【長編版】犬神さまの子を産むには~犬神さまの子を産むことになった私。犬神さまは甘々もふもふの寂しがり屋でした~

 次の日、部屋の中でただ何をすることもなく壁を見つめていた華蓮の元を訪れた者がいた。

「少し話せるだろうか」

 僅かに外の陽気が差し込む障子の前に人影が映った。がっしりとした身体付きと低い声からすぐに相手が誰だか分かった。
 昨晩返事を書いた春雷だった。

「昨日は文をありがとう。……嬉しかった」

 障子越しなので本当に春雷が喜んでいるかどうかは分からない。それでも声音は柔らかく、華蓮を怯えさせないように物腰穏やかに話そうと努めているのだけは伝わってきた。

「今は辛い時期なのだろう。変われるものなら変わりたいところだが……。いや、これでは言い訳だな。俺のせいで苦しい思いをさせてすまない……」
「……」
「雪起から話を聞いた。何も食べていないそうだな。苦しいだろうが少しでも何か口にした方がいい。このままだと出産まで身体が耐えられない。何か食べたい物があれば遠慮なく言って欲しい。用意する……」

 そこまで春雷が言ったところで、華蓮は静かに障子を開ける。今まで二人を隔てていた障子が急になくなったからか、春雷は虚をつかれたように目を大きく見開いていたのだった。

「氷……が食べたいです……」
「氷? 削り氷のことか?」

 華蓮が小さく頷くと、春雷は顎に手を当てて何かを考えているようだった。もしかして、難しい頼み事をしてしまったのだろうかと華蓮が口を開いたところで「分かった」と春雷は背を向けた。

「すぐに用意する。部屋で待っていろ」

 言われた通りに自室で待っていると、やがて春雷は盆を持って戻って来た。盆の上には細かく削られた山盛りの氷に加えて、何故かイチゴやレモンといった色とりどりのかき氷のシロップまで載っていたのであった。
 華蓮がぽかんとした顔をしていると、春雷は戸惑ったように目を逸らしたのだった。

「違ったか? 削り氷というから、かき氷を食べたいとばかり……」

 春雷の言葉に瞬きを繰り返した華蓮だったが、やがて小さく吹き出すと声を上げて笑い出したのだった。

「いいえ。間違っていません……。少しでいいので、水の代わりに氷が欲しかっただけなんです。水を飲むと気持ち悪くなるから」
「そ、そうだったのか……」
「でもわざわざ用意してくれて、ありがとうございます。全部は食べられないので、一緒に食べませんか? 外でも眺めながらでも」

 華蓮は部屋から出ると、柱を掴みながら慎重に縁側に腰を下ろす。後ろを歩いていた春雷を振り返ると、隣に座るように促したのだった。
 二人並んで座ると、春雷が削り氷を小ぶりの器に盛ってくれたので華蓮は礼を言って受け取る。

「すごい。氷が細かい……! かき氷機で削った時より細かいかも!」
「口に入れやすい方が良いと思って細かく削ってきた。少し時間が掛かってしまったからか、最初に削った下の方は溶けてしまったが……」
 
 春雷も自分の分を器に盛ると、メロン味と思しき緑色のかき氷シロップを掛けていた。華蓮は何もかき氷シロップを掛けずに匙で掬って口に入れたのだった。

「冷たくて美味しいです……」

 まだ胃のむかつきはあったものの、これだけ細かく削られた氷なら難なく食べられそうだった。何口か食べたところで視線を感じて顔を上げる。すると、穏やかな表情を浮かべた春雷と目が合ったのだった。

「顔に何かついていますか?」
「いや。ようやく笑ったと思って」

 そう言って屈託ない笑みを浮かべた春雷を見て華蓮は気づく。ここに来てから――厳密に言えば、彼氏に手酷く振られてから全く笑っていなかった。
 ここ最近はつわりで苦しく、部屋に籠もっていたこともあるが、目まぐるしいくらいに色んな出来事があった。笑う余裕を無くしていたのかもしれない。


「すみません。ご心配をおかけして……」
 
 春雷に心配を掛けていたことを素直に詫びると、目を逸らしながら春雷は「いや……」と返す。

「元はと言えば、誘惑に負けた俺の責任だ。雪起にも散々責められたしな」
「その雪さんはどこに……?」
「今日は子供の面倒を見に帰った」
「こっ……!?」

 子供がいたんですか。と言いかけたが、つわりで苦しむ華蓮の気遣い方や食事の用意が慣れていたので妊娠の大変さや辛さを知っていたのだろう。
 華蓮の言いたいことを察したのか春雷は「あいつは結婚しているぞ」とさも当然のように返す。

「雪起の奥さんは犬神だ。まだ子供が幼いから交替で面倒を見ているらしい」
「そうですか……」
「雪起を見ていたからか、時折羨ましく思うんだ。家族って奴が」
「家族ですか?」
「俺にも雪起がいるし、その下に弟妹がいる。が、今は疎遠でな……。君が来るまでは雪起がたまに来るくらいで、この屋敷には俺しか住んでいなかった。前はそれで良かったんだが、雪起が妻子を連れて遊びに来るようになってからは急に独り身が寂しく感じるようになったんだ。自分でもおかしいと思う。自ら望んで家族と離れて、一人で暮らすことを選んだというのに……」

 自嘲的に笑いながら話してはいるものの、春雷の横顔はどこか寂しくて――苦しそうでもあった。
 華蓮は手を伸ばしかけるが、自分を犯した男にここまで優しくする必要があるのかと思い留まってしまう。
 春雷たちが向けてくれる気遣いや優しさもそれは華蓮に対する罪滅ぼしであって、子供を産んだ後は清算されてしまうだけのもの。
 被害者である華蓮自らが、加害者である春雷に情を向ける必要は無いのだと。

(でも、もしかしたら……)

 もし春雷が罪の意識から華蓮に接しているのではなく、本当に心から華蓮を気遣ってくれているのなら、華蓮も春雷に優しくなれるだろうか。
 子供を産んで彼の孤独を慰めるだけではなく、彼の苦悩をもう少し取り除くことが出来るのだろうか――。
 華蓮は手を引っ込めると、話題を変えることにする。

「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでした。私の名前は――」
「言うな」

 華蓮の言葉を封じるように、春雷は人差し指でそっと華蓮の唇を塞ぐ。春雷の急な行動に華蓮の胸が一際大きく高鳴ったのであった。

「名乗らなくていい。名前も一つの呪いだ。名前を聞いてしまったら、俺との(えにし)が出来てしまう」
「え、縁?」
「絆やゆかりとも言えるな。とにかく今はまだ子供が産まれるまでの仮初めの縁だが、名前を知ったらその縁は切れなくなる。今度こそ『犬神憑き』となって不幸になってしまう」
「犬神が憑くと不幸になるんですか?」
「ここに来た時、雪起も言っていただろう。犬神は嫁いだ相手と相手の一族を不幸にすると。俺との縁が出来てしまうと、君は犬神に憑りつかれたことになる。今後嫁いだ相手や嫁いだ先、そしてこれから生きていく中で不幸になってしまう。ここでの記憶を一切忘れても、縁は死ぬまで残り続ける」
「それならどうしたらいいんですか……?」
「偽の名前を名乗るといい。それなら縁は出来ないからな」

 急に偽名を名乗るように言われて悩んだものの、目の前の池で咲く白い花を見て咄嗟に思いつく。

「睡蓮……。私のことは睡蓮と呼んで下さい。春雷……さん」
「分かった。睡蓮だな。雪起にも伝えておく。俺のことは春雷と呼んでくれて構わない。畏まる必要もない」
「そう……なんだ。じゃあこれからはそうするね」

 華蓮がまた暗い顔をしたからだろうか。春雷は手を止めると「まだ気掛かりなことがあるのか?」と気配りしてくれる。

「大したことじゃないの。いつの間にか夏になったんだなって……」

 睡蓮の開花時期は六月頃。華蓮が彼氏の家を飛び出したのは四月の終わり頃だった。春を感じることなく過ごしてしまったと考えて、惜しい気持ちになっただけだった。
 すると春雷は「なんだ。そんなことか」と大したことのないように話し出したのだった。

「そんなに春を感じたいなら戻してやる……。ほらっ」

 春雷が指を鳴らした瞬間、華蓮の目の前に広がる光景が変わった。葉桜は薄桃色の花びらを咲かせた満開の桜に、菜の花の周りを白い蝶が飛び交い、池の周りには無数の水仙が花を咲かせたのだった。

「この庭は俺の妖力で自由に季節を変えられる。人間界に合わせて季節を変えていたが……。睡蓮が望むならずっと春のままにも出来る」
「いいの? そんなことをして」
「睡蓮が喜んでくれるならお安い御用だ」

 風が吹いて、二人の足元に桜の花びらが飛んでくる。

「身体が落ち着いたら……庭を歩いてもいい?」
「ああ。もう少ししたら身体も落ち着くだろう。そうしたら好きに歩くといい」

 華蓮が振り返ると、柔和な笑みを浮かべる春雷の端麗な顔が近くにある。華蓮は胸が激しく音を立てるのを感じながら目線を庭に戻したのだった。


 春雷の言う通り、つわりは数日で落ち着いた。
 その頃には華蓮の腹部も大分膨らみ、紬の上からでも丸みを帯びているのが分かるようになっていた。人間の倍の速さで成長するだけあって、一日経つだけで人間の数日分大きくなっているらしい。
 最近ではお腹の張りや胃が圧迫されているような違和感さえ感じるようになったのだった。
 この頃になると、華蓮の心にもゆとりが出てきた。
 部屋に籠もっているばかりではなく、春雷が妖力で造ってくれた庭を眺めながら雪起が用意してくれた和綴じの本を読み、双六や折り紙などの玩具で遊んで日々を過ごすようになったのだった。
 この日も華蓮は庭に行こうと部屋を出たつもりだったが、敷地内のどこにも人の気配が感じられなかった。
 いつもなら雪起が動き回る足音や春雷と話しているのか二人の声が聞こえてくる。それが何の物音も聞こえてこないので、急に心細い気持ちになって呟いたのだった。

「春雷」
「呼んだか?」

 振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの廊下に、紬の袖をたすき掛けにした春雷が立っていたのだった。

「わぁ!? いつの間に居たの!?」
「睡蓮に呼ばれたから飛んで来たんだ。俺の子供を身ごもったことで一時的な縁が出来たからな。縁で結ばれた相手の声はよく聞こえる」

 そう言って、額から流れる汗を腕で拭ったので、本当に華蓮の声を聞きつけて駆けてきてくれたのだろう。手や紬の裾が土で汚れていたので、何か作業をしている途中だったのかもしれない。

「誰の気配も感じないから不安になって呼んだだけだったの。邪魔してごめん……」
「雪起なら買い物に行っているぞ。俺は裏の畑を手入れしていただけだ。最近は水遣りしかしてなかったからか雑草が伸び放題で」
「畑があるの?」
「気になるなら一緒に来るか? 大して面白くないかもしれないが……」

 最近まで自分の部屋と厠、後はせいぜい湯殿くらいしか使ったことがなかったので、他の場所がどうなっているか知らなかった。
 興味本位で華蓮が頷くと、春雷は腕を差し出してきたのだった。

「少し歩くことになる。転んだら大変だ。汗を掻いてしまったが杖代わりに掴まれ」
「掴まらなくても大丈夫。そんなに遠くないでしょう? そこまでしなきゃいけないくらい自分の子供が心配?」
「子供もそうだが睡蓮も心配だ。そんな大きな腹なら歩き辛いだろう」
「それは……」

 お腹が大きくなるにつれて気付いたが、最近では膨んだお腹で足元が見えづらくなっていた。用を出すのが大変なだけではなく、物を拾い上げることや草履を履くことさえ一苦労であった。
 また息切れもしやすくなったので、軽い散歩のつもりで廊下を歩いても、少ししか進まぬ内に息が上がってしまうのだった。
 そんな華蓮の苦労を春雷は知っているのかは分からないが、身体を支えてくれるのは有り難かった。
 腕を掴むと、華蓮の歩調に合わせて春雷は歩き出したのだった。

「辛くなったら言って欲しい。紬が土で汚れてしまうかもしれないが、君を抱えて部屋に戻ってもいい」
「ありがとう。優しいのね。春雷は」
「これくらいは当たり前だろう」

 さも当然のように言った春雷の横顔を見ながら華蓮は思う。

(やっぱり根は優しい人なんだろうな。春雷は……)

 多少は罪悪感もあるかもしれないが、手を貸すのも、華蓮の体調に気を配るのも、即座には出来ないだろう。普段から相手のことを慮らないと考えが至らない。

(それなのに今まで誰とも結婚しないで、一人で暮らしているなんて……何か理由があるのかな?)

 以前、春雷は自分で家族から離れて、一人で生きていくことを選んだと言っていた。そこに結婚しない理由も関係しているのだろうか。
 そんなことを考えている間に春雷が手入れをしていたという畑に着いたらしい。位置としては華蓮の部屋の反対側に当たるようで、今まで立ち入った場所にあるようだった。

「ここが畑だ」

 春雷の手を借りて草履を履くと、華蓮は畑に近づく。今は夏野菜が収穫期のようで、赤々としたトマトや細長いキュウリ、太く大きいナス、実がしっかり形付いてるトウモロコシ、小ぶりながらも存在を強調するスイカなどが植わっていたのであった。

「本格的な家庭菜園!」
「本当はもっと種類を増やしたいんだがな。今はこれが精一杯だ」

 トマトの葉を触りながら春雷は穏やかな表情を浮かべる。華蓮も春雷の隣に行くと、両掌で掬うようにトマトの赤い実を手にしたのだった。

「トマトがたくさん生っているのよ。スーパーで売られていても良いくらい、赤くて立派なトマトよ」
「誰に話しかけているんだ?」
「お腹の子。そろそろ耳が発達して周囲の音を聞いていてもおかしくないから」

 目線をお腹に落として撫でていると、春雷も同じように目を向ける。

「そうだな。産月も近づいている以上、目や耳が出来ていてもおかしくないな……。これは迂闊に変なことは言えないぞ」
「春雷、あのね……」

 子供が産まれた後、自分たちの縁は本当に切れてしまうのかと聞こうとした時だった。急に空が暗くなったかと思うと雷が鳴り始める。

「ひと雨来そうだな……。君は中に戻った方がいい。濡れたら大変だ」
「春雷は?」
「俺はもう少し畑の様子を見たら中に入る」

 春雷の腕に掴まって縁側から中に戻ると、春雷はすぐに畑に戻ってしまう。徐々に空は暗くなっており、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。
 畑の中にしゃがんで、時折袖で汗を拭う春雷を見ていてふと気づく。


(そういえば、タオルって……)

 縁側を見渡すが、タオルらしきものはどこにも無かった。雨が降り出すなら、どのみちタオルがあった方がいいだろう。水分補給に飲み物もあるといいかもしれない。

(タオルは洗面所か湯殿にあったかな? 飲み物は台所にあるよね)

 ゆっくり腰を上げると縁側を歩き出す。これまで畑がある裏庭辺りは来たことが無かったので、物珍しそうに辺りを見ながら壁伝いに歩く。すると、とある部屋の前を通った時、暗がりで何かが光ったように見えたのだった。

「何だろう……」

 華蓮は部屋の入り口から顔だけ出して暗闇に目を凝らす。そもそもここは何の部屋なのだろうか。
 日当たりによるものなのか、室内は薄暗く、書き物机や衣料を入れている行李以外は何も置かれていなかった。
 殺風景で、どこか寂しい部屋だった。

「気のせいかな。外からの明かりが反射しただけとか?」
 
 そう思った矢先に、また部屋の暗闇から白い光が見えたかと思うと、今度は微かに声が聞こえてきたのだった。

『もう無理しちゃ駄目だよ……ただでさえ昔の傷が痛むんだから……』
『はいはい。分かってるよ。全く、口うるさい息子だね……』
 
「この声はあの光から聞こえてくるの……?」
 
 華蓮は瞬きをすると、そっと室内に足を踏み入れる。勝手に入るのは良くないと思いつつも、引かれるように光に近づいて行ったのだった。
 暗闇に目が慣れていくにつれて、光は割れた鏡から放たれていることに気付く。光の前に辿り着くと、その場に膝をついて、ところどころ欠けた鏡を覗き込む。
 割れた鏡の中には杖をつきながら歩く年老いた女性と、老婆に手を貸す年配の男性が映っていた。
 いかにも親子といった二人は、どちらも共に春雷と顔立ちがよく似ていたのだった。

(どうして春雷と似ているんだろう……)

 そのままじっと鏡を見ていた華蓮だったが、何気なく鏡に触れようとしたところで、後ろから慌てた様子の春雷が駆け寄ってきたのであった。

「睡蓮!」
「春雷!?」

 そのまま春雷に手を引かれると、触れたところから青い電流が走る。

「きゃあ!」
「す、すまない……」

 衝撃に驚いて悲鳴を上げると、春雷は謝罪と共にすぐに手を離してくれる。掴まれたところを押さえながら鏡を見ると、そこには今の華蓮と春雷が写っているだけだった。

「大丈夫。少し静電気に驚いただけだから」
「あれは静電気ではなく、君が『犬神使い』だという証なんだ。『犬神使い』は自分が使役している犬神や心を許しているあやかし以外に触れられると、ああやって身を守るために相手の妖力を弾こうとする」
「そうなんだ……。じゃあ今流れた電流が春雷の妖力なんだね」
「そうだ。最初に会った時も俺が腕を掴んだ途端に電流が流れただろう。あれも同じだ。あれがあったから、君が『犬神使い』だと気付けた訳だが……」
 
 思えば、ここに連れて来られた時、雨の中、外に出ようとした華蓮を春雷が引き止めた際にも同じように青い電流が発生した。あの時も無意識のうちに春雷の妖力を弾き返そうとしたのだろう。さっき杖の代わりに掴まれと言われた時に何も無かったのは、春雷に気を許したからかもしれない。

「ごめん。『犬神使い』のことを何も知らなくて……」
「それはいいんだが……。それよりもあの鏡の中に何を見たんだ?」
「年老いた女性と年配の男性の親子だと思う。春雷によく似てた。知り合い?」
「睡蓮も見たのか……」

 春雷は顔を歪めると、痛みを堪えるように自分の身体を押さえて黙ってしまう。やがて息を吐き出すと教えてくれたのだった。

「あの二人は俺の母親と父親違いの弟だ。どちらも人間だ……」

 春雷の気持ちを表すかのように、外では雨が降り出したのだった。


 自然にとっての恵みの甘雨は二人にとってはただの冷雨だった。春雷が部屋の明かりを点けると、殺風景な暗い部屋の中が生活感のある明るい部屋に変わったのだった。

「この部屋って……」
「俺の部屋だ」
「春雷の?」

 最低限の物しか置かれていないので物置きだと思っていたが、よくよく見ると部屋の隅には乱雑に布団が積まれ、わずかに開いた押し入れからは布地がはみ出していた。
 なんとなく、春雷らしいと思ってしまう。
 
「じゃあこの鏡も春雷の物なんだね」
「ああ。これは親父が……俺の父親がくれたものなんだ。人間界の様子を映す鏡だと言って……。俺が母親の話をねだってばかりいたらくれたんだ」
「春雷のお父さんは犬神なんだよね。でもお母さんは人間なの?」
「俺の母親も君と同じ『犬神使い』の家系でな。親父が子供を産ませるために、人間界から攫ってきたんだ」
「攫って……!?」
「前も言ったが、犬神は不幸を招くことからあやかしの中でも嫌われている。雪起のように条件が合う犬神がいればいいが、いない時は君と同じ。子供を産んだら記憶を消して、全て元の状態に戻すことを条件に、人間界から『犬神使い』の血を引く女性を攫ってきていた。俺の母親もそうだった」

 外に目を移すと、春雷は遠くを見つめながら話し続ける。

「母親には恋人がいたんだ。それなのに親父と関係を持って、俺を身ごもったことで半狂乱状態になった。俺の成長に比例するように母親の心身もおかしくなり、一時は俺の命さえ危なかったらしい」
「そんな……」

 言葉を失ってしまうが、春雷は華蓮に視線を戻すと笑みを浮かべる。
 
「でも君はそんなこと無いな。俺に怒りを向けてくるどころか、腹の子を慈しんでくれさえいる。悲観に暮れてばかりいないのは心が強い証だ」
「そんなことないよ。だって最初は部屋から出て来なかったし……。私だって恋人がいたら春雷を恨んでいたかもしれない……」

 もし華蓮が恋人に振られる前に春雷に攫われて、同じように妊娠したとしたら、それこそ春雷の母親と同じ状態になっていただろう。たまたま出会ったタイミングが良かったとしか思えない。
 華蓮を買い被る春雷を否定するが、春雷は首を振る。

「部屋から出て来なかったのは体調が悪くて身動きが取れなかったからだろう。俺が君の立場でも同じことをした。それに……俺のことは嫌いじゃないんだろう?」
「それは……」

 まだつわりが酷く、部屋に引きこもっていた時に部屋に来た黒犬に話した内容を、どうして春雷が知っているのだろう。犬神だけあって犬と会話でも出来るのだろうか。

「俺の母親は最後まで親父とまともな会話が出来ないまま、俺を産み落とした。親父はすぐにここでの記憶を消すと、母親の身体を元の状態に戻して人間界に帰した。親父もすぐに夫に先立たれた犬神の女性と結婚した。その人がお袋だ。お袋は俺のことを実の子供のように思ってくれたし、俺もお袋のことを実の母親だと思って慕っていた。だが……」

 そこまで話すと春雷は大きく息を吐く。雨が降り出したことで気温が下がったのか、室内はどこか薄寒いように感じられたのだった。
 
「雪起を始めとする弟や妹たちが産まれたことで気づいてしまったんだ。俺と雪起たちが似ていないことに。どうして似てないのかしつこく親父に聞いた時に初めて知った。俺の母親が人間ってことも……」

 やがて春雷の熱意に負けたのか、父親は母親のことや、子孫を残すために犬神たちが「犬神使い」の女性に子供を産ませる話をしてくれた。
 そうして、春雷に人間界の様子を映す鏡をくれたのだった。

「真実を知って、人間界を映す鏡を貰った時に、俺は初めて実の母親の姿を見た。知らない人間の男と俺とよく似た小さな男児の三人で動物たちがたくさんいる場所にいた。人間界では動物園って呼ばれているところらしいな。とても幸せそうだった」

 人間界と春雷たちあやかしが住むかくりよの時間の流れは違うそうで、人間界に戻った母親は付き合っていた恋人と結婚して、春雷の異父弟となる息子を産んだらしい。
 春雷の存在や犬神のことを完全に忘れて、母親は笑っていた。

「俺と一緒に鏡を見ていた親父が漏らした言葉を今でも忘れられない。『あいつはあんな笑顔をしているんだな……』と。それくらいここでの母親は酷い状態だったらしい」
「それからどうしたの?」
「鏡を貰ってからは毎日飽きずに見ていた。その頃になると、お袋も俺より実の子供である雪起たちの方が良いみたいでな。俺のことはずっと放置していた。それを良いことに、一日中部屋にこもって鏡を見ていた。そんな毎日を過ごすようになって、しばらく経ったある日、俺は母親と父親違いの弟に直接会ったんだ」
「人間界に会いに行ったの?」
「いや、二人からこっちに来たんだ。交通事故に遭って、生死の境を彷徨ったことで」

 二人が事故に遭った時、母親の息子は成長して大学生になっていた。自動車の運転免許証を取得して、母親を隣に乗せて山道をドライブをしていると、カーブを曲がり損ねて正面から来た大型トラックに接触した。
 二人が乗った車はガードレールを突き破って、崖下へと転落したのであった。

「二人は見るからに大怪我を負っていた。いつ死者の魂が向かう場所――常世に行ってもおかしくなかった。鏡でその様子を見ていた俺はすぐに二人を助けに行こうとした。それを親父に阻まれた」
「お父さんが? どうして……」
「これ以上、母親に関わるべきではないと。犬神の俺と関わったことで母親は不幸になるかもしれない。そして俺自身も傷付くことになるからと……」

 慌てる春雷の様子から異常を察した父親は春雷を止めるが、父親の言ってる意味が分からなかった春雷は父親の制止を振り切って二人の元に駆けつけた。
 犬神の妖力を使って、自分の身体に流れる母親の血を縁として辿ることで、自分と同じ血が流れる二人を見つけた。

「俺が二人の魂を見つけた時、二人はもう少しで常世に足を踏み入れるところだった。俺は二人に声を掛けると人間界に続く道まで案内した。かくりよと人間界の境目まで。最初こそ二人は驚いていたが、俺にも好意的に接してくれた。感謝もしてくれたし、他愛のない話もしてくれた。この時だけは本当の家族に――母さんの息子になれたみたいで嬉しかった。けれども……」

 今まで滔々と話していた春雷だったが、急に言葉を詰まらせたかと思うと、何かを堪えるように握った手に力を込める。
 
「俺が余計な一言を言ってしまったために、全て台無しにしてしまった」
「何を言ったの……?」
「別れる時につい口走ってしまったんだ。『母さん』と。そうしたら親父がかけた忘却の術が解けてしまった。母親は親父に攫われて俺を産んだことやここでの日々を思い出した。思い出した母親は俺に向かって叫んだんだ。『化け物!』……と」

 つい数刻前まで優しかった母親は顔を真っ青にすると、春雷に向かって「化け物!」と吐き捨てた。

『今までよくも騙していたわね……。この化け物!! あっちに行きなさい!! 私の()()()()()に何をするつもり!?』

 豹変した母親に春雷と息子が呆然としていると、母親は息子の手を引いて、脇目も振らずに人間界へと走り去った。
 一度も振り返ることもなく、ただ春雷から逃げるように消えたのだった。


「二人の姿が見えなくなっても、根が生えたようにその場から動けなかった。そのまま立ち尽くしていると、かくりよの治安を守る獄卒がやって来て捕まったんだ」
「どうして捕まったの?」
「理由は二つ。獄卒の許可なしに常世に立ち入ろうとしたこと。勝手に人間の魂を人間界に帰したことだ。常世は俺たちあやかしも立ち入ることを許されていない。死者だけが住む国だ。俺たちも死んだら常世に行くと言われている」

 全ての生き物は死んだ時に常世に行き、そこで輪廻転生の時を待つことになる。
 生前に善行を積んだ分だけ早く次の生に転生するが、悪行ばかりしていた時や心残りがある時は、転生出来ずにいつまでも常世に留まることになるらしい。
 
「常世には常世の決まりごとがある。その中に常世に行こうとする人間を引き止めていけない決まりがある。俺はそれを破ってしまった。そして罰を受けたんだ。あやかしとしては自分の存在意義にも関わる大きな罰だ」
「どんな罰を受けたの?」

 華蓮の言葉に春雷は一瞬躊躇ったように視線を彷徨わせたが、やがて
 
「妖力を……犬神としての力を奪われた。ほんの僅かな妖力は残っているが、今の俺はほとんど人間と変わらない」
「えっ……」
「心配しなくても、子供が産まれた後、君の身体を元に戻して、人間界に帰すことくらいなら出来る。記憶を消すこともな。庭の季節を変えるのと同じく簡単だ。いざというときは、雪起にも手伝ってもらうつもりだ」
「そうじゃなくて……。春雷はそれでいいの? 妖力が無くて辛くないの?」
「たまにもどかしく感じることがあるな。妖力があれば怪我の治りは早いし、老化も遅い。数年くらい飲まず食わずでも生きていられるが、妖力が無いとなかなか怪我は治らないし、すぐに老ける。人間と同じように毎日飲み食いしないと生きていけない。そのために畑を始めたようなものだが……」

 自分で育てるのが難しい果物や米、肉や魚などは雪起が定期的に近くの村から買って届けてくれるらしい。卵は家の近くに鶏小屋があるそうで、毎朝産みたての卵を手に入れられるとのことだった。

「人間と同じような生活を送って大変なのに、もっと他のあやかしが多いところに住まないの? 自給自足の生活じゃなくて、それこそ利便性が良い街とか村に……」
「出来ないんだ。嫌われ者の犬神が街に住んでも、他のあやかしから迫害されて、居場所が無いだけだ。君は経験したことはあるか? 話しかけても無視をされて、どこにいても石を投げられる。店に行っても何も売ってもらえず、病院の診察さえ拒否されたことが」
 
 華蓮は首を振る。人種や容姿、性別、出身地を理由にした差別の話を聞いたことはあるが、自分には全く関係無いと思っていた。
 
「それなら他の犬神はどこに住んでいるの?」
「犬神たちは街から離れた場所で村や集落を作って生活している。雪起や家族の家もこの近くの犬神の村にある。俺は立ち入ることすら許されていないから、どんな場所かほとんど知らないが……」
「どうして春雷は村に入れないの?」
「俺が罪を犯した犬神だから……妖力を奪われたあやかしもどきだからだ。この場所でさえ、何年か前にようやく見つけたんだ。それまでは俺のせいで住んでいた犬神の村を追われて、家族共々かくりよ中を彷徨ったんだ」

 かくりよにおいて、妖力を持たないあやかしというのは罪人を示すらしい。そういったあやかしはあやかしたちのコミュニティに入ることさえ許されない。命尽きる時まで爪弾きにされ、孤独で生きなければならない。
 それまでは後ろ指を指されながら、かくりよを転々として隠れ住み続けるか、安住の地を求めて人間界に渡るしかなかった。ただ人間界に行っても、今度はあやかしを祓う退魔師たちに命を狙われるので、生きづらいことに変わりはないらしい。
 あやかしたちがやっていることも人間たちがやっていることと、何も変わりが無かった。

「獄卒から連絡を受けた父が迎えに来て家に帰ったが、小さな犬神の村では噂はあっという間に広まった。俺たち家族は村を追われて、別の犬神の村や集落に身を寄せた。正体を隠して大きな街に住んだこともある。でもほとんどは俺を理由に追い出された」
「家族はどうしたの? 怒らなかったの?」
「親父は呆れたのか何も言わなかった。妖力を失ったことで俺に興味が無くなったんだろう。村を出てからは最低限の話しかしなくなったからな。元から不仲のお袋には憎まれたし、存在を無視されるようになった。雪起以外の弟や妹たちはまだ幼かったから何も言わなかったが、成長するにつれて俺に原因があることに気がついた。雪起以外からは煙たがれるようになって、ここに住み始めてからは顔さえ出さなくなった。会わなくなってからしばらく経ったな」

 春雷は割れた鏡に視線を移す。

「あの鏡はここに住み始めた時に、父が持って来てくれた。今までは親戚に預けていたと言って」

 雪起や春雷の家族が住んでいる今の村は、春雷を村に立ち入らせないことを条件に他の家族が住むことを許してくれた。
 その代わりとして春雷には当時荒れ放題だったこの家を与えた。元は春雷と同じように罪を犯して妖力を奪われたあやかしが住んでいたそうで、他の場所に移り住んでからは荒屋となっていたらしい。
 明らかに住めるような状態では無かったが、それでも春雷は家族のために、一人で荒屋に住むことを決めた。雪起は反対したが、母親と他の弟妹は春雷を厄介払い出来るとして春雷に賛成したらしい。
 そんな荒屋を春雷は何十年もかけて、今の綺麗な形にした。家を直し、畑を耕し、庭を造った。
 妖力があれば簡単に出来ることでも、妖力が無い春雷は時間を掛けて少しずつ手を加えて入った。
 人間のように地道に、日々積み重ねて……。


「久しぶりに見た母親はすっかり老けていた。丁度息子の結婚式の日だったようで、とても幸せそうな顔をしていた。俺のことや死にかけたことを忘れたように……」

 実の母親に化け物と呼ばれ、咎人として妖力と住処を失い、あやかしどころか家族にさえ嫌われて、どこにも居場所が無い傷心の春雷。
 そんな春雷とは対照的に、何事もなかったように息子の晴れの日を祝う母親と、愛する伴侶と共に新しい生活に向けて歩み始める幸せの絶頂にいる父親違いの弟。
 事故に遭って死ぬ寸前だったことや、助けた春雷に感謝を忘れた二人だけが幸福を享受しようとしていた。
 そんな二人の姿を遠くかくりよから見ていた春雷は、きっと悔しかったに違いない。
 
「母親の姿が消えて、ただの鏡に戻った時、映ったのは俺だった。自分の姿を見て、化け物と呼ばれた時を思い出した。人間の母親そっくりの顔をしていながらも、人間じゃなくて犬神の俺……。もし犬神じゃなくて人間として産まれていたら、俺を息子と呼んでくれたのか。母さんと呼んでも答えてくれたのか。俺を家族として抱きしめてくれたのだろうか。そんな考えばかり浮かんできたな。意味ないって分かっているのに……」

 春雷は鼻を鳴らすと、過酷の自分を嘲笑する。
 
「苦しくなって、何もかもが嫌になった。もう母親の姿も自分の顔も見たくなかった。それで鏡を割ったんだ。それからは一度も母親の姿を見ていない」

 犬神としての自分を春雷は誇りに思っていた。それが化け物と言われて存在を否定されてからは自信が無くなった。
 望みもしないのに犬神の子供を生まされた母親から否定されただけではなく、妖力を失ったことで父親からも見放されてしまった。
 春雷がいなければ、家族はかくりよを転々と移り住む必要は無かった。今も最初の村で幸せに暮らしていただろう。札付きとなった春雷はただのお荷物。家族の足枷だった。
 両親に存在を否定され、周囲からも拒絶された時、子供は何を寄る辺にすればいいのだろう。
 
「妖力を失ってあやかしの仲間にも入れてもらえず、だからといって人間でもない。どこにも混ざれないはみ出し者だよ、俺は。……悪かったな。そんな俺の子供を産まされて。全部終わったら、必ず無かったことにする。この話しも……」
「な、んで……なんでそんな平気そうな顔をするの……。怒っていいんだよ!? 泣いたっていいんだよ!? 春雷は……春雷は悪くないのに……。お母さんと弟を助けただけなのに、なんで……。なんで一人でこんな思いをしなきゃいけないの……!」

 華蓮の目に涙が溜まる。母親や家族のことを話している時の春雷はどこか諦めているようにも、冷めているようにも見えた。それでもどこか哀愁漂うのは何故だろう。
 春雷は自分の過去を悲観することも、恨むことも、同情を求めることもなかった。ただ過ぎたことを淡々と話すだけ。それなのに外を見ながら話す横顔には寂寥感が滲んでいた。
 それはきっと――。

(寂しいんだ。誰にも受け入れてもらえなくて、ずっと一人で暮らしていて、孤独を感じているんだ)

「久しぶりに見た母親はすっかり老けていた。丁度息子の結婚式の日だったようで、とても幸せそうな顔をしていた。俺のことや死にかけたことを忘れたように……」

 実の母親に化け物と呼ばれ、咎人として妖力と住処を失い、あやかしどころか家族にさえ嫌われて、どこにも居場所が無い傷心の春雷。
 そんな春雷とは対照的に、何事もなかったように息子の晴れの日を祝う母親と、愛する伴侶と共に新しい生活に向けて歩み始める幸せの絶頂にいる父親違いの弟。
 事故に遭って死ぬ寸前だったことや、助けた春雷に感謝を忘れた二人だけが幸福を享受しようとしていた。
 そんな二人の姿を遠くかくりよから見ていた春雷は、きっと悔しかったに違いない。
 
「母親の姿が消えて、ただの鏡に戻った時、映ったのは俺だった。自分の姿を見て、化け物と呼ばれた時を思い出した。人間の母親そっくりの顔をしていながらも、人間じゃなくて犬神の俺……。もし犬神じゃなくて人間として産まれていたら、俺を息子と呼んでくれたのか。母さんと呼んでも答えてくれたのか。俺を家族として抱きしめてくれたのだろうか。そんな考えばかり浮かんできたな。意味ないって分かっているのに……」

 春雷は鼻を鳴らす。きっと過酷な状況に置かれた自分を嘲笑したのだろう。
 
「苦しくなって、何もかもが嫌になった。もう母親の姿も自分の顔も見たくなかった。それで鏡を割ったんだ。それからは一度も母親の姿を見ていない」

 それまで犬神としての自分を春雷は誇りに思っていた。それが化け物と言われて存在を否定されてからは自信が無くなった。
 望みもしないのに犬神の子供を生まされた母親から否定されただけではなく、妖力を失ったことで父親からも見放されてしまった。
 春雷がいなければ、家族はかくりよを転々と移り住む必要は無かった。今も最初の村で幸せに暮らしていただろう。札付きとなった春雷はただのお荷物。家族の足枷だった。
 両親に存在を否定され、周囲からも拒絶された時、何を寄る辺にすればいいのだろう。
 
「妖力を失ってあやかしの仲間にも入れてもらえず、だからといって人間でもない。どこにも混ざれないはみ出し者だよ、俺は。……悪かったな。そんな俺の子供を産まされて。全部終わったら、必ず無かったことにする。この話しも……」
「な、んで……なんでそんな平気そうな顔をするの……。怒っていいんだよ!? 泣いたっていいんだよ!? 春雷は……春雷は悪くないのに……。お母さんと弟を助けただけなのに、なんで……。なんで一人でこんな思いをしなきゃいけないの……!」

 華蓮の目に涙が溜まる。母親や家族のことを話している時の春雷はどこか諦めているようにも、冷めているようにも見えた。それでもどこか哀愁漂うのは何故だろう。
 春雷は自分の過去を悲観することも、恨むことも、同情を求めることもなかった。ただ過ぎたことを淡々と話すだけ。それなのに外を見ながら話す横顔には寂寥感が滲んでいた。
 それはきっと――。

(寂しいんだ。誰にも受け入れてもらえなくて、ずっと一人で暮らしていて、孤独を感じているんだ)

 人は集団の中でより孤独を感じると言われている。
 春雷が完全な一人だったら孤独を感じなかっただろう。けれども近くに村があって、営みを感じられる場所があった。
 春雷が世捨て人のような生活を送っていたとしても、幸せそうな雪起や村人たちの姿を見てしまえば、自分の置かれた状況と比較せざるを得ない。
 身近に集団があるのに、仲間に入れてもらえないというのは、手が届きそうな場所にあるのに届かないのと同じくらいもどかしい。
 しかもそれが偶然ではなく、負い目や罪悪感などの弱味につけ込んで意図的にしていると分かっているからこそ、やるせなさを感じてしまう。
 もしかすると妖力を失ったあやかしにこの家を与えているのは、善意ではなく悪意からかもしれない。春雷に孤独を感じさせることで、罪を犯した自分の存在に苦しみ、自らここを去るように仕向けた罠なのかもしれなかった。


「睡蓮。君が悲しむことは無いんだ。怒ることも」
「でも……」
「それにこれからは一人じゃなくなる。俺の子供を産んでくれるんだろう? 子育てに専念すれば気も紛れるし、何も考えなくていい。自分の子供のことだけ考えればいいからな……」
「一人で出来るの?」
「それはやってみないことには……。誰にでも始めてはあるものさ。最初は上手く行かなくても徐々に良くなっていくだろう。心配しなくていい。だからもう泣くな」

 ポロポロと涙を溢す華蓮の涙を拭おうとしたのか春雷は手を伸ばしたが、手が土や泥で汚れていることに気付いて手を引っ込めてしまう。その代わりに春雷は顔を近づけると、華蓮の目尻に口を付けて涙を吸い取ったのだった。

「頼むからもう泣かないでくれ……。縁があるからか、俺の子供を身ごもっているから、どちらにしろ君の感情が大きく乱れると俺まで感情が不安定になるんだ……。君が泣いている姿を見ていると、俺まで悲しくなってくるんだ……」

 衝撃で涙が止まっていた華蓮だったが、自分の胸を押さえながら顔を歪める春雷の姿に再び涙が込み上げてくる。
 そんな涙を隠すように華蓮は自ら春雷に近くと、大きな胸元に縋り付いたのだった。
 
「春雷。私……私、絶対春雷の子供を産むからっ! そうしたらもう寂しくないよね?」

 華蓮の行動に驚いたのか春雷は戸惑っていたようだったが、やがてそっと身を寄せたのだった。
 
「そうだな……きっと……」

 春雷の背中に腕を回すと、華蓮は静かに涙を流す。汗を掻いたと言って気にしていたものの、春雷からは黒犬と同じ瑞々しい睡蓮の香りしかしなかった。

「あまり強く抱きつくと、腹の子に負担が掛かるぞ」
「そう思うなら、春雷から離せばいいじゃない」
「離せるわけないだろう。……こうして誰かに抱きしめられたことは、今まで無いんだからさ」

 やがて春雷は華蓮の顔に残っていた涙を掬ってしまうと、どこか言いづらそうに話し出したのだった。

「その……汚れてしまうかもしれないが、腹に触れてもいいか。その……子供に」
「うん。触って」

 華蓮が頷くと、春雷は恐る恐る大きく膨らんだ華蓮の腹に触れる。始めは壊れ物を扱うように触っていたが、やがて愛おしむように撫でると頬を寄せたのだった。

「温かいな」

 穏やかな表情をして腹に身を寄せる春雷の姿が、何故か黒犬と重なる。黒犬と春雷が同じ香りを纏っているからなのか、それとも二人が同じ表情をしているように見えるからなのか。いずれにしても、最初に比べて春雷に対する恐怖や不信感が消えたのは確かだった。
 今ではお腹の子と同じくらい春雷を愛おしく感じる自分がいる。

(でも春雷とは……)

 子供が産まれたら春雷とは縁が切れてしまう。縁が存在しない以上、二人は別れなければならない。華蓮は人間で、春雷はあやかし。住む世界さえ違う。人間は人間の世界で、あやかしはあやかしの世界で住むのが一番良い。
 それに春雷は自分の置かれた事情に華蓮を巻き込むつもりは無いだろう。優しい彼は自分が原因で華蓮が傷付き、苦しみ、苦労する姿を見たくないだろうから……。
 そんなことを考えていると、内側から身体を蹴られたように感じて顔を上げる。春雷も気づいたのか、頬を離して瞬きを繰り返すと、華蓮と目を合わせたのだった。

「睡蓮。今のは……」
「春雷も感じた!? 今、お腹蹴ったよね!?」

 二人は華蓮のお腹に意識を傾けると、また内側から蹴られる。先程よりは小さかったものの、それでも自分の存在を主張するように華蓮のお腹を蹴る我が子に頬を緩ませたのだった。

「この子も早く会いたいって」
「ああ。俺も早く会いたいよ」

 愛おしむようにお腹を撫でる春雷と華蓮の手が重なる。黒土で汚れた手を春雷は引っ込めようとするが、それより先に華蓮が春雷の手を掴む。春雷に心を許したからか、今度は電流が流れなかった。離せと言われる前に手を握ってしまうと華蓮は話し出す。
 
「春雷はどんな子に育って欲しいとか、ある?」
「寂しい思いさえしなければ……自分のなりたいように育ってくれればいい。子供には俺のような思いをさせたくないんだ」
「春雷は良いお父さんになるね」

 華蓮が庭を振り返ると、いつの間にか雨が晴れて空には虹が架かっていた。
 春雷も外の様子に気づいたのか、ゆっくり立ち上がると華蓮に手を貸してくれたのだった。

「いつまでも辛気臭い顔をして暗い部屋に詰めていないで畑に戻るとするか。睡蓮はどうする? 部屋に戻るのか?」
「私、春雷のためにタオルと飲み物を取りに行こうとしたの。汗を掻いたと言っていたし、一休みするかと思って」

 華蓮の言葉に春雷は驚いたような顔をすると、みるみる内に顔を赤く染める。そして目を逸らしながらも、「そうだな」と同意したのだった。
 
「やりたいことは一通り終わったし、もう少し休んでもいいか……。睡蓮も一緒にどうだ?」
「いいの?」
「ああ。俺の話はしたし、今度は睡蓮の話が聞きたい。身体の調子や人間界の話を」
「そんなことが聞きたいの?」
「人間界はたまに出入りするが、様変わりするのが早くてついていけなくてな……。前から聞いてみたいと思っていたんだ。秋に穴を開けた南瓜を飾っていたかと思うと、今度は緑の葉が茂る木に飾りつけをするだろう。あれは何だ。門松や笹飾りとは違うようだが……」
「ハロウィンかぼちゃとクリスマスツリーも知らないの? クリスマスケーキやローストチキンも?」
「ケーキは知っている。雪起がたまに作って持ってくるからな。そのろーすとちきんというものは知らないな。どういうものなんだ?」
 
 春雷の手を掴んだまま二人は部屋を出る。春雷を怖がり、避けるようにして部屋にこもっていた最初の頃が嘘のようだった。
 わずかな段差に躓きそうになれば、春雷が手を引いて肩を支えてくれる。華蓮を振った彼氏は、華蓮がどんなに大荷物を持っていても、気に掛けてくれなかった。
 些細なことでも華蓮を大切に想ってくれる春雷の気遣いが心地良い。
 
(そんなお父さんの元に生まれるなんて、この子は幸せ者だね)

 お腹に触れると自然と笑みを浮かべてしまう。母親としての自覚が出てきたのかもしれない。
 妊娠が判明したばかりの頃は、早く子供を産んで元の世界に戻りたかったというのに……。
 しばらくして外出していた雪起が戻って来るまで、二人は縁側から虹を眺めながら身を寄せ合って人間界の話をしたのだった。


 春雷や雪起たちと過ごす日々があっという間に過ぎると臨月がやって来た。その頃になると胃はスッキリして身体の負担も減ったが、いつやって来るか分からない初めての出産に緊張するようになった。
 気を紛らわせようと、華蓮の出産の準備で家と村を往復している雪起に何度か手伝いを申し出たが、いずれもやんわりと断られてしまった。仕方なく部屋で時間を過ごし、庭を散歩をしても、やはり落ち着かなくて一日中気もそぞろだった。
 それは春雷も同じようで、頻繁に華蓮の元に来ては身体の調子を聞いてくるようになった。そして華蓮の気が落ち着かないことを知ると、少しでも気が紛れるように話し相手にもなってくれたのだった。
 
 そんな日を過ごしていたある日のこと、この日は朝から暗雲が空に立ち込めていた。いつ雨が降ってきてもおかしくない黒い雲に、なんとなく華蓮は不安を覚えたのだった。
 そんな日に春雷と雪起は揃って外出するというので、華蓮は玄関で見送っていた。

「こんな時に一人にするのは気掛かりだが……すぐ戻る」
「うん。大丈夫。春雷たちも気をつけてね」
「ごめんね。わたしが兄さんみたいに足が速くて力持ちなら、こんなことにはならなかったのに……」
「いいんだ。雪起には他に特技があるだろう。荷物持ち、頼んだぞ」

 項垂れる雪起とそんな雪起の頭を乱暴に撫でる春雷を見ていると、本当に二人は家族なのだと感じられる。
 二人はこれから離れたところに住む犬神の産婆を連れて来ることになっていた。いつ華蓮がお産に入ってもいいように、この家に泊まってもらうとのことだった。
 雪起が住む村にも産婆は住んでいるらしいが、春雷は村に入れず、代わりに雪起が頼んでも春雷の子供だと分かった途端に断固として拒否されたらしい。そこで春雷は近隣の村に住む他の産婆たちに頼み込み、唯一引き受けてくれた産婆に華蓮のお産を依頼したとのことだった。
 雪起によると、華蓮の妊娠が判明した時から春雷は夜遅くまで、あちこちの村の産婆に頼みに行っていたらしい。時には罵声を浴びせられ、水を掛けられながらも、華蓮のために産婆を見つけてきてくれたという。
 春雷は何も言わなかったが、雪起は「兄さんは恥ずかしがると思うから、内緒にしていてね」と言ってこっそり教えてくれた。華蓮が部屋にこもっていた頃に春雷が部屋に来なかった理由が分かった判明、身ごもった時からずっと陰ながらも華蓮のために力を尽くしてくれた春雷に心から感謝した。
 彼のためにも元気な子供を産むたいと、ますます思ったのだった。

「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 足早に家を出る春雷と大きく手を振る雪起に華蓮も手を振り返す。二人の姿が見えなくなると、どこか物寂しさを感じてしまう。

(四ヶ月しか暮らしていないのに、ここでの生活にすっかり馴染んだからかな。早く帰って来てくれるといいんだけど……)

 もうここに来た時のように早く人間界に戻らないと思わない。彼氏に対する未練も無かった。それどころか春雷たちと一緒に居る時が、一番ありのままの華蓮でいられた。
 養父母と住んでいる時は二人の顔色を伺い、彼氏といる時も嫌われないように必死になっていた。けれども春雷たちと過ごしている時は気兼ねすることもなく、自分が思っていることや考えていることを素直に話せた。
 春雷も雪起もそんな華蓮を否定することも、嘲笑することも無かった。華蓮自身を受け入れてくれたのだった。

(でも子供が産まれたら、春雷たちとはお別れなんだよね。春雷との縁が切れてしまうから……)
 
 今の春雷との関係はあくまで子供が産まれるまでの仮初めの関係。つまり子供が産まれるということは、春雷たちとの別れを意味する。それが今はとても寂しく、辛く感じられる。
 犬神である春雷たちとの生活は彼氏と住んでいた時よりも肩の力を抜いて心穏やかに過ごせた。当然生活様式が元の世界とは違うので、戸惑うことや不便に感じることもあったが、それ以上に春雷と過ごす時間がとても幸せで温かかった。
 春雷と本当の家族になれたら、きっともっと幸福になれるだろうと思ってしまうくらいに……。
 そうやって春雷のことばかり考えていたからか、自然と足は春雷が大切に育てている畑に来てしまった。春雷によると、夏野菜はまだまだ実っており、もう少し収穫したら今度は来年の春に向けて準備を始めるとのことだった。
 その話を聞いた時に春雷から好きな春野菜を聞かれたので、咄嗟に「イチゴ」と答えてしまったものの、その時には華蓮はいないので春雷はどうするつもりなのだろう。

(春雷が作る野菜、もう少し食べてみたかったな……)

 縁側に座って、畑を眺めながら溜め息をつく。
 ようやく食欲が戻ってきて妊娠前に近い量が食べられるようになったというのに、春雷が育てた野菜をほとんど食べていない。もう少し身体が楽になれば、自分で料理を作って春雷に食べてもらいたいし、春雷を手伝って畑仕事もしたい。
 家の外に出て山を散策しながら、茸や山菜も収穫したい。他のあやかしや春雷たち以外の犬神にも会ってみたい――。
 その時、裏庭に人影が現れたので、華蓮は弾かれたように顔を上げる。

「ど、どなたですか!?」

 その人は犬のような耳と尻尾を生やした年配の男性だった。見るからに犬神と思しき男性は不快そうに顔を歪めて畑を見ていたが、そこでようやく華蓮に気づいたというように視線を向けてきたのだった。

「君はこの家の住民か?」
「そ、そうですが……」

 男性は幾らか白いものが混じった長い黒髪に、くたびれた藍色の着流しを身につけていたが、華蓮を凝視する灰色の目には鋭さがあった。
 どことなく男性の雰囲気が春雷に似ているような気がして、華蓮は身を縮ませながらも目を逸らせずにいた。

「身重か。父親は誰だ?」
「春雷です。この家に住む犬神の……」
「あの木偶の坊だと!?」