月野木優はセックスができない。
そこにはあらゆる複雑な要因が絡みあっているけれど、大きな一つには母親の存在があるだろう。
性に奔放な彼の母は、父が大病で亡くなったのを境にして、夜な夜な知らない男を家に連れ込んでくるようになった。
月野木の思春期は、隣室から漏れ聞こえる母の喘ぎ声と共にあった。彼にとって、性的な事柄は全て嫌悪の対象でしかなかった。
中学の時に初めてできた恋人は、いかにも純粋無垢といった風貌で、月野木の好みど真ん中だった。だから、彼女となら良い関係が築けるはずだと信じていた。
交際期間が経つにつれて、ハグを求められて、キスを求められて。そこまでなら良かった。そこまでなら、まだ耐えられた。
「今日は両親がいないから」と彼女の家に誘われた時も、月野木は彼女の清純を疑わなかった。
彼は記憶していなかったけれど、その日は一年記念日だったらしい。
彼女の家のリビングはローズの芳香剤の香りがした。二人はソファに並んで座っていた。
「いつまで待たせるのよ」と彼女は言った。
不機嫌そうな声だった。
そうして制服のスラックスのベルトに手をかけられた時、月野木のなかで大事な何かが壊れた。
パリッとひび割れが入ったかと思うと、次の瞬間には粉々に砕け散った。脆くて柔い個人的な内面をぐちゃぐちゃに掻き回される心地がした。
目の前の彼女が、ひどく汚らわしかった。
それ以来、月野木は女性不信に陥った。
もう二度と誰かと付き合うことをしないと決めた。
*
月野木が一人暮らしをする賃貸マンションのワンルームに、なぜだか出会ったばかりの女の子の姿がある。
それも、彼の好みからは全くかけ離れたタイプだ。
明るく染められた頭髪も、多量のピアスホールも、露出の激しい格好も、どうしたって好きになれない。
友人によって半ば強引に参加させられたインカレの新歓で、星永先輩に手を引かれる彼女の姿を目に留めさえしなければ、こんなことにはならなかった。
あの時、彼女、もとい夜話の身体は震えていて、その瞳には涙が溜まっていた。
それに気がついた瞬間、自然と体が動いた。
偽善者とか救世主妄想とか何だって良いけれど、助けなければと思ったのだ。
何とか事なきを得て、万事解決のはずだった。それなのに、夜話は月野木に怒りを表明してきた。彼にはもう何が何だか分からなかった。
どうやら訳ありのようだと悟って、月野木は彼女を家に誘うことにした。
彼は思うのだ。
――互いに傷を抱える僕たちは、きっと分かりあえるはずだ。
家路を辿る途中で、彼女の名前と年齢、所属する大学を知った。
月野木が名乗ると、夜話は一個下であるくせに「月野木くん」と呼んできた。
外見よりずっと落ち着いたその声音が、彼の胸を締めつけた。
狭いワンルームにはテーブルも椅子もなくて、二人は折りたたみ式の簡易ベッドの端に並んで腰かけている。
夜話は、月野木が即席で用意したインスタントコーヒー入りのマグカップを両手で包むように持つ。
「私、処女がコンプレックスなんです」
「それはその、どうして」
「処女って重いじゃないですか」
夜話が自嘲するように笑う。
それから手もとのカップに唇をつけて、一口コーヒーを飲んで、苦そうに顔を顰める。
「誰かにそう言われたんですか」
月野木は彼女が年下であることが判明してもなお、敬語の姿勢を崩さない。彼なりのポリシーなのだ。あるいは、自衛だ。
夜話は月野木の問いに口を噤んだ。答える代わりに、身勝手な提案をしてくる。
「慰めてくださいよ。ここまで連れてきたなら、月野木くんには私を慰める義務がありますよね」
月野木は、彼女の微かな指先の震えを決して見逃さない。
「強がりはやめたほうがいいと思いますよ。君だって本当は怖いんでしょう?」
「なんでそう思うんですか」
「泣いていたから」
「え?」
夜話が意外そうな顔をして、月野木を見あげる。ガラス玉みたいに透き通った瞳が彼を捉えている。
「先輩に手を引かれる君が、今にも泣きそうに見えたから」
月野木が言うと、彼女は感心するように目を細めた。
「それは自分でも気がつきませんでした。私は怖いんですかね」
夜話が飲みかけのコーヒーを床下に置く。それでコトン、と音が鳴る。
ふと、閉め切った窓にかかるカーテンが揺れるような錯覚を起こす。
「でも、貴方となら。月野木くんとなら怖くないと思うんです」
途端に柔らかな肉体を押しつけられて、全身の身の毛がよだつ。
夜話が月野木の方に体を寄せてきている。
小さな手のひらが、彼の太ももに宛てがわれる。
色白い手が、そのまま内ももに這っていく。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
強大な嫌悪感が襲ってきて、あっという間に呑み込まれた。
息苦しくて、泣きたくなって。今にも不快な母の喘ぎが聞こえるような気がして。
月野木は夜話の体を、強引に引き剥がした。
ようやく心が落ち着いた頃には、泣き笑いのような顔をする彼女がいた。
「ごめんなさい。勝手が過ぎました」
夜話が深々と頭を下げる。
またしても傷つけてしまったのだと悟る。
脳裏の奥底に閉じ込めていた嫌な記憶がフラッシュバックする。
中学の時と同じように、性的な交渉ができないせいで、月野木は彼女を傷つけた。
――僕たちは、どうして幸せになれないんだろうな。
月野木はおそるおそる手を伸ばして、そっと夜話の頭を撫でた。
それは彼が初めて自分の意思をもって、彼女に触れた瞬間だった。
「こちらこそごめん。もっと早くに言うべきでした。僕は異性が苦手なんです。いいや違うな。的確にいうなら、性的なことに嫌悪感を抱かずにいられないんです」
「そうなんですか。本当にごめんなさい。私はどうしようもなく身勝手ですね。傷を抱えているのは自分だけじゃないのに、ついそれを忘れそうになってしまう」
「仕方がないですよ。特に自分が辛い時にはね」
二人の間には、さっきまでよりも穏やかな空気が流れている。
互いの痛みを明かしたことで、ようやく同じ位置に立てた気がした。同じ目線で、世界を見れている気がした。
「抱きしめてあげましょうか」
月野木はそう提案した。こんな醜態を晒しておいて、出過ぎた真似かもしれなかった。
でも、彼女の期待を含んだ遠慮がちな瞳と目が合って、そんな考えは吹き飛んだ。
「いいんですか」
「うん、それくらいなら」
月野木は夜話の背中に手を回した。ブラのホックの感触が、少なからず彼を不快にさせた。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん」
夜話が安心したように、月野木の胸に顔を埋める。胸もとのシャツが湿るような感覚がある。
「鼓動の音ってグロテスクですよね」
「どうして?」
「生命を感じるから」
*
彼と彼女は布団に潜って抱きあっていた。
「もう遅いから今夜は泊めてください」という夜話の要望で、ただでさえ狭いベッドに二人で入ることになったのだった。
「これじゃあただのソフレじゃないですか」
隣で月野木の腕を枕にする夜話が不満げに零す。
彼女は彼に対して、こんな軽口を叩けるくらいには親密さを覚えはじめていた。
「やめてくださいよ。不甲斐なくなるから」
月野木は言いながら苦笑する。
それから、自分たちの関係は何と定義されるのだろうかと考えてみた。
「なんだっていいじゃないですか」
夜話が彼の心を読みとったかのように呟く。彼女も同じことを考えていたのかもしれない。
しばらくして、右隣からすやすやと寝息を立てる音が聞こえてくる。
枕にされた腕を引き抜こうかと迷って、結局そのままにする。起こしてしまっては悪いと思って。
この世に蔓延する悲しみに思いを馳せて、月野木は目を瞑った。
彼が目を覚ますと、隣に夜話の姿はなかった。先に起きて帰ってしまったのだろう。
右腕に残る鈍い痛みと、床下に置かれた飲みかけのインスタントコーヒーだけが、昨夜の出来事を証明していた。
窓から差し込む朝日を、回らない頭でぼんやりと眺める。
やがて、月野木は思った。
この傷だらけの夜を、一生忘れられないだろうと。
そして予感する。
もう二度と、彼女に会うことはないだろうと。
そこにはあらゆる複雑な要因が絡みあっているけれど、大きな一つには母親の存在があるだろう。
性に奔放な彼の母は、父が大病で亡くなったのを境にして、夜な夜な知らない男を家に連れ込んでくるようになった。
月野木の思春期は、隣室から漏れ聞こえる母の喘ぎ声と共にあった。彼にとって、性的な事柄は全て嫌悪の対象でしかなかった。
中学の時に初めてできた恋人は、いかにも純粋無垢といった風貌で、月野木の好みど真ん中だった。だから、彼女となら良い関係が築けるはずだと信じていた。
交際期間が経つにつれて、ハグを求められて、キスを求められて。そこまでなら良かった。そこまでなら、まだ耐えられた。
「今日は両親がいないから」と彼女の家に誘われた時も、月野木は彼女の清純を疑わなかった。
彼は記憶していなかったけれど、その日は一年記念日だったらしい。
彼女の家のリビングはローズの芳香剤の香りがした。二人はソファに並んで座っていた。
「いつまで待たせるのよ」と彼女は言った。
不機嫌そうな声だった。
そうして制服のスラックスのベルトに手をかけられた時、月野木のなかで大事な何かが壊れた。
パリッとひび割れが入ったかと思うと、次の瞬間には粉々に砕け散った。脆くて柔い個人的な内面をぐちゃぐちゃに掻き回される心地がした。
目の前の彼女が、ひどく汚らわしかった。
それ以来、月野木は女性不信に陥った。
もう二度と誰かと付き合うことをしないと決めた。
*
月野木が一人暮らしをする賃貸マンションのワンルームに、なぜだか出会ったばかりの女の子の姿がある。
それも、彼の好みからは全くかけ離れたタイプだ。
明るく染められた頭髪も、多量のピアスホールも、露出の激しい格好も、どうしたって好きになれない。
友人によって半ば強引に参加させられたインカレの新歓で、星永先輩に手を引かれる彼女の姿を目に留めさえしなければ、こんなことにはならなかった。
あの時、彼女、もとい夜話の身体は震えていて、その瞳には涙が溜まっていた。
それに気がついた瞬間、自然と体が動いた。
偽善者とか救世主妄想とか何だって良いけれど、助けなければと思ったのだ。
何とか事なきを得て、万事解決のはずだった。それなのに、夜話は月野木に怒りを表明してきた。彼にはもう何が何だか分からなかった。
どうやら訳ありのようだと悟って、月野木は彼女を家に誘うことにした。
彼は思うのだ。
――互いに傷を抱える僕たちは、きっと分かりあえるはずだ。
家路を辿る途中で、彼女の名前と年齢、所属する大学を知った。
月野木が名乗ると、夜話は一個下であるくせに「月野木くん」と呼んできた。
外見よりずっと落ち着いたその声音が、彼の胸を締めつけた。
狭いワンルームにはテーブルも椅子もなくて、二人は折りたたみ式の簡易ベッドの端に並んで腰かけている。
夜話は、月野木が即席で用意したインスタントコーヒー入りのマグカップを両手で包むように持つ。
「私、処女がコンプレックスなんです」
「それはその、どうして」
「処女って重いじゃないですか」
夜話が自嘲するように笑う。
それから手もとのカップに唇をつけて、一口コーヒーを飲んで、苦そうに顔を顰める。
「誰かにそう言われたんですか」
月野木は彼女が年下であることが判明してもなお、敬語の姿勢を崩さない。彼なりのポリシーなのだ。あるいは、自衛だ。
夜話は月野木の問いに口を噤んだ。答える代わりに、身勝手な提案をしてくる。
「慰めてくださいよ。ここまで連れてきたなら、月野木くんには私を慰める義務がありますよね」
月野木は、彼女の微かな指先の震えを決して見逃さない。
「強がりはやめたほうがいいと思いますよ。君だって本当は怖いんでしょう?」
「なんでそう思うんですか」
「泣いていたから」
「え?」
夜話が意外そうな顔をして、月野木を見あげる。ガラス玉みたいに透き通った瞳が彼を捉えている。
「先輩に手を引かれる君が、今にも泣きそうに見えたから」
月野木が言うと、彼女は感心するように目を細めた。
「それは自分でも気がつきませんでした。私は怖いんですかね」
夜話が飲みかけのコーヒーを床下に置く。それでコトン、と音が鳴る。
ふと、閉め切った窓にかかるカーテンが揺れるような錯覚を起こす。
「でも、貴方となら。月野木くんとなら怖くないと思うんです」
途端に柔らかな肉体を押しつけられて、全身の身の毛がよだつ。
夜話が月野木の方に体を寄せてきている。
小さな手のひらが、彼の太ももに宛てがわれる。
色白い手が、そのまま内ももに這っていく。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
強大な嫌悪感が襲ってきて、あっという間に呑み込まれた。
息苦しくて、泣きたくなって。今にも不快な母の喘ぎが聞こえるような気がして。
月野木は夜話の体を、強引に引き剥がした。
ようやく心が落ち着いた頃には、泣き笑いのような顔をする彼女がいた。
「ごめんなさい。勝手が過ぎました」
夜話が深々と頭を下げる。
またしても傷つけてしまったのだと悟る。
脳裏の奥底に閉じ込めていた嫌な記憶がフラッシュバックする。
中学の時と同じように、性的な交渉ができないせいで、月野木は彼女を傷つけた。
――僕たちは、どうして幸せになれないんだろうな。
月野木はおそるおそる手を伸ばして、そっと夜話の頭を撫でた。
それは彼が初めて自分の意思をもって、彼女に触れた瞬間だった。
「こちらこそごめん。もっと早くに言うべきでした。僕は異性が苦手なんです。いいや違うな。的確にいうなら、性的なことに嫌悪感を抱かずにいられないんです」
「そうなんですか。本当にごめんなさい。私はどうしようもなく身勝手ですね。傷を抱えているのは自分だけじゃないのに、ついそれを忘れそうになってしまう」
「仕方がないですよ。特に自分が辛い時にはね」
二人の間には、さっきまでよりも穏やかな空気が流れている。
互いの痛みを明かしたことで、ようやく同じ位置に立てた気がした。同じ目線で、世界を見れている気がした。
「抱きしめてあげましょうか」
月野木はそう提案した。こんな醜態を晒しておいて、出過ぎた真似かもしれなかった。
でも、彼女の期待を含んだ遠慮がちな瞳と目が合って、そんな考えは吹き飛んだ。
「いいんですか」
「うん、それくらいなら」
月野木は夜話の背中に手を回した。ブラのホックの感触が、少なからず彼を不快にさせた。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん」
夜話が安心したように、月野木の胸に顔を埋める。胸もとのシャツが湿るような感覚がある。
「鼓動の音ってグロテスクですよね」
「どうして?」
「生命を感じるから」
*
彼と彼女は布団に潜って抱きあっていた。
「もう遅いから今夜は泊めてください」という夜話の要望で、ただでさえ狭いベッドに二人で入ることになったのだった。
「これじゃあただのソフレじゃないですか」
隣で月野木の腕を枕にする夜話が不満げに零す。
彼女は彼に対して、こんな軽口を叩けるくらいには親密さを覚えはじめていた。
「やめてくださいよ。不甲斐なくなるから」
月野木は言いながら苦笑する。
それから、自分たちの関係は何と定義されるのだろうかと考えてみた。
「なんだっていいじゃないですか」
夜話が彼の心を読みとったかのように呟く。彼女も同じことを考えていたのかもしれない。
しばらくして、右隣からすやすやと寝息を立てる音が聞こえてくる。
枕にされた腕を引き抜こうかと迷って、結局そのままにする。起こしてしまっては悪いと思って。
この世に蔓延する悲しみに思いを馳せて、月野木は目を瞑った。
彼が目を覚ますと、隣に夜話の姿はなかった。先に起きて帰ってしまったのだろう。
右腕に残る鈍い痛みと、床下に置かれた飲みかけのインスタントコーヒーだけが、昨夜の出来事を証明していた。
窓から差し込む朝日を、回らない頭でぼんやりと眺める。
やがて、月野木は思った。
この傷だらけの夜を、一生忘れられないだろうと。
そして予感する。
もう二度と、彼女に会うことはないだろうと。