「良庵せんせ、まだ起きあがっちゃいけませんよ」
「もうなんともありませんから」
あたしが庭でお洗濯を干していると、書斎の文机に向かって座る良庵せんせが縁側越しに目に入りました。
あちこち包帯を巻いた良庵せんせですけど、確かにどこも痛そうにはしていません。手ずから描いた呪符が良く効いたみたいですね。
なんてったってあたしが貼っつけましたからねぇ。
あれから二日。
あのあと三太夫の店に顔を見せた女、どうやらあれが件の依頼人らしいってのが三郎太の見解です。
っていうのもね、三郎太には思い当たる事があるらしいんですよ。ちなみに姉はピンと来てなかったらしいですけど。
あたしはてっきり脳筋姉さんの仕業だとばっかり……。
けどよく考えたら、もしそうなら三郎太が姉さんを止めてくれそうなもんですよね。
『ふん……バカだバカだと思ってたけど、まさか自分らに使うとは救いようのないバカ共だったわけね』
謎の女がそう言った直後、妖魔に化けた――っても実際に妖魔なんですけど――三郎太は彼女から逃げるように商家を飛び出してっちまいました。
興味なさげに三郎太の背を横目に見ながら、それを具にしーちゃんが見てるとも知らずに女は――
『またどっかのバカを唆さなきゃいけないか。面倒……だね』
――そう言ってその場を後にしました。
その後しっちゃかめっちゃかになった三太夫の根城へ大挙して現れた邏卒(警察官)が現場を調べている最中、あたしも素知らぬ顔で飛び込んだんです。
あたしが飛びついた事でようやく目を覚ました良庵せんせ。無事な姿に思わず感極まって子供みたいに泣きじゃくっちまったよ。
良庵せんせがのした破落戸どもは元から目を付けられてたらしくって軒並みしょっぴかれはしましたが、良庵せんせと与太郎ちゃんは無罪放免。
与太郎ちゃんの件がありましたし、騒動を目にした人も多くいましたからね、二人は巻き込まれた被害者として特に問題になることもなかったんです。
現場から逃げるように出て行った毛むくじゃらの大男だけは指名手配されちまいましたけど、四郎太が化けた羆みたいな姿だったし平気でしょう、たぶん。
「お葉さん。少し良いですか?」
せんせが真面目な顔で言うもんだから、ドキッとしちまいました。
良庵せんせの認識じゃ初めての妖魔との邂逅でしたけど、あたし何か怪しまれることしてないかしら?
「もう終わりますからちょいとだけ待ってくださいね」
手早く済ませて書斎へ上がり、正座の良庵せんせの前にあたしも正座で座ります。
「お葉さん」
「はい良庵せんせ」
「今回のこと、みっともない所を見せてしまって申し訳ない」
そう言った良庵せんせは深々と頭を下げちまいました。
倒れた良庵せんせに飛びついたあたしがわんわん泣きじゃくっちまったもんだからねぇ。
いつだって優しい良庵せんせ、ごめんなさい。
今回のことは甘く見たあたしの失態――、いえ、失態どころかあたしのせいなのかも知れません。
あたしの方こそ謝らなけりゃなのにそれを正直に言えないあたし……。
でも、今の良庵せんせとの暮らしを手放したくないんです。ごめんなさい。
「何言ってるんです! 与太郎ちゃんも言ってたじゃないですか! 良庵せんせはとってもカッコ良かったって!」
嘘つき妖狐のお葉さんは嘘ばっかりですけど、せめても明るく振る舞います。だから、お願いですからあたしの正体には気付かないで下さいね。
「いやぁ、僕も途中までは上手くいってると思ったんですけどね。たはは……。結局は連中の仲間割れのお陰で命拾い、修行不足を痛感しましたよ」
良庵せんせはあたしが思ってた以上に強くてカッコ良かったです。いかんせんちょっと相手が悪かっただけで。
それにしたって三郎太の機転にゃ助けられましたねぇ。
敢えて三太夫によく似た妖魔に化ける事で、見物人や邏卒にも、さらにはあの女にまで仲間割れだと思わせたんですから。
相変わらず三郎太は頼りになる尾っぽだねぇ。
「それでお葉さん、聞きたいことがあるんです」
「なんです? あたしに分かることなら良いんですけど」
なんでしょう? 妖魔のことならあたしにゃ分からない設定ですからね。あんまり突っ込んだ質問は勘弁して下さいよ。
「三太夫に化けていた妖魔――」
そうそう、良庵せんせや邏卒の認識ではそうなんです。三太夫が妖魔になったのではなくて、三太夫に化けていたヒグマの妖魔が変化を解いた、そうなっているんですよね。
「――が放った光。あれをこの兎の足が弾いてくれたのです。兎の姿となって」
……あ、そうか。
あの時なんでしーちゃんがわざわざ兎の姿に化けたのか不思議だったんですけど、そう言われりゃ良庵せんせが気を失う前だったねぇ。
狐の姿の方が楽だったろうにね。三郎太に負けず劣らずしーちゃんも頼りになる尾っぽだねぇ!
「そんな事があったんですか。その御守りにそんな力があるとは知りませんでしたねぇ」
「お葉さんもご存じありませんでしたか……これはやはりお葉さんがお持ちになった方が――」
良庵せんせならそう仰るとは思いますけど、これは何度でも言いますよ。
「いけません、あたしにとっちゃ良庵せんせが一等大事なんですから! あたしは絶対に受け取りませんよ!」
ちょいときつめに言いましたけど、決して浮気対策の盗聴用じゃぁありませんからね。
「そんなに僕の事を……すみません。では、もっと腕を磨いてお葉さんのことは僕が守りますから」
まっ。せんせったらほっぺた染めてそんな事言っちゃって。あたしまで照れちまうじゃないですか。
でもその日、すっかり傷も癒えた様子の良庵せんせでしたけど、道場に入ることもせずずっと書斎で野巫三才図絵とにらめっこをしていたんです。
どうしたのかしらと覗いてみると、昔からずっと読んでいらした「人の部」でなく「天の部」の頁を眺めていたんですよね。