【長編版】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜

「本当に残念でしたね。噂によると、北東北に建つ神社の後継の話を辞退されたとか。ご友人のために」

 友人の単語に蓬は固まってしまう。いずれ他の神社の後継になるつもりだとセイから聞いていたが、まさかその話がもう来ていたとは思わなかった。しかも友人の――蓬のために拝辞していたというのも。セイの母親の頭上まで降りてくると、蓬は聞き耳を立てたのだった。
 
「ええ。そうです……。蓬晴は……生前のあの子は、毎日その()の元に出向いていました。毎朝早くから厨で米を炊いておむすびをこさえて、鼻歌混じりに汁物の用意をして。今朝もそうだったのです。『今日こそは友人の口から上手いと認めさせる』と息巻いて、家を出て。それなのに……それなのに……ううっ!」

 突然末の息子が失われて、まだ心の整理がついていないのだろう。無理もない。手巾で目元を押さえるセイの母親に背を向けると、蓬は母屋に足を向ける。これまで幼少のセイが体調を崩す度に様子を見に来ていたので、セイの部屋はすぐに分かった。昔と違い、玩具が減って、書物が増えたものの、本質的なものは何も変わっていないような気がした。整理整頓や掃除が行き届いているところも、手入れされた武具が壁に立て掛けられているところでさえも。ただ、この部屋の主を除いては――。
 その時、セイの部屋の襖が開いたので、期待を込めて顔を上げる。しかし入って来たのはセイの父親である宮司とセイの長兄、そして帽子を手に持った黒い紳士服の初老の男性であった。

「ここが実弟の……蓬晴の部屋です……」

 意気消沈した長兄に案内された初老の男性は、書きかけの半紙が置かれたままの書き物机や神道に関する書物が所狭しと並べられた書棚をじっくりと眺めながら話し出す。
 
「本人には会えましたか?」
「今日は警察で調べるため、病院で預かるそうです。事件性が無いかはっきりさせておきたいと。父と会いに行きましたが、とても人様に見せられる状態ではなく……」
「そうですか……。蓬晴くんはとても真面目な好青年でした。成績や素行にも問題なく、学部や学年を問わず多くの学生たちにも慕われて。行く行くは父君や兄君のような立派な宮司になったことでしょう」
「ありがとうございます……」

 宮司が深々と頭を下げる。セイが神饌を奉納するようになるまで、蓬の本殿に神饌を献納していたのはこの宮司だった。ここ半年近く姿を見かけなかったが、以前にも増してすっかり老け込んだように見える。

「先程ご母堂からもお話しを伺いましたが、最近蓬晴くんには新しいご友人が出来たそうですね。これまでは授業が終わっても、遅くまで大学の図書館で勉強して、私ども教授に教えを乞いていました。それが授業を終えるなり、すぐに帰宅するようになりました。ご友人が待っているからと、学友からの誘いも断り、神道以外にも科学や料理に興味を持つようになったとか」
「うちの倅がそんなことを……」
「そのご友人が関係しているかは存じませんが、約半年程前からこの辺りの皇神(すめがみ)について調べる姿を見かけるようになりました。地域信仰について研究している私の元にも何度か訪れましてね。生家で祀る皇神についてもっと知って詳しくなりたい、特に神々の神名について知識を深めたいと仰っていました。とても信仰熱心なのですね。喪が明けられましたら、ご神体を祀られる斎庭(ゆにわ)にも参拝させていただきたいものです」
「その蓬晴の新しい友というのは……我が家の()()のことなのです……」
「おや、そうなのですか」
 
 自らを教授と称した初老の男性が意外と言いたげな顔をする。長兄が溢した言葉に宮司は肘で突いて止めたものの、長兄は肩を落としたまま話し続ける。
 
「半年程前から、この地を守護する豊穣の神への供物の奉納は弟が担うようになりました。本来は長兄であるおれ……わたしが行いますが、弟からの強い要望もあって役割を代わったのです。この地の神は長らく供物を受け取ってくださらなかったのですが、弟が奉納するようになってからは受け取るようになったというのもあります。それで弟自身も非常に張り切り、不敬にも奉るはずの神を友人などと呼ぶようになりました」
「ほう……。皇神と友好関係を築いていたのですか。地方を中心に神社が廃れ、各地の神が地上から離れているこの時代に。審神者(さにわ)でなく友人と」
「弟の話では、守護神からは一度も友と呼ばれなかったそうです。それでも魂は通い合っているから友だと言い張っていました。お恥ずかしい話ではありますが……」
「いえ。貴重なお話をありがとうございます。お忙しいところ、私の我が儘にお付き合いいただきまして。蓬晴くんが熱心に皇神について調べていた理由が知れました。きっとご友人のために、奔走していたのでしょう。改めて、この度はお悔やみを申し上げます。学長も会議が終わり次第、帝都を発つと申しておりました。明日弔問に訪れるかと」
「教授もご多忙のところ、出張を切り上げてまで来ていただきありがとうございます。きっと弟も冥途の土産になると喜んでいるかと存じます」
 三人が出て行くと、部屋には蓬だけが残る。書き物机に広げられていた半紙には日付と何かの料理の感想、食材の名前がびっしりと書かれていた。見覚えのある手跡なので、セイが書き留めたもので間違いないだろう。流し読みしていた蓬だったが、あることに気付いて愕然とする。
 それぞれの日付の横には料理の感想が簡潔に記載されていたが、それはその日にセイが持って来た神饌に対する蓬の感想をまとめたものであり、食材はその日の神酒が入った味噌汁に使われていた具材であった。中には朱色の細字でセイの注釈がついており、「今日は機嫌が良かった。好みの味付けだったのかもしれない」や「あまり上手そうに食べていなかった。この味付けは好みではないのだろう」など書かれていたのであった。
 蓬が想像していた以上に、セイは蓬に心を砕いていたのだろう。先程の教授に皇神や神名について尋ねたのも、神名を思い出せないと嘘を吐いた蓬がきっかけだったに違いない。自分の意固地が原因でセイの時間まで蓬が奪っていた。
 それに気付かなかった自分はセイに何をした。セイの優しさに甘えて、好き放題に勝手なことを言い、もったいぶって名前と姿を返さずにいた。
 その結果、肉体から離れた魂を見失って、地上のどこかに存在するセイの魂さえ見つけることができない。
 意地を張り続けた結果、セイが作る神饌を褒めることも、友と呼ぶこともしなかった。
 本当はずっと前から認めていたというのに……。
 
「セイ……」

 初めて呼んだ友の名は、胸に刃を突き立てられたかのような痛みを伴って、身体中に響く。友とはこんな苦しい存在だっただろうか。蓬に友人はいなくても、人間たちが友と呼び合う姿はこれまで散々見てきた。
 友とはもっと温かく、柔らかなものではなかったのか。
 友の名を呼ぶ度に、自分の心に開いた穴に気付かされて、膿んだ傷口に塩を塗られるような疼痛を感じるものではなかったはずだ。
 蓬の過失が心に傷を創ってしまった。もっと早くセイを自分から解放するべきだった。この地を守る神として神饌を認めて、名前と姿を返し、遠くの神社の後継者となるセイを見送ってやるべきだったのだ。そうすれば、セイは自由に生きられた。蓬のことを忘れて、只人として生を全う出来ただろう。輪廻転生の輪から外れることもなく、来世を迎えられたに違いない。
 それら全てを蓬が壊してしまった。セイの自由も、未来さえも。何もかもを奪ってしまった。
 謝罪したいと(こいねが)っても、会いたいと渇望しても、今の蓬にはセイと会う術を何も持っていない。

(愚か者は我だったのだな。キサマから全てを奪い、何の望みも変えてやれなかった)
 
 頭の中が真っ白になりながらも自分を祀る本殿に戻った蓬は、次兄が供えたままになっていた神饌に目を落とす。セイよりも形が整った塩おにぎりはセイの母親が握ったものだろう。このような事態になっても神饌を忘れなかったのは、セイの願いを尊重したのか。
 セイの願い――早く蓬が神名と姿を取り戻し、この地を再び実り豊かな土地にして欲しい、という。
 すっかり固くなった塩おにぎりを蓬は齧る。セイの塩辛い味付けに比べたら食べやすい味付けだが、何故だか美味しいとは思えなかった。神酒が入っている味噌汁も同じ。神力が回復する気配も全くなく、ただ出されたから機械的に食べているだけという状態になってしまう。最終的には味わうこともせず、味噌汁で流し込むようにしてどうにか平らげたのだった。
 昨日までのセイが用意した神饌とは違って、神饌を食しても何も満たされなかった。ただ身体が重くなっただけで、美味いとも不味いとも思えない。セイが用意した神饌を食べていた時は心から味を感じて、心魂を動かされた。それを神饌の感想として伝えていたが、セイは全て書き留めていたのだろう。蓬がセイの神饌を認める、その日まで――。
 
 蓬は立ち上がると、眼下に広がる町を見下ろす。これまでセイの神饌を食べてきたことで、多少は神力が戻ってきている。豊穣の神としての全盛期ほどの力ではないが、これだけ回復していれば十分だろう。
 大切な友の願いを、()()に叶えられるくらいには。
 
「約束を果たすぞ、セイ。これで貸し借りは無しだ」
 
 真名を奪った神が消滅した時、奪われた真名は自動的に相手に戻るとされている。そのため、神代の頃は名前を奪われた人間が自らの名前を持つ神の命を狙ったという話もあった。
 蓬の場合、自分が消滅すれば、名前と姿は魂となったセイの元に返却される。そうすればセイの魂は蓬から解放され、輪廻転生の輪に向かう。転生したら蓬のことは忘れてしまうが、これからも友が幸せに過ごせるのならそれでいいと自分を納得させる。自分にはセイがいない寂しさや悲しみを語る資格はない。これは蓬が犯した罪の末路。清算するために必要なことだ。
 神に相応しくない態度を取り続けた自分の消滅が、己の全てを捧げてくれたセイに対する贖罪になるのなら、神として残された力の全て解き放とう。自分はどうなってもいい。たとえこのまま力を使い果たして、消えてしまったとしても。
 力を失った神である蓬が、友である人間のセイのために出来ることと言えば、これくらいしか無いのだから――。

(こんなことになるのなら、これまでの神饌を受け取っておくべきだったな……)
 
 セイが声を掛けてくるまで、セイの父親を始めとする幾人もの男が神饌を持ってきていたが、もしかするとその中にも蓬の神力を回復させる神饌があったかもしれない。今さら悔やんでも仕方ないが、自分の我を通す前に一度くらい確かめてみても良かった。
 蓬は言葉にならない叫び声と共に自分が持つ神力の全てを解き放つ。蓬を中心に神力が空気を震わせ、その衝撃で鳥たちが一斉に羽ばたき出す。耳鳴りのような音が辺りに響いたものの、それもすぐに消え、代わりに蓬の身体から神聖なる光が溢れ出る。この本殿を中心に波が起こったかのように、蓬が司る豊穣の神力が周囲に広がっていく手ごたえを感じたのだった。
 蓬の身体から力が抜けると、その場にくず折れる。神としての姿が光の粒子状に分解されていき、手足の先から徐々に消えていく。この光の粒子も蓬が解き放った神力と共に風に流されて遠くまで行き渡るのだろう。大地に活気を与え、実りと繁栄を約束させる。これであと数百年は豊作が続くに違いない。
 友の願いを叶えられたことに、満足げな笑みを浮かべる。この意識が消えた時、名前と姿はセイに返るだろう。これでセイは自由になれるはずだ。
 そんなことを考えていたからだろうか。目が閉じる寸前、大切な友の姿を見たような気がした。微かに「蓬」と呼ばれた声も聞こえたが気のせいだろう。唯一無二の友を恋しむあまり、幻を見たに違いない。
 そんなことを考えながら、蓬は意識を手放したのだった。
「本当ならセイを失ったあの時、神力の全てを解放した俺は消滅するはずだった。それが何の因果か消えずに残ってしまった。ほんのわずかに俺の中に神力が残ってしまったのだろう。もしくは神としての俺を強く信仰する者がまだ残っていたか。いずれにしても神としての力だけではなく、神名や現人神の姿を含めた全てを失った以上、何千年といった長い時間を掛けて神力が回復するまで、俺は目覚めないはずだった」

 そう言って、長い昔話を締めくくった蓬は深く嘆息する。隣で話を聞いていた莉亜は、いつの間にか膝の上に乗ってきたハルの身体を撫でながら気になったことを尋ねたのだった。
 
「どうして目が覚めたんですか?」
「眠りについてから、百年以上経ったある日、本殿があった一帯を区画整理することになり、余所の土地に移されることになった。その衝撃で起こされてしまったらしいな。目が覚めた時には見たこともない場所に居た。移設の際に本殿を無くしたのか、代わりとなる真新しい祠が建立されて、その中で目を覚ました。その祠の傍にコイツがいたのだ」
 
 蓬は莉亜の膝から慣れた手付きでハルを抱き上げる。くつろいでいたところを急に抱えられたからか、ハルは不機嫌そうに唸ったのだった。
 
「ハルがいたんですか?」
「ああ。祠を守護する守り手のようにずっとな。俺の傍から離れないから、気に入って名を与えて神使にした。それぐらいの力はあったからな。……皮肉にも神としての全てを失った俺に残されていたのは、ハルを神使にするのに必要なわずかな力と、セイから借りた名前と姿だけだった」
 
 いつからハルが蓬の祠にいたのかは知らないが、もしかするとハルは普通の猫の寿命以上の時間を生きているのかもしれない。神使になったことで、ハルもただの猫じゃなくなったのだろうか、と莉亜は推測する。蓬の膝の上で退屈そうに欠伸をする姿は、どこにでもいる普通の猫と同じに見えるが。
 
「だが、俺が消えずに存在している以上、セイの魂に姿と名前が返されていないことが判明してしまった。広漠とした人の世を彷徨うセイを探すには人手が必要だった。目覚めたばかりの俺は今とは違って、神やあやかしの世界を自由に行き来できなかった。俺の目の代わりとなる存在が必要だった。その点、猫の神使は身軽だから、俺が行けないような遠方にも軽々と行ける」
「神やあやかしの世界を自由に行き来できなかったのは、力が無かったからですか?」
「それもあるが、神やあやかしの世界を出入りするのに必要な通行手形を持っていなかったというのもある。今度こそ神としての名や姿を失い、神の証である神力さえ無かった。旧知の神々を渡り歩いて頼み倒して、どうにか通行手形を用立ててもらえた。大半の神々は力を使い果たして消滅していたものと思っていたのか、俺の存在を信じてくれなかった。たらい回しにされて、通行手形の入手に時間が掛かってしまってな」
「神の世界にもあるんですね。たらい回し……」
「ようやく通行手形を入手した俺は何の思い入れのない新しい祠を離れた。ハルと共に現世の各地を巡ってセイの魂を探し、神やあやかしの世界に出入りしては少しでもセイに関する情報が無いか探索した。目覚めるまで百年以上もの時間が流れてしまったので、早く見つけなければ怨霊になってしまうかもしれないと焦るが、それでも神力を失った俺にはセイの気配すら感知することが出来なかった。他の神やあやかしたちに捜索を頼もうにも、たかだか人間一人の魂を探すために、人間に見つかる危険を冒したくないと断られてしまった」

 結局、神やあやかしたちからの協力は得られなかったので、蓬とハルは人の世に隠れ住むあやかしたちを見つけては地道に聞き込み、自分の足で探し歩いた。人間の振りをして人の世に出て、時にはあやかしと間違われて退魔師や陰陽師たちに祓われそうになったこともあったらしい。

「今の人の世ではあやかしは存在してはならないものとして考えられているのだろう。あやかしを見かけたら問答無用で調伏しようとする退魔師や陰陽師も多く、あやかしたちにとっては肩身が狭いばかりだ。だが、その途中で行き場を失くした切り火たちを拾えた」
「切り火ちゃんたちですか?」
 
 莉亜は知らなかったが、火の神が熾した火から生まれた切り火たちでも火を操る以外の力が無いことから、火の神からは不要物として扱われている悲しい存在らしい。
 他のあやかしたちより力が弱いことからあやかしの世界で共存することも敵わず、また人の世に出て来てもまれに霊感が強い人間に鬼火や狐火として騒がれてしまうそうで、普段はあやかしや人から離れた場所で隠れて暮らしているらしい。それも出来ればいいが、住処を追われて各地を転々としている切り火も少なくないという。蓬が出会ったのは、そんな行き場を失くして各地を彷徨う切り火たちらしい。
「火を操る力しかないとはいっても、切り火たちも神の力を持った神仏だ。俺の元に住まわせる代わりとして、少しだけ神力を分けてもらっていた。コイツらの負担にならない程度の微量な力だけ。それにセイならきっと行く当てのない切り火たちを放っておかないだろう。自分の元に来るように誘ったはずだ。好き放題していた俺を見捨てなかったように。今まではそれでどうにか持ち堪えられた。だがここ数年で神力の回復が遅くなった。切り火たちから分けて貰う力だけでは、この姿と切り火たちが住まうこの建物を維持するので精一杯だ。力が減る一方では、セイを探すどころではない。そこでセイのおむすびを再現して、自力で神力を回復しようと決意したのだ」

 蓬の神力が回復しなくなった理由として考えられるのは、豊穣の神だった蓬を信仰する者がいなくなったことと、現在のセイの祠に神饌が奉納されなくなったことにあるらしい。
 セイの馬車事故後も、セイの一族はしばらく宮司を続けていたが、政府の命令で近隣の神社との神社合祀が行われ、セイたちが住んでいた神社は別の場所に移設された。その後、時代の流れと共に男が戦争に駆り出され、国内外での戦争が激化すると、宮司の跡を継ぐ者がいなくなった。セイの一族はそこで途絶えてしまったらしい。
 セイの一族が絶えた後、政府に派遣された別の宮司が合祀後の神社に勤めるようになったものの、後継者問題が解消されることは一向に無かった。
 移設後も本殿や建物は元の場所に残っていたが、やがて市の政策で区画整理が行われることになった。セイの神社や合祀後の神社も対象地域に入っていることを知ると、これを機に合祀後の神社を含めた近隣全ての神社を廃社とすることに決めたという。
 蓬を祀っていた神社が無くなっても、最後の宮司は蓬を信仰し、毎日神饌を奉納していた。それが数年前から途切れ、蓬に対する信仰も無くなった。この宮司の身に何かが起こったのだろう。高齢の宮司だったので、何が発生したのかは想像に難くない。

「でも蓬さんの力が回復したのって、セイさんが用意したから意味があったんじゃないんですか?」
「それがどうやらそうとも限らないらしい。セイのおにぎりは確かに神力を回復させた。だがそれは必ずしもセイが握ったからという理由ではない」
「どういうことですか?」
「作り方だ。セイが用意するおにぎりには何か特別な仕掛けが施されていたのだ。俺は記憶を頼りにセイの味を再現しようと試みた。そうしたらほんの微かではあるが手ごたえを感じたのだ」

 試しにセイのおにぎりを再現して切り火たちに与えたところ、蓬の神力がわずかに漲るのを感じた。他のあやかしにも実食させてみると、食べた相手だけではなく、蓬の神力まで回復することが判明したという。

「慣れないながらも、セイは俺のためにおむすびを作ることで、凝り固まった俺の心を解きほぐしてくれた。それなら俺にも同じことが出来るはずだ。神としての力がほとんど無い俺でも相手を想いながらおむすびを作ることで、迷う心を救う手助けができるかもしれない。そうしてこの噂を聞き付ければ、いつの日かセイはここに現れる。アイツは義理堅い男だ。『明日も来る』と約束した以上、必ず果たそうとするに違いない。たとえ、どんな姿になっていたとしても……。そう信じて、俺はこのおむすび処を始めたのだ」

 最初こそおむすび処には誰も来なかったが、セイを探す道中で切り火たちのように行き場を失い、身を寄せ合って暮らす弱いあやかしや、誰にも言えない悩みや苦しみを抱えている神の存在を知った。そういった者たちに蓬は自分が握ったおにぎりを分け与え続け、おむすび処を憩いの場として提供することを話した。蓬の言葉に誘われて迷えるあやかしや神々がおにぎり処に集まるようになると、いつしか噂を聞いた他のあやかしや神々も客として訪れるようになった。
 そうして店に訪れた者たちをセイの味を再現した塩おにぎりでもてなしつつ、情報を集め続けた。

「あやかしも神も話題性が好きだ。この店の周りに枯れることのない竹の花を咲かせたのも、店の中を人の世に似せた内装に改装したのも、全ては話題にしてもらうことで、俺の存在をセイに知らせるためだった。新しいもの好きのあやかしたちにこの店の存在を噂してもらえば、いずれセイの耳にも届く。そうしたらアイツはここに来るだろう。そのための道標も用意した。最もアイツは花言葉に詳しいような浪漫のある男ではなかった気もするが」

 その道標というのが、お店の前に点々と咲く青い花忍のことなのだろう。やはりその花言葉が示すとおりに、蓬は人を待っていたのだ。
 離れ離れになってしまった大切な友人の――セイの帰来を。

「それでもセイが現れず、情報も乏しいまま。俺の味覚も失い、消えるのも時間の問題かと諦めかけた時、お前が現れた」
「私……ですか?」

 莉亜が自分を指すと、蓬は真っ直ぐに莉亜の目を見つめると肯定する。
 
「最初こそ、お前がセイの生まれ変わりではないかと疑った。何らかの奇跡が起こり、不完全ながらもセイは輪廻転生の輪に入れたのだと。おむすびを食って涙を溢しただけではなく、お前が持っていた護符からもセイに似た気配を感じたからな」
「あれは、その……恥ずかしいので忘れてください……。でも私がセイさんの生まれ変わりなんですか? 全く自覚ありません」
「いいや。お前はセイの生まれ変わりじゃない。お前自身からセイの気配が一切しないことが判明したからな。これだけ近くで同じ時間を過ごしていれば、さすがにセイの転生体か見極めるくらいはできる。護符から感じた気配もすぐに消えてしまったから、それ以上、お前からセイの痕跡を辿ることも不可能だった。お前とセイに繋がりはない」

 莉亜が持っていた護符――つまり祖父から貰った御守りに、セイの痕跡が残っていたということは、莉亜はどこかでセイと接触していたことになる。一体どこで会っていたのだろうか。全く身に覚えがなかった。
 あの御守りに触れたのも、莉亜と莉亜の祖父ぐらいなもので、ここに来た最初の日にハルが咥えて持ち去るまで、誰かに見せたことも、貸した覚えもなかった。ハルが持ち去った後に門番の牛鬼が拾ったと話していたので、牛鬼が預かっている間に誰か触った者がいたのだろうか……。
「だが確信も持てた。セイは間違いなくこの近くまで来ている。アイツが自ら名乗り出ないのなら、後は俺が神力を取り戻して、セイを捕まえればいい。それまで俺が存在を維持できればの話ではあるが……」

 蓬の目が自信を湛えて光るが、莉亜は一抹の不安を抱く。気付いた時には言葉にしていた。

「もし蓬さんの神力が回復する前にセイさんが現れて、セイさんに名前と姿を返してしまった場合、蓬さんはどうなるんですか……?」
「……今度こそ完全に消滅するだろうな。だがそれでいい。セイに名前と姿を戻して、これまでの感謝と謝罪を伝えた後、輪廻転生の輪に入るところを見届けたのなら、今度こそ心残りは無くなる。長い間借り受けていたからか、いつの間にか心まですっかりセイに似てしまったらしい。今は自分の幸せよりも、お前やセイを始めとする他の者たちの幸福な姿に喜びを見出している」

 蓬は胸を張って裏表もない笑みを浮かべているが、莉亜の心配はますます大きくなる。蓬は本当にそれでいいのだろうか。
 蓬の言う通り、セイがこの近くまで来ているにも関わらず姿を見せないのには理由があるのだろう。もしかすると、それは未だ力を取り戻していない状態の蓬から名前と姿を返して欲しくないからではないだろうか。
 莉亜がセイの立場でも同じことを考えてしまう。きっとセイは今の状態の蓬に返されたくないと思っている。セイは蓬を苦しませるために名前と姿を貸したわけではない。神として力を失いつつある蓬を心から助けたいと思ったからこそ、名前と姿を貸し与えたのだろう。
 それが今の蓬はセイに名前と姿を返すことに囚われている。自分が存在する意味と価値を見出していない。蓬がいなくなったら、蓬に住処を与えてもらった切り火たちや、莉亜や雨降り小僧たちを始めとするこの店の常連客たちがどうなるか、まるで理解していない。
 誰もが蓬自身を慕って、ここに集まっている。最初こそ行き場を求めて来ていたかもしれないが、今は自分たちの意思でこの店に足を運んでいる。蓬が握る美味しい塩おにぎりと、蓬との会話を楽しむために。莉亜や常連客たちだけではなく、率先してお店を手伝おうとする切り火たちもそうだろう。全て蓬を中心に回っている。
 蓬がいなくなってしまえば、彼らは散り散りになってしまう。行き場を失くして、また彷徨うことになる。それだけ蓬が周囲に与えている影響力は大きい。今や無くてはならない存在だ。
 きっとセイも蓬が客たちに慕われていることに気付いたのだろう。蓬を旗頭としてこの店に集っていることも。
 だからこそ姿を現さずに、近くで機が熟すのを待っている。蓬が力を取り戻して、自身が存在する意味を思い出すまで。
 蓬の話を聞いて、莉亜はそう思ったのだった。

「蓬さんが私たちの幸せを見届けるのが嬉しいように、私も蓬さんがセイさんと再会する姿を見届けたいです。再会するお手伝いも。それが蓬さんに助けてもらった私ができるお返しだと思うから」

 初めてこの店に来て、蓬が握った塩おにぎりを食べた時。莉亜の心に蓬の想いは確かに届いた。慣れない環境で心細い思いをして、心を閉ざしかけていた莉亜の心を救ってくれた。今の莉亜があるのは蓬のおかげといっても過言ではない。そんな蓬が困っているのなら、力になりたいが――。
 
「でも、せっかくセイさんと会えても蓬さんがいなくなったら意味がありません。どうにかして、蓬さんが消えずに残る方法はないんですか?」
「無理だ。神力が回復しなければどうすることも出来ない。今はお前かこの店に来る客の誰かが俺を信仰してくれているから、辛うじてこの身体も保てていられる。だが味覚が失われた以上、他の四感が消えるのも時間の問題だ。この身体を維持できなくなるのも。せめて神名だけでも取り戻せれば、消えずに済むのだがな……」
「私、戻ったら探してみます。蓬さんの神名を絶対に見つけます!」
「無駄だ。セイの神社にあった記録は散逸した。神社が移設した際のどさくさに紛れて散り散りになったからな。セイの一族もその前に宮司を勤めていた一族も途絶えて久しい。もう誰にも俺の神名は分からない」
「何かヒントは残っていないんですか? セイさんや蓬さんの名前に関する手がかり。些細なことでもいいんです。何か覚えていることは……?」
「覚えていることと言えば、セイとの思い出ぐらいのものだ。それ以前の記憶はほとんど忘れてしまった。セイのことなら何でも覚えているのだがな。アイツの容姿や声、話し方、交わした言葉、癖……。セイに返すまで決して忘れないように自分の身体に刻み付けて、鏡を見る度に思い出すようにしていたが、セイから借りた身体は今の俺には負担が大きい。容貌や指先など、細かい部分まで再現しようとすると神力を根こそぎ持って行かれそうになる。力の回復が遅くなってからは、客がいない時など神力の消耗を節約できそうな時は省いていた。適当にその辺の布を顔に巻き、手袋をはめるなどすれば、内側が空洞でも問題ない」
「そういえば、初めて会った時はミイラ男でしたよね……。私の忍さま……本の挿し絵を利用して今の姿に変わったのはそういう意味があったんですね」
「ああ。お前から借りた姿絵で分からなかった身長や声色に関しては、セイから借りたものをそのまま使用している。これだけでも大分負担が軽くなった」

 最初に会ったミイラ男の蓬――あれがセイから借りた身体を一部省いたものなのだろう。に、触媒となる絵や写真を貸して欲しいと頼まれたのは、神力の消耗と関係があったのかと合点がいく。きっと一から人間を模した姿になろうとすると、自然とセイに似せてしまうのだろう。それだと身体への負担が変わらないので、全く別の姿になる必要があった。そこで絵や写真などの平面上の情報でも既に人として形が整ったものを使用すれば、セイの身体をベースに絵や写真の人物の姿をそのまま自分にコピーするだけで済む。細部まで想像して再現しようと考えなくていい分、労力が変わるのだろう。早い話が元となるセイの身体が、セイの身体に会うように作り直した別人の顔形をした着ぐるみを纏うようなものだろうか。
 着ぐるみの中のセイの身体は表に出ない分、何もしなくていいのでどんな顔形でもいいという。
 蓬によると、あやかしや神は各自が持つ力や信仰の度合い、内容などによって、外見や名前が急に変わることは珍しくないらしい。それぞれが使う力や身に纏う力で相手を判断するので、容姿は全く問題ない。ただ実在するあやかしや神をモデルにして姿を取ってしまうと、姿を借りたあやかしや神との間に不和が生じることがあるため、注意が必要とのことだった。
「セイに関して一番覚えているのは、やはり神饌として捧げられたおむすびの味だな。これはこの店で出しているおにぎりの味でもある」
「おにぎりの味ですか?」
「元々、自分でおむすびを作ろうと思ったきっかけというのは、セイが生きていた証でもあるおむすびの味を誰かに伝えたいと思ったからだ。好みに口うるさい俺のためにセイは日々おむすびを研究していた。米や水、塩の種類や分量、炊飯時間、握り方を工夫しては、俺の口に合わせようとしていた。特に最後に食べたセイの塩むすびは絶品だった。その味を皆にも知って欲しい。友のために、最期までおむすびを作り続けたセイのことを――」

 蓬がおむすび作りを始めるまで、この建物はただの民家だった。住民の切り火たちと慎ましやかに生活しつつ、セイの魂を探し続けていた蓬だったが、セイを探し求める中で時折見かけるお腹を空かせた孤児のあやかしたちが気掛かりとなっていた。また雨降り小僧や金魚の幽霊たちのように、力が弱いために強いあやかしたちから搾取をされ続け、ひもじい思いをしているあやかしたちの存在も知った。そんなあやかしたちのために蓬でも出来ることを考え、セイが作ったおむすびを再現してあやかしたちの空腹を満たしつつ、かつてセイという人間が蓬のために用意してくれた塩おにぎりを彼らに知ってもらうことを思いついたという。
 セイは当時本殿が建てられていた場所やセイとの会話を頼りに、人の世からおにぎり作りに必要な材料や道具の一式を取り寄せた。中には時代が変わって入手できないものもあったが、人の世に詳しいあやかしに依頼して、どうにか入手してもらったという。

「だが、どうしてもその味が再現できない。試行錯誤を繰り返して、どうにか近い味にはなったが、それでもセイのおむすびとは何かが違う。セイのおむすびは塩が好きなアイツらしく、多少塩辛いものの、その中に甘さと苦味を感じられた」
「塩辛く、でも甘く、苦い、というおにぎりですか……」
「それも今や遠い記憶だけどな。そんな味が実在するのか確かめる前に俺の味覚は失われてしまった。記憶違いか、もう確かめることすら出来ない」

 莉亜は思考する。最近どこかでそんな味を口にしたような気がする。しょっぱい塩味の中に甘さと苦さを含んだおにぎり……。最近食べたものを思い出していく内に、莉亜は「あっ……」と閃く。

(今日、お店に来た時に食べた塩おにぎり。あれもしょっぱくて甘く苦い味がした!)

 蓬の味覚騒動で忘れかけていたが、今日莉亜が店に来た時、古風な男子学生の姿をした青年がおにぎりを握ってくれた。あのおにぎりがまさに塩辛さの中に、甘さと苦味が混ざった味をしていた。
 それにあの青年も言っていた。「店主はこの味を再現しようとしている」と……。

(まさか、あの男の人が……)

 ある種の予感めいたことを考えていると、「何か心当たりがあるのか?」と尋ねられる。確証も無いのに言えるはずもなく、慌てた莉亜は「い、いえっ……」と挙動不審になってしまう。そこで話題を変えることにしたのだった。

「その……帰ったら、セイさんが作っていたという塩おにぎりについて調べてみたいので、持ち帰り用に幾つか作ってくれませんか?」
「分かった。今から飯を温め直すと、少し時間が掛かる。帰り支度をして待っていてくれ」

 蓬が席を立つと、莉亜も使用した皿と湯呑みを持って流しに向かう。せめて皿洗いくらいは手伝うべきだろう。食器を洗い始めた莉亜はおむすびの用意をする蓬の姿を盗み見る。
 蓬が作る塩おにぎりは至ってシンプルだ。材料は米と塩しか使用しない。セイが用意していたおにぎりがそうだったのか、海苔が巻かれていなければ、鮭や昆布などの具材も一切使用してない。もしこれらが違うというのなら、あとは米を炊く際に使用する水や釜、火力や炊飯時間辺りが原因だろうか。

(でも違うのは食感じゃなくて、味なんだよね。食感が違うというのなら、火力や炊飯時間に答えがありそうだけど)

 一人暮らしを始めて自炊をするようになってから気付いたが、炊飯器が違うというだけでも炊き上がった米というものは全く異なる。噛んだ時の食感や米の甘み以外にも、箸で掬った時のほぐれ具合、冷凍した時の匂いや味でさえ違う。炊き上がった米の一粒を見ても、実家から冷凍して持って来た米の形や大きさとわずかに差があった。思えば、一人暮らしを始めることになって家電量販店に炊飯器を買いに行った際、店員から希望する加熱方式や釜の素材を聞かれたような覚えがあった。あの時は予算の都合上、値段が安いものを購入してしまったが、加熱方式や釜の素材にも炊き上がった米に差をつける要因があるのかもしれない。
 ただ蓬の話ではセイのおにぎりを再現するために、セイが生きていた時代に使用していた道具を入手したとのことだった。おそらく釜や竈なども同じだろう。それなら火力や炊飯時間を調整していけば、食感はほぼセイが作っていたおにぎりと同じになる。つまり問題は作り方ではないということになる。

(多分、甘いというのはお米の味なんだよね。で、塩辛いというのは塩の分量のこと。となると、問題は苦いかな……。米が苦いということはないだろうし、塩が苦いってあるのかな。それよりも水を疑った方がいい?)

 米を炊く際には水を使用するが、その水も住んでいる地域や採水した場所によって異なるので、当然味が異なる。水道を捻ると蛇口から出て来る水と店で売っているペットボトルの水でさえ全く別の味であり、種類も軟水や硬水、天然水、海洋深層水、ミネラルウォーターなど様々である。
 おそらくセイが生きていた時代と莉亜たちが生きる今の時代では、水を精製する方法や水を引く水源も違うのかもしれない。
 水が異なれば、同じ品種の米や釜、同じ火力や炊飯時間でも、炊き上がった米の食感や味は変わってしまう。水の違いが米の味を変えてしまっているのだろうか。
「ここで使用している水や米、塩などはどこから入手しているんですか?」
「本殿があった地域で昔から食されているものを手に入れて使用している。お前がいつもここに来る時に通ってくる桜の木が植えられている辺りが、本殿が建っていた場所だ」
「あの公園一帯に蓬さんの本殿やセイさんの神社が建っていたんですね」
「区画整理で本殿だけではなく神社や近隣の民家、野畑も含めて全て跡形も無く取り壊されてしまったが、食文化は残っている。その頃から彼の地で生活している生き字引ともいうべきあやかしに教えてもらった。米は品種改良がされて、セイが握っていた頃よりも食べやすい形と食感になっていたな。寒暖差にも強くなったことで、遥かな昔よりも育てやすくなったと。味にはあまり変化はなかったから、米に問題はないと判断したが」
「じゃあ、塩や水も?」
「同じだ。昔からこの辺りで流通している食塩を使用している。ただ水については、当時の水源が枯れていたこともあって、完全に同じものを用意出来なかった。清水として捧げられてきた湧き水もな。代用品として、あの辺りで古くから飲料水として飲まれており、かつての水源と近い水を使用している。人の世と繋げて、店の水道から出てくるように工事をしてもらった」

 これまでは店を開ける前に水を汲みに行く必要があったが、金魚の夫から人の世の水道に詳しいあやかしを紹介してもらい、神域にある蓬の店の水道と莉亜が住む人の世の水道を繋げてもらったらしい。これにより水を汲みに行く手間が省けるようになり、おにぎり作りに専念できるようになったという。

「じゃあ、皿を流しているこの水道水も、私たちの世界から引いているんですか?」
「ああ。飲んでみろ」

 試しに洗剤を流したばかりの湯飲みで汲んだ水道水を飲んでみる。莉亜が一人暮らししている部屋の水道水とは多少味が違うものの、確かに浄水場で消毒された微かなカルキ臭がする水道水であった。
 
「人の世から移住したあやかしや神ほど、人の世と同等の生活を送りたがる者がいる。そこで人間の振りをして人の世で仕事をしているあやかしを通して、人の世と同じように生活を整えてもらう。水道以外のガスや電気もだ。実際に工事に来るのも、支払いなどのやり取りをするのもあやかしだから、こっちも気兼ねする必要がない。その代わり、人の世から来る分、出張費込みでかなりの金額を請求されるが」
「……もしかして、私たちの世界の生活の深いところまであやかしって入り込んでいますか?」
「そうだな。今に始まった話ではないが、人の世の至るところにあやかしたちは潜んでいる。政治や行政の中枢、生きていく上で必要な生活線、教育や商売、芸能にも深く関わっている。滅多に表には出てこないが、裏で人間を支えているぞ」
「知らなかったです……」

 知らず知らずのうちに、人間とあやかしと共存していたことに呆気に取られる。莉亜たち人間がつつがなく日々の生活を送れるのも、見えないところであやかしたちが尽力しているからだろう。様々な事情から表に出て来られない分、決して感謝されることも、羨まれることもないが、莉亜たちが今の快適な生活を送るためにはいなくてはならない存在であることは間違いない。これからはもう少しありがたみを持って生活を送ろう、と心に決める。

「水が関係しているのか?」
「それはまだ分かりません。でも水の違いが気になるのは確かです。あの、水も分けていただいても……」
「好きにしろ。どうせ止めても聞かないのだろう。お前は」

 蓬に魂胆を見抜かれていた嬉しさと恥ずかしさで照れくさい気持ちになる。カバンから飲みかけのマグボトルを取り出して中身を捨てると、軽く濯いで水道水を注ぐ。見た目は無色透明の水道水だが、本当に炊飯に使用する水の違いがセイのおにぎりを再現できない原因だろうか。どこか腑に落ちない。

「先に言っておくが、セイは米を炊く際に使用する水の種類を途中で一度替えている。それは確かだ」
「どうして、水を変えたって分かったんですか?」
「ある時から急に米の食感や風味が変わったからな。セイに聞いたらその頃から神域の湧水量が減って、一度に汲める水量に限りが出来たからだと話していた。大量に汲みづらくなったことで、身体の清め用と味噌汁用の清水を確保するだけでも時間が掛かるようになり、やむを得ず炊飯に使う水を変えたとも。神域の中で湧き水が取れる場所は一ヶ所しかなかったからな。そこの出が悪くなったというのなら、作り方を工夫しなければならなかったのだろう」

 湧き水の量が減っていたのなら、米を研ぐ際に必要となる大量の湧き水の確保は大変だっただろう。料理のどこかに清水を使用すればいいだけなら、少量を汲むだけで済む味噌汁だけに清水の使用を充てればいい。
 当時蓬がセイから聞いた話によると、セイが自身の身体を清めるのに必要な清め用の水に限っては、前日から湧水場に桶を設置することで湧き水を溜めて使っていたらしい。さすがに料理に使う清水は当日汲みに行くしかないが、水が溜まるまで待つ時間が減ったことで、空いた時間を蓬の神名探しに使えると話していたという。
 
「それなら、セイさんは米炊き用の水をどこで手に入れていたのでしょうか?」
「恐らく炊飯に使用していた水は、自宅の厨の水道で使われていた水だろう。セイが生まれた頃に、水道の取り付け工事を行っていたからな。それ以外に水を汲みに行ける場所は神社の近くになかったはずだ」
「水道水で炊いていた米ですか……」
 
 やはり何かが頭に引っかかってしまう。
 炊飯に使われていたという湧き水と水道水の違いもセイのおにぎりを再現するためのヒントに繋がるのだろうか。
 
(とにかく帰ったら、蓬さんが祀られていたという神社やセイさんについて調べてみよう)

 蓬のおにぎり作りはもう少し掛かりそうだったので、莉亜は食材を保管している倉庫にお邪魔すると米の銘柄や塩の種類を確かめてメモを取って行く。どちらも実家から送られてくる米や塩と違っていたので、自宅に帰りながらスーパーマーケットに立ち寄った方がいいかもしれない。
 今日莉亜におにぎりを握ってくれた青年が教えてくれた味を忘れないうちに。
 そんなことを考えながら、仕上げとして握りたての塩おにぎりに軽く塩を振る蓬の横顔を眺めたのであった。
 こう見えても莉亜は大学で史学部に在籍している。地域に関する過去の文献を調べるとなれば、自分が在学する大学の図書館や信憑性が不確かなインターネット検索よりも、地元の公共図書館の方がその地域について書かれた郷土史を多く所蔵していることを知っている。
 そこで引っ越しをしてから、初めて近所の公共図書館に来たのだが――。

(甘く見ていたかも。まさか郷土資料をこんなに置いているなんて……)

 地元にあった老朽化した公民館を改装した小さな図書館を想像していたからか、大型商業施設に似たオシャレなデザインの図書館に絶句してしまう。都会の図書館とは全てこんな洗練されたデザインなのだろうか。田舎者の自分が場違いに思えて、眩暈までしてくる。それでも図書館の前にいつまでも突っ立ている訳にもいかず、莉亜は覚悟を決めると図書館に足を踏み入れたのだった。
 
 セイの話を聞いた数日後、大学が休みなのをいいことに莉亜は最寄駅から電車で二駅隣の公共図書館にやって来た。莉亜が一人暮らしをするアパートや通学する大学を含んだ地域一帯を統括する図書館だけあって、館内は天井も高く、広々とした四階建て構造となっていた。
 一階に小さなカフェスペースと催し物の際に使用する多目的ホール、二階に絵本や児童書などの子供向けコーナーとCDやDVD等の視聴覚資料を置いており、視聴エリアもあった。三階には小説や専門書などの一般書に加えて、多種多様な雑誌と新聞もあった。どのフロアも全体を使い、各書棚の間を大きく開けることでゆとりを持たせているからか、窮屈さを一切感じずに快適に過ごせそうであった。
 目的の郷土史は四階にあったが、フロア全てが郷土史コーナーとなっており、地理や歴史、民俗、食文化、祭事、自然、写真集などが、それぞれ書棚ごとに分かれていた。
 学生が宿題をしに来ているのか、それとも近隣住民や研究者が調べ物に来ているのか、開館直後の時間帯にもかかわらず、窓際近くの閲覧席は山ほどの本を持った人たちで埋め尽くされていた。貸出や検索を行うカウンターには図書館職員が数名いたが、ひっきりなしに訪れる利用者の対応に追われているようだった。
 先に莉亜は書棚に向かうと、目的の本を探す。探している本は二種類。この辺りの河川や水道に関する本と蓬やセイに関する手掛かりが書かれた本であった。ただし、後者については記録が散逸しているとのことだったので、豊穣の神として祀られていた蓬よりもセイの生家である神社に関する記述を中心に探すつもりであった。
 郷土史の中には各市町村に建つ神社についてまとめられた本がある。どこにどのような神社があり、どんな役割を果たしているのか、またはどのような神を祀っているのかをまとめた台帳のようなものであった。
 かつて祖父が存命だった頃に、幼い莉亜はその本を何度も読んでいた。一番読んだのは祖父の神社に関するページだったが、それ以外でも他の神社の紹介や各地で祀られている神の役割、歴史を知るのが楽しかったというのもある。拝殿や鳥居、狛犬やお稲荷さんの写真が付いていたので、子供でも飽きずに読める内容だった覚えがある。
 おそらく、莉亜が読んだのと同じような本が郷土史コーナーのどこかにあるはずだが、果たして見つかるだろうか。特に今回探しているセイの神社は、力を使い果たした蓬が眠っている間に合祀して無くなったらしいが……。
 そんなことを考えながら、新古本が所狭しと並べられた郷土史のフロアを順繰りに見ていく内に、ようやく目当ての地域祭祀や祭礼に関する書棚に辿り着く。莉亜が探していた近隣の寺社についてまとめられた本はすぐに見つかった。その場で開いて、目次から探そうとして手が止まる。

(そういえば、蓬さんから神社の名前を聞いてなかった……)

 セイに関する記憶以外を全て失ったと話していたので、おそらく自分が信仰されていた神社の名前も忘れてしまったのだろう。合祀した際に名前も変わった可能性があるので、まずは元となるセイの一族が宮司を勤めていたという神社から探し出さねばならない。
 それならと巻末に掲載されている廃社となった神社の一覧を開いたものの、途方もない数に目眩がした。明治時代の末期に政府が打ち出した神社合併政策によって、セイの神社のように廃社となった神社は非常に多い。情報も少なく、明治時代に廃社となった数多の神社の中からセイの神社を探し出すのは至難の業と言えるだろう。もっと別の角度から情報を探す必要がある。
 そこで考えたのが、当時発行された新聞の記事であった。図書館に設置されているパソコンを借りて、セイの神社やセイが遭遇した馬車事故について検索をしたものの、それらしき新聞記事を見つけることは出来なかった。閲覧できるものは、主だった事件や事故、政府の政策、地方行政のみであった。直接的な情報はなかったものの、その代わりにセイの神社と蓬を祀っていた本殿があったという土地の区画整理に関する興味深い新聞記事を見つけられたのだった。

(この地図、もしかして……)

 新聞記事には区画整理の内容や対象となる地域を記した絵図が掲載されていた。そこで莉亜はスマートフォンを取り出して地図アプリを立ち上げると、蓬の店に通じる入り口がある公園近辺の地図を表示させる。パソコンの絵図とスマートフォンの地図を横に並べて見比べた莉亜はあることに気付いたのだった。

(公園から離れたところに大きな川がある。この川を目印として地図を見比べれば、セイさんの神社が判明するんじゃない?)

 絵図と地図で共通点を見つけてしまえば、捜索は簡単になった。莉亜は郷土史の地理を集めた書棚から明治時代の地図を持ってくると、先程見つけた大きな川と区画整理の対象となった地域をスマートフォン上の地図と重ね合わせる。思った通り、区画整理が行われた地域に神社は数社建っていたものの、今の公園がある場所に立っていた神社は一社しかなかった。地図には「彦根神社」と記されていた。

(この彦根神社が、セイさんの神社なのかな)

 莉亜はもう一度最初に読んだ神社についてまとめられた本を取りに行くと、廃社となった神社一覧のページを開く。確かにその中に彦根神社の記載があった。
 そこには五穀豊穣と商売繁盛の神を祀る神社という説明と共に、明治時代末期に合祀されたことが書かれていた。また合祀後の神社名も書かれていたので、ついでに探してみると、数年前に完全に廃社となったことが書かれていたのであった。
 神社の名前が判明したので、もう一度神社名で本と新聞記事をそれぞれ探す。彦根神社で行われた祭事について書かれたものはいくつかあったが、セイに直接繋がるような情報は何も得られなかったのだった。
(セイさんから蓬さんの情報を得られないのなら、もっと違うところから調べてみよう)
 
 振り出しに戻った莉亜だったが、今度はセイが用意していたという神饌――おにぎりに目を向ける。蓬から話を聞いた時は、セイの作るおにぎりと蓬が作るおにぎりの違いは、セイの時代に使われていた水との違いだと考えた。水源は枯れたらしいが、どこかに枝分かれした水源が残っていないだろうか。例えば、大きな湖から生じた細い川が、その後水害や土地開発の影響で大きな川になったとか。
 三度、区画整理の新聞記事の絵図とスマートフォンの現在の地図、明治時代の地図の三者を比較する。すると最初に基準とした大きな川から、いくつもの小さな川が派生していることに気付く。その内の一つがセイの神社の近くを通っていたのだった。

(ひょっとして……)
 
 気になった莉亜は書棚に向かうと、この辺りの治水工事に関する本を取り出して目を通す。
 地図上でセイの神社近くを通っている細い川を遡っていくと、やがて小さな湖へと辿り着く。近くに浄水場らしき建物と人工的に作られた貯水池もあることから、ここがセイたちの時代に使われていた水の元となる水源なのだろうか。
 治水工事に関する本を開いて、この辺りで現在使われている浄水場の一覧を見つけるが、その中に明治時代の地図に書かれていた浄水場の名前は無かった。肝心の湖も地図上から消えていることから、水源となる湖が枯れたのか、埋め立てられたかしたのだろう。その答えも読んでいた治水工事の本に書かれていた。
 貯水池があった辺りは地盤が弱いようで、セイが生きていた時代の遥か昔から大雨や台風などで度々水害が起こっていた。そこで近隣住民からの被害や嘆願を聞き入れ、大規模な治水工事が行われた。そうして莉亜たちの祖父母の代に浄水場は取り壊され、貯水池と湖は埋め立てられた。湖の代わりとして長い水道管を設置して別の水源から水道を引くことにしたらしい。
 水源と思しき湖が失われた以上、やはりセイが使っていた水と同じものを手に入れるのは叶わないのだろうか。

(蓬さんは当時の水源に近い場所から水道を引いたと言っていたから、それよりもっと水源に近い場所ならセイさんが使っていた水と似ているのかな……)

 そこまで考えて思い当たる。もう一度セイの神社近くを通っていた川を辿ると、今度は反対方向に源流となる大きな川の上流を登っていく。すると上流にダムが築かれており、その側には浄水場もあった。浄水場から少し離れたところには給水場もあり、どちらも現在使われていることが分かった。莉亜が住んでいるところからかなり離れているので、自宅の水道や蓬のお店の水道とは違う水だろう。大学で知り合った友人の中に、この浄水場が供給している地域に住んでいる友人がいたので、水を分けてもらえないか頼んでみるのもいいかもしれない。

(でも、本当に水だけの問題なのかな……)

 どこか釈然としないが、時計を見ると図書館に来てから相当の時間が経っていた。昼時も過ぎたからか、ここに来てから飲まず食わずの莉亜の腹が空腹を訴えていた。調べるのはこれくらいにして、帰りながらどこかで昼食を摂ってもいいかもしれない。この辺りは来たことがないので、目新しいお店もあるだろう。
 莉亜は立ち上がると、使っていた本を片付け始めたのだった。