「でもだからって。たった一晩しかない特訓の晩に(さか)らなくっても良いでしょうに」

「ほんと面目ない。返す言葉もありません」

 しょんぼりと肩を落とす、ほわほわ光る体の良庵せんせ。

 なんだかニヤニヤしちまうのは、せんせの絵面が面白いからだけじゃありません。
 なんてったって、あたし……

 せんせと初めて……

 く、口付けなんて――

 ――もう…………きゃーーっ!

 あぁ、駄目。思い出しただけであたし、赤面どころか体の芯が火照ってきちまうよぉ。
 いやんいやんとクネクネしてたもんだから、甚兵衛が苛立たし()にオホンと一つ咳払い。

「よろしいか良庵先生に奥方さま。とにかく時間がないのです。私は夜明け過ぎにはここを立たねばならんのですよ!」

 こいつは参ったね。
 弟子の孫に諭されちまったよ。しかも一等正論だってんだから目も当てらんないってもんだねぇ。

 全身ほわほわ光らせた良庵せんせもカチッと背筋を伸ばし、師匠である甚兵衛の声に集中する素振りです。

「良庵先生。なんとか最低限、(かんなぎ)の使い方だけでも覚えていただかなくてはなりませんが、あと一刻もない。集中していきましょう」

「かたじけない。よろしくお願いします」


 良庵せんせがどうして巫の力を引き出せたのか。
 よく考えるとそれは特別不思議なことではありません。

 先ほど甚兵衛が自分の巫を良庵せんせの体に流した事もきっかけとしては大きいですが、こないだの蝮の三太夫やしーちゃんの『戟』、甚兵衛の『巫』、それらに直面しそれを頭が理解した事、さらに巫も戟も使える()()()と触れ合った事。

 以前に与太郎ちゃんにぶち当たられて捻挫しちまった時――そう、お(ひい)さま抱っこして貰った時です。
 あの時の良庵せんせの治癒の呪符、あれは僅かとはいえ確かに治癒の力を持っていました。

 やはり巫や戟に触れ合う事、それが鍵となったのだと思います。
 ですからね、せんせにとっての天があたしってのはなんだかよく分かんないけど、良庵せんせがあたしに、その、く、口付け、し、したのだってね、(あなが)ち間違いじゃないんですよ。たぶん。


「先ほども言いましたが、この巫の力はこれ単体ではほとんど何の意味もありません。仮に腕に(まと)わせ妖魔を殴ったとしても、それは普通に殴るのとほとんど変わりません」

 良庵せんせと同じように、甚兵衛もその体をほわほわ光らせてみせました。
 淀みもなくってなかなかの腕前ですねぇ。

「ではどうするのか」
「――三才図絵……ですか」

「その通りです」

 甚兵衛は指を一つ立て、揺蕩う様に体を覆う巫の力をその指先に集めます。
 そしてその指先で宙空に字を書くように角が五つの()()を描くと、薄ぼんやりとした白い線が星形を象ったままで静止していました。

「これが巫の使い方です」
「な、何もないところに……図柄を……」

「もちろん筆に巫を流して紙に書き起こしても構いません。大事なのは巫を一つに集め、正しい図柄を作ることです」

 ――巫とは「神を招く」を語源とする言葉。対して戟とは三叉の矛のこと。
 戟はそのままで強力な武器となりますが、ひ弱な人の力である巫ではそうはいかないんです。
 空や大地、水に火に風に、あらゆる物や生き物、そこかしこに宿る神から力を借りてようやく、病や妖魔に対しての武器となるのです――

 師匠らしく甚兵衛が良庵せんせにそれを伝えますが、ふふっ、なんだか笑っちまいますねぇ。
 だって甚兵衛の師匠である甚坊にあたしが言ったそのままなんですもの。

「さぁ。巫を一つに集める練習を行いましょう。夜明けまでにそれさえ出来れば、あとは独学でも大丈夫でしょう」

 分かってんのかどうだか分かりませんが、フンフン頷いたなっちゃんがトテトテ歩いて近付いて、良庵せんせの膝をタシタシ叩きました。

「なっちゃんも応援してくれてるみたいです。夜明けまでもうひと頑張りですねぇ」
「なっちゃんもお葉さんもありがとう! 僕がんばります!」




 そして空が白み始めた頃――

「さ、良庵先生。やってみせて下さい」
「はい!」

 ふぅぅと一つ深い息を吐き、右掌だけに巫の力を集めた良庵せんせがそっと野巫三才図絵に触れ、虫食いだらけの図柄を完全な形へと浮かび上がらせました。

 ここまではばっちりです。

 文机に置いた三椏の紙に向き合って、徐に筆を取って右掌に集めた巫を筆へ、そしてゆっくりと慎重に図柄を描いていきます。

「――……ふぅ。どうでしょうか」

 額の汗を手の甲で拭い、立ち上がって文机の前を甚兵衛の為に空けた良庵せんせ。
 入れ替わりに甚兵衛が座り、じっと呪符を見詰めて口を開きました。

「……まだ少し巫が粗いですが、充分効果が期待できます。合格にしましょう」
「ありがとうございます! これも甚兵衛殿のお陰です!」

 完璧に整った巫であれば、ただ墨で描いただけの呪符と見比べても全く見分けはつきません。良庵せんせの呪符は確かに巫が少し粗いもんですから、ほんのり淡く輝いちまってるんですよ。

 けどね、あたしだって合格にしちまうよ!
 たった一晩でここまでやれたんだからね!

 嬉しそうに微笑む良庵せんせが、あたしやなっちゃんにもありがとうって礼を言って頭を下げちまいます。

 あたしら何にもしてません。ずぅっと三才図絵に向き合ってきた良庵せんせの努力が実っただけです。
 あたしがした事って言や、く、口、口付け……しただけ、だものね。

 それでも自分のことの様に嬉しくってしょうがありませんねぇ。

「では申し訳ないですがもう時がない。今夜の夜回りに向けて、そうですね……ここと、ここ、それにこの頁だけでもソラで描ける様にしておくと良いと思います」

 その言葉を最後に、たった一晩だけの野巫の講義は終わりとなりました。

「甚兵衛師匠、誠にありがとうございました」
「師匠はやめて下さいよ。『甚兵衛殿』で結構ですってば」

 甚兵衛が弟子である良庵せんせを『良庵先生』で呼ぶのは、せんせは曲がりなりにも野巫医者で自分はただの妖魔退治が生業だから、だってんですよ。

 ま、呼び方なんてどうだって良いですよね。
 師と仰ぐ気持ちと、弟子を慈しむ心がそれぞれにあればさ。
 あたしにとっちゃ、弟子の弟子と、弟子の弟子の弟子にあたる二人だもんね。