森川日向は高台から月を見上げていた。部活で借りた天体望遠鏡を、今夜も熱心にのぞき込む。よく晴れた秋夜にぽうっと灯る光は、灰吹き銀のように鈍く輝いていた。
「よーく、毎晩。飽きないのな」
 夜空を睨みつけ、氷高仁が呆れ声で呟いた。雪国育ちの白い肌をして、切れ長の目元が夜風に馴染む。
 そのところ堂城礼司が、森川を挟んで氷高の反対側を陣取った。
「日向はギークだ。ジェフ先生も言っていただろう」
 堂城は目の前の柵に手をかけ、今日やった英会話の授業の話を持ち出す。都会の良家出身らしく、さりげなく話に滑り込むのに語尾は堂々としたものだった。その語り口は嫌味のない気品を纏っている。
「TLPが観測できるかもしれないと思うと、つい」
 森川は、へへ、と気恥ずかしそうに笑った。その純朴な目尻に、男たちは心を揺らす。

 TLPとは、月面が突如発光したり、靄がかって見える現象だ。数秒で終わることもあれば、少しの間続いて観測されることもある。原因は諸説あり、いまだ解明されていない。

「ナードだろ。なあ?」
 氷高が首を傾けて森川を見た。
 ナードは蔑称だ。社交性が低いゆえに、蔑むニュアンスを含んでいる。
「まあ、人付き合いは。確かに」
 口ごもる森川に、すかさず堂城が声をかけた。
「大丈夫だ。僕たちとうまくやってる」 
 そうだろ? と言って柵に肘をつき、頬杖をしてひとつ向こうの男を煽る。氷高の乾いた笑いが、夜更けの静かな森に響いた。
「それは君たちが特異だから」
 どこか嬉しそうに、森川は言葉尻を弾ませる。頬の位置を高くし、恥ずかしがるように鏡筒のなかの世界へ逃げてゆく。その一方で、堂城と氷高はそれぞれに瞳を濁らせていた。
 幾許かの間をおいて、氷高が「そうだな」と言った。視線が森の暗がりに落ちてゆく。

 特異だ。なにもかも。周囲を見渡してしまえば、嫌でも思い知る。
 ある日、天体望遠鏡のピントを調節する繊細な指先に心がぐらついた。この胸のざわつきは、身を押しつぶしてしまうほどの脅威だ。得体の知れない感情に否応なしに飲み込まれる。
 癖っ毛を触りながら頼りなく笑う目元も、真剣に鏡筒をのぞき込む横顔も、これまで積み上げてきたものをいとも簡単に砕く。ただならぬ"なにか"を内懐深くにしまっても、幾度も引き摺り出してくるこの男に頭を抱えた。
 何度、己を嘲弄してきたかは知れない。氷高は悟らせぬほどの涼しい顔をして、また虚空を睨んだ。
 そして同じ病を抱える横顔に、堂城はなにも言うことができなかった。静寂のなか、燦然と輝く星空を仰いだ。