そうそう、そうでした。すっかりお稲荷さんに夢中になっちまったよ。
「じゃ油揚げに味が染みるまで本題にしましょうか」
七輪から鍋を下ろしたあたしがそう言って、姉は胸骨あたりが見えるように着物の前を少し寛がせました。
ちょいと谷間も覗いて色っぽくなった姉の、その胸元からにゅっと顔を出す三郎太の髭面。あっという間に色気も何もありゃしません。
ちなみにちょいと小さめの、拳大の顔ですよ。こないだみたいに大きな顔だと華奢な姉さんの胴体からはみ出しちまいますからねぇ。
「結論から言うぞ。この間の女、あれはヨルの尾っぽだ」
「……やっぱりそうかい」
「ヨルってあのヨル? え? そうなの?」
姉さんはいつも姉さんらしくて、なんかもう逆に安心しちまいますねぇ。
「え、でもそれってヤバくないの? 菜々緒がっつり見られてるじゃんか……」
「安心しろ。その為に四郎太に頼んだんだ」
んん? っと首を捻ってしばらく黙った姉が、ぽんっ! と手を叩いて納得顔。
「ほへぇ〜だからあん時あんな熊に変化したんだー。三郎太やるじゃーん!」
「見つかると邪魔くせえ。ヨルの野郎はまだオレらもお葉を探してると思ってるはずだからな」
「バレたらヤバいのかい?」
「ヤバいなんてもんじゃねえ。オレらがお葉を探してたのはアイツに脅されてたからだ。逃げたお葉を連れ戻せ、さもなくば――! ってよ」
そりゃ悪いことしちまったね。けどほんっと面倒くさいったらありゃしない。
海を渡ってまで逃げるくらいに嫌がられてるってのが分かんないかねぇ。
そう、ヨルってのはアレです。かつてあたしが海の外をうろつく原因になった、あたしの意に染まぬ婚儀の相手。つまり、あたしらとおんなじ妖狐の男なんです。
あたしら白狐の一族と対を成す、黒狐の一族の中でも指折りの強者であり、姉さんよりもさらに百歳ちょっと上の八尾の妖狐。
もしあたしが戦えば、逆立ちしたって敵いません。
「一応聞くけどさー」
「なんです姉さん?」
「お葉ちゃん的にヨルんとこに嫁ぐのは無し、って事で良いのね?」
「以前であれば百歩譲って考えられなくもありませんでしたが、今は千歩譲ろうが万歩譲ろうが、断じてありません」
今のあたしにゃ良庵せんせがいるんですからね。聞くだけ野暮ってなもんですよ。
ニッと笑って姉が続けます。
「分かった! じゃあこの菜々緒姉さんが協力したげるから! 船漕いだつもりで安心して!」
……つっこみませんよ。
姉さんの事だからボケたのか本気で間違えてるのか判断つきませんし、普通は大舟と泥沼を間違うんじゃありません? それじゃ居眠りしちまいますよ。
三郎太も同じ気持ちかつっこみませんね。
「どういう風の吹き回しです? 前はあんなに乗り気だったクセして」
「そりゃ前と今じゃ全然違うんだもん。前だって意地悪のつもりなんて全くなくって、ヨルとお葉ちゃん、割りと良いかなって思ってたから。けど菜々緒だってヨルと賢哲さんじゃ比べられないもんね」
「ですです。その通りですよ姉さん」
姉さんとこんなに意見が合うなんて久しぶりだねぇ。
ヨルとの婚儀が持ち上がった数十年前、あたしは睦美蓉子としてウロチョロするのを辞めてしばらく大人しくしてた頃。
姉さんは姉さんで自由にあちこちで恋して回ってたそうですけど、ふらりと突然やって来て言ったんです。
『黒狐のヨルと結婚しなよ』
ヨルの事は昔っから知っちゃあいましたしそれほど悪い印象もなかったんですけど、ちょうど間が悪くってあたしは誰ともそんな気なかったんです。
丁重にお断りしたんですけど、『一度会ってみたら?』『とりあえず二人で遊びに行けば?』なんて姉さんったらしつっこくてさ。
遂には凄いこと言い出してねぇ。
『試しにまぐわってから考えれば良いんじゃない?』
姉さんじゃあるまいし、ってキレちまってねぇあたし。
『そんなに言うなら姉さんがヨルとま、ま――まぐわりなよ! それで夫婦になれば良いじゃないのさ!』
ってね。思えばアレはあたしが大人気なかったね。姉さんの唯一繊細なとこ突っついちまったもんだから。
『お、お、お葉ちゃんのアホー!!』
なんて言って飛び出してっちまいました。
姉さんじゃダメなんですよね。
白狐の力が欲しいヨルとしては、姉さんでなくってあたし、黒狐の血が入ってないあたしが良いんですって。
同じ母から生まれた姉さんもあたしも当然白狐の一族な訳ですけど、母親は同じでも父親は別。あたしら姉妹は種違いの姉妹。
姉さんの父親は、黒狐の一族の妖狐。
あたしらよりも古い黒狐は、白狐と黒狐の血を受け継いだ男児を長いこと求め続けてきたそうです。
あたしは興味がないんでよく知りませんけど、なんかとっても強くなるって伝説だか噂だかがあるんですって。
黒狐の一族から選ばれた雄、それと母様の間に産まれたのは幸か不幸か黒狐にとっては期待外れの女児、姉さんでした。
姉さんは白狐でありながら黒狐、なのに黒狐からは疎まれながら生きてきました。
こう言うと可哀想な気がしますけど、天真爛漫自由奔放な姉さんはあんまり気にしてないらしいですけどね。
「ふざけた話だと思いません?」
「今は思う。前は思わなかったけど」
「良庵せんせは違いますよ。良庵せんせはあたしの血がどうこうなんて関係なく、『あたし』を求めてくれたんです」
うんうんと頷く姉さんを相槌にして、ぎゅっと拳を握って言ってやります。
「あたしは断固、良庵せんせの女房です!」