始まりは、通勤列車の大幅な遅延だった。
その時間、その場所で、偶然にも彼と出会わなければ、遅すぎる初恋を知らないままでいられたのに。
アラサーの基準は二十代後半からなのだと聞いた。だとすれば、二十五の私はもうアラサーに差しかかっている。
私は未だ、一度も恋愛経験がない。ましてや、人を好きになったことすらない。
私が人を好きになれないのには、実を言うと分かりやすい理由がある。
それは、生まれつきの黒アザだ。
私は自身の左内ももに広がるグロステスクなアザのせいで、恋に対して臆病になっているに違いなかった。
直径十センチメートルにも及ぶメラニン色素の異常は、私の精神を着実に蝕んできた。
手術を考えて医者にも行ったけれど、治療にはレーザーと切除の二通りがあって、私のケースはどちらも長い通院と大きなリスクを伴うというような説明を受けた。
結局、かかる費用や術後の後遺症を考慮して、手術を受けるのはやめにしたのだった。
多くの場合、恋愛には性欲が付きまとう。
それが、私は嫌だった。知られたくないコンプレックスに触れられるかもしれない可能性が嫌だった。
言葉にならない愛情表現? そんなのは、たかが一瞬の快楽に負けたことの言い訳みたいにしか聞こえない。
身体の接触でしか愛を確かめられないような恋なんて、あまりに残酷だ。
*
退社後に、駅前の本屋に寄った。
真っ直ぐに向かったのは、漫画の新刊コーナーだった。今日は好きな少女漫画『訳愛』シリーズの続巻が発売される日なのだ。
『訳愛』とは、『訳ありだって愛してくれ』というタイトルの略称で、実写映画化にもなった大人気シリーズだ。
醜形恐怖症の内気な女の子が、学年一人気者の快活な男の子と距離を縮めていくストーリーで、どうしても主人公を私自身に重ねてしまう。
新刊コーナーには、ちゃんと目当ての品があった。平積みされたなかから一冊手に取る。
無事に『訳愛』の新巻を手に入れた私は、満ち足りた気分で書店を後にした。
定期券をかざして駅の改札を潜る。
ちょうど通勤ラッシュの時間で、毎度のことながらホームにはおびただしい人が溢れていた。
いつもの光景、のはずなのだけれど。
何だか違和感があった。
ラッシュ時にしても、人が多すぎるのだ。よく見るとみんなそわそわとして、落ち着かない素振りをしている。
遅延でもあったのだろうか。
ホームから改札口の方に戻ってみると、駅員を囲むようにして人集りができていた。
どうやら人身事故があって、その処理に時間がかかっているらしい。
「これなんの騒ぎっすか」
いつの間にか、遠巻きに人々の様子を窺っていた私の隣に、知らない男の子が立っていた。ミルクティー色の綺麗な髪をしている。
一瞬思考が停止して、彼が私に声をかけているのだと遅れて気がついた。
「人身事故があったみたいで、運行にはしばらく時間がかかるようです」
内心、異性との会話に緊張しながら、努めて冷静にそう答える。
「遺体処理っすかね」
「この時間のかかり方だと、そうでしょうね」
遺体処理というワードに、私は線路に散らばった肉片を想像して軽く身震いする。
「線路に飛び込む人の気が知れないな。私が自殺するなら、もっとひっそりした方法を選ぶけれど」
それは半ば、独り言のようなものだった。
早く帰ってゆっくり漫画が読みたいのに、という些細な不満から発露されたものだった。
「死を選ぶほど追い詰められている人間に、周囲への配慮を求めるなんて酷な話じゃないっすか」
ミルクティーの男の子が、私を咎めるような口調で言う。彼に他意はないのだろうけれど、年下から説教を喰らったようで、情けない思いがする。
その時、構内のアナウンスが流れた。運行の見通しが立たないので、他の路線から乗り換えて移動することを推奨するというものだった。
「行きましょうか」
ミルクティーの男の子が、当然のように私を見た。
まさか一緒に行動するつもりなのか。初対面のくせにずいぶんと馴れ馴れしい。
「あれ、同じ方面っすよね? 行きましょうよ」
私が立ち尽くしたままでいると、彼は何食わぬ顔でこちらの袖を掴んでくる。軽く引っ張られ、仕方なく足を踏みだした。
二人並んで、人混みのなかを縫いながら進んでいく。
「僕、月都っていうんすよ。月の都でつきと。大層な名前っすよね。あ、気軽にツッキーって呼んでくださいね。みんなそう呼ぶんで」
歩きながら、ミルクティーの男の子が意気揚々と自己紹介をしてきた。
「あ、はい。じゃあ月都くんでいきます」
そっちのペースに呑み込まれてたまるか、と牽制のつもりで冷たく返す。
しかし、月都くんはさっきから貼りつけている笑みをなかなか崩さない。
「えー、つれないなあ。お姉さんは?」
「はい?」
「名前、なんて呼べばいいすか?」
月都くんが私の顔を覗き込むようにして尋ねる。
フルネームを晒すのは何だかはばかられて、私は「宇佐美です」と名字だけを答えた。
「ウサミさんね」
私の名前を復唱しながら、月都くんは満足そうに頷く。
その横顔はやはり整っていて、滑らかな肌に嫉妬さえ覚える。
ふと、彼の年齢が気になった。私よりずっと幼く見えるけれど、学生だろうか。髪を明るく染めているようだし。
「たぶん、学生さんですよね?」
「そうすね、二学年。今年で二十歳になるんすよ」
「え、うそ」
絶句する。
まさかの十代。恐ろしい。
「でも、ウサミさんもそんな変わらないっすよね?」
「いえ、二十五ですけど」
「若いじゃないすか」
「そんなことより私、君と一緒にいると援交みたいに思われるんじゃ……」
「お姉さん、面白いこと言いますね」
月都くんが、私の発言にお腹を抱えて笑いだす。
何がそんなに面白いのだ。
別にウケを狙ったつもりはないのだけれど。
くだらないやりとりを交わすうちに、ホームに辿り着いた。電光掲示板を確認すると、五分後に次の列車が来るようだ。
「それ、なんすか?」
列車を待つ間、月都くんが私の提げている小さな紙袋について尋ねてきた。書店のロゴが入ったそれには、一冊の少女漫画が入っている。
途端に恥ずかしくなって紙袋を後ろ手に回した。
恋愛脳の人間に思われて、からかわれるのは癪だった。
隠そうとする私の素振りが気に障ったのか、月都くんは半ば強引に袋の中身を覗こうとしてくる。
「ねえ、僕に見せてよ」
彼が上目遣いに私の手首を掴む。ここぞとばかりに崩された語尾に、胸がドキリとする。
私は観念して紙袋の口を開き、自分からさっき購入した書籍をさらけだした。年下相手に全く情けない。
月都くんが『訳愛』に手を伸ばす。表紙を見つめ、パラパラとページを繰って、「あ!」と声をあげる。
「これ知ってるっす。映画観に行きましたよ」
「もしかして君も好きなの?」
「いや、全く。女の人の付き添いで行っただけっすね」
「あ、そう」
落胆している自分に気がついて、私は思うよりも他人との交流に飢えているのだと自覚した。
「女の人の」という表現が気にかかったけれど、それを問い詰めれば、彼の内面の深いところまでに踏み入ってしまいそうで躊躇する。
「こういうの憧れてるんすか」
月都くんは未だ、表紙に描かれたイラストを注視している。
その言い方には、こちらを蔑むようなニュアンスが含まれているのが分かった。彼の歪んだ口角が何よりの証拠だった。
「なんか悪い?」
私は容赦なく声を尖らす。
少女漫画みたいな純愛に恋焦がれていることの何がいけないのか。
彼は見るからに女慣れしていて、まだ子どものくせにして生意気で、こんなやつに私の痛みなんて理解できっこない。
列車がホームに入ってくるのが見えた。
それは緩やかにスピードを落として、定位置に停車した。
アナウンスと共に、扉が開く。
私はその瞬間、月都くんの手もとから漫画本を引ったくって、急いで別の車両に駆けようと思った。でも、結局は思った、だけだった。
私がそうするよりも早く、彼は漫画本を抱えたまま目の前の扉に飛び込んだ。
「ちょっと返してよ!」
追随して、私も同じ車両に乗る。
車内は満杯で、次から次に乗り込んでくる人の波に押し潰されるかたちで、私たちの体は向かいあわせに密着した。
扉が閉まってから、月都くんはあっさりと私に『訳愛』を返してくれた。
一体何が目的だったのか。
「このまま終点まで行かない?」
走りだした列車のなかで、月都くんが上目遣いに囁く。
恐らく彼の背丈は百七十ほどで、女性の平均よりも十五センチある私の方が、若干目線が高いのだ。
この路線にはあまり乗らないので、終点と言われても咄嗟に駅名が思い浮かばない。
私は電光掲示板の表示を、必死に思いだそうとする。
そうだ、『セレネ遊園地前』行き。
「なんで?」
まず抱いたのは疑問だった。
どうして私が、今さっき出会ったばかりの彼と遊園地なんかに行かなくてはならないのだ。ますます援交感が増してくるじゃないか。
「普通の高校生みたいなデートがしたいんすよね?」
「はあ? 馬鹿にしないでよ。私のこと、どこぞの拗らせ女子だとか思ってる?」
「はい。違うんすか?」
月都くんが大真面目といった様子で聞き返してくる。
なんて憎たらしい。
各駅に停まる度、列車は多くの人を吐きだして、車内のスペースにゆとりができる。
そうやって、だんだん郊外に近づいていく。
「遅れた青春、取り戻させてあげますよ」
気づけば、当たり前のように私の手をとっていた彼が、にっこりと微笑む。
遅れた青春。高校生みたいな普通のデート。性欲に支配されない純愛。
悔しいけれど、それはどうしようもなく魅力的な提案だった。
*
「うわー、どっちにします?」
そのまま遊園地へ、と思いきや、なぜか私たちは途中駅のデパートで仲良くショッピングをしていた。
仕事帰りの私はスーツを着用していて、それが月都くんには不満のようだった。
彼は「デートにスーツはないっすよ。僕、女の子が好きなショップ詳しいんで行きましょう」と言いだして、いかにも価格帯の高そうなアパレル店に私を案内した。いや、訂正。連行された。
今、月都くんの手には二種類のワンピースがある。片方は淡いブルーの小花柄で、もう一つはネイビーのシックなデザイン。
彼は私の体に、二つのワンピースを交互に合わせながら頭を悩ませている。
「そもそも、これ私が着るんだよね? 会計も私もちなんだよね?」
流されるままの私は、念の為に確認を図る。
「はい。そうっすけど」
それなら、彼主体で服を決めているこの現状はおかしいのでは?
「じゃあこっちで!」
私は乱暴な手つきでネイビーの方を掴んだ。
適当に選んだふうを装ったけれど、最初から答えは決まっていた。小花柄の方は丈が短くて、内もものアザが露出する可能性があったからだ。
「そんな簡単に決めちゃいます?」
月都くんは何やら口惜しそうな感じで、手に残された小花柄ワンピースを元の位置まで戻しに行った。
その間に私はレジに向かって会計を済ませる。
店を出ると、すぐさま御手洗いに寄った。
個室のなかで、堅苦しいスーツから購入したワンピースにそそくさと着替える。
「ごめん、着替え終わった」
近くに自動販売機が設置された休憩スペースの一角で、月都くんは退屈そうにスマホを操作していた。
「似合うね」
それが第一声だった。
彼は私の姿を認めると、上から下に視線をスライドさせてから再び目を合わせて、それだけ言った。
「可愛いね」でも「綺麗だね」でもなくて、「似合うね」と。洋服単体ではなく、ワンピースを着ている私そのものを前提に置いた褒め言葉。
胸が苦しくなった。
喉が熱くなって、訳も分からず涙が出そうになった。
こんな感情は知らない。
今までに知らなかった熱を帯びた感情に、私はひどく困惑していた。
「これでデートっぽくなりましたね」
月都くんが笑って私の手を握る。
「じゃあ行きましょうか」
歩きだしたその時、向かいの雑貨屋に貼りだされたバーゲンセールの赤いチラシが目に飛び込んできた。
瞬間、私は彼の手を振り払った。まるで吸い寄せられるみたいに、セール商品が詰め込まれたワゴンの方に足を運ぶ。
「急にどうしたんすか」
後方から月都くんの焦ったような声がする。
でも、そんなことよりも。
私の視界を捉えて離さないのは、目の前のポップの文字だった。
『訳あり商品』
ああ、ここにあるのは全部、欠陥品なのだな。
外箱が潰れた化粧品、ミスプリントのTシャツ、キズの入ったバッグ。
見た目が損なわれたら、安値で売られて。それでも買値がつかなければ、在庫処分されて。
そう思ったら、たまらなくなった。
目頭が熱くなって、今度こそ涙が溢れた。
周りにいる誰もが頭のおかしいやつだと、私を非難の目で見ているのだろう。
涙を拭って、呼吸を整えて。
いつの間にか隣に彼がいた。
「こんな安くていいんすかね。使えればなんの問題もないのに」
月都くんが、ワゴンのなかの商品を物色しながら呟く。
使えれば何の問題もない。
きっと、全然本質的ではないその言葉に、救われる思いがした。
「ごめん。なんかいいのあるかなって、ちょっと見てただけだから」
「はい。大丈夫っすよ」
月都くんが優しく笑った。
私が泣いた理由を、彼は聞かなかった。
*
セレネ遊園地といえば、誰もが月の満ち欠けをモチーフにしたあの観覧車を思い浮かべるだろう。
夜になるとライトアップされるそれは、とても幻想的な雰囲気を纏う。
名物の大きな観覧車は、園の外からでもよく見えた。
私は、入口の券売所でナイトパスのチケットを二枚購入した。
料金は私もちである。まあ、相手は学生だし。
月都くんに一枚手渡して、一緒に入場する。
もうすぐクリスマスシーズンだ。イルミネーションで彩られた園内は、泣きたくなるくらい綺麗だった。
閉園は二十二時なので、あと二時間しかいられない。
「せっかくだし、被り物買いません?」
月都くんの提案で、私たちは近くのギフトショップに駆け込んだ。
セレネ遊園地のマスコットキャラクターである、兎のウサコをイメージしたカチューシャを、お揃いで二つ分買った。
二人してうさ耳を生やして、馬鹿みたいに笑いあった。今夜だけは馬鹿でいさせてほしかった。
限られた時間のなかで、私たちは目一杯楽しもうと色んなことをした。
ロケットを模した乗り物に乗って、ドーム施設でプラネタリウムを鑑賞して、ゲームセンターでプリクラを撮って、出店でホットチョコレートを買って飲んだ。
まだ行けてないエリアがあるけれど、時間の関係上仕方ない。
残すは観覧車だ。やっぱり、これに乗らない訳にはいかない。
観覧車の前には行列ができていて、私たちは最後尾に並んだ。
並んだ、その瞬間だった。「ここまで」と係員によって列が打ち切られた。閉園に間にあわないからだろう。
「危ないっすね」
「うん、ぎりぎりだった」
ゴンドラの月が何度も満ちて、列がゆっくりと進んでいく。
やがて、私たちの順番が来た。
満月のゴンドラだった。
月都くんは、先に私が乗るよう促してくれた。おぼつかない足どりでゴンドラに上がり、それに彼も続く。
係員が扉を閉め、私たちを乗せたゴンドラは空へ上昇していく。
「今日はありがとう」
私は言いながら、自分の言葉に傷ついていた。
これで終わりなんて悲しかった。
もう会えなくなるなんて嫌だった。
認めなければならない。
私は月都くんに、恋をしている。
「こちらこそ。ウサミさんと遊べて楽しかったっす」
彼が淡々と返す。何千回と口にしてきた台詞なのだろうな、と思って胸が辛くなる。
ガラス窓の向こうでは、徐々に園内の景色が小さくなって、電飾の光だけが存在感を放つようになる。赤や青や白の光が、夜の闇に浮かびあがる。
「僕に、なにか言いたいことあるんじゃないっすか?」
「え?」
まさか、見破られているのだろうか。こんな無様な恋心に、気がつかれているのだろうか。
私が言葉に困っていると、月都くんは突然立ちあがった。そのせいで、ゴンドラが左右に揺れる。
「ちょっと、揺れるからやめてよ」
彼はこちらに近づいて跪き、私の左足をそっと慈しむように撫でた。
背筋がぞくっとした。
心臓がバクバク鳴って煩かった。
「なんの真似?」
私は強がって声を張りあげる。
それでも、月都くんは気に留める様子がない。
彼は無言で、私のワンピースの裾のなかに手を差し込んだ。そのまま私の素肌を滑って、ふくらはぎを撫で、膝の辺りを撫で、太ももに差しかかろうとした。
嫌だ、と思った。
私の傷に触れられたくない。
「いい加減にしてよ!」
私は布地の上から、精一杯の力で月都くんの手を叩いた。
それで、彼は大人しく手を引っ込めた。
「最低! 二度と私に触れないで!」
「僕のこと嫌いになった?」
「うん、最初から嫌いだったよ。傲慢だし、生意気だし、なんかずっと上から目線だし。ちょっと顔がいいからって、なんでも思い通りにいくとか過信してんなら大間違いだから」
言いながら、そうじゃないよな、と思う。
さっき触られて嫌だったのは、私のコンプレックスに気づいた彼に幻滅されたくなかったからだよな。
「足、コンプレックスなんすよね?」
月都くんが言う。
なんでだよ。
なんで、見透かされてるんだよ。
「スーツもスラックスでしたし、ワンピースも丈の長いほう選んでましたし」
「それだけで分かっちゃうんだ? すごいね。なに、心読めちゃう系?」
「お姉さん、分かりやすいっすよ」
彼が窘めるようにそう言った。
子どもをあやす時のような口調に苛ついた。
「僕に吐きだしてみません?」
「なんで君なんかに」
「見ず知らずの他人のほうが案外話しやすかったりしないっすか? 大丈夫。僕とお姉さんだけの秘密にしますから」
「ほんと生意気」
誰にもこの傷を知られたくないと思う反面、全部打ち明けてしまいたいな、と思う自分がいるのも確かだった。
話したら楽になれるのかもしれなかった。
前に進めるのかもしれなかった。
ゴンドラは頂上を通過して、下降に入ろうとしている。
「私、生まれつきアザがあってさ、しかも結構大きくて。手術で取り除こうにも、確実に傷は残っちゃうだろうし、綺麗に失くすことは無理かなって感じで」
「うん」
「やっぱり男の人はさ、傷もアザもなにもない綺麗な肌が好きでしょ? いざ付き合ってからさ、思ってたのと違ったとかって幻滅されるの嫌だなって」
話しながら、月都くんの顔を窺う。
彼は優しく微笑んで、私に続きを促す素振りを見せる。
「だから、こんな私は一生まともな恋愛できないんじゃないかって怖くなるの。一人寂しく死んでいくのかなって。生まれた時から訳ありなんて、ひどい話じゃない? こんなんなら生まれてこなきゃ良かったのにね 」
生まれてこなければ良かった。
本当にそうだ。
生まれてさえこなければ、苦しさも悲しさも知らないままで済んだのに。
こんなことを言うと、世の中にはお前なんかよりもっと辛い人がたくさんいるんだよとか、お前の痛みなんて大したことないだろとか、色々と非難を受けるのかもしれない。
もちろん、私より大きなアザに苦しんでる人もいる。露出せざるを得ない箇所に傷があって、生きづらさを抱えている人もいるだろう。
だったら何だよ、と思う。
私のアザは、私の傷は、私の痛みは、私だけのもののはずだ。誰かに否定されていいはずがない。
「ちゃんと言えて偉いね」
頭に温かさを感じた。
月都くんが、私の頭を柔らかに撫でていた。
ずるいな。
最初から彼の手のひらの上で踊らされていた。
そうやって距離を詰めてくる時に、語尾を崩すところが好きだ。恐らくはそれを意図的にやっている計算高いところが好きだ。何よりも、ちゃんと私の中身を見てくれているところが好きだ。
「好き」
想いが、溢れた。
伝えなければ後悔する気がした。
「ありがとう」
月都くんが軽やかに笑った。
それで、流されたのだと分かった。
ここで泣いたらあんまり惨めだから、意地で堪えた。
ゴンドラを降りた私たちは、園内を後にした。
もうすぐ時刻は二十二時を回る。
一晩限りの恋愛ごっこは、これでお終いだ。そろそろ夢から醒めなくてはいけない。
駅前で唐突に、月都くんがトートバッグの中から、ラッピングされた小包を取りだした。
「これ、あげます。本当は観覧車のなかで渡そうと思ってたんすけど、タイミング失っちゃって」
手渡されたそれを、おそるおそる受けとる。
開けてみると、お店で悩んでいたもう片方のワンピースが出てきた。丈の短い、淡いブルーの小花柄ワンピース。
「どうして?」
「お姉さんがトイレで着替えてる間に買っときました」
「違う! そういうことを聞いてるんじゃなくて」
沈黙があった。
ずいぶんな間を置いてから、月都くんは綺麗な笑みを浮かべて言った。
「着たい服、着ましょうよ」
ああ、そこまで見透かされていたのか。
学生の頃から、制服はスラックスを選択してきた。本当はずっと可愛いスカートに憧れていた。
気づけば二十代の半分が終わろうとしていて、若いうちにミニスカ履かなきゃ、と周りの子たちがはしゃいでいるのが羨ましかった。
月都くんが思いだしたように、「あとこれ」と言いながら肌色のシールのようなものを差しだしてくる。
「タトゥー隠しっすよ」
「なんでこれを?」
月都くんは返答する代わりに、自身のシャツの右袖を肩まで捲りあげた。
私は目を見張った。
彼の二の腕には、大きな狼のタトゥーが入っていた。幼い顔立ちとのギャップに驚く。
「こういうの苦手な女の人もいるんで、持ち歩くようにしてるんすよ」
どこまで本気なのか、月都くんはそう言って笑った。
彼は本当によく笑う。まるで、自衛するみたいに。相手との間に絶対的な壁をつくるみたいに。
「勘違いしてほしくないんすけど、これは一個の提案でしかないですよ。傷を隠すも隠さないも個人の自由ですし。隠すことで少しでも息がしやすくするなら、それでいいと思うんすよ。他人が言う、ありのままを受け入れるなんて、結局は綺麗事っすからね」
ああ、この人は。
痛みを知っている側の人間なんだ。
喉が焦げて、目頭が熱くて、息が苦しい。視界がぼやけて、頬にいく筋もの涙が伝っていく。
「生きやすいほうに逃げて、逃げて、逃げ続けて。最低な世界をなんとか生き延びていきましょう」
これを伝えるためだけに、月都くんは私を誘ったのだ。出会った瞬間から、私の本質は見抜かれていたのだ。
「ありがとう。最後に一つだけお願い聞いてくれる?」
「いいっすよ」
息を吸って、吐いた。
真っ直ぐに彼を見つめる。
「ハグしたい」
「うん」
月都くんは簡単に頷いて、私との距離を詰める。
背中と頭の後ろに彼の手が宛てがわれて、そのまま引き寄せられた。
彼の肩口に顔を押し当てて、私は一生分泣いた。
私の心臓はこんなに煩いのに、彼の鼓動が平常であることに泣いた。
いつか私たちに朝が訪れますように。
彼の体温に触れながら、それだけをひたすらに祈った。
その時間、その場所で、偶然にも彼と出会わなければ、遅すぎる初恋を知らないままでいられたのに。
アラサーの基準は二十代後半からなのだと聞いた。だとすれば、二十五の私はもうアラサーに差しかかっている。
私は未だ、一度も恋愛経験がない。ましてや、人を好きになったことすらない。
私が人を好きになれないのには、実を言うと分かりやすい理由がある。
それは、生まれつきの黒アザだ。
私は自身の左内ももに広がるグロステスクなアザのせいで、恋に対して臆病になっているに違いなかった。
直径十センチメートルにも及ぶメラニン色素の異常は、私の精神を着実に蝕んできた。
手術を考えて医者にも行ったけれど、治療にはレーザーと切除の二通りがあって、私のケースはどちらも長い通院と大きなリスクを伴うというような説明を受けた。
結局、かかる費用や術後の後遺症を考慮して、手術を受けるのはやめにしたのだった。
多くの場合、恋愛には性欲が付きまとう。
それが、私は嫌だった。知られたくないコンプレックスに触れられるかもしれない可能性が嫌だった。
言葉にならない愛情表現? そんなのは、たかが一瞬の快楽に負けたことの言い訳みたいにしか聞こえない。
身体の接触でしか愛を確かめられないような恋なんて、あまりに残酷だ。
*
退社後に、駅前の本屋に寄った。
真っ直ぐに向かったのは、漫画の新刊コーナーだった。今日は好きな少女漫画『訳愛』シリーズの続巻が発売される日なのだ。
『訳愛』とは、『訳ありだって愛してくれ』というタイトルの略称で、実写映画化にもなった大人気シリーズだ。
醜形恐怖症の内気な女の子が、学年一人気者の快活な男の子と距離を縮めていくストーリーで、どうしても主人公を私自身に重ねてしまう。
新刊コーナーには、ちゃんと目当ての品があった。平積みされたなかから一冊手に取る。
無事に『訳愛』の新巻を手に入れた私は、満ち足りた気分で書店を後にした。
定期券をかざして駅の改札を潜る。
ちょうど通勤ラッシュの時間で、毎度のことながらホームにはおびただしい人が溢れていた。
いつもの光景、のはずなのだけれど。
何だか違和感があった。
ラッシュ時にしても、人が多すぎるのだ。よく見るとみんなそわそわとして、落ち着かない素振りをしている。
遅延でもあったのだろうか。
ホームから改札口の方に戻ってみると、駅員を囲むようにして人集りができていた。
どうやら人身事故があって、その処理に時間がかかっているらしい。
「これなんの騒ぎっすか」
いつの間にか、遠巻きに人々の様子を窺っていた私の隣に、知らない男の子が立っていた。ミルクティー色の綺麗な髪をしている。
一瞬思考が停止して、彼が私に声をかけているのだと遅れて気がついた。
「人身事故があったみたいで、運行にはしばらく時間がかかるようです」
内心、異性との会話に緊張しながら、努めて冷静にそう答える。
「遺体処理っすかね」
「この時間のかかり方だと、そうでしょうね」
遺体処理というワードに、私は線路に散らばった肉片を想像して軽く身震いする。
「線路に飛び込む人の気が知れないな。私が自殺するなら、もっとひっそりした方法を選ぶけれど」
それは半ば、独り言のようなものだった。
早く帰ってゆっくり漫画が読みたいのに、という些細な不満から発露されたものだった。
「死を選ぶほど追い詰められている人間に、周囲への配慮を求めるなんて酷な話じゃないっすか」
ミルクティーの男の子が、私を咎めるような口調で言う。彼に他意はないのだろうけれど、年下から説教を喰らったようで、情けない思いがする。
その時、構内のアナウンスが流れた。運行の見通しが立たないので、他の路線から乗り換えて移動することを推奨するというものだった。
「行きましょうか」
ミルクティーの男の子が、当然のように私を見た。
まさか一緒に行動するつもりなのか。初対面のくせにずいぶんと馴れ馴れしい。
「あれ、同じ方面っすよね? 行きましょうよ」
私が立ち尽くしたままでいると、彼は何食わぬ顔でこちらの袖を掴んでくる。軽く引っ張られ、仕方なく足を踏みだした。
二人並んで、人混みのなかを縫いながら進んでいく。
「僕、月都っていうんすよ。月の都でつきと。大層な名前っすよね。あ、気軽にツッキーって呼んでくださいね。みんなそう呼ぶんで」
歩きながら、ミルクティーの男の子が意気揚々と自己紹介をしてきた。
「あ、はい。じゃあ月都くんでいきます」
そっちのペースに呑み込まれてたまるか、と牽制のつもりで冷たく返す。
しかし、月都くんはさっきから貼りつけている笑みをなかなか崩さない。
「えー、つれないなあ。お姉さんは?」
「はい?」
「名前、なんて呼べばいいすか?」
月都くんが私の顔を覗き込むようにして尋ねる。
フルネームを晒すのは何だかはばかられて、私は「宇佐美です」と名字だけを答えた。
「ウサミさんね」
私の名前を復唱しながら、月都くんは満足そうに頷く。
その横顔はやはり整っていて、滑らかな肌に嫉妬さえ覚える。
ふと、彼の年齢が気になった。私よりずっと幼く見えるけれど、学生だろうか。髪を明るく染めているようだし。
「たぶん、学生さんですよね?」
「そうすね、二学年。今年で二十歳になるんすよ」
「え、うそ」
絶句する。
まさかの十代。恐ろしい。
「でも、ウサミさんもそんな変わらないっすよね?」
「いえ、二十五ですけど」
「若いじゃないすか」
「そんなことより私、君と一緒にいると援交みたいに思われるんじゃ……」
「お姉さん、面白いこと言いますね」
月都くんが、私の発言にお腹を抱えて笑いだす。
何がそんなに面白いのだ。
別にウケを狙ったつもりはないのだけれど。
くだらないやりとりを交わすうちに、ホームに辿り着いた。電光掲示板を確認すると、五分後に次の列車が来るようだ。
「それ、なんすか?」
列車を待つ間、月都くんが私の提げている小さな紙袋について尋ねてきた。書店のロゴが入ったそれには、一冊の少女漫画が入っている。
途端に恥ずかしくなって紙袋を後ろ手に回した。
恋愛脳の人間に思われて、からかわれるのは癪だった。
隠そうとする私の素振りが気に障ったのか、月都くんは半ば強引に袋の中身を覗こうとしてくる。
「ねえ、僕に見せてよ」
彼が上目遣いに私の手首を掴む。ここぞとばかりに崩された語尾に、胸がドキリとする。
私は観念して紙袋の口を開き、自分からさっき購入した書籍をさらけだした。年下相手に全く情けない。
月都くんが『訳愛』に手を伸ばす。表紙を見つめ、パラパラとページを繰って、「あ!」と声をあげる。
「これ知ってるっす。映画観に行きましたよ」
「もしかして君も好きなの?」
「いや、全く。女の人の付き添いで行っただけっすね」
「あ、そう」
落胆している自分に気がついて、私は思うよりも他人との交流に飢えているのだと自覚した。
「女の人の」という表現が気にかかったけれど、それを問い詰めれば、彼の内面の深いところまでに踏み入ってしまいそうで躊躇する。
「こういうの憧れてるんすか」
月都くんは未だ、表紙に描かれたイラストを注視している。
その言い方には、こちらを蔑むようなニュアンスが含まれているのが分かった。彼の歪んだ口角が何よりの証拠だった。
「なんか悪い?」
私は容赦なく声を尖らす。
少女漫画みたいな純愛に恋焦がれていることの何がいけないのか。
彼は見るからに女慣れしていて、まだ子どものくせにして生意気で、こんなやつに私の痛みなんて理解できっこない。
列車がホームに入ってくるのが見えた。
それは緩やかにスピードを落として、定位置に停車した。
アナウンスと共に、扉が開く。
私はその瞬間、月都くんの手もとから漫画本を引ったくって、急いで別の車両に駆けようと思った。でも、結局は思った、だけだった。
私がそうするよりも早く、彼は漫画本を抱えたまま目の前の扉に飛び込んだ。
「ちょっと返してよ!」
追随して、私も同じ車両に乗る。
車内は満杯で、次から次に乗り込んでくる人の波に押し潰されるかたちで、私たちの体は向かいあわせに密着した。
扉が閉まってから、月都くんはあっさりと私に『訳愛』を返してくれた。
一体何が目的だったのか。
「このまま終点まで行かない?」
走りだした列車のなかで、月都くんが上目遣いに囁く。
恐らく彼の背丈は百七十ほどで、女性の平均よりも十五センチある私の方が、若干目線が高いのだ。
この路線にはあまり乗らないので、終点と言われても咄嗟に駅名が思い浮かばない。
私は電光掲示板の表示を、必死に思いだそうとする。
そうだ、『セレネ遊園地前』行き。
「なんで?」
まず抱いたのは疑問だった。
どうして私が、今さっき出会ったばかりの彼と遊園地なんかに行かなくてはならないのだ。ますます援交感が増してくるじゃないか。
「普通の高校生みたいなデートがしたいんすよね?」
「はあ? 馬鹿にしないでよ。私のこと、どこぞの拗らせ女子だとか思ってる?」
「はい。違うんすか?」
月都くんが大真面目といった様子で聞き返してくる。
なんて憎たらしい。
各駅に停まる度、列車は多くの人を吐きだして、車内のスペースにゆとりができる。
そうやって、だんだん郊外に近づいていく。
「遅れた青春、取り戻させてあげますよ」
気づけば、当たり前のように私の手をとっていた彼が、にっこりと微笑む。
遅れた青春。高校生みたいな普通のデート。性欲に支配されない純愛。
悔しいけれど、それはどうしようもなく魅力的な提案だった。
*
「うわー、どっちにします?」
そのまま遊園地へ、と思いきや、なぜか私たちは途中駅のデパートで仲良くショッピングをしていた。
仕事帰りの私はスーツを着用していて、それが月都くんには不満のようだった。
彼は「デートにスーツはないっすよ。僕、女の子が好きなショップ詳しいんで行きましょう」と言いだして、いかにも価格帯の高そうなアパレル店に私を案内した。いや、訂正。連行された。
今、月都くんの手には二種類のワンピースがある。片方は淡いブルーの小花柄で、もう一つはネイビーのシックなデザイン。
彼は私の体に、二つのワンピースを交互に合わせながら頭を悩ませている。
「そもそも、これ私が着るんだよね? 会計も私もちなんだよね?」
流されるままの私は、念の為に確認を図る。
「はい。そうっすけど」
それなら、彼主体で服を決めているこの現状はおかしいのでは?
「じゃあこっちで!」
私は乱暴な手つきでネイビーの方を掴んだ。
適当に選んだふうを装ったけれど、最初から答えは決まっていた。小花柄の方は丈が短くて、内もものアザが露出する可能性があったからだ。
「そんな簡単に決めちゃいます?」
月都くんは何やら口惜しそうな感じで、手に残された小花柄ワンピースを元の位置まで戻しに行った。
その間に私はレジに向かって会計を済ませる。
店を出ると、すぐさま御手洗いに寄った。
個室のなかで、堅苦しいスーツから購入したワンピースにそそくさと着替える。
「ごめん、着替え終わった」
近くに自動販売機が設置された休憩スペースの一角で、月都くんは退屈そうにスマホを操作していた。
「似合うね」
それが第一声だった。
彼は私の姿を認めると、上から下に視線をスライドさせてから再び目を合わせて、それだけ言った。
「可愛いね」でも「綺麗だね」でもなくて、「似合うね」と。洋服単体ではなく、ワンピースを着ている私そのものを前提に置いた褒め言葉。
胸が苦しくなった。
喉が熱くなって、訳も分からず涙が出そうになった。
こんな感情は知らない。
今までに知らなかった熱を帯びた感情に、私はひどく困惑していた。
「これでデートっぽくなりましたね」
月都くんが笑って私の手を握る。
「じゃあ行きましょうか」
歩きだしたその時、向かいの雑貨屋に貼りだされたバーゲンセールの赤いチラシが目に飛び込んできた。
瞬間、私は彼の手を振り払った。まるで吸い寄せられるみたいに、セール商品が詰め込まれたワゴンの方に足を運ぶ。
「急にどうしたんすか」
後方から月都くんの焦ったような声がする。
でも、そんなことよりも。
私の視界を捉えて離さないのは、目の前のポップの文字だった。
『訳あり商品』
ああ、ここにあるのは全部、欠陥品なのだな。
外箱が潰れた化粧品、ミスプリントのTシャツ、キズの入ったバッグ。
見た目が損なわれたら、安値で売られて。それでも買値がつかなければ、在庫処分されて。
そう思ったら、たまらなくなった。
目頭が熱くなって、今度こそ涙が溢れた。
周りにいる誰もが頭のおかしいやつだと、私を非難の目で見ているのだろう。
涙を拭って、呼吸を整えて。
いつの間にか隣に彼がいた。
「こんな安くていいんすかね。使えればなんの問題もないのに」
月都くんが、ワゴンのなかの商品を物色しながら呟く。
使えれば何の問題もない。
きっと、全然本質的ではないその言葉に、救われる思いがした。
「ごめん。なんかいいのあるかなって、ちょっと見てただけだから」
「はい。大丈夫っすよ」
月都くんが優しく笑った。
私が泣いた理由を、彼は聞かなかった。
*
セレネ遊園地といえば、誰もが月の満ち欠けをモチーフにしたあの観覧車を思い浮かべるだろう。
夜になるとライトアップされるそれは、とても幻想的な雰囲気を纏う。
名物の大きな観覧車は、園の外からでもよく見えた。
私は、入口の券売所でナイトパスのチケットを二枚購入した。
料金は私もちである。まあ、相手は学生だし。
月都くんに一枚手渡して、一緒に入場する。
もうすぐクリスマスシーズンだ。イルミネーションで彩られた園内は、泣きたくなるくらい綺麗だった。
閉園は二十二時なので、あと二時間しかいられない。
「せっかくだし、被り物買いません?」
月都くんの提案で、私たちは近くのギフトショップに駆け込んだ。
セレネ遊園地のマスコットキャラクターである、兎のウサコをイメージしたカチューシャを、お揃いで二つ分買った。
二人してうさ耳を生やして、馬鹿みたいに笑いあった。今夜だけは馬鹿でいさせてほしかった。
限られた時間のなかで、私たちは目一杯楽しもうと色んなことをした。
ロケットを模した乗り物に乗って、ドーム施設でプラネタリウムを鑑賞して、ゲームセンターでプリクラを撮って、出店でホットチョコレートを買って飲んだ。
まだ行けてないエリアがあるけれど、時間の関係上仕方ない。
残すは観覧車だ。やっぱり、これに乗らない訳にはいかない。
観覧車の前には行列ができていて、私たちは最後尾に並んだ。
並んだ、その瞬間だった。「ここまで」と係員によって列が打ち切られた。閉園に間にあわないからだろう。
「危ないっすね」
「うん、ぎりぎりだった」
ゴンドラの月が何度も満ちて、列がゆっくりと進んでいく。
やがて、私たちの順番が来た。
満月のゴンドラだった。
月都くんは、先に私が乗るよう促してくれた。おぼつかない足どりでゴンドラに上がり、それに彼も続く。
係員が扉を閉め、私たちを乗せたゴンドラは空へ上昇していく。
「今日はありがとう」
私は言いながら、自分の言葉に傷ついていた。
これで終わりなんて悲しかった。
もう会えなくなるなんて嫌だった。
認めなければならない。
私は月都くんに、恋をしている。
「こちらこそ。ウサミさんと遊べて楽しかったっす」
彼が淡々と返す。何千回と口にしてきた台詞なのだろうな、と思って胸が辛くなる。
ガラス窓の向こうでは、徐々に園内の景色が小さくなって、電飾の光だけが存在感を放つようになる。赤や青や白の光が、夜の闇に浮かびあがる。
「僕に、なにか言いたいことあるんじゃないっすか?」
「え?」
まさか、見破られているのだろうか。こんな無様な恋心に、気がつかれているのだろうか。
私が言葉に困っていると、月都くんは突然立ちあがった。そのせいで、ゴンドラが左右に揺れる。
「ちょっと、揺れるからやめてよ」
彼はこちらに近づいて跪き、私の左足をそっと慈しむように撫でた。
背筋がぞくっとした。
心臓がバクバク鳴って煩かった。
「なんの真似?」
私は強がって声を張りあげる。
それでも、月都くんは気に留める様子がない。
彼は無言で、私のワンピースの裾のなかに手を差し込んだ。そのまま私の素肌を滑って、ふくらはぎを撫で、膝の辺りを撫で、太ももに差しかかろうとした。
嫌だ、と思った。
私の傷に触れられたくない。
「いい加減にしてよ!」
私は布地の上から、精一杯の力で月都くんの手を叩いた。
それで、彼は大人しく手を引っ込めた。
「最低! 二度と私に触れないで!」
「僕のこと嫌いになった?」
「うん、最初から嫌いだったよ。傲慢だし、生意気だし、なんかずっと上から目線だし。ちょっと顔がいいからって、なんでも思い通りにいくとか過信してんなら大間違いだから」
言いながら、そうじゃないよな、と思う。
さっき触られて嫌だったのは、私のコンプレックスに気づいた彼に幻滅されたくなかったからだよな。
「足、コンプレックスなんすよね?」
月都くんが言う。
なんでだよ。
なんで、見透かされてるんだよ。
「スーツもスラックスでしたし、ワンピースも丈の長いほう選んでましたし」
「それだけで分かっちゃうんだ? すごいね。なに、心読めちゃう系?」
「お姉さん、分かりやすいっすよ」
彼が窘めるようにそう言った。
子どもをあやす時のような口調に苛ついた。
「僕に吐きだしてみません?」
「なんで君なんかに」
「見ず知らずの他人のほうが案外話しやすかったりしないっすか? 大丈夫。僕とお姉さんだけの秘密にしますから」
「ほんと生意気」
誰にもこの傷を知られたくないと思う反面、全部打ち明けてしまいたいな、と思う自分がいるのも確かだった。
話したら楽になれるのかもしれなかった。
前に進めるのかもしれなかった。
ゴンドラは頂上を通過して、下降に入ろうとしている。
「私、生まれつきアザがあってさ、しかも結構大きくて。手術で取り除こうにも、確実に傷は残っちゃうだろうし、綺麗に失くすことは無理かなって感じで」
「うん」
「やっぱり男の人はさ、傷もアザもなにもない綺麗な肌が好きでしょ? いざ付き合ってからさ、思ってたのと違ったとかって幻滅されるの嫌だなって」
話しながら、月都くんの顔を窺う。
彼は優しく微笑んで、私に続きを促す素振りを見せる。
「だから、こんな私は一生まともな恋愛できないんじゃないかって怖くなるの。一人寂しく死んでいくのかなって。生まれた時から訳ありなんて、ひどい話じゃない? こんなんなら生まれてこなきゃ良かったのにね 」
生まれてこなければ良かった。
本当にそうだ。
生まれてさえこなければ、苦しさも悲しさも知らないままで済んだのに。
こんなことを言うと、世の中にはお前なんかよりもっと辛い人がたくさんいるんだよとか、お前の痛みなんて大したことないだろとか、色々と非難を受けるのかもしれない。
もちろん、私より大きなアザに苦しんでる人もいる。露出せざるを得ない箇所に傷があって、生きづらさを抱えている人もいるだろう。
だったら何だよ、と思う。
私のアザは、私の傷は、私の痛みは、私だけのもののはずだ。誰かに否定されていいはずがない。
「ちゃんと言えて偉いね」
頭に温かさを感じた。
月都くんが、私の頭を柔らかに撫でていた。
ずるいな。
最初から彼の手のひらの上で踊らされていた。
そうやって距離を詰めてくる時に、語尾を崩すところが好きだ。恐らくはそれを意図的にやっている計算高いところが好きだ。何よりも、ちゃんと私の中身を見てくれているところが好きだ。
「好き」
想いが、溢れた。
伝えなければ後悔する気がした。
「ありがとう」
月都くんが軽やかに笑った。
それで、流されたのだと分かった。
ここで泣いたらあんまり惨めだから、意地で堪えた。
ゴンドラを降りた私たちは、園内を後にした。
もうすぐ時刻は二十二時を回る。
一晩限りの恋愛ごっこは、これでお終いだ。そろそろ夢から醒めなくてはいけない。
駅前で唐突に、月都くんがトートバッグの中から、ラッピングされた小包を取りだした。
「これ、あげます。本当は観覧車のなかで渡そうと思ってたんすけど、タイミング失っちゃって」
手渡されたそれを、おそるおそる受けとる。
開けてみると、お店で悩んでいたもう片方のワンピースが出てきた。丈の短い、淡いブルーの小花柄ワンピース。
「どうして?」
「お姉さんがトイレで着替えてる間に買っときました」
「違う! そういうことを聞いてるんじゃなくて」
沈黙があった。
ずいぶんな間を置いてから、月都くんは綺麗な笑みを浮かべて言った。
「着たい服、着ましょうよ」
ああ、そこまで見透かされていたのか。
学生の頃から、制服はスラックスを選択してきた。本当はずっと可愛いスカートに憧れていた。
気づけば二十代の半分が終わろうとしていて、若いうちにミニスカ履かなきゃ、と周りの子たちがはしゃいでいるのが羨ましかった。
月都くんが思いだしたように、「あとこれ」と言いながら肌色のシールのようなものを差しだしてくる。
「タトゥー隠しっすよ」
「なんでこれを?」
月都くんは返答する代わりに、自身のシャツの右袖を肩まで捲りあげた。
私は目を見張った。
彼の二の腕には、大きな狼のタトゥーが入っていた。幼い顔立ちとのギャップに驚く。
「こういうの苦手な女の人もいるんで、持ち歩くようにしてるんすよ」
どこまで本気なのか、月都くんはそう言って笑った。
彼は本当によく笑う。まるで、自衛するみたいに。相手との間に絶対的な壁をつくるみたいに。
「勘違いしてほしくないんすけど、これは一個の提案でしかないですよ。傷を隠すも隠さないも個人の自由ですし。隠すことで少しでも息がしやすくするなら、それでいいと思うんすよ。他人が言う、ありのままを受け入れるなんて、結局は綺麗事っすからね」
ああ、この人は。
痛みを知っている側の人間なんだ。
喉が焦げて、目頭が熱くて、息が苦しい。視界がぼやけて、頬にいく筋もの涙が伝っていく。
「生きやすいほうに逃げて、逃げて、逃げ続けて。最低な世界をなんとか生き延びていきましょう」
これを伝えるためだけに、月都くんは私を誘ったのだ。出会った瞬間から、私の本質は見抜かれていたのだ。
「ありがとう。最後に一つだけお願い聞いてくれる?」
「いいっすよ」
息を吸って、吐いた。
真っ直ぐに彼を見つめる。
「ハグしたい」
「うん」
月都くんは簡単に頷いて、私との距離を詰める。
背中と頭の後ろに彼の手が宛てがわれて、そのまま引き寄せられた。
彼の肩口に顔を押し当てて、私は一生分泣いた。
私の心臓はこんなに煩いのに、彼の鼓動が平常であることに泣いた。
いつか私たちに朝が訪れますように。
彼の体温に触れながら、それだけをひたすらに祈った。