【長編版】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜

「神も大変なのだな。それならおれがお前の名前を調べてやる。まだ読んでいない古文書が蔵にはたんまりとある。その中に書かれて……」
「無駄だ。神の神名を書物に記すことは神代から不敬とされている。口述や祝詞で伝わっていない限り、誰も知らない」
「でも、お前がここにいるということは、誰かが神名を覚えているということだろう。父上か氏子だろうか……」
「口伝えならどこかで途絶えてもおかしくない。全ての人間から忘れ去られた時、地上から消えるのは神も同じ。それが自然の摂理だ。仕方あるまい。分かったのなら、早く帰って誰かに尋ねるがいい……」

 神は自分の神名を調べさせるのを口実として、男を帰らせようとした。少なくとも、明日までは戻って来ないだろう。誰かに聞くにしろ、古文書を調べるしろ、相当な時間が掛かるはずだ。男の父親である今の宮司でさえ、おそらく神の神名を知らない。神が唯一神名を教えた初代の宮司一族は、遥かな昔に途絶えてしまったのだから。
 この男は知らないかもしれないが、この神社を建立した初代の宮司一族は、数百年前に発生した大飢饉の際に極度の栄養失調とこの地に蔓延した疫病が原因で、一人残らず全滅している。
 最初はひどく痩せ細った宮司の娘が祓詞と共に恐る恐る神饌を持って来ていたが、途中から見知らぬ処女が神饌を持ってくるようになった。宮司の娘に何か異常があったのだと思っていたが、どうやらその間に宮司一族の者が全員倒れたらしい。その後は何人もの処女が代わる代わる神饌を奉納するようになり、しばらくして今の宮司一族が仕えるようになった。
 今の宮司一族は満足に引継ぎもされないまま、初代宮司一族の跡を任されたのだろう。ここ数代は落ち着いているが、最初は目も当てられない様子だった。それでもどうにか元に近い形にまで整えてくれたことに、神は密かに感謝している。
 ただ途中から急に後を任された様子なので、神の神名までは引き継がれなかっただろう。初代宮司一族が何らかの形で残していない限りは――。
 神の神名を見つけられなかったとしても、探そうとした労に報いて、神名を教えてやってもいいかもしれない。長きに渡り豊穣の神に仕え続ける宮司の一族に、改めて神名を教える気まぐれを起こすのもたまにはいいだろう。
 そんなことを鼻高々に考えていると、男は憐れむように眉を歪ませたのだった。
 
「自分の真名を忘れて、人の姿にもなれないというのは神も難儀なことだな。だが、そういうことなら話は早い」
「おれの名前と姿を貸してやる。丁度、おれの名前には漢字が二文字使われているからな。その内の一文字を貸してやろう。おれの姿も一緒に」
「ばっ、馬鹿なことを言うなっ!! キサマ、言っている意味が分かっているのかっ!? 神に名と姿を貸すなど、キサマを使役しろと言っているのも同然だぞ!?」

 名前というのは最も身近にある呪術だと言われている。その名前が縛るのはその者の身体だと。
 そのため、神に真名を教えた人間は神に身体を操られ、支配下に置かれると言われていた。神に名前と身体を貸すという行為は、自らの命を差し出すことと何も変わりない。自由を奪われ、神が解放するまで隷属することになる。それは神話の時代から有名な話であった。
 この話を知っているからこそ、これまで神は神饌を持って来ていた清き乙女たちの名前を誰一人知らなかった。神から問うことも、乙女たちから名乗ることもなかった。真名を知って、支配下に置いてしまわないように、または支配されないように。お互いに一定の距離を保っていた。
 全盛期以下の力しか持たない今の神にそこまでの拘束力は無いが、宮司の息子なら当然知っている話であろう。

「それくらい知っている。それでも目の前で困っている者を放っておけない。その者が、友になりたいと思う相手なら尚のこと」
「友など不要だ。我はこれからも一人で生きていく。キサマの手を借りるつもりはないっ!」
「おれの手も借りずにどうやって生きていくつもりだ。神饌を拒み続けたことで神名と姿を忘れた上に、神饌まで動物に盗られた間の抜けた神よ」
「忘れたわけでも、盗られたわけでもないっ! キサマは神の話というものを……!」
「神が人より後ろという訳にもいかないからな……。よし、お前には蓬晴(ほうせい)(ほう)の字を貸してやる。そうだな……ホウというのは呼びづらいから、ヨモギとでも名乗るがいい。おれは後ろの(はる)の字からセイを名乗る。これからはそう名乗ってくれて構わないぞ、蓬」
「誰が名乗ってやるものかっ……!」

 その時、神の身体に変化が生じた。光の球は縦に伸びて、手足が形作られていく。顔に目や鼻ができ、頭からは黒い髪が伸びる。
 そうして光が霧散した時、神は黒い学生服を纏った若い男の姿になっていた。それは目の前で「これはしたり……」と一驚を喫した顔で呟いていた男――セイと瓜二つの姿であった。
「他人から見たおれというのは、こんな姿をしているのか……。興味深い」
「感心している場合かっ! キサマが名を与えて、我を縛ったからこうなったのだ! 今すぐ名も姿も返してやる。早く受け取るがいい!」
 
 神が神名以外の名を与えられた時、それは名を与えた者か、名を与えられた地に束縛されることを意味する。その名前で呼ばれ続ける限り、神は名を与えられた者に従属しなければならない。力が強い神ならそう簡単に使役されないが、この地に祀られている神は長らく神饌を受け取らなかったことで力が弱まっていた。相手が赤子でも簡単に使役されていたかもしれない。
 同様に神が生き物に名前を与えた時、神の遣いである神使として使役できる。唯一の例外は生まれた時に親兄弟などから名を付けられる人間だが、これも人間の真名を知った上で、神が他の名を与えてしまえば神使にすることは可能であった。

「そうは言っても、名も姿も忘れて神饌を食せないのだろう。力を取り戻して名と姿を思い出すまで使うといい。お前のことは従僕ではなく友と呼ぼう」
「当たり前だ! 人に支配される豊穣の神があってたまるものか! 神として一生の不覚だ!」
「高い地位につく神というのも大変だな。矜持が許さないのか」
「違うと言っているだろう! 馬鹿者が!!」

 こうして話す声までセイに似ている。身長や体重、肩幅や洋服の大きさ、髪の長さから手足の指、爪や睫毛の長さまで。現人神としての自分の姿が分からなくなってしまうまでに、すっかりセイに染まってしまっている。その内、考え方や話し方までセイと同じになってしまいそうだ。
 
「その姿なら神饌を食せるだろう。時間は経ってしまったが、早く食うといい。友の蓬」
「……っ! 絶対に名と姿を返してやるからなっ!」

 怒りで頬を朱に染めながら、神は本殿の前に供えられていた塩おにぎりを手に取る。セイが期待する眼差しを向けてくる中、大口を開けると齧り付いたのだった。

「どうだ? おれが握った塩むすびは?」
「……硬くて食べづらい。それから塩辛い」

 神の姿で食した時より塩辛さと苦みを強く感じられるのは、人間であるセイを模したことで五感がより人間に近くなったからか。塩辛い口の中を清めようと、神酒が入っている竹筒を飲んだ時、何故か味噌の味がしたので反射的に吹き出してしまったのだった。

「なんだ!? この酒は!?」
「ああ。竹筒の中身は今日から味噌汁にした。塩むすびには清酒より味噌汁の方が合うからな」
「神酒は!?」
「安心しろ。味噌汁の中に入っている。気化しないようにお前のは仕上げてからも入れたからな。一応、昼餉の際に味見として清酒入りの味噌汁を家族に出したが、今朝方汲んできて沸騰させた清水の中に出汁や味噌と共に神酒を入れたと話した途端、母上だけでもなく父上も卒倒しかねた。火を通して酒の風味を飛ばしたつもりだったが、清酒を入れすぎただろうか……」
「……もう少し、両親の気苦労を考えてやれ」

 やはり近い将来、金が掛かる神として宮司一族から追放されるかもしれない。ここは早く力を取り戻して、宮司一族に貢献せねばならないだろう。
 そしてセイにも名前と姿を返さねばならない。名前と姿を借りている限り、セイを自分に縛り付けることになるのだから。

「明日こそお前の口から美味いと引き出してみせよう。楽しみにしておくといい」

 妙にやる気に満ちたセイの言葉に心許ない気持ちになる。明日はどんなことをやらかすのだろうか……。

「……ほどほどに頼む」
「任された」

 屈託のないセイの笑顔が眩しい。だが悪い気はしなかった。セイの神饌は確実に神力の回復に貢献している。その理由は未だに分からないが、このまま神饌を食し続ければ判明するかもしれない。全盛期以上の力を得ることもありえるだろう――。
 神饌として捧げられた塩おにぎりと清酒入りの味噌汁が空になる頃には日が暮れ始めていた。帰り支度を整えたセイは振り返ったのだった。

「また明日も来るからな。ここで待っていろ、蓬」

 再会を約束して大きく手を振って去って行く姿は、親しい友との別れのようであった。自分に傅き、退出の際には都度許しを願い出ていた清き乙女たちとは全く違う真逆の挨拶に悪い気はしなかった。それどころか堅苦しくない分、どこか気楽で良いとさえ思い始めている自分がいたのだった。

「すっかりアイツの勢いに呑まれてしまったな」

 人と神が生きる時間は異なる。セイはまだ若いので、しばらく同じ時間を過ごせるだろう。それならセイが生きているだけでも、付き合ってもいいかもしれない。セイが話す「友」という関係を。
 これまで「友」に縁がなかったからか、その言葉が非常にむず痒く感じられる。神として長らく生きてきたものの、他の神との交流をしてこなかった。たまにふらりとこの地に立ち寄る神はいるものの、あくまで立ち寄っただけなので、話らしい話は一切しなかった。ここで認めたら、神にとっての初めての友がセイということになるのだろう。
 相手がセイだからか、それともこの短時間で心まで人間に染まってしまったのか、人間と親交を深める自分を想像してどこか愉快に思えてしまう。これまで頑なに人間の――それも男を卑下してきた自分が、人間の男と肩を並べる日が来ようとは。あまりにも痛快だった。
 この小気味よさをセイにも味わわせて一泡吹かせてやりたい。せっかくなら名前と姿を返す時にでも。
 ――キサマを友と認めて、友情を育んでやってもいい、と。

「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするか。アイツは」
 
 友の姿を写した神の白い頬に赤みが増す。白い月が昇り始めた夕空を見上げると、満足そうに笑みを浮かべたのだった。
 そうしてこの日から、神は蓬となったのだった。
 それからもセイは毎日蓬の神饌を届け続けた。セイが用意してくる神饌用の米と塩で握った塩おにぎりと、清酒入りの清水で作った味噌汁は、日に日に風味や食感を変え、蓬の好みに合うように改良されていった。蓬も男が奉納した神饌だからと無下に扱うのは止めた。セイの目の前で神饌を食べる気恥ずかしさも、セイが押し付けるように貸して来た名前で呼ばれ、セイと双子同然の姿を取る恥辱も早々に失せた。それどころか期待する眼差しを向けてくるセイに、率直な神饌の感想さえも平気で述べるまでになっていたのだった。
 
 それが出来るのも感想と共に嫌味を混ぜても、セイが一切怒らずに快活に笑ってくれるというのも大きいだろう。豪快に口を開けて大声で笑うセイに当初感じていた鬱陶しさも、次第に心地良いとさえ思えてくる。セイと過ごす時間が待ち遠しくなり、次はどんな話をするか考えるようにもなると、やがてセイになら蓬の胸中を打ち明けて、心に踏み込まれても良いとさえ思うようになる。これが胸襟を開くということなのかもしれない。
 
 人間に心を許し、対等に語り合うというのは、威厳を示さなければならない神にとって諸刃の剣ではある。そう思いつつも、「一柱」の神として蓬を敬いつつ、「ひとり」の友として接してくれるセイの存在が、誰にも本音を話せないまま長い時を孤独に生きてきた蓬の心に突き刺さる。
 今や蓬にとって、セイは居なくてはならない存在であった。一柱の神として、意志を持つひとりの個として、信頼まで置けるようになっていたのだった。
 ただ単に蓬の含意にセイが気付いていないだけかもしれないが、セイ自身の人としての器が大きいというのも、少なからず関係しているのだろう。
 そうでもなければ、蓬のような好みに口煩い神の相手をしてくれるわけがない。それを分かっているからこそ、蓬もつい我を通そうとしてしまうのだが……。
 そんなセイも連日神饌を運びながら、自分のことを話すようになっていた。
 
 セイも父親や二人の兄と同じように神職に就くため、大学で神道を学んでいること。宮司である父親の後継は代々長兄が継ぐと決まっているため、末息子であるセイはいずれ跡継ぎがいない宮司の養子か、直系の男がいない宮司の婿養子となり、この地を離れるつもりでいることを聞かされたのだった。
 セイがここを出て行った後は、今と同じ塩おにぎりと味噌汁を長兄が用意して奉納することを頼んでいるらしいが、きっと受け取らないだろうと蓬は薄っすら考えていた。
 この塩おにぎりも味噌汁もセイが作るから意味がある。他の者が同じものを作っても効果がないのだと。
 いつセイがここを出て行くかは分からないが、それまでには名前と姿を返さなければならない。そう思っていても、蓬はなかなか返せずにいた。
 名前と姿を返したら、セイは二度とここに来てくれなくなるのでは無いかと、そんな不安ばかりが頭を過ぎる。永遠を生きる神にとって、人間が生きられる時間というのは瞬く時間のようなもの。誕生したかと思えば、あっという間に終焉を迎えている。
 本来なら人間と神の時間が交差することはない。蓬のように神が人間の前に姿を現すか、あるいはセイのように人間が神を視認する力を持つ奇跡が起きない限りは。
 
 そうは分かっていても、蓬は素直になれずにいた。
 セイが年若く、もうしばらくは一緒にいられるだろうという、甘い考えも災いしたのだろう。機を熟し過ぎたとも言える。
 明日会った時に名前と姿を返せばいいと、友になっても良いという返事を先送りし続けた。
 
 その結果、あのような取り返しのつかない悲劇が起こってしまったのだった――。
「遅い」

 セイが神饌を奉納するようになって半年が経っていた。いつものように「明日も来る」と言っていたセイが、何故かこの日に限っては夕刻近くになっても来なかった。様子を見に行くべきか、それとも入れ違いになるのを避けてここで待つべきか。出迎えに行くと、セイを待ちかねていたようできまりが悪い。だからといって、何もしないでいるのももどかしい。本殿の前でセイを待ちながら、蓬は思案する。
 
「もしや、体調でも崩したか……」

 今は健康優良児のセイも、かつては病弱な少年だった。ふとした瞬間に虚弱な一面が出てしまうのかもしれない。
 そんなことを考えていると、本殿に近づいて来る人影が見えた。わざと近くの木の影に隠れると、セイがどう言い訳をするのか聞いて、呆れた振りと大げさな悪態をつきながら姿を現そうと企む。
 しかし本殿に現れたのは、宮司の二番目の息子――セイの次兄に当たる青年だった。
 いつもなら三兄弟の中で最も熱苦しく、セイよりも正義感に溢れているはずの次兄が、この日に限っては打ちひしがれたかのように背中を丸めて、涙を堪えているのか口を固く結んでいたのであった。

「豊穣の神に於かれましては、神饌のご奉納が遅くなりましたこと……」

 そんな堅苦しい挨拶と謝罪の言葉と共に本殿に供えられたのは、セイが握ったものより形が整った塩おにぎりと、真新しい竹筒であった。
 いつもと違う神饌、これまで一度も神饌の奉納に来なかった次兄、そして宮司の息子たちなら幼い頃から言わされて難なく暗唱できるはずの唱え言葉をところどころつっかえ、時折鼻が詰まったかのようにくぐもる声。嫌な予感しかしなかった。
 かつて蓬に仕えていた清き乙女たちも、代替わり直後に次兄と同じような様子を見せたことがある。特に先代が夭逝や急逝した時に――。
 そこまで考えて眩暈がした。蓬は次兄の元に飛び出すと、声を荒げて問い詰める。

「セイは!? セイはどうしたのだ!? なぜ来ない? セイに何があった!? 」

 次兄の耳元で何度も叫ぶが蓬の声が届いていないようで、ただ繰り返しどうでもいい祓え言葉を唱えていた。蓬は舌打ちをする。やはりセイじゃなければ蓬の姿を認識できないらしい。その間にもセイに借りた姿は鼓動が激しくなり、胸が苦しくなる。この身体の主に何かが起こったと訴えかけてくる。

 ――もう、待ちきれない。

 蓬が目を瞑ると、身体が白い光に包まれる。光の中から現れたのは、豊穣の神としての本来の蓬の姿であった。太陽のような明るさと温かさを合わせたセイとは真逆の印象を持つ、月のような静寂と神秘を合わせた神としての蓬が顕現したことで、本殿を囲む周囲の気が変わったのか、次兄は慌てたように周囲を見渡す。
 蓬は空高く浮くと、セイの気配を探る。本殿がある小高い山の下からわずかに残るセイの気配を手繰り寄せる。そして蓬は地上近くまで降りると、糸のように続くセイの気配を辿って行ったのだった。

 本殿から離れたのは数十年ぶりだったが、その間にセイたちが暮らす町も随分と様変わりしていたらしい。西洋の服を着た老若男女、西洋から伝わったと思しき食品や小物、西洋風の建築物。それらを横目で眺めながら、セイの気配が最も強く残る場所まで飛んでいく。
 ようやくセイの気配の根本となる、セイの居場所に辿り着く。そこは馬車や荷車などが行き交う、町の中心部にある一番大きな通りであり、セイが暮らす神社から蓬が祀られている本殿の近くにある道でもあった。
 普段なら人の往来があるはずの賑やかな通りは、何故か通行を止められて、人々が一点を見つめて輪をなしていた。そんな輪の中心部からセイの気配は発せられていた。しかしそこに広がっていた光景は――。
「なんだ。この惨状は……」

 蓬は言葉を失くしてしまう。人々が見守っていた先では横転した馬車と、その馬車周辺を調べる警察官の姿があった。
 馬車の近くには地面が吸ったと思しき、赤黒い染みが広がっていた。馬車に轢かれた者が流したものだろうか。そんな鉄のような臭いを放つ赤黒い地面を見た蓬は、その場で凍り付いたように固まってしまう。
 赤黒い染みの周りには、同じく赤く染まった米粒が無数に散乱しており、少し離れたところでは壊れた竹筒が転がっていた。その竹筒から零れた液体が地面を流れ、味噌と酒が入り交ざった臭いを辺りに漂わせていたのであった。
 そして肝心のセイの気配は、その地面を染め上げた赤黒い染みに続いていたのであった。

(まさか……!?)

 指先が震えだして、身体から血の気が引く。喉の奥で焼けつくような苦い味がして、胸が早鐘を打ち始める。落ち着こうと息を吸ったものの、警察官に事情を聞かれていた商売人らしき男が急に金切り声を上げたので、蓬は飛び上がりそうになったのだった。

「おらぁ、見たんだよ。あの華族が乗っていた馬車に轢かれそうになりやがった餓鬼を助けようと、学生が馬車の前に飛び出したんだぁ。竹皮の包みと竹筒を持っていた、あの、なんとかっていう有名な大学に通ってやがる神社の末息子だ」

 神社の末息子、という言葉にハッと息を呑む。人間より優れているはずの神らしくもなく、恐怖で足が震え始める。
 信じたくなかったが、まさか、まさか――。
 
「それで?」
「餓鬼は通りの反対側に転がって無事だったが、学生は馬車に轢かれてな。地面に倒れたんだぜ。 ほら、あの赤い地面のあたり。持っていた包みも地面に落ちた。米粒が散らばって、竹筒も穴が開いてあの通り。学生はぴくりとも動かなかったぜ。おらが近くの医者を呼んで診てもらったが、もう……」

 商売人はまだ警察官と話していたが、蓬の耳には何も入ってこなかった。手足から力が抜けると、そのまま倒れそうになったので慌てて上空に飛び上がる。両手で自分の頭を乱暴に掻き交ぜ、そして顔を覆う。認めたくない事実を突き付けられて、思考が停止する。
 
「なんて、ことだ……」
 
 最悪の結末を迎えてしまった。蓬の我が儘に付き合わせたことで、セイは名前と姿を失った不完全な状態で最期を迎えてしまった。
 セイに会うことはおろか、もう名前と姿を返すことさえ叶わない。肉体と魂が解離した以上、セイの意識が宿った魂は蓬の元から離れてしまった。蓬には魂となったセイを追いかけられない。神力をほとんど失った蓬には……。
 
 神に名前を知られて使役された魂が死を迎えた場合、その魂は真名が欠けた不完全な状態となる。不完全な状態では輪廻転生の輪に入れず、転生はおろか成仏さえ叶わない。神に貸した名前を返され、自分を縛る神――セイの場合は蓬から解放されるまで、永遠に地上を彷徨い続けることになる。
 誰とも言葉を交わせず、存在さえ認識されず、人の移り変わりと共に遠からず存在を忘れ去られる。そんな地獄ともいうべき、終わりなき日々を永劫に送らなければならない。
 魂だけの状態を何十年、何百年と送る内に、やがて人間らしい感情や思考を失ってしまう。自分が何者であったのか、どの神にどんな名前を奪われたのかも忘れ、ただ地上を放浪する亡霊となる。その後ほどなくして満たされない渇きを覚えるようになると、衝動のまま人を襲う怨霊に成り果てる。飢えた獣のように暴れ、調伏されるまで飢渇にもがき苦しむという。
 陰陽師や退魔師によって、強制的に祓うこともできるが、邪気と共に祓われた魂は完全に消滅する。二度と転生できず、何も無い深淵に堕ちる。
 そうなる前に神は自らが使役する魂を解放しなければならない。地上を流離う魂を見つけ、名前を返して自由にしなければならなかった。
 蓬に神力があれば、すぐにセイの魂を見つけられるだろう。しかしセイがいない以上、蓬の神力が回復することはない。セイが作る神饌でなければ、蓬の神力は回復しないのだから。
 神力が無い以上、セイを見つけられない。神である蓬が見つけられないのなら、セイを解放することは――不可能である。

 心ここにあらずといったまま事故現場を離れると、蓬はセイの生家である神社にやって来る。夢であって欲しいという一縷の望みにかけて来たものの、待ち受けていたのは残酷な現実であった。セイの訃報を聞いたのか、セイの知り合いや宮司の関係者と思しき、黒い服の集団が続々と神社に続く石段を上っていた。神社の社務所の前では、黒い着物を身に纏ったセイとよく似た女性――セイの母親が弔問客と涙交じりに話していたのであった。
「本当に残念でしたね。噂によると、北東北に建つ神社の後継の話を辞退されたとか。ご友人のために」

 友人の単語に蓬は固まってしまう。いずれ他の神社の後継になるつもりだとセイから聞いていたが、まさかその話がもう来ていたとは思わなかった。しかも友人の――蓬のために拝辞していたというのも。セイの母親の頭上まで降りてくると、蓬は聞き耳を立てたのだった。
 
「ええ。そうです……。蓬晴は……生前のあの子は、毎日その()の元に出向いていました。毎朝早くから厨で米を炊いておむすびをこさえて、鼻歌混じりに汁物の用意をして。今朝もそうだったのです。『今日こそは友人の口から上手いと認めさせる』と息巻いて、家を出て。それなのに……それなのに……ううっ!」

 突然末の息子が失われて、まだ心の整理がついていないのだろう。無理もない。手巾で目元を押さえるセイの母親に背を向けると、蓬は母屋に足を向ける。これまで幼少のセイが体調を崩す度に様子を見に来ていたので、セイの部屋はすぐに分かった。昔と違い、玩具が減って、書物が増えたものの、本質的なものは何も変わっていないような気がした。整理整頓や掃除が行き届いているところも、手入れされた武具が壁に立て掛けられているところでさえも。ただ、この部屋の主を除いては――。
 その時、セイの部屋の襖が開いたので、期待を込めて顔を上げる。しかし入って来たのはセイの父親である宮司とセイの長兄、そして帽子を手に持った黒い紳士服の初老の男性であった。

「ここが実弟の……蓬晴の部屋です……」

 意気消沈した長兄に案内された初老の男性は、書きかけの半紙が置かれたままの書き物机や神道に関する書物が所狭しと並べられた書棚をじっくりと眺めながら話し出す。
 
「本人には会えましたか?」
「今日は警察で調べるため、病院で預かるそうです。事件性が無いかはっきりさせておきたいと。父と会いに行きましたが、とても人様に見せられる状態ではなく……」
「そうですか……。蓬晴くんはとても真面目な好青年でした。成績や素行にも問題なく、学部や学年を問わず多くの学生たちにも慕われて。行く行くは父君や兄君のような立派な宮司になったことでしょう」
「ありがとうございます……」

 宮司が深々と頭を下げる。セイが神饌を奉納するようになるまで、蓬の本殿に神饌を献納していたのはこの宮司だった。ここ半年近く姿を見かけなかったが、以前にも増してすっかり老け込んだように見える。

「先程ご母堂からもお話しを伺いましたが、最近蓬晴くんには新しいご友人が出来たそうですね。これまでは授業が終わっても、遅くまで大学の図書館で勉強して、私ども教授に教えを乞いていました。それが授業を終えるなり、すぐに帰宅するようになりました。ご友人が待っているからと、学友からの誘いも断り、神道以外にも科学や料理に興味を持つようになったとか」
「うちの倅がそんなことを……」
「そのご友人が関係しているかは存じませんが、約半年程前からこの辺りの皇神(すめがみ)について調べる姿を見かけるようになりました。地域信仰について研究している私の元にも何度か訪れましてね。生家で祀る皇神についてもっと知って詳しくなりたい、特に神々の神名について知識を深めたいと仰っていました。とても信仰熱心なのですね。喪が明けられましたら、ご神体を祀られる斎庭(ゆにわ)にも参拝させていただきたいものです」
「その蓬晴の新しい友というのは……我が家の()()のことなのです……」
「おや、そうなのですか」
 
 自らを教授と称した初老の男性が意外と言いたげな顔をする。長兄が溢した言葉に宮司は肘で突いて止めたものの、長兄は肩を落としたまま話し続ける。
 
「半年程前から、この地を守護する豊穣の神への供物の奉納は弟が担うようになりました。本来は長兄であるおれ……わたしが行いますが、弟からの強い要望もあって役割を代わったのです。この地の神は長らく供物を受け取ってくださらなかったのですが、弟が奉納するようになってからは受け取るようになったというのもあります。それで弟自身も非常に張り切り、不敬にも奉るはずの神を友人などと呼ぶようになりました」
「ほう……。皇神と友好関係を築いていたのですか。地方を中心に神社が廃れ、各地の神が地上から離れているこの時代に。審神者(さにわ)でなく友人と」
「弟の話では、守護神からは一度も友と呼ばれなかったそうです。それでも魂は通い合っているから友だと言い張っていました。お恥ずかしい話ではありますが……」
「いえ。貴重なお話をありがとうございます。お忙しいところ、私の我が儘にお付き合いいただきまして。蓬晴くんが熱心に皇神について調べていた理由が知れました。きっとご友人のために、奔走していたのでしょう。改めて、この度はお悔やみを申し上げます。学長も会議が終わり次第、帝都を発つと申しておりました。明日弔問に訪れるかと」
「教授もご多忙のところ、出張を切り上げてまで来ていただきありがとうございます。きっと弟も冥途の土産になると喜んでいるかと存じます」
 三人が出て行くと、部屋には蓬だけが残る。書き物机に広げられていた半紙には日付と何かの料理の感想、食材の名前がびっしりと書かれていた。見覚えのある手跡なので、セイが書き留めたもので間違いないだろう。流し読みしていた蓬だったが、あることに気付いて愕然とする。
 それぞれの日付の横には料理の感想が簡潔に記載されていたが、それはその日にセイが持って来た神饌に対する蓬の感想をまとめたものであり、食材はその日の神酒が入った味噌汁に使われていた具材であった。中には朱色の細字でセイの注釈がついており、「今日は機嫌が良かった。好みの味付けだったのかもしれない」や「あまり上手そうに食べていなかった。この味付けは好みではないのだろう」など書かれていたのであった。
 蓬が想像していた以上に、セイは蓬に心を砕いていたのだろう。先程の教授に皇神や神名について尋ねたのも、神名を思い出せないと嘘を吐いた蓬がきっかけだったに違いない。自分の意固地が原因でセイの時間まで蓬が奪っていた。
 それに気付かなかった自分はセイに何をした。セイの優しさに甘えて、好き放題に勝手なことを言い、もったいぶって名前と姿を返さずにいた。
 その結果、肉体から離れた魂を見失って、地上のどこかに存在するセイの魂さえ見つけることができない。
 意地を張り続けた結果、セイが作る神饌を褒めることも、友と呼ぶこともしなかった。
 本当はずっと前から認めていたというのに……。
 
「セイ……」

 初めて呼んだ友の名は、胸に刃を突き立てられたかのような痛みを伴って、身体中に響く。友とはこんな苦しい存在だっただろうか。蓬に友人はいなくても、人間たちが友と呼び合う姿はこれまで散々見てきた。
 友とはもっと温かく、柔らかなものではなかったのか。
 友の名を呼ぶ度に、自分の心に開いた穴に気付かされて、膿んだ傷口に塩を塗られるような疼痛を感じるものではなかったはずだ。
 蓬の過失が心に傷を創ってしまった。もっと早くセイを自分から解放するべきだった。この地を守る神として神饌を認めて、名前と姿を返し、遠くの神社の後継者となるセイを見送ってやるべきだったのだ。そうすれば、セイは自由に生きられた。蓬のことを忘れて、只人として生を全う出来ただろう。輪廻転生の輪から外れることもなく、来世を迎えられたに違いない。
 それら全てを蓬が壊してしまった。セイの自由も、未来さえも。何もかもを奪ってしまった。
 謝罪したいと(こいねが)っても、会いたいと渇望しても、今の蓬にはセイと会う術を何も持っていない。

(愚か者は我だったのだな。キサマから全てを奪い、何の望みも変えてやれなかった)
 
 頭の中が真っ白になりながらも自分を祀る本殿に戻った蓬は、次兄が供えたままになっていた神饌に目を落とす。セイよりも形が整った塩おにぎりはセイの母親が握ったものだろう。このような事態になっても神饌を忘れなかったのは、セイの願いを尊重したのか。
 セイの願い――早く蓬が神名と姿を取り戻し、この地を再び実り豊かな土地にして欲しい、という。
 すっかり固くなった塩おにぎりを蓬は齧る。セイの塩辛い味付けに比べたら食べやすい味付けだが、何故だか美味しいとは思えなかった。神酒が入っている味噌汁も同じ。神力が回復する気配も全くなく、ただ出されたから機械的に食べているだけという状態になってしまう。最終的には味わうこともせず、味噌汁で流し込むようにしてどうにか平らげたのだった。
 昨日までのセイが用意した神饌とは違って、神饌を食しても何も満たされなかった。ただ身体が重くなっただけで、美味いとも不味いとも思えない。セイが用意した神饌を食べていた時は心から味を感じて、心魂を動かされた。それを神饌の感想として伝えていたが、セイは全て書き留めていたのだろう。蓬がセイの神饌を認める、その日まで――。
 
 蓬は立ち上がると、眼下に広がる町を見下ろす。これまでセイの神饌を食べてきたことで、多少は神力が戻ってきている。豊穣の神としての全盛期ほどの力ではないが、これだけ回復していれば十分だろう。
 大切な友の願いを、()()に叶えられるくらいには。
 
「約束を果たすぞ、セイ。これで貸し借りは無しだ」
 
 真名を奪った神が消滅した時、奪われた真名は自動的に相手に戻るとされている。そのため、神代の頃は名前を奪われた人間が自らの名前を持つ神の命を狙ったという話もあった。
 蓬の場合、自分が消滅すれば、名前と姿は魂となったセイの元に返却される。そうすればセイの魂は蓬から解放され、輪廻転生の輪に向かう。転生したら蓬のことは忘れてしまうが、これからも友が幸せに過ごせるのならそれでいいと自分を納得させる。自分にはセイがいない寂しさや悲しみを語る資格はない。これは蓬が犯した罪の末路。清算するために必要なことだ。
 神に相応しくない態度を取り続けた自分の消滅が、己の全てを捧げてくれたセイに対する贖罪になるのなら、神として残された力の全て解き放とう。自分はどうなってもいい。たとえこのまま力を使い果たして、消えてしまったとしても。
 力を失った神である蓬が、友である人間のセイのために出来ることと言えば、これくらいしか無いのだから――。

(こんなことになるのなら、これまでの神饌を受け取っておくべきだったな……)
 
 セイが声を掛けてくるまで、セイの父親を始めとする幾人もの男が神饌を持ってきていたが、もしかするとその中にも蓬の神力を回復させる神饌があったかもしれない。今さら悔やんでも仕方ないが、自分の我を通す前に一度くらい確かめてみても良かった。
 蓬は言葉にならない叫び声と共に自分が持つ神力の全てを解き放つ。蓬を中心に神力が空気を震わせ、その衝撃で鳥たちが一斉に羽ばたき出す。耳鳴りのような音が辺りに響いたものの、それもすぐに消え、代わりに蓬の身体から神聖なる光が溢れ出る。この本殿を中心に波が起こったかのように、蓬が司る豊穣の神力が周囲に広がっていく手ごたえを感じたのだった。
 蓬の身体から力が抜けると、その場にくず折れる。神としての姿が光の粒子状に分解されていき、手足の先から徐々に消えていく。この光の粒子も蓬が解き放った神力と共に風に流されて遠くまで行き渡るのだろう。大地に活気を与え、実りと繁栄を約束させる。これであと数百年は豊作が続くに違いない。
 友の願いを叶えられたことに、満足げな笑みを浮かべる。この意識が消えた時、名前と姿はセイに返るだろう。これでセイは自由になれるはずだ。
 そんなことを考えていたからだろうか。目が閉じる寸前、大切な友の姿を見たような気がした。微かに「蓬」と呼ばれた声も聞こえたが気のせいだろう。唯一無二の友を恋しむあまり、幻を見たに違いない。
 そんなことを考えながら、蓬は意識を手放したのだった。
「本当ならセイを失ったあの時、神力の全てを解放した俺は消滅するはずだった。それが何の因果か消えずに残ってしまった。ほんのわずかに俺の中に神力が残ってしまったのだろう。もしくは神としての俺を強く信仰する者がまだ残っていたか。いずれにしても神としての力だけではなく、神名や現人神の姿を含めた全てを失った以上、何千年といった長い時間を掛けて神力が回復するまで、俺は目覚めないはずだった」

 そう言って、長い昔話を締めくくった蓬は深く嘆息する。隣で話を聞いていた莉亜は、いつの間にか膝の上に乗ってきたハルの身体を撫でながら気になったことを尋ねたのだった。
 
「どうして目が覚めたんですか?」
「眠りについてから、百年以上経ったある日、本殿があった一帯を区画整理することになり、余所の土地に移されることになった。その衝撃で起こされてしまったらしいな。目が覚めた時には見たこともない場所に居た。移設の際に本殿を無くしたのか、代わりとなる真新しい祠が建立されて、その中で目を覚ました。その祠の傍にコイツがいたのだ」
 
 蓬は莉亜の膝から慣れた手付きでハルを抱き上げる。くつろいでいたところを急に抱えられたからか、ハルは不機嫌そうに唸ったのだった。
 
「ハルがいたんですか?」
「ああ。祠を守護する守り手のようにずっとな。俺の傍から離れないから、気に入って名を与えて神使にした。それぐらいの力はあったからな。……皮肉にも神としての全てを失った俺に残されていたのは、ハルを神使にするのに必要なわずかな力と、セイから借りた名前と姿だけだった」
 
 いつからハルが蓬の祠にいたのかは知らないが、もしかするとハルは普通の猫の寿命以上の時間を生きているのかもしれない。神使になったことで、ハルもただの猫じゃなくなったのだろうか、と莉亜は推測する。蓬の膝の上で退屈そうに欠伸をする姿は、どこにでもいる普通の猫と同じに見えるが。
 
「だが、俺が消えずに存在している以上、セイの魂に姿と名前が返されていないことが判明してしまった。広漠とした人の世を彷徨うセイを探すには人手が必要だった。目覚めたばかりの俺は今とは違って、神やあやかしの世界を自由に行き来できなかった。俺の目の代わりとなる存在が必要だった。その点、猫の神使は身軽だから、俺が行けないような遠方にも軽々と行ける」
「神やあやかしの世界を自由に行き来できなかったのは、力が無かったからですか?」
「それもあるが、神やあやかしの世界を出入りするのに必要な通行手形を持っていなかったというのもある。今度こそ神としての名や姿を失い、神の証である神力さえ無かった。旧知の神々を渡り歩いて頼み倒して、どうにか通行手形を用立ててもらえた。大半の神々は力を使い果たして消滅していたものと思っていたのか、俺の存在を信じてくれなかった。たらい回しにされて、通行手形の入手に時間が掛かってしまってな」
「神の世界にもあるんですね。たらい回し……」
「ようやく通行手形を入手した俺は何の思い入れのない新しい祠を離れた。ハルと共に現世の各地を巡ってセイの魂を探し、神やあやかしの世界に出入りしては少しでもセイに関する情報が無いか探索した。目覚めるまで百年以上もの時間が流れてしまったので、早く見つけなければ怨霊になってしまうかもしれないと焦るが、それでも神力を失った俺にはセイの気配すら感知することが出来なかった。他の神やあやかしたちに捜索を頼もうにも、たかだか人間一人の魂を探すために、人間に見つかる危険を冒したくないと断られてしまった」

 結局、神やあやかしたちからの協力は得られなかったので、蓬とハルは人の世に隠れ住むあやかしたちを見つけては地道に聞き込み、自分の足で探し歩いた。人間の振りをして人の世に出て、時にはあやかしと間違われて退魔師や陰陽師たちに祓われそうになったこともあったらしい。

「今の人の世ではあやかしは存在してはならないものとして考えられているのだろう。あやかしを見かけたら問答無用で調伏しようとする退魔師や陰陽師も多く、あやかしたちにとっては肩身が狭いばかりだ。だが、その途中で行き場を失くした切り火たちを拾えた」
「切り火ちゃんたちですか?」
 
 莉亜は知らなかったが、火の神が熾した火から生まれた切り火たちでも火を操る以外の力が無いことから、火の神からは不要物として扱われている悲しい存在らしい。
 他のあやかしたちより力が弱いことからあやかしの世界で共存することも敵わず、また人の世に出て来てもまれに霊感が強い人間に鬼火や狐火として騒がれてしまうそうで、普段はあやかしや人から離れた場所で隠れて暮らしているらしい。それも出来ればいいが、住処を追われて各地を転々としている切り火も少なくないという。蓬が出会ったのは、そんな行き場を失くして各地を彷徨う切り火たちらしい。
「火を操る力しかないとはいっても、切り火たちも神の力を持った神仏だ。俺の元に住まわせる代わりとして、少しだけ神力を分けてもらっていた。コイツらの負担にならない程度の微量な力だけ。それにセイならきっと行く当てのない切り火たちを放っておかないだろう。自分の元に来るように誘ったはずだ。好き放題していた俺を見捨てなかったように。今まではそれでどうにか持ち堪えられた。だがここ数年で神力の回復が遅くなった。切り火たちから分けて貰う力だけでは、この姿と切り火たちが住まうこの建物を維持するので精一杯だ。力が減る一方では、セイを探すどころではない。そこでセイのおむすびを再現して、自力で神力を回復しようと決意したのだ」

 蓬の神力が回復しなくなった理由として考えられるのは、豊穣の神だった蓬を信仰する者がいなくなったことと、現在のセイの祠に神饌が奉納されなくなったことにあるらしい。
 セイの馬車事故後も、セイの一族はしばらく宮司を続けていたが、政府の命令で近隣の神社との神社合祀が行われ、セイたちが住んでいた神社は別の場所に移設された。その後、時代の流れと共に男が戦争に駆り出され、国内外での戦争が激化すると、宮司の跡を継ぐ者がいなくなった。セイの一族はそこで途絶えてしまったらしい。
 セイの一族が絶えた後、政府に派遣された別の宮司が合祀後の神社に勤めるようになったものの、後継者問題が解消されることは一向に無かった。
 移設後も本殿や建物は元の場所に残っていたが、やがて市の政策で区画整理が行われることになった。セイの神社や合祀後の神社も対象地域に入っていることを知ると、これを機に合祀後の神社を含めた近隣全ての神社を廃社とすることに決めたという。
 蓬を祀っていた神社が無くなっても、最後の宮司は蓬を信仰し、毎日神饌を奉納していた。それが数年前から途切れ、蓬に対する信仰も無くなった。この宮司の身に何かが起こったのだろう。高齢の宮司だったので、何が発生したのかは想像に難くない。

「でも蓬さんの力が回復したのって、セイさんが用意したから意味があったんじゃないんですか?」
「それがどうやらそうとも限らないらしい。セイのおにぎりは確かに神力を回復させた。だがそれは必ずしもセイが握ったからという理由ではない」
「どういうことですか?」
「作り方だ。セイが用意するおにぎりには何か特別な仕掛けが施されていたのだ。俺は記憶を頼りにセイの味を再現しようと試みた。そうしたらほんの微かではあるが手ごたえを感じたのだ」

 試しにセイのおにぎりを再現して切り火たちに与えたところ、蓬の神力がわずかに漲るのを感じた。他のあやかしにも実食させてみると、食べた相手だけではなく、蓬の神力まで回復することが判明したという。

「慣れないながらも、セイは俺のためにおむすびを作ることで、凝り固まった俺の心を解きほぐしてくれた。それなら俺にも同じことが出来るはずだ。神としての力がほとんど無い俺でも相手を想いながらおむすびを作ることで、迷う心を救う手助けができるかもしれない。そうしてこの噂を聞き付ければ、いつの日かセイはここに現れる。アイツは義理堅い男だ。『明日も来る』と約束した以上、必ず果たそうとするに違いない。たとえ、どんな姿になっていたとしても……。そう信じて、俺はこのおむすび処を始めたのだ」

 最初こそおむすび処には誰も来なかったが、セイを探す道中で切り火たちのように行き場を失い、身を寄せ合って暮らす弱いあやかしや、誰にも言えない悩みや苦しみを抱えている神の存在を知った。そういった者たちに蓬は自分が握ったおにぎりを分け与え続け、おむすび処を憩いの場として提供することを話した。蓬の言葉に誘われて迷えるあやかしや神々がおにぎり処に集まるようになると、いつしか噂を聞いた他のあやかしや神々も客として訪れるようになった。
 そうして店に訪れた者たちをセイの味を再現した塩おにぎりでもてなしつつ、情報を集め続けた。

「あやかしも神も話題性が好きだ。この店の周りに枯れることのない竹の花を咲かせたのも、店の中を人の世に似せた内装に改装したのも、全ては話題にしてもらうことで、俺の存在をセイに知らせるためだった。新しいもの好きのあやかしたちにこの店の存在を噂してもらえば、いずれセイの耳にも届く。そうしたらアイツはここに来るだろう。そのための道標も用意した。最もアイツは花言葉に詳しいような浪漫のある男ではなかった気もするが」

 その道標というのが、お店の前に点々と咲く青い花忍のことなのだろう。やはりその花言葉が示すとおりに、蓬は人を待っていたのだ。
 離れ離れになってしまった大切な友人の――セイの帰来を。

「それでもセイが現れず、情報も乏しいまま。俺の味覚も失い、消えるのも時間の問題かと諦めかけた時、お前が現れた」
「私……ですか?」

 莉亜が自分を指すと、蓬は真っ直ぐに莉亜の目を見つめると肯定する。
 
「最初こそ、お前がセイの生まれ変わりではないかと疑った。何らかの奇跡が起こり、不完全ながらもセイは輪廻転生の輪に入れたのだと。おむすびを食って涙を溢しただけではなく、お前が持っていた護符からもセイに似た気配を感じたからな」
「あれは、その……恥ずかしいので忘れてください……。でも私がセイさんの生まれ変わりなんですか? 全く自覚ありません」
「いいや。お前はセイの生まれ変わりじゃない。お前自身からセイの気配が一切しないことが判明したからな。これだけ近くで同じ時間を過ごしていれば、さすがにセイの転生体か見極めるくらいはできる。護符から感じた気配もすぐに消えてしまったから、それ以上、お前からセイの痕跡を辿ることも不可能だった。お前とセイに繋がりはない」

 莉亜が持っていた護符――つまり祖父から貰った御守りに、セイの痕跡が残っていたということは、莉亜はどこかでセイと接触していたことになる。一体どこで会っていたのだろうか。全く身に覚えがなかった。
 あの御守りに触れたのも、莉亜と莉亜の祖父ぐらいなもので、ここに来た最初の日にハルが咥えて持ち去るまで、誰かに見せたことも、貸した覚えもなかった。ハルが持ち去った後に門番の牛鬼が拾ったと話していたので、牛鬼が預かっている間に誰か触った者がいたのだろうか……。