「すみません。でも確かめたかったんです。もしかしたら蓬さんは特定の味だけ分からないんじゃないかって。それで試させてもらいました。紅茶とシュークリームに細工をすることで、口に入れた時に気付いてくれるかどうか……」
「それで紅茶を醤油と偽り、シュークリームに味噌を混ぜたわけか」
「それでもこっちは食べる前に気付かれたらどうしようって、心配だったんですよ。渋い紅茶を抽出しようと茶葉を多めに使ったら、あまり香りがしない茶葉なのに、予想外に強くなってしまって……。もしかしたら飲む前に匂いで気付かれてしまうかもって。そうしたらシュークリームも怪しまれて食べてもらえないから、何か手を打たなきゃって……」
既に紅茶を飲ませた時に醤油と嘘をついて騙しているので、きっと蓬はシュークリームを怪しんで、食べずに二つに割いてしてしまうかもしれない。実際に蓬はシュークリームを訝しんで、なかなか食べようとしなかった。いつシュークリームの裏から注入した青唐辛子の味噌に気付かれてしまうか、内心では冷や汗が流れそうであった。
そこで莉亜が何も仕込んでいない自分の分のシュークリームを食べてみせることで、このシュークリームには何にも細工をしていないと蓬に思わせて油断を誘った。蓬は莉亜の思惑通りにシュークリームを食べて、そして何ともないような顔をしていた。
その瞬間、莉亜の予想は的中したと同時に落胆もした。――もしかすると、心のどこかでは信じたくなかったのかもしれない。
「……いつから気付いていた?」
「最初は金魚さんから貰った青唐辛子を味見している姿を見た時でした。でもその時は辛い食べ物が平気なだけだと思っていました。確信に変わったのは、さっきの味噌汁の騒動の時です。みんなが甘い味噌汁だと騒いでいるのに、蓬さんだけ何も感じていなさそうだったので……」
味覚の基本味は全部で五種類。甘味、酸味、塩味、苦味、旨味とされている。痛覚で感じる辛味、触覚の一種とされている渋味など、舌で感じない味は含まれない。
この内、味噌汁に間違えて使われた砂糖の甘味、金魚の主人用に用意した塩分控えめのご飯の味見を莉亜にさせたことから塩味が機能していないのは分かった。
残る味覚の内、わざと濃い目に淹れた紅茶の苦味、紅茶に淹れたレモンの酸味も感じていないことも判明した。そして紅茶を醤油と偽った時に区別がつかなかったところから、おそらく出汁から抽出される旨味も知覚していないのだろう。
ついでに青唐辛子の味噌が分からなかったことから辛味も。
蓬の味覚は全く機能しておらず、何も味を感じられていないことが、これで明瞭になったのだった。
「そうだな。あの時は俺も返答に窮して、何を言えばいいか迷った。味が分からなかったから、肯定も否定も出来ずにいた。……お前が代わりに味を教えてくれて、本当に助かった」
「いつから味を感じられなくなったんですか?」
「お前がこの店に通い始めた頃だ。それまでは、まだかろうじて感じられる味があったのだがな。今では何も感じられない……。水のような、無味の固形物を食っているような気分だ」
「それなのにお店を続けていたんですか……。休まないでずっと……」
「俺にはずっと待っている奴がいる。ソイツに借りたままのものがある。それを返すまで、俺はこの店を続けなければならない」
初めてここに来た時も、蓬は誰かを待っているような話をしていた。それは道標のように植えられた外の花忍も現している。
大切な人が迷わずここに来るのを、蓬はずっと待っているのだと。
「もし待っている人がいたとしても、それで蓬さんが苦しんだら意味は無いと思います」
「これも俺の運命だ。罪を犯した俺に課せられた神罰なのだろう。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」
罪と贖罪の二文字が面倒見の良い蓬と結びつかず、頭に入ってこない。声も掠れてすぐには出てこず、紅茶で口の中を濡らすことで、ようやく言葉に出来たのだった。
「何か罪を犯してしまったんですか?」
「神といえども、常に正しいとは限らない。時には判断を誤り、罪過を犯すこともある。個の感情から取り返しのつかないことをして、大切な友を永遠に失うことも……」
「友……」
「少し長い話になるが、聞いてくれるか? 神として風前の灯火である俺の代わりに覚えていて欲しい。かつてこの地に祀られていた豊穣の神が友と認めた唯一の人間のことを」
そうして蓬は滔々と話し始める。
人と神の出会いと別れの物語を――。
莉亜が生きる時代から遥かな昔。外つ国から押し寄せた近代化の波が入り乱れ、文明開化の風が吹き始めた時世。
神域に繋がる公園はまだ存在せず、代わりに古の時代よりこの地を見守り続けてきた神社が建っていた。
祀られている神はこの地の五穀豊穣や商売繁盛を司る豊穣の神。毎年春の祈年祭と秋の新嘗祭には祈りと感謝を捧げに多くの地域住民が参拝に訪れるという、地元民から愛される神であった。そんな住民の祈願に答えるように、豊穣の神はその土地の農作物に実りを与え、旅人や商売人が自然と立ち寄るような賑わいを栄えさせた。
そんな神には一つだけ問題があった。それは清き乙女が捧げる四つの供物――神酒、米、水、塩しか受け取らないというものであった。
地元で醸造された清酒とその年に収穫された新米、神社の神域に湧く清き湧き水、そして不浄を滅するとされている新鮮な塩。
この四種類を、神社を管理する宮司の一族が毎日奉納することになっていたが、この豊穣の神は未婚の乙女が差し出す神饌しか断固として受け取らないと言われていた。そして豊穣の神が神饌を受け取らない限り、この地を守護する神の神力は衰退し続けて、やがてこの土地から神の加護は消滅するとも――。
神の加護が散じた土地では、疫病や災害が発生する。川は濁って植物は育たず、人や動物たちは病苦にもがき、やがてこの地を離れる。人や動物がいなくなった地には誰も住まなくなると言われていたのだった。
この地に生きる人たちのため、豊穣の神を祀る神社と豊穣の神の座す本殿が建立された時から、豊穣の神に神饌を捧げる役目は、宮司一族の清き乙女が担い続けていた。
本来であれば神として人々に祀られている以上、神はその土地を守護し、人々が豊かに安全な生活を送れるようにしなければならない。
それをこの地を加護する豊穣の神は長らく放置していた。清き乙女が神饌を捧げないからという身勝手な理由だけで――。
この時も豊穣の神は年季の入った木造の本殿に供物を持ち込む者を木の上から眺めていた。
永遠に近い時間を生きる神と、限られた一瞬しか生きられない人では生きている時間が違う。神にとっての清き乙女というのは、流れ星のように瞬きする間に次々と変わる存在であった。
それが数十年前からは清き乙女ではなく、むさ苦しい男たちが供物を寄進するようになった。当然、神はそんな汚らわしい男たちからの供物を黙殺し続けた。
例え、その年の農作物が凶作で商売が傾き、本殿に向かって地元の有力者たちが坐して、祝詞を唱えられたとしても。
処女が神饌を奉納しない限り、この地の豊穣を司る神は一切応えないつもりであった。
あの日、声を掛けられるまでは――。
「そこに居るのだろう? 出てきたらどうだ」
その男は神が隠れていた木を真っ直ぐに見上げたかと思うと、よく通る澄んだ低い声音を尖らせながら話し掛けてきた。
年の頃は二十代の長身の男であり、黒い学生服と学校の校章と思しき模様が帽章に刻印された座布団型の学生帽を被った書生であった。
その男には見覚えがあった。数年前から老いた父親の跡を継いで、神に奉納する役割を担うようになった宮司の一族であった。あの頃はまだ青二才の坊主頭だったが、神が等閑している間に成長したらしい。毎朝の鍛錬の賜物なのか、初めて本殿に来た時のひよっこは鳴りを潜め、鍛えられた体躯をしていた。
神を祀る神社に暮らす宮司一族の男は、家訓なのか必ず武術を修練することになっているようで、基本的に男は皆軍人顔負けに体格が良い。
彼らは毎日陽が昇る前から習練を始めるようで、早朝の厳かな空気を切り裂くような練磨の声が本殿まで響き渡っていた。神は鬱陶しい気持ちで、長年習練の様子を見てきたが、その中でも特にこの男は宮司である父親が最も手塩にかけて武術を教え込んでいたように思う。
兄弟の中でも特に脆弱で、幼少期は虚弱体質だったというのもあるだろう。物心がつくまでは連日のように体調を崩して、布団で伏せっているところを見かけていた。それもあって父親も厳しく稽古をつけたに違いない。その結果、体力がついたのか、小学校に入る頃には風邪一つ引かない健康優良児になった。その後も鍛錬を続け、細身の身体つきながらも、現在の屈強な男に成長したのだろう。
衣服で着痩せするのか、体格からの威圧感はない。引き締まった身体に加えて、凛々しい顔つきの中に未だ少年のような愛嬌があるからか、美丈夫の部類に入るかもしれない。
そのため、こうして睨まれても凄みは感じられず、ただ神を認識できる純粋無垢な幼子に見つめられているようなこそばゆい気持ちにさせられただけであった。
「聞こえていないのか。いつもそこから様子を伺っているのは知っているのだぞ。無視をするなら、おれがそっちに行く」
男は靴を脱いで裸足になると、帽子と共に放り投げる。助走を付けて幹を踏み台にすると、一番下の太い枝を掴んだのだった。そのまま弾みをつけて枝に乗ると、更に上の枝に手を掛ける。その間も枝葉は大きくしなり、数枚の葉が地面に落ちていた。枝が軋む嫌な音が聞こえてくるが、男は全く気付いていないようだった。神は呆れると、木から降りて宙を飛ぶ。神力の消耗を節約して、白く光る球体姿となっていた神には造作もないことであった。音もなく地面に降りると、木の上で悪戦苦闘していた男に声を掛ける。
「こっちだ。宮司の嗣子」
「……っ!?」
男が木から飛び降りた瞬間、支え切れなくなったのか、一番下の枝が根元から折れてしまう。鈍い音を立てて地面に倒れると、辺りに砂埃を撒き散らす。枝の下敷きになるのを回避した男は舞い散る粉塵に咳き込んでいる間、枝が落下した衝撃で、近くの木々に留まっていた鳥たちが一斉に羽ばたいたのだった。
「危ないところだった。お前が教えてくれたのか」
「教えたつもりはない。用が終わったのなら、疾く去ね」
「待て。おれはお前と話がしたいのだ」
「男と交わす言葉は無い」
「釣れないことを言うな。この地を守護してきたお前は知っているだろう。おれの曽祖父の代から宮司の家系には男しか生まれていない。お前が清浄な婦女子が供えた神饌しか受け取らないことを知っている。だがこの状態が続けば、この地の護りはおろか、お前自身も力を失って消滅してしまうのではないか。今も只人には見えない霊のような存在となっているのだろう」
男の言う通り、長らく神饌を受け取って来なかったことで、神が持つ力――神力は徐々に衰えつつあった。今はまだ宮司一族や地元民からの信仰で、どうにか神としての姿を保っていられるが、それも長くは持たない。このまま神饌を受け取らなければ、いずれは跡形もなく消えてしまうだろう。
神が起こす数々の奇跡の本源である神力の源は、人間からの信仰と毎日供される神饌とされている。
人間に忘れられて信仰を失い、それに伴い供物が饗されなくなった神は、次第に神力が衰えていく。水が入った袋に小さな穴が開けられた時のように、少しずつ身体から神力が流れ出て行き、最後は心身共に霧散する。
人が変わり、時代が移ろえば、人と神の関係も変わる。長らく周辺との交流を閉ざしていたこの国が、艦船の来航によって門戸を開いた時のように。いずれの日にか諸外国の文化や見識がこの国に深く浸透した暁には神代から続く神と人の関係性は見直され、やがて両者は希薄になるだろう。神々に対する人の信仰は減っていき、何百年後には神の存在共々塵芥となって世界から忘失する。
この地を護る神にとっての潮時が今だった。ただそれだけのことである。
「キサマには見えるのだな。この姿が」
「お前が思っているのとは違うかもしれないが。おれには蛍のように見えている。夜半、近くにいてくれたら丁度良さそうな光明だ」
「神を何だと思っている。それでも宮司の倅か」
「宮司の倅だからこそ、お前のことは一番分かっているつもりだ。暇そうに拝殿を覗きに来ていることも、伏せっていた幼きおれの見舞いに来てくれていたのもな」
「見舞いではない。キサマが寝込む度に親兄弟がここに快癒の頼みに来るから、気になって様子を見に行っていただけだ。今回はそこまで深刻なのかと」
この男が幼い頃、病に倒れる度に宮司である男の両親や男の兄たちが交互に本殿を訪れては、快復を神頼みしてきた。豊穣の神には病気快癒の力を持っていないので、そのような願い事をされても困惑するだけなのだが、毎度深刻そうな姿が気掛かりだったこともあり、男が眠る部屋に様子を見に行っていた。
世代を重ねる事に宮司や神主であっても、神やあやかしの存在を視認できる者が減っていた。この男もそうなのだろうと思っていたが、どうやら違ったらしい。神の姿を見たという者は数百年ぶりだったからか、あまり悪い気はしなかった。
「だが、お前のおかげでおれはこうして立派に成長できたのだ。病で伏せるおれの周囲を飛んでいただろう。蛍か不知火のように。この家に生まれていなかったら、とうとうその時が来たのだと勘違いするところだったぞ」
「失礼なことを言うな。様子を見に行っただけで何もしていない。快癒したのはキサマ自身の力だ」
「それでも病の苦しみと戦うおれにとっては一筋の光も同然だった。そんなお前に恩を返したいと思ったからこそ、神饌を捧げる役目を兄上たちから譲り受けたのだ。それなのにお前は頑なに婦女子が捧げた神饌でなければ受け取らぬという。男が捧げる神饌の何が気に入らないのだ」
「答える義理はない」
「おれはお前が心配なのだ。もしお前の力が弱まった原因がおれにあったとしたら、千古よりこの地で宮司を務めてきた先祖たちに顔向けが出来ない。この地で生きる者たちにも……。ここ数年不作が続き、商売も上手くいかぬ。この状態が続けば、いずれ人が離れ、誰も住む者がいない荒野となってしまう。そうなってからでは遅い。お前には力を取り戻して欲しい。かつての実りと豊かさを取り戻してくれないか。そのためなら、おれに出来ることは何でもしよう」
「何度も言わせるつもりか。キサマは何も関係ない。男が捧げる神饌を受け取らないのは美味くないからだ。食には質や見栄え以外に作り手も関係する。清らかな処女が手ずから用意したものなら味も信用に値するが、汚らしい男どもが用意したものなど、どんな味がするのか食えたものではない」
「衛生を心配しているのか。それなら神饌を用意する前には、必ず神社の神域から湧き出る清水で身体を清めている。我が家に代々伝わる古文書の内容に従っているぞ」
「不衛生という意味ではない。いや、それも大事だがそうではない! 邪心の権化とも言える飢えた獣以下の男に処女が用意する神饌以上の美味いものは用意できないと言っている」
「つまり、おれがこれまでお前に仕えてきた婦女子より美味なるものを用意できればいいのだな」
「そういう意味ではない!」
「お前は最初に言ったな。食には質や見栄え以外にも作り手が関係すると。婦女子が調理したから美味、男が調理したから不味とは限らない。これからの時代、そういった先入観は改めるべきだ。おれがそれを変えてやる」
男はそう宣言すると、靴を履いて帽子を被る。決意したかのように足早に去って行く男の背を見ながら神は独り言ちたのだった。
「何をしても無駄だ。考えが変わるわけがない。どうせアイツもすぐに諦めるだろう」
そんな神の目論みこそすぐに外れることになる。それは翌日の出来事であった。
「おい。今日もそこにいるのだろう」
木の上にいた神はそんな男の呼び掛けで下を覗き込む。昨日の男が竹包と竹筒を手に立っていたのであった。
「神饌を持って来なかったということは諦めたということか」
「これが神饌だ。食してみろ」
男は本殿の前に竹包を供えると竹包みを綴じる竹紐を解く。竹包の中からは塩で握ったと思しき三角形のおにぎりが二個現れた。
「これは?」
「見ての通り、おれの手作りむすびだ。神饌に使っている米、清水、塩で握っている。神酒はこの竹筒の中だ」
そうして男は腰にぶら下げていた巾着から布包みを取り出したかと思うと、塩らしき白く細かい結晶状のものをおにぎりに振りかける。仕上げのつもりなのだろう。男の手から降り注ぐ塩の雨が陽光を反射して光り輝いていた。
「握り飯なのは赤子でも分かる。だが何故握り飯なのだ。いつもの神饌はどうした」
「昨日言った通りだ。あの後帰宅して古文書を読み直したが、神饌については必ずしも生饌でなければならないという記述は無かった。父上に聞いても同じ答えだ。それなら熟饌でもいいかと思ってな。いつも供している神饌を使って塩むすびを作ってみた。長い間同じものを渡されたら、さすがに神でも飽きるだろう」
神によっては神饌には素材をそのまま出す生饌に加えて、調理をした熟饌を好むものもいる。この地の神に関しては清酒、新米、清水、塩の四種類が揃っているのなら神饌にこだわりは無かった。それを捧げるのが清き乙女であれば。
「母上に作り方を教わったから味は確かだ。味見をしに来た父上や兄上たちにも概ね好評だったからな」
「身内の評価が入っている時点で当てに出来そうにないが……」
「文句は実食してから言え」
「この姿で食えると思っているのか?」
男の期待するような眼差しから逃れようと、神は適当な理由をでっち上げる。いつも神饌を食す時は人型である神の姿を取る。その方がじっくり神饌を味わえるからだ。だがどうしても自分の神としての姿をむさ苦しい男どもに見せたくなかった。
神饌と同じで相手が清き乙女なら躊躇うことはなかっただろう。汚らしい男どものために、わざわざ神力を消耗してまで姿を現すのが億劫だった。
「まあいい。そこに置いていけ。後で食す」
「これまでの神饌のように、明くる日も手付かずで残っているというのは無しだからな。神だからと言って神饌を粗末に扱っていいわけがない。清水はいいかもしれないが、米を作る農家、酒を醸造する杜氏、そして塩を製造する塩職人の苦労を蔑ろにするのは良くないと常々思っていたのだ」
「神に説教をするつもりか。それならその握り飯はキサマが持ち帰って食すがいい」
「これはお前の神饌だ。おれが食らうわけにはいかない。それにおれはお前が神だから説教をしているわけではない」
「神じゃないなら何だというのだ」
「友だ。太古の昔、神々と人間は深い信頼関係で結ばれていたと聞いている。信頼関係というのは友情も同然。おれはお前に仕えると同時に、お前を理解する最も近い友でありたいと思っている」
男があっけらかんと述べた言葉に神は魂消てしまう。
神に向かって、この男は友情を育みたいと言った。神と人の関係性が希薄になっているこの文明開化の世に。
この男は余程のおめでたい頭をしているのか、それとも怖いもの知らずと言える。
「神を友として対等な関係を築きたいというのか。あまりに馬鹿げている。キサマは宮司の嗣子でありながら、神を敬うということを知らないようだ」
「お前が敬われたいのならそうしてやる。これまでお前に仕えてきた女人たちと同じように。地に這いつくばって、額を擦りつけよう。それでお前の気が済むのなら、おれに出来ることなら何でもする。だが、お前はそれで本当に満足なのか」
「なんだと……」
「神々の間での関係性がどうなっているのかは知らないが、敬うというのは一種の主従関係だ。おれには学友や同胞といった対等で結ばれた横の繋がりがある。だが、お前には胸襟を開ける友や、全てをさらけ出してもいいと思える相手はいるのか? 心を許し、本音を語れる者はいるのか? お前が頑なに清き女人の神饌しか受け取らないのも、そこに理由があるのでないか。誰かに自分の心に深く踏み込んで触れてほしいという真の想いが……」
「詮索は不要だ! 天罰が下る前に早く消えるがいい!」
神の怒声に虚を突かれたのか、男はたじろぐと喉元に触れる。表情を見られたくないのか、顔を隠すように学生帽を被り直したのだった。
「……また来る」
男は去って行くが、その背はいつもと違って意気消沈しているようだった。無理もない。神がにべもなく男が差し出した手を払いのけたのだから。
咄嗟とはいえ、図星を隠すにはこの方法しか思いつかなかった。今更やり過ぎたと後悔しても遅い。
「はぁ……」
柄にもなく溜め息を吐いていると、男が本殿に供えた塩おにぎりと竹筒が目に入る。本殿の前に降りて周囲に誰もいないことを確認すると、神は仮の姿である光の球体を大きく膨らませる。白い光と蝶の鱗粉にも似た粒子を煌めかせながら球体を粘土のように縦長に伸ばしていくと、本来の姿である人型に姿を転じたのだった。
(たかが人の子に、ここまで弄されるとは……)
冬の月のように寒々とした雰囲気を纏う若い男性を模した姿になると、腰まで伸びる銀色に輝く長い髪を鬱陶しそうに背中に払う。腕の動きに合わせて、神が身に付ける白い狩衣の袖が空を切ったのだった。
豊かさを司る神らしくもない、白皙の肌と切れ長の黒目、鼻梁の整った顔立ちと月明かりを反射させたような長い銀髪。そしてただ笑っただけでも冷笑主義者として捉えられてしまうこの姿は、神をこの地に祀った最初の宮司が空想した姿だった。
神々の姿形というのは、人の想像に左右される。人と違って神々は見目や美醜を重要視しない。神力の大きさや信仰の篤さに度合いを置いている。そのため、神々の中には人型や獣型といった決まった姿を持たない者さえ存在していた。
神々が人の手によって祀られた際、その当時の人たちが想像した神々の姿を絵に描いて奉納することがある。姿形を持たない神々にとって、人前に降臨する際には依代となる器が必要となるため、人が空想した神々の姿というのは大切になってくる。神々の受け皿となる依代は何でもいいが、時代によっては適した依代が見つからないこともある。そこで手軽に借りられる依代として重宝されるのが、当時の人たちが想像して絵姿に残した神々の姿であった。
神も祀られた当時は決まった姿を持っていなかったため、最初の宮司が想像したこの姿を依代として借り続けていた。最初の宮司は神の絵姿を残さなかったが、文章として空想上の神の姿を記していたのでそれを拝借した。神饌を捧げる清き乙女たちにもこの姿で対面してきたのだった。
今日まで姿を変えていないのは、他に依代となるものが存在しなかったというのもあるが、一番は幾度となく激動の時代を経験してもなお、信心深く神を祀り続ける宮司たちへの密かな感謝の意味もあった。
神は切れ長の目をますます細めると、不快そうに眉を顰める。
「男の握った飯など美味いはずがない」
そうは言いつつも、男の言う通り、手つかずの神饌が本殿から下げられる度に生産から運搬まで携わった人間たちのことを考えてしまい、全く胸が痛まなかったわけではない。清き乙女が供える神饌しか受け取らないと知っていても、今の宮司一族が神饌を供さなかった日は一度もない。その前の宮司一族も。それは数百年前に起こった大災害や大飢饉の際も変わらなかった。
その時も当時の宮司一族は自分たちの食事よりも、神への神饌を優先した。蓄えていたのか知らないが、清水以外の貴重な米や酒、塩をどこからか入手してきては、神を祀る本殿に捧げ続けた。そこには神に早くこの状況を解決してほしいという願いもあったのだろう。それで自分たちが倒れたら、意味がないというのに……。
災害や飢饉も規模が大きくなると、神のような小さな本殿に祀られるような下級の神には手も足も出ない。せいぜい自分が守護する土地に被害が広まらないように守るのが精一杯であった。宮司一族にこのことを伝えたくても、先程の男のように神を視認できる者がいなかったため、もどかしさを抱えたまま、全て収束するのを待つしかなかった。
それで仕方なく、当時の神は神饌を捧げて恐る恐る事態の終息を懇願する祓詞を唱える痩せ細った処女を見つめながら、高みの見物をしていた。
明日の食事に困り、食べる物を血眼で探している民が神饌のことを知ったら、きっと怒り心頭に発するだろうと、そんなことを考えながら――。
(アイツの労に報いて、今回くらいは食ってやるか)
渋々といった体で、神は男が握った塩おにぎりを口に入れる。その瞬間、神の身体から神聖な光が迸り、周囲の空気が変わる。聖なる光を纏った厳かな風が芽生え、本殿を中心としてこの土地を守るように円状に広がって行く。遠くまで澄み渡るような清浄な空気には覚えがあった。神が神力を使って、この土地を加護した時に吹き荒ぶ清風であった。
「まさか……!?」
長らく神饌を受け取らなかったことで力が弱まった神には、ここまでの神力を使うことは出来ない。全盛期でも起こせるか微妙なところだ。
ただの神饌を食べただけで、ここまでの力が発現できるわけがない。あの男が何か仕掛けを施したとしか考えられない。
しかしそうは言っても、塩おにぎりは苦みを含んだ塩と甘みのある新米が使われているだけである。海苔や高菜が巻かれているわけでも、塩おにぎりの中に梅干しや鮭のほぐし身などの具材が入っているわけではない。舌で感じられるのは塩と米の味のみ。それだけなのにこれまで食べた神饌の中で最も美味に思えるのは何故だろう。
「神として長らく神饌を食してきて、一番神力に効いたのは、まさか男の作る握り飯だったとはな」
神は短く鼻で笑う。このままあの男が作る塩おにぎりを食べれば、きっと力を取り戻せるだろう。
これまでの神が抱いてきた男たちに対する主観を変えることになるが。
神は残りの塩おにぎりも食す。しばらく無言で食べていたが、やがてポツリと漏らしたのだった。
「塩辛いな。この塩むすび……」
竹筒を開けると、神酒で口の中を薄めたのだった。
次の日、まだ昼つ方というにも関わらず、あの男は昨日と同じように竹包と竹筒を携えて現れた。昨日のこともあって、顔を合わせづらいこともあり、今日こそ黙殺しようと決めたその矢先の出来事だった。本殿に竹包と竹筒を供えていた男が発した高ぶるような大声に神は危うく木から落ちそうになったのだった。
「お~い! そこにいるのだろう、神。お前食ってくれたのだな! おれが作った塩むすびを! やはりおれの言った通り、美味かっただろう! なぁ?」
「……相変わらず煩い嗣子だ。神を祀る神域では静寂を保つように教わらなかったのか?」
渋々といった体で神は隠れていた木から降りる。男は小言にも全く動じる様子もなく、ただ高らかに笑っただけであった。
「神への参拝方法なら童の頃から父上に口がうるさいくらいに言われている。が、おれとお前は知らぬ仲ではない。親しき仲にも礼儀あり、とも言うが、親しいなら多少の無礼講も見逃すのが、知友というものだろう」
「一度も友と思った覚えはない」
「それで、おれが握った塩むすびはどうだった? 美味かっただろう。余った分を今日の昼餉として家族で食してきたが、母上は涙を溢されていたからな。『神饌のためとはいえ、こんなに米と塩を使ってしまって……』と。父上も頷いておられたぞ」
母親の言葉は感動というより、嘆きのような気がするが、その意味に気付いているのだろうか。自分の意固地が原因とはいえ、宮司一族の家計はとんでもないことになっているのではないかと不安が募る。近い将来、宮司一族によって、この地から追い出されるのではないかと。
「我は食っていない。獣が食ったのだろう」
男の言葉を認めるのも癪に障るので、神は嘘をついて隠してしまう。男は「そうか……」と肩を落としたかと思うと、本殿の前に座り込んだのだった。
「盗られてしまったのなら仕方ない。それなら今日はお前が食べるまでここにいるぞ」
「なっ、何を言い出す!? キサマは書生だろう。書生なら書生らしく、こんなところで油を売っていないで勉学に励んでくるがいいっ……!」
「今日の授業は昼前で終わりだ。この後は空いている、というより空けてきた。お前とはじっくり膝を突き合わせて話しがしたいと思ってな」
「キサマと話すことなど無い」
「それでもいい。話したくなったら話せ。それまでおれはここにいる。何だったら、ここで夜を明かしてもいい」
「好きにしろ」
この時、男はすぐに諦めて帰るだろうと神は高を括っていた。男が帰ってからゆっくり塩おにぎりを食せばいいとも。
しかしそれから数刻経っても、男は本殿の前から動く気配はなかった。本殿の前に胡坐を掻いて両腕を胸の前で組み、目を瞑っていた。瞑想しているようにも、寝ているようにも見える男が気になり出し、神は音もなく男に近づいて行く。すると、急に男は目を開けたかと思うと、言葉を発したのであった。
「何故塩むすびを食わない」
「昨日も言ったが、この姿では食えない。物を食すには口がなければならないが、この姿以外になれない」
「これまでの神饌はどう食していたのだ。ずっとその姿だったわけではあるまい。古文書にお前の姿絵が描かれていたが、しっかり人の形をしていた。その姿で食してきたのではないか」
確かに、宮司一族に伝わる古文書には神の本来の姿である現人神の姿――あの冷笑主義者のような姿、が描かれている。
何百年も前に神に仕えていた清き乙女の口述から、当時の宮司が絵にしたためたものとされており、遠い昔に神もその古文書を見たことがあった。実際の現人神の姿とは細部が違うものの、ほとんど同一と言える絵であろう。
男は古文書を通して神の本当の姿を知っているようだが、現人神の姿を直接この男に見せるのにはまだ抵抗があった。
「それも神と人が密接な関係だった往時の話だ。人の信仰が減りつつある昨今、神の姿はおろか、神の名すら覚えていない」
これも嘘であった。今はまだ神としての名も姿も覚えているが、信仰が減って神饌が奉納されなくなった時、神力が減少して、いずれ神としての姿だけではなく、神としての名も消える。文字通り、世界から消滅するだろう。
口伝えや祝詞などを通して、誰かが神の神としての名前を憶えていてくれるのなら、かろうじて神力を持たない只人のような神のなりそこないとして、この世界に存在を保っていられる。
だがいずれ神としての名を忘れ、存在すらも人間たちから忘れられた時、存在証明を失った神は塵のように世界から消える。これまで信仰を失って、霞のように時代の中に散っていった、八百万の神々と同じように――。
「神も大変なのだな。それならおれがお前の名前を調べてやる。まだ読んでいない古文書が蔵にはたんまりとある。その中に書かれて……」
「無駄だ。神の神名を書物に記すことは神代から不敬とされている。口述や祝詞で伝わっていない限り、誰も知らない」
「でも、お前がここにいるということは、誰かが神名を覚えているということだろう。父上か氏子だろうか……」
「口伝えならどこかで途絶えてもおかしくない。全ての人間から忘れ去られた時、地上から消えるのは神も同じ。それが自然の摂理だ。仕方あるまい。分かったのなら、早く帰って誰かに尋ねるがいい……」
神は自分の神名を調べさせるのを口実として、男を帰らせようとした。少なくとも、明日までは戻って来ないだろう。誰かに聞くにしろ、古文書を調べるしろ、相当な時間が掛かるはずだ。男の父親である今の宮司でさえ、おそらく神の神名を知らない。神が唯一神名を教えた初代の宮司一族は、遥かな昔に途絶えてしまったのだから。
この男は知らないかもしれないが、この神社を建立した初代の宮司一族は、数百年前に発生した大飢饉の際に極度の栄養失調とこの地に蔓延した疫病が原因で、一人残らず全滅している。
最初はひどく痩せ細った宮司の娘が祓詞と共に恐る恐る神饌を持って来ていたが、途中から見知らぬ処女が神饌を持ってくるようになった。宮司の娘に何か異常があったのだと思っていたが、どうやらその間に宮司一族の者が全員倒れたらしい。その後は何人もの処女が代わる代わる神饌を奉納するようになり、しばらくして今の宮司一族が仕えるようになった。
今の宮司一族は満足に引継ぎもされないまま、初代宮司一族の跡を任されたのだろう。ここ数代は落ち着いているが、最初は目も当てられない様子だった。それでもどうにか元に近い形にまで整えてくれたことに、神は密かに感謝している。
ただ途中から急に後を任された様子なので、神の神名までは引き継がれなかっただろう。初代宮司一族が何らかの形で残していない限りは――。
神の神名を見つけられなかったとしても、探そうとした労に報いて、神名を教えてやってもいいかもしれない。長きに渡り豊穣の神に仕え続ける宮司の一族に、改めて神名を教える気まぐれを起こすのもたまにはいいだろう。
そんなことを鼻高々に考えていると、男は憐れむように眉を歪ませたのだった。
「自分の真名を忘れて、人の姿にもなれないというのは神も難儀なことだな。だが、そういうことなら話は早い」
「おれの名前と姿を貸してやる。丁度、おれの名前には漢字が二文字使われているからな。その内の一文字を貸してやろう。おれの姿も一緒に」
「ばっ、馬鹿なことを言うなっ!! キサマ、言っている意味が分かっているのかっ!? 神に名と姿を貸すなど、キサマを使役しろと言っているのも同然だぞ!?」
名前というのは最も身近にある呪術だと言われている。その名前が縛るのはその者の身体だと。
そのため、神に真名を教えた人間は神に身体を操られ、支配下に置かれると言われていた。神に名前と身体を貸すという行為は、自らの命を差し出すことと何も変わりない。自由を奪われ、神が解放するまで隷属することになる。それは神話の時代から有名な話であった。
この話を知っているからこそ、これまで神は神饌を持って来ていた清き乙女たちの名前を誰一人知らなかった。神から問うことも、乙女たちから名乗ることもなかった。真名を知って、支配下に置いてしまわないように、または支配されないように。お互いに一定の距離を保っていた。
全盛期以下の力しか持たない今の神にそこまでの拘束力は無いが、宮司の息子なら当然知っている話であろう。
「それくらい知っている。それでも目の前で困っている者を放っておけない。その者が、友になりたいと思う相手なら尚のこと」
「友など不要だ。我はこれからも一人で生きていく。キサマの手を借りるつもりはないっ!」
「おれの手も借りずにどうやって生きていくつもりだ。神饌を拒み続けたことで神名と姿を忘れた上に、神饌まで動物に盗られた間の抜けた神よ」
「忘れたわけでも、盗られたわけでもないっ! キサマは神の話というものを……!」
「神が人より後ろという訳にもいかないからな……。よし、お前には蓬晴の蓬の字を貸してやる。そうだな……ホウというのは呼びづらいから、ヨモギとでも名乗るがいい。おれは後ろの晴の字からセイを名乗る。これからはそう名乗ってくれて構わないぞ、蓬」
「誰が名乗ってやるものかっ……!」
その時、神の身体に変化が生じた。光の球は縦に伸びて、手足が形作られていく。顔に目や鼻ができ、頭からは黒い髪が伸びる。
そうして光が霧散した時、神は黒い学生服を纏った若い男の姿になっていた。それは目の前で「これはしたり……」と一驚を喫した顔で呟いていた男――セイと瓜二つの姿であった。
「他人から見たおれというのは、こんな姿をしているのか……。興味深い」
「感心している場合かっ! キサマが名を与えて、我を縛ったからこうなったのだ! 今すぐ名も姿も返してやる。早く受け取るがいい!」
神が神名以外の名を与えられた時、それは名を与えた者か、名を与えられた地に束縛されることを意味する。その名前で呼ばれ続ける限り、神は名を与えられた者に従属しなければならない。力が強い神ならそう簡単に使役されないが、この地に祀られている神は長らく神饌を受け取らなかったことで力が弱まっていた。相手が赤子でも簡単に使役されていたかもしれない。
同様に神が生き物に名前を与えた時、神の遣いである神使として使役できる。唯一の例外は生まれた時に親兄弟などから名を付けられる人間だが、これも人間の真名を知った上で、神が他の名を与えてしまえば神使にすることは可能であった。
「そうは言っても、名も姿も忘れて神饌を食せないのだろう。力を取り戻して名と姿を思い出すまで使うといい。お前のことは従僕ではなく友と呼ぼう」
「当たり前だ! 人に支配される豊穣の神があってたまるものか! 神として一生の不覚だ!」
「高い地位につく神というのも大変だな。矜持が許さないのか」
「違うと言っているだろう! 馬鹿者が!!」
こうして話す声までセイに似ている。身長や体重、肩幅や洋服の大きさ、髪の長さから手足の指、爪や睫毛の長さまで。現人神としての自分の姿が分からなくなってしまうまでに、すっかりセイに染まってしまっている。その内、考え方や話し方までセイと同じになってしまいそうだ。
「その姿なら神饌を食せるだろう。時間は経ってしまったが、早く食うといい。友の蓬」
「……っ! 絶対に名と姿を返してやるからなっ!」
怒りで頬を朱に染めながら、神は本殿の前に供えられていた塩おにぎりを手に取る。セイが期待する眼差しを向けてくる中、大口を開けると齧り付いたのだった。
「どうだ? おれが握った塩むすびは?」
「……硬くて食べづらい。それから塩辛い」
神の姿で食した時より塩辛さと苦みを強く感じられるのは、人間であるセイを模したことで五感がより人間に近くなったからか。塩辛い口の中を清めようと、神酒が入っている竹筒を飲んだ時、何故か味噌の味がしたので反射的に吹き出してしまったのだった。
「なんだ!? この酒は!?」
「ああ。竹筒の中身は今日から味噌汁にした。塩むすびには清酒より味噌汁の方が合うからな」
「神酒は!?」
「安心しろ。味噌汁の中に入っている。気化しないようにお前のは仕上げてからも入れたからな。一応、昼餉の際に味見として清酒入りの味噌汁を家族に出したが、今朝方汲んできて沸騰させた清水の中に出汁や味噌と共に神酒を入れたと話した途端、母上だけでもなく父上も卒倒しかねた。火を通して酒の風味を飛ばしたつもりだったが、清酒を入れすぎただろうか……」
「……もう少し、両親の気苦労を考えてやれ」
やはり近い将来、金が掛かる神として宮司一族から追放されるかもしれない。ここは早く力を取り戻して、宮司一族に貢献せねばならないだろう。
そしてセイにも名前と姿を返さねばならない。名前と姿を借りている限り、セイを自分に縛り付けることになるのだから。
「明日こそお前の口から美味いと引き出してみせよう。楽しみにしておくといい」
妙にやる気に満ちたセイの言葉に心許ない気持ちになる。明日はどんなことをやらかすのだろうか……。
「……ほどほどに頼む」
「任された」
屈託のないセイの笑顔が眩しい。だが悪い気はしなかった。セイの神饌は確実に神力の回復に貢献している。その理由は未だに分からないが、このまま神饌を食し続ければ判明するかもしれない。全盛期以上の力を得ることもありえるだろう――。
神饌として捧げられた塩おにぎりと清酒入りの味噌汁が空になる頃には日が暮れ始めていた。帰り支度を整えたセイは振り返ったのだった。
「また明日も来るからな。ここで待っていろ、蓬」
再会を約束して大きく手を振って去って行く姿は、親しい友との別れのようであった。自分に傅き、退出の際には都度許しを願い出ていた清き乙女たちとは全く違う真逆の挨拶に悪い気はしなかった。それどころか堅苦しくない分、どこか気楽で良いとさえ思い始めている自分がいたのだった。
「すっかりアイツの勢いに呑まれてしまったな」
人と神が生きる時間は異なる。セイはまだ若いので、しばらく同じ時間を過ごせるだろう。それならセイが生きているだけでも、付き合ってもいいかもしれない。セイが話す「友」という関係を。
これまで「友」に縁がなかったからか、その言葉が非常にむず痒く感じられる。神として長らく生きてきたものの、他の神との交流をしてこなかった。たまにふらりとこの地に立ち寄る神はいるものの、あくまで立ち寄っただけなので、話らしい話は一切しなかった。ここで認めたら、神にとっての初めての友がセイということになるのだろう。
相手がセイだからか、それともこの短時間で心まで人間に染まってしまったのか、人間と親交を深める自分を想像してどこか愉快に思えてしまう。これまで頑なに人間の――それも男を卑下してきた自分が、人間の男と肩を並べる日が来ようとは。あまりにも痛快だった。
この小気味よさをセイにも味わわせて一泡吹かせてやりたい。せっかくなら名前と姿を返す時にでも。
――キサマを友と認めて、友情を育んでやってもいい、と。
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするか。アイツは」
友の姿を写した神の白い頬に赤みが増す。白い月が昇り始めた夕空を見上げると、満足そうに笑みを浮かべたのだった。
そうしてこの日から、神は蓬となったのだった。