまぁそうだね、野巫三才図絵には載ってませんから。
「ドーマンだろ? あたしの星……セーマンと同じようなもんだって昔聞いたことあるよ」
もう三百年近く前になるかねぇ、師匠から聞いてたの思い出した。すっかり忘れてたけどねぇ。
「オレはヨーコやリョーアンと違ってこれしか使えない。他の図柄は覚えなかった」
……へぇ。そりゃまた効率の悪いこと。
あたしだってセーマン一つで大体どの効果も得られるけれど、効果は半分以下、図柄によっては十分の一くらいまで下がっちまう。
だからそいつで同じだけの効果を得ようと思えば倍や数倍の巫戟や戟が必要ってこと――
あ、そういうことか。ずいぶんせんせといっぱい話せたと思ったら……こいつ、休んでやがったのか。
再びにやりと笑ったヨルが続けました。
「ヨーコに逃げられずに今の里を見てもらうためには全てを覆う結界を維持する必要があった。しかしドーマンで作ったためオレの戟はほぼ枯渇状態だったのだ」
ひゅん、ひゅん、とゆっくり少し大きめに掌を二度、横と縦に振るったヨルの眼前に、再び現れた赤い線で作られた格子。
人がすっぽり収まるぐらいに大きなそれを、とん、とヨルが押すとさらに肥大しながらこちらへ…………
「解いた結界から幾らか戟を回収した。今までのモノとは全く違う。死ぬなよ、ヨーコ」
こ、こりゃちょっとあたしには無理だよ。
もう少し時間がありゃ図柄作ってなんとか出来るかもしれないけど、ちょいとそんな間なさそうだ。
せんせは素早く腰を落とし、左の腰の素振り刀へ手を伸ばしましたけど、至近距離で直接砕くと巻き込まれちまうの間違いなし……
とね、一瞬でそこまで考えたとき、あたしらの前に飛び出した子がいたんだよ。
「わっちがやる! 二人はちょっとでも下がって!」
あたしらを押しのけるようにして飛び出したしーちゃんが、かっ! と口から戟の波動を吐き出して――
「ちょ、ちょいとしーちゃ――」
「しーちゃんさ――」
ばぁぁん! と物凄い爆発音と爆風に二人揃って吹き飛ばされて――せんせに抱えられて地に伏して――
濛々と舞う砂埃の中、目を凝らしてみても、どこにもしーちゃんの姿はなかったんだ。
「主人を守って逝ったか。オレを騙した尾っぽと言い、やはりヨーコの尾っぽは優秀だ」
「……ヨ、ヨル…………ヨル! 許さん!」
せんせが素振り刀一つで駆け出しちまった。