あたしがお茶を淹れると断って書斎を離れると、早速良庵せんせが口を開きました。
『野巫医の良庵と申します。副業で道場の師範代などもしております』
書斎の文机の前、畳の上で綺麗に端座する良庵せんせがまず名乗り――
『薮井甚兵衛です。急な訪いすみません』
対する薮井青年もかっちり座り、礼儀正しく頭を下げました。
ほぅ――
良庵せんせは言わずもがな、なかなかどうして薮井青年も二枚目です。
あたしとした事が、うっかりうっとりした溜め息吐いちまいましたよ。
二人向き合う様子を浮世絵にでもすりゃ娘さんがた殺到するんじゃないかしら。
浮世絵一枚がおよそお蕎麦一杯分で……、名うての絵師に頼めば費用が嵩む……、なら中堅どころの絵師……、この町一番の美僧と名高い賢哲さんも足して……
いけないいけない、そんな場合じゃありませんよね。皮算用するあたしの思考を遮るように、良庵せんせが話始めました。
『野巫についてのお話だそうで。ご興味がお有りで?』
『ええ。もうとびきりお有りなんですよ。実はここからひと山越えた町で祖父が野巫医を営んでおり――』
ここからひと山越えた町で野巫……それに甚兵衛の『甚』の字。それって……――
『お祖父様が野巫医を! それは是非お会いしたい!』
食い気味でせんせが反応するのを、薮井青年が首を振って答えます。
『――あ、いえ。営んでおりましたが、十年ほど前に亡くなりました』
『……そう、ですか。それは残念です。ご存命の折にご挨拶できれば……』
良庵せんせが心から残念そうにそう言いますが、こればっかりはしょうがありません。
人ってやつは、割りとすぐに死んじゃいますから…………。
『亡くなった先生のお名前をお伺いしても?」
『祖父ですか? 薮井甚吉です。晩年は町の者から甚じぃ甚じぃと呼ばれる明るく温和な人でした』
……ほらね。
やっぱりあの子だって死んじまうんですよ。
ひと山越えた町の甚吉。
出会った頃は甚坊なんて呼んでましたけど、十年ほども経てばあちらは立派な青年であたしは一つも老けないまま。
あの子はあたしの事を睦美先生なんてずっと呼んでましたっけ。
薮井なんて姓じゃなかった筈ですけど、駄洒落好きなふざけた子だったから改姓でもしたんでしょうね。
『実はその祖父が亡くなる前、かつて盗まれたある本を探して欲しいと頼まれたんです。実はそのために行く先々で野巫医と聞くと訪れる様にしてるんですよ』
『本……ですか?』
『祖父が野巫の師から受け継いだ、その名も野巫三才図絵という本なのですがご存知ありませんか?』
そう……だね。
確かにあたしが書いた野巫三才図絵、睦美蓉子を辞めようと思った時にあの子にくれてやったんでしたね。
『野巫の師……。と言う事は! お祖父様は睦美先生の直弟子ですか!? それは凄い! あぁ……是非お会いしたかった!』
『もしや良庵先生、三才図絵をご存知なのですか!?』
せんせはしっかりと頷いて、ご自分の背後、文机の上から恭しく野巫三才図絵を取り上げて畳の上へそっと置きました。
『ここに。幼い頃に父が古本屋で購入したものを譲り受けました。まさか盗品だとは父も知らなかった筈ですが』
『……こ、これが野巫三才図絵の原本……! は、拝見してもよろしいですか?』
『どうぞ、構いませんよ』
怪しげな者であれば良庵せんせが何よりも大事にされている三才図絵を渡す事はないでしょうけど、なんてったって憧れの睦美先生の直弟子のお孫さんです。
あたしだって甚吉の孫だと聞けば否やはありませんもの。
手に取ってぱらりぱらりと頁を捲り、人の部から地の部へと移った時、薮井青年の手が止まりました。
『や、やはり原本だ! 間違いない!』
薮井青年、甚吉から話を聞いて――というか野巫の手解きも受けていましたか。
この世界にただ一つの野巫三才図絵、見る人が見れば一目で原本だと分かる筈なんです。
『ど、どういう事です? 原本だと何か異なるのですか?』
『ほら! ここ見て下さい! この呪符に刻む絵、私が知るものに比べて明らかに絵が足りない!』
その通り。この本の絵、人の部を除いて図柄も解説も未完なんです。
『絵が……足りない――?』
ごめんなさいね良庵せんせ。あたしは当然知ってたんですけど、あたしから教える訳にもいかなくって……。
ずっと読んでいらした本が、読んでも無駄だと聞いちまっちゃ落ち込んじゃいますよね――
『――やっぱりそうか! 良かった……僕は間違えていなかった!』
って、あら? せんせ、気付いてらしたの?
『もしや気付いていたんですか?』
『あ、いや、気付いていた訳ではないんですが、そうとしか考えられないと――』
良庵せんせがこう続けました。
『人の部にある図柄に比べると天と地は確かに複雑ですが、人の部のそれよりも明らかに美しくない。どう考えても何かが足りないんです」
あたしなんだか嬉しくなっちまいます。
あたしが描いた野巫の図柄、その整った様を良庵せんせが美しいと感じてくれていたなんて。
『素晴らしい捉え方です、大したものだ。そう、仰る通りに地の部の図柄も完成形は人の部のそれと同様に美しいものです』
心なしか薮井青年の顔からも誇らしさが滲み出ているような気がします。
そして薮井青年が続けて言います。
『けれど今の良庵先生の言葉から察するに、先生は『巫』の力はご存知ない様ですね』
『……カ、カンナギ……の力――? そ、それはもしや巫戟の巫――?』
野巫三才図絵に視線を落としていた良庵せんせがガバリと顔を上げました。カッと見開かれた視線と一緒に。
『ええ。巫とは巫戟の片割れ、すなわちこれです』
薮井青年が仰向けに開いた両の手のひら。
その手がボウッと漂うような白い光に包まれていました。