葉子ちゃんとヨルが飛んでって、しばらくたってから良庵せんせが目を覚ましました。
「……う、ん――なんだかやけにくすぐったいと思ったら、お腹ん中になっちゃんが入ってたんだ」
良庵せんせはまだ寝惚けたままのなっちゃんを胸に抱き上げて、ふらっと立ち上がって書斎を出て行きます。
お葉ちゃんの書き置きにはまだ気付かない。
わっちも一緒にせんせの腰にぶら下がったまま。
「お葉さんは台所かな? 覗いてみよっか」
「……きゅ〜」
二人は台所から、甚兵衛の泊まった客間、湯殿、厠、道場にお庭、一通り見て回ったけれどお葉ちゃんを見つけられません。
そりゃそう、だって居ないんだもん。
もう一度台所に戻って、布巾を被ったお皿の中にお稲荷さんを見つけ、それをお皿ごと手にして書斎に戻ってきました。
お葉さんの稲荷寿司美味しいよね、なんて言いながら。
文机の上にお皿を乗せて、さぁ書き置きに気付くぞ、と思ったけどまだ気付かない。
良庵せんせってば強くて賢いし、優しいし、真面目だし、努力家だし、タレ目だけど二枚目だし、お葉ちゃんが惚れるの分かるくらいに良い男なのは間違いないんだけど、とことん鈍い人なんです。
「お葉さんは買い物かな? 一人で出歩くのは禁止って言ってあるんだけど……」
ぐぅ、きゅぅ、と二人のお腹が鳴きました。
「先、食べちゃおうか」
せんせはともかく、なっちゃんまで美味しそうにお稲荷食べてるのがちょっと納得いきません。
わっちら尾っぽは食べる必要ありませんし、それに、どうせ食べるんならわっちだってお葉ちゃんのお稲荷食べたいのに。
でも今のわっちは兎の足の御守り、それにお葉ちゃんの尾っぽの中じゃお姉さん。だから我慢。
お皿に残った三つのお稲荷。
どうやらお葉ちゃんに残しておいてくれるみたい。
けど……、けどね……。
わっち、お葉ちゃんが感じられないんだ。きっとすぐには帰ってこれない。また会えるのかどうかも分からない。
こんなの初めてで、胸が張り裂けそうな程に心配。不安。頼りない感じ。
お葉ちゃんはあれでとっても強いからきっと心配なんて必要ない。
みっちゃんもごっちゃんもついてるし――
ごっちゃんは……あんまり役に立たないかなぁ。
急いで食べ終えた良庵せんせがなっちゃんに向かって話し掛けました。
「なっちゃん、悪いんだけど留守番お願い。お葉さん探してくるよ」
せんせはあちこち駆け回りました。
お葉ちゃんが立ち寄りそうな、市にもお茶屋にも紙屋さんにも。熊五郎棟梁のとこにも、けれどどこにも居ません。
汗みずくの良庵せんせに女将さんがお茶を淹れてくれました。
「良庵先生のとこほど良いお茶じゃないけどね」
「そんでお葉ちゃんがどうしたって? 愛想尽かされちまったのかよ?」
「…………」
棟梁の言葉に真剣な顔で悩む良庵せんせ。
「おいおい冗談だって。あのお葉ちゃんが出てく訳ねぇじゃねえか。半日やそこら見ねえくれえで心配しすぎだぜ先生よ」
「そうだよ。お葉ちゃんはしっかり者だもん。もう家に戻ってるかもしれないよ」
そうかも知れない帰ってみます、そうひと声残して良庵せんせが飛び出しました。まだ棟梁が何か言おうとしてたんだけど。
「なっちゃん! お葉さん戻った!?」
「……きゅ〜〜」
寂しそうに首をふりふりするなっちゃん。なっちゃんだってお葉ちゃんがヨルに連れてかれたのは分かってるんです。
見た目は小狐だけど、これでもお葉ちゃんの一部だから。
「そっか。一体どこ……行っちゃったのかな」
せんせがもう一度、雪駄を穿いて探しに行こうとしたところ、門屋を潜る賑やかな声。
「義弟よー! 今夜から頼むぜー!」
「お葉ちゃーん! お姉ちゃん来たよー!」
賑やかなお二人さんがやってきました。来たからってなんて事もないんだけど、能天気な声になんとなくホッとするよ。
「あれ? なんでぇ、出掛けるとこかよ?」
「それが……」
棟梁が冗談めかして言った言葉が気に掛かってるみたいで良庵せんせ言いにくそう。
お葉ちゃんが良庵せんせに愛想尽かすことなんてないのにね。
二人を書斎に招き入れ、大体洗いざらいを伝えました。
昨日賢哲さんから夜回りを頼まれたあと、訪れた薮井青年から野巫を教わったこと、巫の力を使える様になったこと、そして目が覚めたらお葉ちゃんがいなかったこと。
「ほぅ! 野巫医の師匠! その、なんだ、薮井とか言う……ぷはは、ダメだ、凄え駄洒落じゃねえかだははは!」
別に面白くないですそれ。賢哲さんの笑いの程度が知れちゃいますね。
ぎろりと良庵せんせが睨みます。
「お、おぉ。笑ってる場合じゃねえな。じゃあよ良人、なんか思い当たることねえのかよ。お葉ちゃんが出てっちまうようなよ」
ほんの一瞬、良庵せんせが悩む素振りを見せた直後、『あっ……』て顔して急に畳に突っ伏しさめざめ泣き出しました。
昨夜の道場でのく、口、口付け……を思い浮かべたみたいです。
大丈夫だよ、お葉ちゃんも喜んでたよ、大体あんたら夫婦なんだから、そう言ってあげたいけど、そうできないのがもどかしい。
「なんだよ、やっぱなんかあんのかよ? ほれ、義兄ちゃんに言うてみ? 恥ずかしがらんと、ほれ」
完全に面白がってる賢哲さんは放っておいて、菜々緒ちゃんだけに分かるように兎の足の指先をちょっぴり動かして見せました。けどやっぱりどうにも伝わらない。
『菜々緒。文机の上』
たぶんこっそり耳打ち、さすが三郎太ちゃん。頼りになる。
「……あ、あのさ良庵せんせー。それ、お葉ちゃんの書き置きじゃない?」
涙に濡れる良庵せんせが飛び起きました。ガバリと文机に齧り付き、そしてまたバタンと倒れて涙に沈みました。
「……どういう意味だか分かんねえが……過去形だな……」
――ありがとうございました 葉子――
だもんね……。
「ちょいとお待ち! 良庵せんせー泣かない! まずはお葉ちゃんを信じてやんな!」
勢いよく叫んだ菜々緒ちゃん。
菜々緒ちゃんのべらんめぇ、かっこいいよ!