――PM7時。
 待ち合わせ場所のファミレス。
 上の空で、メニューを眺めている私の前に、十分ほど遅れて景ちゃんが現れた。

「久しぶり!」

 入口できょろきょろしていた彼に向かって、私は声を掛ける。

「ああ。……うん」

 景ちゃんは私を認めると、ゆっくりこちらにやって来た。
 もっさりした黒髪と黒縁眼鏡。不健康そうな白皙。

(変わってないなんて、酷いな)

 少し瘦せたみたいだけど、十年前とほぼ同じ景ちゃんがそこにいた。

「良かった。まさか会ってくれると思ってなかったから」
「どうせ泰子(やすこ)さんの差し金でしょ。実家の話だから、一度会っておいた方がいいと思って……」

 景ちゃんは気怠そうに伸びをしている。
 泰子は私の母の名前。景ちゃんは私の従兄で幼馴染だった。
 今回彼が私に会ってくれたのは、故郷で空き屋のままになっている、彼の実家の今後を話し合うためだった。
 解体するのか、それとも再活用するのか、景ちゃんの意思を聞いて来いと、現在、東京在住の私が母によって送り出されたのだ。

「まさか、出版社経由で君から連絡が来るとはね」
「ごめんね。でも、景ちゃん、SNSもやめちゃったし、他に連絡先が分からなかったんだ」

 彼は漫画家だ。
 現在、月乃音というPNで活躍している。
 独特の世界観で、マニアックなファンが多いけど、デビューしてから十年近く、幾つもの連載を描き続けている売れっ子だ。
 数年前から、音信不通になっている彼に連絡を取る方法は、ファンレターの宛先に手紙を送ることくらいしか私には思いつかなかった。

「あ、僕はホットコーヒーで」

 先に私が注文したアイスティーが運ばれて来たタイミングで、彼はウェイターさんを呼びとめた。

「食べないの?」
「ああ。長引く話ではないと思ったから。君は食べたら? ここに君を呼び出したのは僕だし、ちゃんと支払うから」

 相変わらず、素っ気ない。
 シャツの胸ポケットから財布を取り出しているのだから、すでに帰る気満々のようだ。

(もう少し大人の対応をしてくれたらいいのに)

 でも、これが「景ちゃん」。
 パッと見は、草食系の温厚そうな人だけど、彼ほど頑固で自己主張が激しくて、面倒臭い人を私は他に知らない。

「漫画賞、とったんだってね」
「……うん」
「おめでとう」
「どうも」

 しん……と静まり返る。
 会話が続かない。
 景ちゃんが続ける気がないからだろう。
 どうせなら、彼の作品の話をしたり、サインを強請ってみたり……。
 昔みたいに気安く話したい気持ちはあったけど、結局、それが目的で呼び出したんだろうって思われるのが嫌だった。
 悲しいかな……。
 彼が私との時間を苦痛に感じていることが伝わってくる。

(やっぱり、私のこと許してくれないんだね)

 拷問のような沈黙を経て、私は絞り出すように告げた。

「私ね……結婚するんだ」
「そう」
「専業主婦になる予定」
「そうなんだ」

 それは、景ちゃんに対してのメッセージだった。
 もう貴方と同じ土俵には乗らないからって。
 だから安心してって。
 けれども、景ちゃんは、そんな私の最後の気遣いすら、認めてくれないのだ。

「……で? 僕の実家の話をするんじゃなかったの?」 

 ゾッとするほど低い声だった。