蓬と出会ってから数日が経過した。桜はすっかり散って、日に日にサツキやツツジの濃い桃色や白色が街を彩るようになった。
あれから大学の授業も始まり、心を許せそうな友人が出来た。それでも時間が許す限り蓬のおにぎり処に通っては、その日に大学であった出来事を話し、店が混んだ時は手伝いをして過ごすようになっていた。
常連客の神やあやかしたちとも顔見知りになり、ハルや切り火たち、牛鬼の門番とも親しくなった。彼らが優しいというのもあるが、そこには店主である蓬の人柄も大きいだろう。
常連客の中には莉亜と同じように蓬に悩みや心配事を相談する者や、生きづらさを感じて苦しんでいる者がいた。蓬はそんな常連客たちの話を聞いては一緒に解決策を考え、アドバイスをしていた。
時には厳しいことも言うが、常連客たちはそんな蓬の言葉の裏にある優しさや心配を感じ取っているのだろう。そんな蓬の想いを知ってるからこそ、常連客たちは蓬を慕い、足繁く店に顔を出している。蓬も素っ気ない素振りを見せつつも、助言した常連客がその後どうなったのか気になるようで、時折店の引き戸を見ながら、「今日は来るだろうか……」と独り言を呟いていたのだった。
この日も莉亜は大学の授業を終えて、おにぎり処に向かっていた。すっかり葉桜になってしまった公園の小高い山の上に咲く桜の木の幹に御守りを近づけると、蓬の店に繋がる神域のトンネルを牛鬼が開いてくれる。そしてトンネルの出口で待ち構えている牛鬼に御守りを見せて、コンビニエンスストアで買ったおにぎりを通行料として渡す。
最初こそ自分の手より小さなおにぎりを開けるのに苦戦していたが、莉亜が何度か開け方を教えたところすっかり会得したらしい。今では莉亜が買ってくる珍しい具材を使ったおにぎりを楽しみにしているようで、この日も新発売というシールが貼られた明太子クリームチーズのおにぎりと海老とにんにくの炒飯おにぎりを嬉々として受け取ったのだった。
その後、いつものように蓬がくれた人間の匂いを消す柑橘系の香水を振ると、竹の花びらが舞い散る花忍の道を歩く。蓬が営むおにぎり処の引き戸を開けると、炊事場で見知らぬ若い男性がおひつをかき混ぜていたのだった。
「ようやく来たか。待ちくたびれたぞ」
蓬によく似た透き通るような澄んだ低い声に話しかけられて、莉亜の心臓が口から出そうになる。炊事場に居たのは莉亜と同年代くらいの黒髪の青年であった。
初めて会った時に蓬が着ていた古めかしいデザインをした詰襟の学生服を身に纏い、蓬と酷似した古風な髪型をしていた。背丈や手足の長さも含めて、顔以外は最初の蓬と瓜二つといった姿形をした青年が莉亜を待っていたという。
「私を待っていた……? 失礼ですが、どこかでお会いしたことありましたっけ? 蓬さんにそっくりな方のようですが……」
「そうだな。会っているといえば会っているが、会っていないといえば会っていないと言えるな……」
煮え切らない返事に加えて、蓬と見紛うほどに話し方まで似ており、ますます莉亜は混乱してしまう。目の前の青年は知らぬ間に出会っていた蓬の家族だろうか。実は蓬とは双子の兄弟で、時に入れ替わりながら店をやっていたとか。
「細かいことはこの際置いておこう。それより、腹は減っていないか。丁度、塩むすびを作ったところだったのだが」
「貴方が作ったんですか?」
「ああ。米は昨日の余りだが、今なら温めたばかりだから炊き立てと同じくらい温かい。おれが握ってやるぞ」
「それなら、お言葉に甘えてお願いします」
「任された」
莉亜がいつものカウンター席に座ると、男性は手早くおにぎりを握っていく。これも蓬と同じだったので、実は蓬本人が悪ふざけして他人の振りをしているだけなのではないかと疑ってしまいそうになる。
それでも蓬とこの青年には、徹底的に違う点が一つだけあった。
(切り火ちゃんたちが出て来ない。いつもなら蓬さんがおにぎりを作り始めると、社から顔を出すのに……)
普段なら蓬が仕事を始めると、切り火たちが出番を待ち構えているかのように社から顔を覗かせる。そして蓬にドライフルーツを渡されると、皆一様に竈に走って行き、炊飯を始める。莉亜が接客、蓬が仕込みと仕上げ担当なら、切り火たちは調理担当と言えるだろう。
それが今日は社が静まり返っている。そのため、この青年は一人で全てを用意しなければならなかった。米を炊いていない時でも、切り火たちは率先して食器の用意を手伝ってくれる。それが今は配膳を手伝う気配さえ見せなかった。外出しているのか、社の中で休んでいて気付いていないのか。これも偶然だろうか。
「完成したぞ」
仕上げに男性はおにぎり全体に塩を振りかけると莉亜に差し出す。男性が出してくれたのは蓬が握るものとほぼ同じ塩おにぎりであった。形や大きさも同じだが、この青年が握ったおにぎりの方がしっかり三角形になっていた。きっと蓬より強い力で握ったのだろう。
莉亜は「いただきます」とおにぎりを口に入れるが、すぐに首をひねることになる。
(あれっ……。このおにぎり……)
手の中のおにぎりをまじまじと見つめる。見た目は蓬のおにぎりと同じで、三角形に握った後に塩を振る姿も蓬とほとんど同一であった。
それなのに青年が握ったおにぎりは蓬とはいくつか違っていた。その理由の一つははっきりしているが……。
「味はどうだ。誰かに食べさせるのは久しぶりということもあって気になっている。感想を聞かせてくれないか」
「……少し塩辛いです」
蓬が作るおにぎりとのはっきりとした違いの一つ。それは塩の分量であった。蓬のおにぎりも程々に塩辛いものの、米の味を邪魔しない程度のしょっぱさであった。一方、この青年が握ったおにぎりは米の味をかき消してしまいそうなくらい塩辛く、子供や塩分を気にする人は到底食べられそうになかった。
米に対して塩の分量が多いのか、食べた後も舌には塩のざらりとした食感と塩本来の味と思しき苦い味が残っていた。それが塩辛さと共に口の中で後を引いていたのだった。
それ以外にも、男性のおにぎりは蓬のおにぎりと大きな違いがあったが、それが具体的に何か言葉に出来なかった。分かりそうで分からないのが、ひどくもどかしい。学校の試験で答えられるのにど忘れして答えられない問題を目にした時と同じくらい焦れったい。
莉亜の率直な感想に青年は黒い目を丸くしたが、すぐに高笑いをしたのだった。
「そうかそうか。やはりおれの塩むすびは辛いか。うむ……。料理と言うのは奥深いものなのだな」
纏う雰囲気まで蓬に近似した青年は何度も頷いていたが、やがて真顔になるとじっと莉亜を見つめてくる。
「ここの店主はこの味を再現しようとしている。お前はこの味を覚えて、店主を助けてやってくれないか」
「私が蓬さんに……? でも、貴方が直接教えればいいだけでは……」
「おれは会えない。会えない、宿命なのだ……。神がおれたちに、与え給うた試練なのだ。一番近くに居て、悔やみ、嘆く姿を見ても、言葉を交わすことさえ許されぬ」
青年は痛みを堪えるような顔になって顎を少し引く。そして「時間だな」と、引き戸に視線を送りながら独り言ちたのだった。
「さっきの塩むすびを食べている時のお前の様子を見ていたが、どこか得心がいかないといった顔をしていた。気づいたのだろう。おれが作る塩むすびと店主の作る塩むすびの違いに」
「それは……」
「今はまだ言葉に出来ずとも良い。だがいずれ言葉にして、店主に指摘してほしい。これ以上、友が苦しむ姿を見たくないのだ。おれの代わりに……アイツを頼む」
青年が言い切ったのと同時に引き戸が開けられる。入って来たのは蓬であった。莉亜が居ると思っていなかったのか、驚いたような声を上げる。
「もう来たのか。今日は早いのだな」
「今日は授業が休講になったので……。蓬さんは出掛けていたんですか?」
「食材の仕入れであやかし街に出ていた。それより炊事場を使ったのか? 何やら片付けたはずの調理器具が出され、掃除したはずの料理台が汚れているのだが……」
「私じゃないですよ。蓬さんにそっくりな人が使っていて……」
そう言って炊事場を振り返った莉亜だったが、先程の青年は跡形もなくいなくなっていたのだった。
「あれっ。さっきまでここにいたのに……。どこに行ったんだろう?」
「夢でも見たんじゃないか」
「でも、確かに今までここに居たのに……」
すると店の奥からハルが歩いてきたかと思うと、カウンターの上にちょこんと座る。そして呑気に欠伸をして毛づくろいをする姿を見た莉亜はピンときたのだった。
「あっ! もしかしてハルが人になった姿を見たとか?」
「ハルは神使だが、元は人の世に生きる野良猫だ。あやかしじゃないから人に化ける力は持っていない。それより余った飯を使って握り飯を作る分には問題ないが、せめて清潔な状態は保ってくれ。こう見えて、ここは店だからな。衛生管理には十分に気を遣わなければならない」
蓬は背中から風呂敷包みを下ろすと、購入してきた食材を冷蔵庫――これも蓬が自分の神力で電気を発生させているらしい、に入れて行く。その間に莉亜が使った食器や調理器具を片付けていると、さっきまで静かだった炊事場の社から切り火たちが続々と出て来たのだった。
「切り火ちゃんたち、社に居たんだ」
莉亜の言葉に切り火たちは不思議そうに首を傾げつつも、ぞろぞろと莉亜の元に駆け寄ってくる。複数で協力して自分の身体より食器や調理器具を戸棚に戻すと、米粒や塩が零れた調理台を拭き出す。切り火たちが掃除をする調理台に近づいてきた蓬は調理台に落ちていた塩を指で掬うと、何かを考えているようだった。
「おむすびを作っていたのか?」
「作ったのは私じゃないですが……。塩おにぎりを食べました」
「そうか……」
蓬はそのまま店を開けるために身支度を整えに行ってしまったので、先程の青年の話も、蓬が何を考えていたのかも聞けないままであった。
そうして莉亜も手伝っておにぎり処を開店して少し経った頃、本日最初の客が現れたのだっだ。
「ごめんくださいませ」
「これは金魚の。久しいな。こっちに戻って来たのか」
「いいえ。まだ人の世に住んでいますわ。実家に帰省したので、戻る前に立ち寄っただけですの。これよろしければ、実家で作っている青唐辛子の味噌ですわ。少々辛いものですが、お召し上がりくださいませ」
「ああ。感謝する」
紺色に優雅に泳ぐ赤い金魚柄の小袖を着た妙齢の女性は親しそうに蓬と話す。赤と黒のチェック柄のエプロン姿の莉亜がそっと近づいていくと、女性は「あらっ?」と声を漏らしたのだった。
「どなたか雇われたのですか?」
「雇ったというよりは、ここを手伝ってもらっているというところだ。莉亜、彼女は金魚の幽霊というあやかしだ。久しく来ていないが、この店の常連だ」
「初めまして。莉亜です」
「莉亜さまですね。わたしは金魚の幽霊と申します。どうぞ、金魚とお呼びくださいませ。今は主人の仕事の都合で現世――人の世に住んでおります」
金魚が袖で口元を隠しながら優雅に笑うと、頭の上で黒髪を結い上げていた金色の金魚飾りがついたびらびら簪も一緒に揺れる。金色の金魚が宙を泳いでいるようだと莉亜は思ったのだった。
「私たちの――人の世界にあやかしが住んでいるんですか!?」
「ええ。人に紛れて生活しているあやかしは多いのですよ。あやかしの世界は古の時代より、妖力の強いあやかしによる支配が続いております。鬼や妖狐、天狗などの強いあやかしはいいのですが、わたしのような弱いあやかしたちの中にはそんなあやかしたちの支配から逃れて、人の世に住んでいる者もおりますわ」
「あやかしも苦労が多いんですね……」
「わたしの場合は、主人が人の世に移住したあやかしたちが人間に悪さをしないように、監視する仕事に就いているからというのもありますが……以前はこの辺りの治安維持を担当していましたので、家族でよくここに来ていましたの」
もしかすると、莉亜が気づいていないだけで、これまでも道端であやかしとすれ違っていたり、どこかで人に化けたあやかしと出会っていたりするのだろうか。人と同じように、あやかしにもあやかしなりの気苦労が多いのかもしれない。
すると、金魚から受け取った青唐辛子の味噌を何ともない顔で味見していた蓬が声を掛けてくる。
「相変わらず塩むすびしか出ないが、食っていくか?」
「せっかくですが、家族が帰りを待っておりますので、持ち帰りで握っていただけます?」
「承った。切り火たちを呼んでくれないか。お前も用意を手伝ってくれ」
「はい」
莉亜は戸棚からマンゴーのドライフルーツの袋を取り出すと、切り火たちに声を掛けながらドライフルーツを社の前に落としていく。莉亜の声とドライフルーツの音に気付いた切り火たちが社から出て来たのを見届けると、ドライフルーツを仕舞って竹皮の包みを用意する。
「どれくらい必要ですか?」
「とにかくたくさん用意してくれ。それが終わったら、今度は持ち帰り用の袋の用意だ。こっちも一番大きいものが数枚必要だ」
「すみません。うちは子供が多くて、大家族なのですわ」
おにぎりを握りながら、もっと竹皮を用意するように指示を出す蓬に金魚が苦笑する。莉亜は「いいえ」と返すと、倉庫に行って蓬が人の世で買ってきたという白いビニール袋を手に持って来る。蓬が包み終わった竹皮を袋に入れていると、また引き戸が開いたのだった。
「よもぎにいちゃ~ん、りあおねえちゃ~ん。おなかすいたの~」
「あれ、金魚のお姉さんがいるの~」
「雨降り小僧の子供たち。見ない間に随分と大きくなりましたのね」
いつもの雨降り小僧の兄弟は店内に入って来ると、莉亜たちには目もくれずに金魚の元に行く。常連客同士、顔見知りなのだろう。金魚が雨降り小僧たちに気を取られているのを見計らったかのように、おひつを混ぜていた蓬がこっそり莉亜を呼ぶ。
「莉亜、この飯を味見してくれないか? 金魚の主人用に用意したものだ」
「他と違うんですか?」
「塩の量を減らしている。金魚の主人は塩分摂取量を制限しているからな。他と違って、塩を減らしている」
どうして蓬が味見しないのか気になりつつも、莉亜は言われた通りに味見をする。いつもより塩が少なく、米本来の味を強く感じたのだった。
「いつもよりしょっぱくないので、これで良いと思います」
「助かる」
すぐに蓬は金魚の主人用のおにぎりを握り始める。その間に莉亜は雨降り小僧たちに出す煎茶の用意をしようとしたところで、金魚から貰った青唐辛子の味噌がカウンターに放置されていることに気付く。その時、この味噌を味見していた蓬の姿を思い出す。
(蓬さん、平気な顔をしていたけど、辛くないのかな……)
実家に住んでいた時に莉亜も母が作る青唐辛子の味噌を使った焼きおにぎりを食べたことがあるが、ほんの少し舐めただけでも口の中がヒリヒリと焼けるような痛みが走った。水も飲んでも辛味は消えず、しばらく強烈な刺激に悶え苦しむことになった。
けれどもさっきの蓬の反応を見る限り、とても辛さに藻掻いている様子はなかった。辛くない青唐辛子の味噌もあるのだろうか。金魚も「少し辛い」と言っていたので、莉亜が想像しているより辛くないのかもしれない。それとも蓬が辛味に強いだけだろうか……。
莉亜は蓬や金魚たちが見ていないことを確認すると、ほんの少しだけ小指で掬って舐める。すると、想像を遥かに上回る青唐辛子の強烈な辛味成分に口中を支配される。のた打ち回りそうな辛さに涙が溢れてきたのであった。
(か、からっ~!?)
慌てて水道を捻って水を口にするもののそれでも口の中は未だ痺れており、涙は止まりそうになかった。とりあえず、お茶の用意をしようと涙を拭いていると、竈の火を調整しながら切り火たちが心配そうに見つめていた。莉亜は片手を上げると、大丈夫と合図をしたのだった。
(ちょっと舐めただけでこんなに辛いって……。蓬さんは平気なの!?)
涼しい顔でおにぎりの用意をする蓬の横顔を盗み見る。さっき金魚の主人用のご飯の味見を頼んできたのは口の中が辛かったからだろうか……。そんなことを考えていると、切り火のひとりが莉亜の身体によじ登ろうとする。掌を差し出すと、慣れたように切り火が飛び乗ってきたのだった。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから……」
切り火が指したのは冷蔵庫だった。そこに連れて行けということなのだろうと、莉亜は冷蔵庫の扉を開ける。切り火は冷蔵庫内に飛び乗ると、牛乳が入った瓶の前まで走って行ったのだった。
「牛乳……を飲めばいいの?」
切り火が何度も頷いたので、莉亜は牛乳を取り出して蓋を開けるとコップに注いで呷る。まだ少し残るものの、口の中を刺すような刺激が鳴りを潜めたのだった。
再度切り火に礼を言おうとするが、いつの間にか竈に戻ってしまったようで姿を見つけられなかった。その代わりに金魚から代金を受け取る蓬の目を盗んで、調味料棚を悪戯するハルの姿を見つけたのだった。
「ハル、駄目よ! 悪戯したらっ!」
莉亜は調味料棚に近づくと、ハルを引き離そうと身体を持ち上げる。しかしその際にハルの尻尾が当たってしまったのか、調味料棚に置いていた塩や砂糖などが調理台や床に中身をまき散らしながらひっくり返ってしまったのだった。
「ああっ!」
ハルを床に下ろすと、すぐに調味料棚を元通りに直して、雑巾で調理台を拭き始める。すると、蓬が「どうした!?」と血相を変えて戻ってきたのだった。
「すみません。目を離した隙にハルが調味料棚を悪戯してひっくり返ってしまって……」
「ここは俺が片付ける。お前はハルを外に出してくれ」
莉亜は店内を隈なく探して座敷席の下で丸くなっていたハルを見つけると、店の外に連れて行く。戻った時には蓬は雨降り小僧たちに煎茶を出して、味噌汁を仕上げているところであった。
「ところで蓬さんは辛い物が平気なんですか?」
「何故だ」
「さっき金魚さんからいただいた青唐辛子の味噌を味見していましたよね。あれ、少し食べただけでもとても辛かったのですが……。牛乳を飲まなくても平気なんですか?」
その言葉に蓬は鍋を混ぜる手を止めると大きく目を見開く。何度か瞬きを繰り返すと、「そうだな……」と小声で話し始めたのだった。
「辛い物は……平気だな」
「そうですか。でも無理しないでくださいね。さっき青唐辛子の辛さに悶えていたら、切り火ちゃんに牛乳を飲むように勧められたんです」
「そうさせてもらおう」
莉亜と話しながらも、蓬は調味料棚から塩を取り出して味噌汁を整える。お玉でかき混ぜた後、小皿によそって味噌汁を味見していた。
どうやら今日の具材は絹豆腐と油揚げの味噌汁らしい。見ているだけで莉亜のお腹が鳴りそうになる。そこに追加の米が炊けたのか、蓬は鍋の火を消すと竈に向かったのだった。
その背には後ろめたいことがあるのか、隠したいことがあるのか、どことなくいつもと違う雰囲気が漂っているような気がしてしまう。
――意図的に話を逸らされたような、何とも言えない気持ちになったのだった。
気になるものの、また新しい客が入店して忙しくなってしまったので、結局この時はそれ以上の追及が出来なかった。
「ねぇねぇ、りあおねえちゃん」
それから少しして他の客の対応をしていると。おにぎりを食べていた雨降り小僧たちに声を掛けられる。
「どうしたの?」
「きょうのおみそしる、へんなあじがするの」
「味噌汁?」
雨降り小僧から味噌汁のお椀を見せてもらうが、特におかしなところは無かった。匂いにも違和感はなく、腐っている様子はない。具材の豆腐と油揚げにも異常は無さそうだった。
「なんだろう……。蓬さんに聞いてくるね」
「おい、なんだ! この味噌汁は!? とても食えたものじゃないぞっ!」
店内を満たような怒号に莉亜は顔を上げる。カウンター席では初めて来店したと思しき鼠の姿をした年配の男性が蓬に詰め寄っていた。
「変というのは?」
「あんこ餅のように甘ったるくてとても食べられたもんじゃない! 食ってみろ!」
「あ、ああ……」
緊張しているのか委縮したように蓬はぎこちない動きで味噌汁を小皿によそうと、言われた通りに味を確かめる。すぐに何か言うだろうと莉亜も様子を見ていたが、蓬は小皿から口を離しても、青白い顔を強張らせたまま無言で固まっていたのだった。
(蓬さん……?)
その間も男性は勝ち誇った顔と共に「どうだ? おかしいだろう!」と蓬に詰め寄り、味噌汁を飲んだ他の客も「本当だ」、「味がおかしいわ……」と小波のように騒ぎ出したのだった。
「蓬さん!」
この状況に居ても立っても居られず、カウンターに戻った莉亜は小声で声を掛ける。放心していて莉亜の声に気付かなかったのか、蓬は少し経ってから「あ、ああ……」と力ない返事をしたのだった。
「雨降り小僧ちゃんたちも言っていました。今日の味噌汁は味がおかしいって」
「そうか……」
いつもの蓬とは違って、言葉尻が弱く、今にも項垂れそうな様子に莉亜の焦りはますます募ってくる。
今日の蓬はどこか変だ。このままにしてはいけない。そう考えた時には声を掛けていた。
「私も味見してもいいですか?」
「頼む……」
弱弱しい蓬に変わって、味噌汁を小皿によそって口にする。口に入れてすぐその原因に気付き、危うく吹き出しそうになったのだった。
「な、なにこれっ!? あまっ! お汁粉みたい!」
砂糖を入れ過ぎたような菓子のように甘ったるい味噌汁に莉亜も口を押さえてしまう。そんな莉亜の様子に、鼠も満足そうに鼻を鳴らしたのだった。
「ほら見ろ。そこのお嬢ちゃんの言った通りだろう!! こんなに甘ったるい味噌汁なんて食べられるか! 美味い店だと噂に聞いて来たが無駄足だった!」
男性は吐き捨てるように言って乱暴に代金をカウンターに置くと、息も荒く、店を出て行ってしまう。その後、店内は水を打ったように静まり返っていたが、やがて他の客も徐々に帰り支度を始める。その中には常連客もいたので、莉亜は代わりのものを用意すると引き止めるが、今日は蓬の体調が良くないようだからと、丁重に断られてしまったのだった。
莉亜が会計をしている間も、蓬は顔面蒼白のまま直立不動でいた。いつの間にか店内に戻ってきたハルが慰めるように足元をうろつき、切り火たちが社から顔を出しているものの、蓬は気づいていないようだった。そんな蓬を心配しつつも、莉亜は客の相手や後片付けを続けたのだった。
ようやく蓬がショックから立ち直ったのは、本日最後の客となった雨降り小僧たちが帰った後であった。雨降り小僧たちが使ったテーブルを片付けていると、蓬が暖簾を外して店内に戻ってきたところだった。
「今日はもう閉めるんですか?」
「誰も来ないだろう。さすがに今日は」
暖簾を片付けると、蓬はカウンター席に座って大きく息を吐き出す。どんなに店が混んでも、忙しくても疲れた様子を今まで見せなかった蓬にしては珍しい姿だった。さすがに今日は心身共に堪えたのだろう。
「すみません。きっと私が原因ですよね」
「何故、お前が?」
「さっきハルが調味料棚を悪戯した時によく見ないで棚に戻したから……。その後、蓬さんが味噌汁を作った際に間違えてしまったんですよね」
思い出せば、ハルが調味料棚を悪戯した後、莉亜はよく元の場所を確かめもせずに適当に調味料を戻してしまった。特に塩と砂糖は同じ形状の調味料ケースに入れているので、逆に戻してしまったのかもしれない。その後、蓬が味噌汁を作る際に塩と間違えて砂糖を入れてしまったのなら合点がいく。
莉亜は肩を落として、再度謝罪の言葉を口にするが、蓬は顔を背けたまま静かに否定する。
「……いいや。お前やハルが原因じゃない。遅かれ早かれ、いずれはこうなっていたんだ」
「それはどういうことですか……?」
「お前も今日はもう帰った方が良い。俺も竈と調理台の片付けをしたら休む。……迷惑を掛けたな」
蓬は立ち上がると、竈の後始末に行ってしまう。足取りもふらつき、力ない様子にこのまま帰っていいのか迷ってしまう。他の客の言う通り、今日は調子が悪いだけかもしれない。それなら早く休ませるためにも、そっとしておいた方がいい。元気になったら、元の蓬に戻るだろう。でも――。
(本当にこのまま帰っていいの?)
今の蓬はとても放っておいていいような雰囲気ではない。脆く儚く、今にも崩れてしまいそうな砂の城のように思えてしまう。
それに塩を入れ間違えたという甘い味噌汁は蓬も味見していた。ハルが調味料棚を悪戯した時と鼠の男性に指摘された後の二回。
最初に飲んだ時に気付いたのなら、その時点で味を直しただろう。鼠姿の男性に言われた時もすぐに謝罪しただろう。莉亜でさえ一口飲んであの強烈な甘さに気付けたのだから。
あそこまで味がおかしければ、誰だって気付くだろう。例えば、病気などで味覚が異常|じゃない限りは――。
(まさか……)
そこまで考えて、莉亜はハッと顔を上げる。金魚から貰った青唐辛子の味噌を舐めていた時から蓬に感じていた違和感。それなら金魚の主人用のご飯の味見を頼まれたのも納得できる。あの時は青唐辛子の辛さで味覚が正常に働かないからだと思っていた。けれども、そうじゃなかったとしたら……?
莉亜は冷蔵庫を開けると、あるものを取り出す。そして自分のトートバッグを取りに行くと、コンビニエンスストアの白いビニール袋を取り出したのだった。
「蓬さん、もう竈の片付けは終ったんですか?」
「お前、まだ残っていたのか……」
「はい。今日は差し入れを持って来ていたんです。お店を閉めたら一緒に食べようと思って」
莉亜はカウンターにコンビニエンスストアで買った大ぶりのシュークリームを載せた白い皿と、黒々とした飲み物を淹れた黒い湯呑みを置く。シュークリームは店に来る前、牛鬼に渡すおにぎりと一緒に購入したものだった。今日は早くお店に来られそうだったので、開店前に蓬と食べようと思い、二個購入した。
それを皿に盛り付け、店にあった紅茶を勝手に淹れさせてもらったのだった。
「棚にあった紅茶も勝手にいただいてしまいました。やっぱりシュークリームのような洋菓子には紅茶だと思ったので」
「せっかく用意してもらったところ悪いが、今は何も食べたい気分じゃない」
「疲れた時は甘いものが一番です。紅茶だけでも飲んでください。砂糖を入れて甘くしたので」
莉亜が笑みを浮かべて進めると、根負けしたのか蓬は渋々カウンター席に着くと紅茶を手にする。一口飲んだ蓬はそっと息を吐いたようだった。
「お前の言う通りだな。これを飲んであれから何も口にしていなかったのを思い出した。甘いものは良いな。心が落ち着く」
「それ、本当に甘い紅茶ですか?」
「どういうことだ?」
「実は蓬さんが飲んだものは醤油をお湯で溶いたものなんです。塩と粉末出汁も入れてスープ風にしてみました。甘いシュークリームを食べた後は、しょっぱいものが欲しくなると思ったので」
その言葉に蓬の表情が固まる。喉の辺りを軽く押さえて、動揺を隠そうとしているようであった。そんな蓬の様子に気付いていない振りをしつつ、莉亜は話しを続ける。
「最初から醤油だと言ったら飲んでもらえなさそうだったので、嘘をついてしまいました。黒い湯呑みだと、見た目から中身が判断できないですよね」
「そうだな。確かに薄っすらと醤油の味がするな……」
「そんなわけないじゃないですか。いくらしょっぱいものが欲しくなるとしても、醤油を飲ませたりしません。中身は紅茶です。レモン果汁くらいは淹れましたが」
わざわざ黒い湯呑みを選んで紅茶を淹れたのも、見た目から蓬に判断させないためであった。
他の湯呑みで出してしまうと、紅茶の琥珀色から中身が気付かれてしまう。けれども内側も黒い湯呑みなら、見た目から判断されない。なるべく匂いがしない茶葉を選んだので、口にしない限り紅茶だと分からないだろう。
その代わり、一口飲んだのなら、どんなに莉亜が醤油だと言っても、紅茶と醤油の違いに気付かれる。味が全く違うのだから。それこそさっきの甘い味噌汁と同じくらいに。
それも全て――蓬の味覚が正常ならば、の話だが。
「ということで、シュークリームも食べてください。せっかく買ってきたので。こっちは何も手を加えていません」
「……いただこう」
先程の紅茶の件を気にしているのか、蓬は舐めるようにシュークリームを観察していた。そんな蓬に苦笑しながら、莉亜も自分のシュークリームを食べる。今日の疲れも吹き飛ぶような、カスタードクリームの濃厚な甘さに身体中が満たされる。
莉亜が先にシュークリームを食べたことで警戒心が解けたのか、ようやく蓬もシュークリームを食べ始める。その様子を見ながら唇についたカスタードクリームを舐めると、莉亜は話しを続ける。
「どうですか?」
「人の世に何度か足を運んだ際に食したが、同じ見た目でも作り手によって皮も中身も違うな」
「シュークリームを食べたことがあったんですね」
「長く生きていれば当然だ」
「それなのに……そのシュークリームを変とは思わないんですね」
「なんだと……?」
莉亜は蓬からシュークリームを受け取ると、包丁を取り出して二つに割る。そして割かれた断面から現れたシュークリームの中身に、蓬は絶句したようだ。片手で顔を押さえながら、唸るような低い声を発したのだった。
「これにも仕掛けがされていたのか……。迂闊だった」
蓬に出したシュークリームには、先程金魚から貰った青唐辛子を大量に練り込んでいた。
莉亜が少し舐めただけで涙が溢れてきたのだから、きっと蓬も青唐辛子の辛さに耐えられず、文句の一つも言うだろうと思っていた。
けれども、蓬は何も言わなかった。醤油と騙して飲ませた紅茶も、青唐辛子の味噌を入れたシュークリームも。これが答えなのだ。
蓬は味覚を失っている。料理人としては致命的にして、最上の武器を。
「すみません。でも確かめたかったんです。もしかしたら蓬さんは特定の味だけ分からないんじゃないかって。それで試させてもらいました。紅茶とシュークリームに細工をすることで、口に入れた時に気付いてくれるかどうか……」
「それで紅茶を醤油と偽り、シュークリームに味噌を混ぜたわけか」
「それでもこっちは食べる前に気付かれたらどうしようって、心配だったんですよ。渋い紅茶を抽出しようと茶葉を多めに使ったら、あまり香りがしない茶葉なのに、予想外に強くなってしまって……。もしかしたら飲む前に匂いで気付かれてしまうかもって。そうしたらシュークリームも怪しまれて食べてもらえないから、何か手を打たなきゃって……」
既に紅茶を飲ませた時に醤油と嘘をついて騙しているので、きっと蓬はシュークリームを怪しんで、食べずに二つに割いてしてしまうかもしれない。実際に蓬はシュークリームを訝しんで、なかなか食べようとしなかった。いつシュークリームの裏から注入した青唐辛子の味噌に気付かれてしまうか、内心では冷や汗が流れそうであった。
そこで莉亜が何も仕込んでいない自分の分のシュークリームを食べてみせることで、このシュークリームには何にも細工をしていないと蓬に思わせて油断を誘った。蓬は莉亜の思惑通りにシュークリームを食べて、そして何ともないような顔をしていた。
その瞬間、莉亜の予想は的中したと同時に落胆もした。――もしかすると、心のどこかでは信じたくなかったのかもしれない。
「……いつから気付いていた?」
「最初は金魚さんから貰った青唐辛子を味見している姿を見た時でした。でもその時は辛い食べ物が平気なだけだと思っていました。確信に変わったのは、さっきの味噌汁の騒動の時です。みんなが甘い味噌汁だと騒いでいるのに、蓬さんだけ何も感じていなさそうだったので……」
味覚の基本味は全部で五種類。甘味、酸味、塩味、苦味、旨味とされている。痛覚で感じる辛味、触覚の一種とされている渋味など、舌で感じない味は含まれない。
この内、味噌汁に間違えて使われた砂糖の甘味、金魚の主人用に用意した塩分控えめのご飯の味見を莉亜にさせたことから塩味が機能していないのは分かった。
残る味覚の内、わざと濃い目に淹れた紅茶の苦味、紅茶に淹れたレモンの酸味も感じていないことも判明した。そして紅茶を醤油と偽った時に区別がつかなかったところから、おそらく出汁から抽出される旨味も知覚していないのだろう。
ついでに青唐辛子の味噌が分からなかったことから辛味も。
蓬の味覚は全く機能しておらず、何も味を感じられていないことが、これで明瞭になったのだった。
「そうだな。あの時は俺も返答に窮して、何を言えばいいか迷った。味が分からなかったから、肯定も否定も出来ずにいた。……お前が代わりに味を教えてくれて、本当に助かった」
「いつから味を感じられなくなったんですか?」
「お前がこの店に通い始めた頃だ。それまでは、まだかろうじて感じられる味があったのだがな。今では何も感じられない……。水のような、無味の固形物を食っているような気分だ」
「それなのにお店を続けていたんですか……。休まないでずっと……」
「俺にはずっと待っている奴がいる。ソイツに借りたままのものがある。それを返すまで、俺はこの店を続けなければならない」
初めてここに来た時も、蓬は誰かを待っているような話をしていた。それは道標のように植えられた外の花忍も現している。
大切な人が迷わずここに来るのを、蓬はずっと待っているのだと。
「もし待っている人がいたとしても、それで蓬さんが苦しんだら意味は無いと思います」
「これも俺の運命だ。罪を犯した俺に課せられた神罰なのだろう。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」
罪と贖罪の二文字が面倒見の良い蓬と結びつかず、頭に入ってこない。声も掠れてすぐには出てこず、紅茶で口の中を濡らすことで、ようやく言葉に出来たのだった。
「何か罪を犯してしまったんですか?」
「神といえども、常に正しいとは限らない。時には判断を誤り、罪過を犯すこともある。個の感情から取り返しのつかないことをして、大切な友を永遠に失うことも……」
「友……」
「少し長い話になるが、聞いてくれるか? 神として風前の灯火である俺の代わりに覚えていて欲しい。かつてこの地に祀られていた豊穣の神が友と認めた唯一の人間のことを」
そうして蓬は滔々と話し始める。
人と神の出会いと別れの物語を――。
莉亜が生きる時代から遥かな昔。外つ国から押し寄せた近代化の波が入り乱れ、文明開化の風が吹き始めた時世。
神域に繋がる公園はまだ存在せず、代わりに古の時代よりこの地を見守り続けてきた神社が建っていた。
祀られている神はこの地の五穀豊穣や商売繁盛を司る豊穣の神。毎年春の祈年祭と秋の新嘗祭には祈りと感謝を捧げに多くの地域住民が参拝に訪れるという、地元民から愛される神であった。そんな住民の祈願に答えるように、豊穣の神はその土地の農作物に実りを与え、旅人や商売人が自然と立ち寄るような賑わいを栄えさせた。
そんな神には一つだけ問題があった。それは清き乙女が捧げる四つの供物――神酒、米、水、塩しか受け取らないというものであった。
地元で醸造された清酒とその年に収穫された新米、神社の神域に湧く清き湧き水、そして不浄を滅するとされている新鮮な塩。
この四種類を、神社を管理する宮司の一族が毎日奉納することになっていたが、この豊穣の神は未婚の乙女が差し出す神饌しか断固として受け取らないと言われていた。そして豊穣の神が神饌を受け取らない限り、この地を守護する神の神力は衰退し続けて、やがてこの土地から神の加護は消滅するとも――。
神の加護が散じた土地では、疫病や災害が発生する。川は濁って植物は育たず、人や動物たちは病苦にもがき、やがてこの地を離れる。人や動物がいなくなった地には誰も住まなくなると言われていたのだった。
この地に生きる人たちのため、豊穣の神を祀る神社と豊穣の神の座す本殿が建立された時から、豊穣の神に神饌を捧げる役目は、宮司一族の清き乙女が担い続けていた。
本来であれば神として人々に祀られている以上、神はその土地を守護し、人々が豊かに安全な生活を送れるようにしなければならない。
それをこの地を加護する豊穣の神は長らく放置していた。清き乙女が神饌を捧げないからという身勝手な理由だけで――。
この時も豊穣の神は年季の入った木造の本殿に供物を持ち込む者を木の上から眺めていた。
永遠に近い時間を生きる神と、限られた一瞬しか生きられない人では生きている時間が違う。神にとっての清き乙女というのは、流れ星のように瞬きする間に次々と変わる存在であった。
それが数十年前からは清き乙女ではなく、むさ苦しい男たちが供物を寄進するようになった。当然、神はそんな汚らわしい男たちからの供物を黙殺し続けた。
例え、その年の農作物が凶作で商売が傾き、本殿に向かって地元の有力者たちが坐して、祝詞を唱えられたとしても。
処女が神饌を奉納しない限り、この地の豊穣を司る神は一切応えないつもりであった。
あの日、声を掛けられるまでは――。