「そこに居るのだろう? 出てきたらどうだ」

 その男は神が隠れていた木を真っ直ぐに見上げたかと思うと、よく通る澄んだ低い声音を尖らせながら話し掛けてきた。
 年の頃は二十代の長身の男であり、黒い学生服と学校の校章と思しき模様が帽章に刻印された座布団型の学生帽を被った書生であった。
 その男には見覚えがあった。数年前から老いた父親の跡を継いで、神に奉納する役割を担うようになった宮司の一族であった。あの頃はまだ青二才の坊主頭だったが、神が等閑している間に成長したらしい。毎朝の鍛錬の賜物なのか、初めて本殿に来た時のひよっこは鳴りを潜め、鍛えられた体躯をしていた。
 神を祀る神社に暮らす宮司一族の男は、家訓なのか必ず武術を修練することになっているようで、基本的に男は皆軍人顔負けに体格が良い。
 彼らは毎日陽が昇る前から習練を始めるようで、早朝の厳かな空気を切り裂くような練磨の声が本殿まで響き渡っていた。神は鬱陶しい気持ちで、長年習練の様子を見てきたが、その中でも特にこの男は宮司である父親が最も手塩にかけて武術を教え込んでいたように思う。
 兄弟の中でも特に脆弱で、幼少期は虚弱体質だったというのもあるだろう。物心がつくまでは連日のように体調を崩して、布団で伏せっているところを見かけていた。それもあって父親も厳しく稽古をつけたに違いない。その結果、体力がついたのか、小学校に入る頃には風邪一つ引かない健康優良児になった。その後も鍛錬を続け、細身の身体つきながらも、現在の屈強な男に成長したのだろう。
 衣服で着痩せするのか、体格からの威圧感はない。引き締まった身体に加えて、凛々しい顔つきの中に未だ少年のような愛嬌があるからか、美丈夫の部類に入るかもしれない。
 そのため、こうして睨まれても凄みは感じられず、ただ神を認識できる純粋無垢な幼子に見つめられているようなこそばゆい気持ちにさせられただけであった。

「聞こえていないのか。いつもそこから様子を伺っているのは知っているのだぞ。無視をするなら、おれがそっちに行く」

 男は靴を脱いで裸足になると、帽子と共に放り投げる。助走を付けて幹を踏み台にすると、一番下の太い枝を掴んだのだった。そのまま弾みをつけて枝に乗ると、更に上の枝に手を掛ける。その間も枝葉は大きくしなり、数枚の葉が地面に落ちていた。枝が軋む嫌な音が聞こえてくるが、男は全く気付いていないようだった。神は呆れると、木から降りて宙を飛ぶ。神力の消耗を節約して、白く光る球体姿となっていた神には造作もないことであった。音もなく地面に降りると、木の上で悪戦苦闘していた男に声を掛ける。

「こっちだ。宮司の嗣子」
「……っ!?」

 男が木から飛び降りた瞬間、支え切れなくなったのか、一番下の枝が根元から折れてしまう。鈍い音を立てて地面に倒れると、辺りに砂埃を撒き散らす。枝の下敷きになるのを回避した男は舞い散る粉塵に咳き込んでいる間、枝が落下した衝撃で、近くの木々に留まっていた鳥たちが一斉に羽ばたいたのだった。

「危ないところだった。お前が教えてくれたのか」
「教えたつもりはない。用が終わったのなら、疾く去ね」
「待て。おれはお前と話がしたいのだ」
「男と交わす言葉は無い」
「釣れないことを言うな。この地を守護してきたお前は知っているだろう。おれの曽祖父の代から宮司の家系には男しか生まれていない。お前が清浄な婦女子が供えた神饌しか受け取らないことを知っている。だがこの状態が続けば、この地の護りはおろか、お前自身も力を失って消滅してしまうのではないか。今も只人には見えない霊のような存在となっているのだろう」

 男の言う通り、長らく神饌を受け取って来なかったことで、神が持つ力――神力は徐々に衰えつつあった。今はまだ宮司一族や地元民からの信仰で、どうにか神としての姿を保っていられるが、それも長くは持たない。このまま神饌を受け取らなければ、いずれは跡形もなく消えてしまうだろう。
 神が起こす数々の奇跡の本源である神力の源は、人間からの信仰と毎日供される神饌とされている。
 人間に忘れられて信仰を失い、それに伴い供物が饗されなくなった神は、次第に神力が衰えていく。水が入った袋に小さな穴が開けられた時のように、少しずつ身体から神力が流れ出て行き、最後は心身共に霧散する。
 
 人が変わり、時代が移ろえば、人と神の関係も変わる。長らく周辺との交流を閉ざしていたこの国が、艦船の来航によって門戸を開いた時のように。いずれの日にか諸外国の文化や見識がこの国に深く浸透した暁には神代から続く神と人の関係性は見直され、やがて両者は希薄になるだろう。神々に対する人の信仰は減っていき、何百年後には神の存在共々塵芥となって世界から忘失する。
 この地を護る神にとっての潮時が今だった。ただそれだけのことである。