今日は特にやる事もないらしく、良庵せんせは書斎で野巫三才図絵を眺めていらっしゃいます。
あたしは庭先に七輪を出して土鍋を乗せ、油揚げをちょっと濃い目の味で炊いていたんですけど、眼鏡を頭に上げた良庵せんせがやって来たのでそちらへ視線を遣りました。
「良い匂いですね、お昼ごはんにですか?」
「えぇ、お稲荷さんでもと思いまして」
「お葉さんのいなり寿しは美味しいから嬉しいな」
これであたしもいい歳ですからね、大抵なんでも作れますけどお稲荷さんは特に得意なんですよ。
もちろんあたしの好物だってえのもありますけどね。
ところで良庵せんせ、野巫三才図絵を手に持ったままですけど何かあたしに用事でしょうかね?
あたしが手を止めるまでそこでお待ちになりそうなんで、一旦お話を聞いてあげましょうか。
七輪から土鍋を上げて湿した布巾の上へ置き、ふぅ、と一つ吐息をこぼしつつ手を拭って立ち上がります。
「一区切りつきました。良庵せんせ、どうかなさったんですか?」
「油揚げはよろしいので?」
「ええ。冷ましながら味を染み込ませるんですよ」
なら良かったと良庵せんせ。
「野巫三才図絵の奥付なんだけどね」
いつかはそこに触れるだろうなとは思っていました。思ったよりも遅かったくらいです。
奥付というのは巻末にある、いついつだれだれが書き記した、どこそこの版元が出版した、などの情報が記される部分です。
野巫三才図絵は全て手書きの唯一冊の本。もちろん版元なんて存在しませんが、作者がふざけて奥付なんて書き足したんですよね。
「この筆者の『睦美 蓉子』って人、お葉さんと同じようこなんだよ」
良庵せんせや患者さんはあたしの事を『お葉さん』と愛称で呼んでくれますが、ホントの名前は『葉子』なんです。
「あら、そうだったんですか?」
しれっとそう返事しましたけど、良庵せんせは一つお間違えです。一文字だけ読みが違うんですよね。
『睦美 蓉子』と書いて、『むつび ようこ』と読むんです。
奥付にある通り書かれたのはほんの百年近く前、そして筆名の通り、歳経た六尾の妖狐が書き表したのがこの野巫三才図絵。
奥付だけじゃなくって筆名だってふざけているでしょう?
何を隠そう、それを書いた妖狐、あたしなんですよね。
昔っからあたし、人間ってえのがなんでか好きでさ。人に化けちゃ人里で暮らしたりしてたんですよ。
で百何十年か前かしら、ひょんな事から人間の子供の怪我を巫戟で癒したりしちまってね、そしたら噂を聞いた町の者がちょこちょこ訪ねて来る訳さ。
なし崩し的にしばらくその土地で野巫医者やってたんですよね。
しょっちゅう来る怪我人、病人を癒したり、乞われるままに野巫の技を教えたり。
その時ですね、野巫三才図絵を書き残したの。
でも何年何十年経ってもちぃとも老けない、いつまでも若く美しい不思議な女野巫医者がいるって噂んなっちまってねぇ。
けど人間ってのはもっと不思議でね。
そんなおかしなあたしをさ、排すどころか、崇め始めちまってね。
生き神さま、生き神さま、ってうるっさいのなんのって。
おっと、昔話は今度またにしましょうか。
良庵せんせを放ったらかしにはしたくありませんからね。
「そんな偶然もあるんですねぇ」
「ホントですね。常からお葉さんは野巫の才能があるというか、野巫の勘が良いというか、そういうところありますから。睦美先生の生まれ変わりだったりするかも」
当たらずとも遠からずですね。まぁ本人なんですけど。
野巫三才図絵を書いた百年前にはすでに今とおんなじ六本の尾でしたけど、あたしの尾っぽももうすぐ七本になりそうです。
二尾で産まれるあたしたち妖狐は、大体百年ごとに尾っぽがひとつ増えてその力を一気に増大させるんですよ。
六尾の妖狐と七尾の妖狐じゃ妖魔の格が全然違いますからねぇ。
「さぁ良庵せんせ、お稲荷さんの寿司飯を仕込みますから、お手すきでしたらお手伝いしてくださいな」
そう言って良庵せんせにしゃもじを手渡しあたしは団扇を手に取りました。
「よしきた!」
良庵せんせはひとつも嫌な顔せず腕まくり。
あたしの良い人、ほんと可愛くってしょうがありませんねぇ。