「はぁ……」
柄にもなく溜め息を吐いていると、男が本殿に供えた塩おにぎりと竹筒が目に入る。本殿の前に降りて周囲に誰もいないことを確認すると、神は仮の姿である光の球体を大きく膨らませる。白い光と蝶の鱗粉にも似た粒子を煌めかせながら球体を粘土のように縦長に伸ばしていくと、本来の姿である人型に姿を転じたのだった。
(たかが人の子に、ここまで弄されるとは……)
冬の月のように寒々とした雰囲気を纏う若い男性を模した姿になると、腰まで伸びる銀色に輝く長い髪を鬱陶しそうに背中に払う。腕の動きに合わせて、神が身に付ける白い狩衣の袖が空を切ったのだった。
豊かさを司る神らしくもない、白皙の肌と切れ長の黒目、鼻梁の整った顔立ちと月明かりを反射させたような長い銀髪。そしてただ笑っただけでも冷笑主義者として捉えられてしまうこの姿は、神をこの地に祀った最初の宮司が空想した姿だった。
神々の姿形というのは、人の想像に左右される。人と違って神々は見目や美醜を重要視しない。神力の大きさや信仰の篤さに度合いを置いている。そのため、神々の中には人型や獣型といった決まった姿を持たない者さえ存在していた。
神々が人の手によって祀られた際、その当時の人たちが想像した神々の姿を絵に描いて奉納することがある。姿形を持たない神々にとって、人前に降臨する際には依代となる器が必要となるため、人が空想した神々の姿というのは大切になってくる。神々の受け皿となる依代は何でもいいが、時代によっては適した依代が見つからないこともある。そこで手軽に借りられる依代として重宝されるのが、当時の人たちが想像して絵姿に残した神々の姿であった。
神も祀られた当時は決まった姿を持っていなかったため、最初の宮司が想像したこの姿を依代として借り続けていた。最初の宮司は神の絵姿を残さなかったが、文章として空想上の神の姿を記していたのでそれを拝借した。神饌を捧げる清き乙女たちにもこの姿で対面してきたのだった。
今日まで姿を変えていないのは、他に依代となるものが存在しなかったというのもあるが、一番は幾度となく激動の時代を経験してもなお、信心深く神を祀り続ける宮司たちへの密かな感謝の意味もあった。
神は切れ長の目をますます細めると、不快そうに眉を顰める。
「男の握った飯など美味いはずがない」
そうは言いつつも、男の言う通り、手つかずの神饌が本殿から下げられる度に生産から運搬まで携わった人間たちのことを考えてしまい、全く胸が痛まなかったわけではない。清き乙女が供える神饌しか受け取らないと知っていても、今の宮司一族が神饌を供さなかった日は一度もない。その前の宮司一族も。それは数百年前に起こった大災害や大飢饉の際も変わらなかった。
その時も当時の宮司一族は自分たちの食事よりも、神への神饌を優先した。蓄えていたのか知らないが、清水以外の貴重な米や酒、塩をどこからか入手してきては、神を祀る本殿に捧げ続けた。そこには神に早くこの状況を解決してほしいという願いもあったのだろう。それで自分たちが倒れたら、意味がないというのに……。
災害や飢饉も規模が大きくなると、神のような小さな本殿に祀られるような下級の神には手も足も出ない。せいぜい自分が守護する土地に被害が広まらないように守るのが精一杯であった。宮司一族にこのことを伝えたくても、先程の男のように神を視認できる者がいなかったため、もどかしさを抱えたまま、全て収束するのを待つしかなかった。
それで仕方なく、当時の神は神饌を捧げて恐る恐る事態の終息を懇願する祓詞を唱える痩せ細った処女を見つめながら、高みの見物をしていた。
明日の食事に困り、食べる物を血眼で探している民が神饌のことを知ったら、きっと怒り心頭に発するだろうと、そんなことを考えながら――。
(アイツの労に報いて、今回くらいは食ってやるか)
渋々といった体で、神は男が握った塩おにぎりを口に入れる。その瞬間、神の身体から神聖な光が迸り、周囲の空気が変わる。聖なる光を纏った厳かな風が芽生え、本殿を中心としてこの土地を守るように円状に広がって行く。遠くまで澄み渡るような清浄な空気には覚えがあった。神が神力を使って、この土地を加護した時に吹き荒ぶ清風であった。
「まさか……!?」
長らく神饌を受け取らなかったことで力が弱まった神には、ここまでの神力を使うことは出来ない。全盛期でも起こせるか微妙なところだ。
ただの神饌を食べただけで、ここまでの力が発現できるわけがない。あの男が何か仕掛けを施したとしか考えられない。
しかしそうは言っても、塩おにぎりは苦みを含んだ塩と甘みのある新米が使われているだけである。海苔や高菜が巻かれているわけでも、塩おにぎりの中に梅干しや鮭のほぐし身などの具材が入っているわけではない。舌で感じられるのは塩と米の味のみ。それだけなのにこれまで食べた神饌の中で最も美味に思えるのは何故だろう。
「神として長らく神饌を食してきて、一番神力に効いたのは、まさか男の作る握り飯だったとはな」
神は短く鼻で笑う。このままあの男が作る塩おにぎりを食べれば、きっと力を取り戻せるだろう。
これまでの神が抱いてきた男たちに対する主観を変えることになるが。
神は残りの塩おにぎりも食す。しばらく無言で食べていたが、やがてポツリと漏らしたのだった。
「塩辛いな。この塩むすび……」
竹筒を開けると、神酒で口の中を薄めたのだった。
柄にもなく溜め息を吐いていると、男が本殿に供えた塩おにぎりと竹筒が目に入る。本殿の前に降りて周囲に誰もいないことを確認すると、神は仮の姿である光の球体を大きく膨らませる。白い光と蝶の鱗粉にも似た粒子を煌めかせながら球体を粘土のように縦長に伸ばしていくと、本来の姿である人型に姿を転じたのだった。
(たかが人の子に、ここまで弄されるとは……)
冬の月のように寒々とした雰囲気を纏う若い男性を模した姿になると、腰まで伸びる銀色に輝く長い髪を鬱陶しそうに背中に払う。腕の動きに合わせて、神が身に付ける白い狩衣の袖が空を切ったのだった。
豊かさを司る神らしくもない、白皙の肌と切れ長の黒目、鼻梁の整った顔立ちと月明かりを反射させたような長い銀髪。そしてただ笑っただけでも冷笑主義者として捉えられてしまうこの姿は、神をこの地に祀った最初の宮司が空想した姿だった。
神々の姿形というのは、人の想像に左右される。人と違って神々は見目や美醜を重要視しない。神力の大きさや信仰の篤さに度合いを置いている。そのため、神々の中には人型や獣型といった決まった姿を持たない者さえ存在していた。
神々が人の手によって祀られた際、その当時の人たちが想像した神々の姿を絵に描いて奉納することがある。姿形を持たない神々にとって、人前に降臨する際には依代となる器が必要となるため、人が空想した神々の姿というのは大切になってくる。神々の受け皿となる依代は何でもいいが、時代によっては適した依代が見つからないこともある。そこで手軽に借りられる依代として重宝されるのが、当時の人たちが想像して絵姿に残した神々の姿であった。
神も祀られた当時は決まった姿を持っていなかったため、最初の宮司が想像したこの姿を依代として借り続けていた。最初の宮司は神の絵姿を残さなかったが、文章として空想上の神の姿を記していたのでそれを拝借した。神饌を捧げる清き乙女たちにもこの姿で対面してきたのだった。
今日まで姿を変えていないのは、他に依代となるものが存在しなかったというのもあるが、一番は幾度となく激動の時代を経験してもなお、信心深く神を祀り続ける宮司たちへの密かな感謝の意味もあった。
神は切れ長の目をますます細めると、不快そうに眉を顰める。
「男の握った飯など美味いはずがない」
そうは言いつつも、男の言う通り、手つかずの神饌が本殿から下げられる度に生産から運搬まで携わった人間たちのことを考えてしまい、全く胸が痛まなかったわけではない。清き乙女が供える神饌しか受け取らないと知っていても、今の宮司一族が神饌を供さなかった日は一度もない。その前の宮司一族も。それは数百年前に起こった大災害や大飢饉の際も変わらなかった。
その時も当時の宮司一族は自分たちの食事よりも、神への神饌を優先した。蓄えていたのか知らないが、清水以外の貴重な米や酒、塩をどこからか入手してきては、神を祀る本殿に捧げ続けた。そこには神に早くこの状況を解決してほしいという願いもあったのだろう。それで自分たちが倒れたら、意味がないというのに……。
災害や飢饉も規模が大きくなると、神のような小さな本殿に祀られるような下級の神には手も足も出ない。せいぜい自分が守護する土地に被害が広まらないように守るのが精一杯であった。宮司一族にこのことを伝えたくても、先程の男のように神を視認できる者がいなかったため、もどかしさを抱えたまま、全て収束するのを待つしかなかった。
それで仕方なく、当時の神は神饌を捧げて恐る恐る事態の終息を懇願する祓詞を唱える痩せ細った処女を見つめながら、高みの見物をしていた。
明日の食事に困り、食べる物を血眼で探している民が神饌のことを知ったら、きっと怒り心頭に発するだろうと、そんなことを考えながら――。
(アイツの労に報いて、今回くらいは食ってやるか)
渋々といった体で、神は男が握った塩おにぎりを口に入れる。その瞬間、神の身体から神聖な光が迸り、周囲の空気が変わる。聖なる光を纏った厳かな風が芽生え、本殿を中心としてこの土地を守るように円状に広がって行く。遠くまで澄み渡るような清浄な空気には覚えがあった。神が神力を使って、この土地を加護した時に吹き荒ぶ清風であった。
「まさか……!?」
長らく神饌を受け取らなかったことで力が弱まった神には、ここまでの神力を使うことは出来ない。全盛期でも起こせるか微妙なところだ。
ただの神饌を食べただけで、ここまでの力が発現できるわけがない。あの男が何か仕掛けを施したとしか考えられない。
しかしそうは言っても、塩おにぎりは苦みを含んだ塩と甘みのある新米が使われているだけである。海苔や高菜が巻かれているわけでも、塩おにぎりの中に梅干しや鮭のほぐし身などの具材が入っているわけではない。舌で感じられるのは塩と米の味のみ。それだけなのにこれまで食べた神饌の中で最も美味に思えるのは何故だろう。
「神として長らく神饌を食してきて、一番神力に効いたのは、まさか男の作る握り飯だったとはな」
神は短く鼻で笑う。このままあの男が作る塩おにぎりを食べれば、きっと力を取り戻せるだろう。
これまでの神が抱いてきた男たちに対する主観を変えることになるが。
神は残りの塩おにぎりも食す。しばらく無言で食べていたが、やがてポツリと漏らしたのだった。
「塩辛いな。この塩むすび……」
竹筒を開けると、神酒で口の中を薄めたのだった。