「すみません。ご心配をおかけして……」
 
 春雷に心配を掛けていたことを素直に詫びると、目を逸らしながら春雷は「いや……」と返す。

「元はと言えば、誘惑に負けた俺の責任だ。雪起にも散々責められたしな」
「その雪さんはどこに……?」
「今日は子供の面倒を見に帰った」
「こっ……!?」

 子供がいたんですか。と言いかけたが、つわりで苦しむ華蓮の気遣い方や食事の用意が慣れていたので妊娠の大変さや辛さを知っていたのだろう。
 華蓮の言いたいことを察したのか春雷は「あいつは結婚しているぞ」とさも当然のように返す。

「雪起の奥さんは犬神だ。まだ子供が幼いから交替で面倒を見ているらしい」
「そうですか……」
「雪起を見ていたからか、時折羨ましく思うんだ。家族って奴が」
「家族ですか?」
「俺にも雪起がいるし、その下に弟妹がいる。が、今は疎遠でな……。君が来るまでは雪起がたまに来るくらいで、この屋敷には俺しか住んでいなかった。前はそれで良かったんだが、雪起が妻子を連れて遊びに来るようになってからは急に独り身が寂しく感じるようになったんだ。自分でもおかしいと思う。自ら望んで家族と離れて、一人で暮らすことを選んだというのに……」

 自嘲的に笑いながら話してはいるものの、春雷の横顔はどこか寂しくて――苦しそうでもあった。
 華蓮は手を伸ばしかけるが、自分を犯した男にここまで優しくする必要があるのかと思い留まってしまう。
 春雷たちが向けてくれる気遣いや優しさもそれは華蓮に対する罪滅ぼしであって、子供を産んだ後は清算されてしまうだけのもの。
 被害者である華蓮自らが、加害者である春雷に情を向ける必要は無いのだと。

(でも、もしかしたら……)

 もし春雷が罪の意識から華蓮に接しているのではなく、本当に心から華蓮を気遣ってくれているのなら、華蓮も春雷に優しくなれるだろうか。
 子供を産んで彼の孤独を慰めるだけではなく、彼の苦悩をもう少し取り除くことが出来るのだろうか――。
 華蓮は手を引っ込めると、話題を変えることにする。

「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでした。私の名前は――」
「言うな」

 華蓮の言葉を封じるように、春雷は人差し指でそっと華蓮の唇を塞ぐ。春雷の急な行動に華蓮の胸が一際大きく高鳴ったのであった。

「名乗らなくていい。名前も一つの呪いだ。名前を聞いてしまったら、俺との(えにし)が出来てしまう」
「え、縁?」
「絆やゆかりとも言えるな。とにかく今はまだ子供が産まれるまでの仮初めの縁だが、名前を知ったらその縁は切れなくなる。今度こそ『犬神憑き』となって不幸になってしまう」
「犬神が憑くと不幸になるんですか?」
「ここに来た時、雪起も言っていただろう。犬神は嫁いだ相手と相手の一族を不幸にすると。俺との縁が出来てしまうと、君は犬神に憑りつかれたことになる。今後嫁いだ相手や嫁いだ先、そしてこれから生きていく中で不幸になってしまう。ここでの記憶を一切忘れても、縁は死ぬまで残り続ける」
「それならどうしたらいいんですか……?」
「偽の名前を名乗るといい。それなら縁は出来ないからな」

 急に偽名を名乗るように言われて悩んだものの、目の前の池で咲く白い花を見て咄嗟に思いつく。

「睡蓮……。私のことは睡蓮と呼んで下さい。春雷……さん」
「分かった。睡蓮だな。雪起にも伝えておく。俺のことは春雷と呼んでくれて構わない。畏まる必要もない」
「そう……なんだ。じゃあこれからはそうするね」

 華蓮がまた暗い顔をしたからだろうか。春雷は手を止めると「まだ気掛かりなことがあるのか?」と気配りしてくれる。

「大したことじゃないの。いつの間にか夏になったんだなって……」

 睡蓮の開花時期は六月頃。華蓮が彼氏の家を飛び出したのは四月の終わり頃だった。春を感じることなく過ごしてしまったと考えて、惜しい気持ちになっただけだった。
 すると春雷は「なんだ。そんなことか」と大したことのないように話し出したのだった。

「そんなに春を感じたいなら戻してやる……。ほらっ」

 春雷が指を鳴らした瞬間、華蓮の目の前に広がる光景が変わった。葉桜は薄桃色の花びらを咲かせた満開の桜に、菜の花の周りを白い蝶が飛び交い、池の周りには無数の水仙が花を咲かせたのだった。

「この庭は俺の妖力で自由に季節を変えられる。人間界に合わせて季節を変えていたが……。睡蓮が望むならずっと春のままにも出来る」
「いいの? そんなことをして」
「睡蓮が喜んでくれるならお安い御用だ」

 風が吹いて、二人の足元に桜の花びらが飛んでくる。

「身体が落ち着いたら……庭を歩いてもいい?」
「ああ。もう少ししたら身体も落ち着くだろう。そうしたら好きに歩くといい」

 華蓮が振り返ると、柔和な笑みを浮かべる春雷の端麗な顔が近くにある。華蓮は胸が激しく音を立てるのを感じながら目線を庭に戻したのだった。