高校の寮につくと、寮母にバレないように階段で四階へ上がる。
「早く入ってしまえ」
 堂城は自室の鍵を開けると、ふたりを隠すように招き入れた。時刻は深夜一時を回り、廊下ですれ違うものはない。堂城は急いでドアを閉め、ふう、と一息ついた。

 静寂に包まれた部屋の窓際には、大きな望遠鏡が月光に照らされて白く光っている。
「わあ、いいなあ」
 我慢ならず大きな声をあげたのは、やはり森川だった。部屋の主がしーっと唇の前で人差し指を立てると、森川は慌てて口元を隠した。食い入るように望遠鏡を見つめ、小声で「触っていい?」と許可を乞う。

「簡単な調整は、日中のうちにしてある」
 そう言うと、森川は部屋の大きな窓を片側だけ開けた。ひょこひょこと天体望遠鏡の前に戻り、ファインダーをのぞきながら筒の位置を調整し始めた。慣れた手つきで上下左右に鏡筒を動かし、天体望遠鏡をのぞいてピントを合わせていく。

 四階の堂城の部屋からは、夜空がよく見えた。遮る物はなにもない。窓の外に釘付けの背中を、堂城と氷高はただ見つめていた。
「クレーターもよく見えそうだ。すごいや」
「ああ、アイピースはいい物をねだったからな」
 壁際に置かれたテーブルには、アイピースがもう二本並んでいた。
「さすが金持ち」
 氷高はニタリと笑って冷やかした。
「両親には感謝している」
 そっとメガネを直しながら堂城は答える。無用な卑下をしないところが、この男が本物である証だった。

 すると、天体望遠鏡をのぞいていた森川が急に声を上げた。
「ふたりとも来て! TLPだ!」
 ねえ、早く! と、切羽詰まった声に急かされ、堂城が一歩足を踏み出した。しかし次の瞬間、身体はもといた場所へ一気に引き戻される。横にいた氷高が、腕を勢いよく掴んでいたのだ。

「なんだよ」
「おい、よく見ろ」
 氷高は小声だった。ただならぬ空気を感じ、堂城は氷高の目線の先を見た。


「お前は、誰だ」
 氷高は堂城の腕を掴んだまま、鋭い眼光で目の前の人間に問う。
 窓から差し込む淡い月影を背に、膝立ちでこちらを振り返り、ぽかんとしている。見慣れたあどけなさが消えていた。

「あれ、僕」
 なにしてたっけ、とこぼしながらあたりを見渡す。
 そこに制服を着た小柄の癖っ毛はいなかった。だほっとした玉虫色のニットを着て、ほんの少しだけ伸びた後ろ髪を束ねている。おくれ毛があちこちから飛び出ているその男は、二十半ばの様相をしていた。
 ここは男子校の寮だ。見知らぬ大人などいるはずもない。しかし、きょろきょろと部屋中を見渡す丸い瞳に、堂城と氷高は見覚えがあった。

「日向なのか」
 得体の知れない男に、堂城は恐る恐る声をかけた。開けっぱなしの窓の近くで、レースのカーテンが揺れる。レースの模様がフローリングのなかで同じように泳いでいた。
「ふたりとも、どうして」
 それは確かに森川の声だった。俯いて落ち着きがない。氷高は疑いの視線を向けたまま、部屋の電気をつけた。
「おい、窓閉めろ。虫入るだろ」
 あ、うん、と、男は急いで立ち上がり、後ろの大きな窓を閉めた。鍵をガチャリとかけたあと、なかなか振り返らない。
「お前は日向なのか。ちっちゃいあいつはどこだ。答えろ」
 氷高がハサミを向けて立っていた。電気をつけに行った拍子にテーブルから取っていたのだ。
「おい、やめろ。物騒だろ」
 堂城が止めに入る。男は声も出ず、顔の色をなくして立っていた。
「物騒だ? こんな夜更けの学生寮に、不審者だぞ。しかも相手は大人。日向は行方不明。寝ぼけてんのかお前」
 氷高の言うことはなにひとつ間違ってはいなかった。現に目の前の男は、ふたりに向かってくることはなくとも、どことなく後ろめたそうな顔をしていた。
 なにか訳ありなのかもしれないと踏んだ堂城は、目の前の男にそっと声をかけた。
「あなたは一体……名前は」
 男は視線を落としてキョロキョロとしていたが、堂城の丁寧な導きを頼りに口を開き始めた。
「僕はモリカワ ヒナタ。日に向かう、と書いて日向」
 ヒュウガじゃないよ、と付け加えた男を見て、堂城と氷高は顔を見合わせた。同じ自己紹介を、高校一年の春に聞いた。
「歳は」
「二十五歳」
「なんでここにいる」
「わからない。ラボの……えっと、グラスゴーで学会があって。その帰りにヨークシャー・デイルズに寄って天体観測をしていたんだ。あ、本当はペナイン・ウェイをロングトレイルしたかったんだけど、今回はちょっと」
 車があったから、と言いかけたところを氷高が遮った。
「そのうざったい話し方が」
「ああ、日向だ」
 堂城が氷高に呼応する。
「ひどいな」
 森川と名乗る男は、気恥ずかしそうに頬をかいた。


「十七歳のときの記憶はないのか。今みたいに、どこかに飛ばされたような」
「ないよ。初めてさ」
 手がかりになることは、なにもなかった。三人が途方に暮れていると、二十五歳の森川が言った。
「もしかすると、二十五歳の僕がなにか変えてしまったのかもしれない」
 途端に神妙な顔をして、考えごとを始めた。眉間に皺を寄せ、窓から満月を眺める。


「日向は将来、イギリスにいるのか」
 すごいな、向こうではなにをしてるんだ? と聞くと、二十五歳の森川は、あ、えっと、と狼狽えた。
「だめだろ、こういうのは聞いたら」
「大丈夫だ。十七歳の日向には言わないさ」
 止めに入る氷高を、堂城はするりとかわす。
「俺らは? まだ遊んでるか?」
 その質問に、二十五歳の森川は、身体をこわばらせた。

「卒業式の日から会ってないんだ」
 そう言って、二十五歳の森川は視線を外した。
 ぴたりと部屋の空気が変わった。ファンタジーに心を躍らせていた堂城も、こればかりは堪えたのか静まり返る。

「僕が悪いんだ」

 見慣れた笑顔に息を止める。眉を八の字に下げ困ったように笑う顔に、堂城と氷高は動けなくなった。なぜ? とは聞けなかった。

「消える前の僕は、ここでなにをしていたの?  僕はちょうどTLPの発生に釘付けで……」
 重苦しい空気をどうにかしようと、二十五歳の森川が話を変えた。ふたりが知っている森川よりも、やはりほんの少し大人だった。
「そういえば、日向は消える前にTLPを見ていた」
 もう消えてしまったか? と、堂城はそっと天体望遠鏡の前に立ち、鏡筒をのぞいた。その後ろをぴたりと張り付くように、腕組みをした氷高が険しい顔をして立つ。
「あ! 見える。白光がまだ点滅しているぞ」
「俺にも見せろよ」
 入れ替わろうと、ふたりが望遠鏡の前で身体を寄せた瞬間だった。

 バタンッ。

 後方で大きな音がした。そこには二十五歳の森川がいた、はずだった。

「いたた」
 ふたりが振り返ると、部屋の真ん中に癖っ毛頭を掻く華奢な男が転がっている。
 氷高は、なにが起こったのかわからず立ち尽くした。力なく口を開け、唇を微かに震わせている。瞬きをする余地もない。一方で堂城は、すぐに望遠鏡を離れて腰を痛がる森川に駆け寄った。
 そこにいたのは間違いなく、ふたりの知る十七歳の森川だった。
 ズレた制服のシャツを直す。
「大丈夫か。今までどこにいたんだよ」
「僕? ずっとここにいただろう」
 なんか転んだみたいだ、と恥を隠すように笑っていた。
 目の前の不可解な出来事に、堂城と氷高は混乱するばかりだった。