半年前から、彼女もちの男の子と寝ています。

 それはいけないことなのだと分かっていて、だから今夜こそ(あお)くんとの関係を終わらせようと心に決めます。

 セフレから本命に昇格することを目指す子も多いみたいですが、わたしはそんな身のほど知らずな願望はもちません。

 連絡がくればすぐに駆けつけますし、体質に合わない低容量ピルも飲みますし、ホテル代だって払いますし、我儘は一切言いません。

 私から連絡することは禁じられているので、蒼くんからのメッセージをただひたすらに待っています。

 健気? 可哀想? いいえ、そんなことないですよ。
 好きな人と会えるだけ幸せというものじゃありませんか。
 世の中には、好きな人と会うことすら叶わない人たちがたくさんいるんですよ。

 でも、それも今日まで。今日までなんです。
 どうして、自分で幸福を断ち切るような真似をするのか?
 そんなの決まっています。わたしは蒼くんに迷惑をかけたくないからです。

 最近、蒼くんの彼女さんは浮気を疑っているみたいで、そろそろこの関係を終わらせるのに潮時かなあと思っています。

 もちろん諦めたくなんてないですが、仕方ありません。わたしにとっては、蒼くんと会えなくなることよりも、彼に迷惑をかけることで嫌われてしまうことの方がずっと恐ろしいのです。

 あ、ちょうど今通知がきました。
 期待せずに画面を開きます。

 たまに自宅へ誘ってくれることもありますが、大体はホテルに現地集合です。最後くらいは、蒼くんの家に行きたかったなあ。

 あ、あれ?

 わたしはスマホのトーク画面を見て、両目を見開きます。

〈今から僕の家に来れる?〉

 心臓が跳ねあがります。この喜びを全身で体現したくなります。
 わたしはこんなに幸せでいいんでしょうか。後で何かバチが当たるのではないでしょうか。

〈はい〉

 浮き足立つ心がバレないように、わたしは簡潔な返事を送信します。蒼くんはわたしに、余計な感情表現を望みませんから。

 日曜の夜はお誘いしてもらえることが多いので、事前にシャワーは浴びています。手荷物も準備しています。

 このまますぐに出発したいところなのですが、最終ケアのためにお手洗いへ寄ります。
 専用の洗浄器を手にして個室に入り、ワンピースの裾を託しあげ、ショーツを下ろした時のことです。

 赤黒い染みが、視界に入りました。

 なんで? どうして?

 その場で泣き崩れてしまいたくなるほど、わたしは絶望していました。

 それは本当に予想外のことでした。何しろ、予定より二週間も早いのです。ピルを服用しはじめてから周期は安定していたはずなのに。

 しかも、よりによってこのタイミング。
 最低最悪としか言いようがありませんよね。

 わたしはしばらく放心状態にありました。それでも、このままではいけないと、何とか気をもち直します。

 脱衣所に移動して、汚れたショーツをとりあえずお湯につけて、引っ張りだしてきた新しい下着に着替えます。もちろん上も。上下が揃っていないと嫌われてしまうかもしれませんので。

 ついでに洗面台でメイクのよれを直して、どうせぐちゃぐちゃになるであろう髪の巻き具合を確認します。

 そうして、せっせと一通りの準備を済ませてから、わたしはアパートの自室を後にしました。ひどく憂鬱な気分で。


 わたしは蒼くんにとって、従順で可愛くて性欲の捌け口にできる都合の良い女である自負がありますが、それと同時に狡い女でもあります。

 だから、生理がきたことを彼に知らせはしませんでした。

 わたしは今、終電間近の電車に揺られています。このぶんだと、帰りはその辺の漫画喫茶にでも寄って夜を明かすことになるでしょう。

 明日からまた出勤なので、早起きして始発でアパートに戻らねばなりません。

 車窓に映ったわたしの顔は、いくぶん疲れているように見えました。

 やがて蒼くん宅の最寄り駅に着いて、わたしは重い足どりで彼が住むマンションを目指します。
 何と彼に言い訳をしようか、どうやって別れを切りだそうか、そんなことを考えながら。


 七階の突き当たりにある扉の前に辿り着きました。一呼吸置いて、インターホンを鳴らします。

 応答がありません。

 もう一度、鳴らします。
 やっぱり、応答がありません。

 いつもならすぐに出迎えてくれるのに、どうしてでしょう?

 不安になった私は、そっとドアノブを押してみます。
 ガチャ、という音がして、扉が内側に開きました。どうやら鍵がかかっていないようです。

 入ってみると、部屋のなかは電気がついておらず真っ暗でした。

 まさか、待ちくたびれて寝てしまったのでしょうか。
 肥大化していく不安を抱えながら、狭い通路を手探りで進みます。

 次の瞬間、わたしは安堵の息を吐きました。
 ワンルームの室内の中心に、青白い月明かりに照らされた蒼くんの姿がありました。

(なぎ)ちゃん、遅かったね」

 彼はローテーブルの前で右膝を立てて座っています。わたしを認めると、電子タバコの蒸気を吐きだして、億劫そうにこちらを見あげました。

 ローテーブルの上にはビールの空き缶がたくさん見受けられます。もうかなり飲んでいる様子です。

 薄暗がりでも分かるほど、蒼くんの頬は真っ赤になっていて、ただでさえ子どもみたいな顔立ちがより幼く見えました。

 可愛いなあ、と思います。
 何度も見ている顔なのに、どうしようもなく愛おしさが溢れてきます。

 この人が、わたしだけのものだったらいいのに。
 そんな我儘な思考に支配されそうになって、ぶんぶんと首を振ります。

「遅れてごめんなさい。ちょっとハプニングがありまして」
「ハプニング?」
「あの、言いづらいんですが、生理になってしまいました」

 未だ部屋の隅に佇むわたしに、蒼くんは自分の隣のスペースをポンポンと叩きました。

 その仕草一つに胸が苦しくなって、わたしはおずおずとそちらへ移動します。
 隣にしゃがむと、一気に蒼くんとの距離が近くなって、呼吸の仕方を忘れかけます。

「なんだ、そんなことで不安になってたの?」

 彼の吐息が耳にかかって、くすぐったくて、わたしは身を竦めます。

「怒っていませんか?」
「怒るわけがないよ。凪ちゃんは僕をなんだと思ってるの?」

 蒼くんが心外だというように唇を尖らせて抗議してきます。
 ああ、もう、拗ねた顔さえもが可愛くて仕方ありません。

「今日はわたしが頑張りますから」

 わたしが意気込むと、彼は困ったように笑います。

「そんな、いいよ。無理しないで? 僕は凪ちゃんとこうやって話せてるだけで楽しいから」

 本当でしょうか。話せてるだけで楽しい? そんなことが許されるんでしょうか。
 蒼くんにとってのわたしの価値は、この貧相な体にしかないと思っていたのですが。

 彼は新しいビール缶を手にとって、乱暴にステイオンタブを引きます。

「飲む?」
「遠慮します。弱いので」

 そんなペースで呑んでいて大丈夫なのでしょうか。蒼くんの体調がつくづく心配になります。

 ふと窓の向こうに視線を移すと、高層ビルの明かりと流れるテールランプで彩られた夜景があんまり綺麗で泣きたくなりました。

 綺麗なものを見ていると、わたしはいつだって泣きそうになるのです。それが途方もなく遠い場所にあるような気がして。

「そういえば、どうして電気をつけていないのですか?」

 何気なく尋ねてみたのですが、蒼くんは何も答えません。ただ、彼が苦しげに顔を歪めるのが分かりました。

 らしくありません。やはり、何かあったに違いありません。

「ちゅーして?」

 蒼くんが甘え声でキスをねだってきます。

 嫌な予感がしました。
 いよいよおかしい、とわたしは思います。

 彼は今まで、他のどんなことを許容しても、そのぷっくりとした柔らかそうな唇だけは死守してきたからです。

「なにがあったのですか?」
「なにもないってば。早く気持ちよくなろう?」

 わたしは蒼くんの「?」の部分が好きです。つまりは、語尾が半音上がるところが好きです。
 こちらに選択を委ねてくるような、無責任な口ぶりが、たまらなく愛しいのです。

 それでも、今だけは流される訳にいきません。

 わたしは蒼くんを押しのけて、部屋の照明をつけました。スイッチの場所はちゃんと記憶にありましたから。

 そうして照らしだされた室内の光景に、わたしは絶句しました。

 ベッドサイドにあったコンタクトケースが、食器棚にあった色違いのマグカップが、ハンガーラックにあったレディース服が、散らばっていたスキンケアやコスメ用品が、全てなくなっていたからです。

 そう、半同棲しているという彼女さんの私物が、跡形もなく消えていたのです。
 そして何より、蒼くんの頬には涙の乾いた痕が残っていました。

「蒼くんは彼女さんと別れたのですね?」

 私は可哀想な蒼くんを見おろして、事実の確認を取りました。

 項垂れる彼は、力なく頷きます。
 この様子だと彼の方にはまだ未練があるのかもしれません。

 その瞬間、わたしの心にわだかまりが生まれました。黒い靄が胸中でだんだんと大きくなっていくような、息苦しさを感じました。

「僕と付き合わない?」

 蒼くんが衰弱しきった様子で、わたしに交際を提案してきました。

「付き合おう」ではなくて、「付き合わない?」とこちらに意志を委ねてくるやり方は、実に彼らしいと思いました。

 そんなところが好きだったはずなのに、心の奥底ではずっと彼の本命でありたいと志願してきたはずなのに。

 どうしてか、わたしは首を振っていました。
 わたしは蒼くんのことが好きだったのかすら、いまいち確信がもてなくなっていました。

 どうしてでしょう?
 彼女さんよりも先に自分が出会っていれば、と何度も夢想してきたというのに。

 床下にうずくまる彼の姿は、途方もなく惨めで、卑しくて、愚かしいものに映りました。

 それは、夢から覚める感覚に似ていました。
 わたしはずっと、長い長い悪夢を見ていたのかもしれないと思いました。

「帰りますね」

 わたしは一方的にそう言い放って、来た道を戻ろうとします。もうこの場所にはいられなかったからです。

 立ち去ろうとすると、蒼くんがわたしの足に這いつくばるような格好でしがみついてきます。
 こんな憐れな彼は見ていられません。これ以上、わたしを幻滅させないでほしいものです。


 *


 強引に脱出してきた彼のマンションを後景に、わたしは夜道を歩きます。交互に足を踏みだす度に、コツンコツンというヒール音が鳴って、暗がりに溶けていきます。

 今夜泊まる場所を確保するために、繁華街の方へ足を進めることにしました。

 手当り次第泊まれそうな場所を当たってみたのですが、どこも満席のようです。
 ネオンの光る街並みを歩き続けて、どれくらい時間が経ったのでしょう。

 歩き疲れてしまったわたしは、シャッターの閉まった店舗の前でしゃがみ込みました。
 まさか、今更彼のマンションに戻るわけにはいきません。

 そうしていると、頭上から「ねえ」と声が降ってきました。

 もしかして蒼くん? なんて一瞬でも考えてしまったわたしは、本当に参っていたんでしょうね。そもそも、彼の声はこんなに低くはありませんから。

 そこには、いかにも遊び慣れているといった風貌の見知らぬ男の人がいました。

「お姉さん、こんな時間になにしてるの?」
「ちょっと訳ありでして」

 わたしは言い淀んで、どうしたものかと嘆息します。
 斜向かいのラブホテルから、幸せそうなカップルが腕組みしながら出てくるのが見えました。

「話聞くよ?」

 目の前の彼を無視して、わたしはまた通りを歩きはじめます。

 歩いて、歩いて、歩いて。
 ふと、立ち止まって。
 空を見あげました。

 高層ビルで区切られた暗闇に、星がきらきらと瞬いています。
 光り輝く夜空はやっぱり綺麗で、泣きたいと思いました。