夜話美綺(やわうつき)は処女を捨てたい。
 その痛ましくて、どうしようもなく悲哀な願いは、彼女の初恋に由縁している。

 高校一年生の冬だった。夜話は三学年の先輩に恋をして、一世一代の告白を試みた結果すげなく振られた。

 「言いづらいんだけどさ、夜話ちゃんって経験ないでしょ? ちょっと重いんだよね」と先輩は言った。

 (経験ないでしょ)

 夜話は先輩の言葉を胸の内で反芻した。彼女にはそれが、性的な意味を指しているのだと分かっていた。

 卑劣な言葉を受けて、夜話は素直にそれを呑み込んだ。

 こんな言い草をされても、幻滅なんてしなかった。先輩には色恋の噂が絶えなかったし、そんなことは理解したうえで好きになった。
 ひたすらに、恋をしていた。馬鹿みたいに一途だった。

 体育祭で足を引っ張ってしまった時に「夜話ちゃんはよくやってるよ」と声をかけてもらった瞬間から、ずっとずっと好きだった。

 ――私は、一刻も早く処女を捨てなければいけないんだな。

 不意に視界が霞んで、彼女は空を仰ぐ。涙を溢れさせないために。

 ――そうしなければ、誰にも愛してもらえないから。
 

 *
 

 夜話は高校卒業を機に、髪を染めて、ピアスを開けて、整形をした。

 三年間必死に貯めてきたバイト代全てを叩いて、二重埋没、目頭切開、鼻尖(びせん)形成(けいせい)口角(こうかく)挙上(きょじょう)などの施術を受けた。
 埋没に至っては仕上がりの幅が気に入らず、別のクリニックでもう一度施術を受け直した。

 他にも、歯列矯正のために歯医者に通い、綺麗な肌を目指すために脱毛サロンに通った。

 全ての施術を受けるのに手持ちの金額では到底足りず、やむなく医療ローンを組んだ。

 夜話にとって、これら全部の労力は手軽く処女を捨てるための足がかりに過ぎなかった。

 ネットに書いてあったのだ。芋っぽい女は抱けないのだと。
 だから、垢抜けるための方法は一通り試してみることにしていた。
 

 次なるステップへ。

 夜話は自宅のベッドに寝転んで、スマホを取りだす。
 それから、大学用に新しく作ったSNSのアカウントを開いた。

 #春から‪✕‬‪✕‬大のタグで検索をかければ、インカレサークルがいくつも引っかかった。
 どのアカウントも、新入生の勧誘に必死になっているようで、あちこちにリプをばらまいている。

 夜話の目に、その様は何だか滑稽に映った。自分も似たようなものだと思ったから。

 適当に一つ選んでフォローをして、ダイレクトメッセージを送る。

 〈入会希望です〉
 〈ありがとうございます! こちらのQRコードから連絡先の登録をお願いします〉

 彼女は送られてきたQRコードを読みとって、連絡先を追加する。
 そこから諸々のやりとりを経て、無事にサークルの入会を果たした。
 

 来たる新入生歓迎会。それは、都内某所のレンタルスペースで開催された。

 夜話が到着した頃には、会場はもうすっかり熱気を帯びていた。各々が好きに飲み食いをしながら談笑している。

 受け付けで参加費を手渡して、しばらく彼女は入口付近に立ち尽くしたまま動けずにいた。
 周囲を見渡す限り一人で来ている参加者はいないようだった。

 覚悟はしてきたつもりだったのに、アウェーな空間は彼女をひどく孤独にさせた。もともと彼女は、こういった騒々しい場に向いていない。

 こんなことなら、高校でまともな友人を一人か二人でもつくって連れてくるべきだった。

 心臓の辺りが捩れるように苦しくて、浅い呼吸を繰り返す。汗ばむ手を握って、開いて、握る。大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 不自然に思われないために、確かな足どりを意識しながら飲み物を取りに向かう。

 テーブル上には当然のようにアルコール類が九割を占めていたから、夜話も空気を読んでプラスチックのカップに注がれたレモンサワーを呷った。

 ぐらっと脳が揺れる感覚があった。
 目眩がして、次いで吐き気に似た何かが喉もとに迫りあがってきた。

 お酒は思うよりも苦くて、不味くて、気持ちよくもなれなくて、どうしたらこんなものを好きになれるのか分からない。

 平静を装って壁際に移動し、見るともなく辺りに視線を彷徨わせていると声をかけられた。

 誰でもよかった。そろそろ自分が透明になってしまったのではないかという疑惑が拭えきれずにいた彼女にとって、自身を見おろす瞳は救いそのものだった。

 「君、一人なの?」

 恐らくは年上の男の人だった。といっても、夜話とそんなに変わらない齢だろう。二つ三つ離れているくらいだろうか。

 彼女は戸惑いながらも頷く。挙動不審な自分にほとほと嫌気が差す。
 それでも、彼は人懐っこい笑みを浮かべて、優しい言葉をかけてくれる。

 「そっか、じゃあ俺と一緒にいよう」

 夜話は自身の頬が赤くなるのが分かった。
 彼女はこういうシチュエーションに弱い。つまりは、孤立した自分に傲慢な優しさで寄り添われることに弱い。

 「名前なんていうの」
 「夜話美綺です。えっと、美しいに綺麗の綺でうつきなんですけど」
 「へぇー可愛い名前だね。うつきちゃんかー」

 (うつきちゃん)

 その甘やかな響きが彼女を昂らせる。心臓が高鳴って、暴れ回って、どうにかなってしまいそうだ。

 ――この人になら、私の初めてを捧げられる。

 出会って間もなく、夜話はそう確信する。

 普段は受け身で大人しい彼女なのに、ここぞという時に衝動に任せて行動する節がある。もしかすれば、日頃抑えつけているからこその反動かもしれない。

 「あの、お願いがあって」

 気がつけば、口に出ていた。もう後には引けなかった。

 「ん? 言ってみて」

 彼が耳を寄せる素振りを見せる。
 柔らかくて甘やかな口調。それだけで泣きそうになる。簡単に泣くような女は嫌われると分かっているのに。

 勇気を振り絞って、もう一度震える口を開く。

 「私の処女をもらってくれませんか」

 一瞬の間があった。
 彼が虚をつかれたような顔をする。
 やっぱりタイミングが早計すぎたのだろうか。

 夜話が自身の発言を撤回するべきか思い悩んでいると、彼は心底可笑しそうに笑った。

 「いいよ」

 降ってきた言葉は単純で、でも、それは充分すぎるほどの効力をもっていた。

 「本当ですか」

 夜話の頼りない問いかけに、彼は彼女と目線を合わせることで答えた。
 大きな瞳にじっと見つめられて、息が詰まって窒息しそうだ。

 「うん、うつきちゃん可愛いからね。俺ねー、童顔の子ちょー好き」

 その言葉で、夜話は報われた。
 一週間前に受けたフェイスリフトが功を奏したに違いなかった。

 これまでに頑張ってきた全部が無駄じゃなかったのだ。ダウンタイムの苦痛も、月々支払っている馬鹿にならない金額も、全部。

 「じゃあ行こうか」

 彼に手を握られる。
 あまりに自然な流れに、動揺する。
 彼と彼女はそのまま入口の方に歩みを進めた。

 みんなの視線が集まるのを感じて、それがどうにも居たたまれなくて、夜話は彼以外を視界から遮断する。

 手を引いてくれる彼の姿だけを、真っ直ぐに捉える。
 

 外に出ると、夜の冷気が心地よく肌を撫でた。
 何だか頭がふわふわしていて、夢を見ているみたいだと思った。

 彼の手はちゃんと繋がれたままで、それだけのことに夜話は強い安堵を覚える。

 「大丈夫、この辺詳しいから」

 彼はマップも確認せずに、ずんずんと歩きだす。そのせいで引っ張られている手が痛い。

 「あの、すみません。手が痛くて」

 夜話の訴えは彼の耳に届いていないようだった。握る手も、歩くペースも、一向に緩まる気配がない。

 怖い、と思った。

 「星永(ほしなが)先輩! なにしてるんですか」

 瞬間、後方から大声がした。

 さっき聞きそびれていた彼の名は、どうやら星永というらしい。

 夜話が肩越しに振り向くと、彼の知り合いであるらしい男の人が駆け寄ってくるのが見えた。苦しそうに肩で呼吸をしている。

 暗闇で判然としないけれど、星永先輩とは対照的に陰鬱そうな雰囲気の人物だ。

 「なにって、見りゃ分かるだろ。お前ほんとに空気読めないのな」
 「でも嫌がってるじゃないですか」

 陰鬱そうな男の人が、夜話に目線をやる。

 ――違うんですよ。誘ったのは私のほうで、先輩は付き合ってくれているだけなんです。

 言うべき言葉は分かっているのに、どうしてか声にならない。喉に石が詰まっているようで苦しい。

 「そうなの?」

 星永先輩が夜話に問う。
 その視線に、さっきまでの優しさは感じられない。

 「えっと、あの」

 ――嫌じゃないです。

 その一言でいい。
 それなのに、やっぱり声にならない。
 得体の知れない何かが、彼女の喉にストッパーをかけている。

 「え、なに、今更やめんの」

 残酷なまでに冷たい瞳が夜話を射抜く。

 それで彼女は、自身が多大なる間違いを犯したことに気づく。相手を間違えたとかそういう話ではなくて、今この瞬間にちゃんと声をあげなかったことにだ。

 「だんまりかよ」

 繋がれた手が、解かれた。
 夜話は傷ついていた。我慢していた涙が、堰を切ったように溢れでてきた。

 星永先輩は苛立たしげにため息を吐く。そうして彼は一人で来た道を戻って行く。

 夜話は所在なげに左手の五本の指を内に折り曲げた。

 彼と繋がれた手だけが、ロストバージンへの道だったのに。この偽物の温もりだけが、最後の希望の光だったかもしれないのに。

 夜の道端に、夜話と名も知らない彼だけが残された。
 悲しみに打ちひしがれていた彼女は、この行き場のない感情をどこに発露すべきか分からなかった。

 気まずそうに彼が話しかけてくる。

 「よかったですね。大事にならなくて」

 的外れな気休めの言葉が、夜話を苛つかせた。
 奔流する負の感情と理性とがせめぎあって、とうとう感情に押し負けた。

 「貴方、なんなんですか! ヒーロー気どりの自分に酔いしれて、さぞいい気分でしょうね!」

 夜話がなりふり構わず、大声で叫ぶ。彼女の方こそずいぶんと見当違いな(なじ)りだった。

 突然責められた彼は、訳が分からないというように眉根を寄せる。

 「もう少しで願いが叶ったのに! 他に一体誰が、私の処女をもらってくれるんですか!」
 「あんまり大声で、そういうことを言うものじゃないですよ」

 どこまでも冷静な彼の態度に、夜話の怒りは募るばかりだった。彼女は彼の胸ぐらを掴んで、息を荒く吐きだして、やっぱりやるせなくなって手を離した。

 「いつになったら私は愛されますか」

 注意していなければ聞き逃してしまいそうなほどか細い声だったのに、彼にはそれがちゃんと聞こえたようだった。

 「僕が言えたことではないですけど、焦ることはないです」

 達観したような物言いが鼻についたけれど、夜話はそれで声を荒らげるのをやめた。

 「貴方に私のなにが分かるんですか」
 「僕と君はよく似てると思いますよ」

 彼が不器用な笑みを浮かべて言う。月明かりに照らされたその顔は、何だか切なげに見えた。

 「とりあえず家へ来ませんか」

 一聴すれば口説き文句のようなその台詞には、少しの如何わしさも感じられない。

 夜話は彼を信じてみようと思った。
 二人は歩きだす。
 手は繋がずに、適切な距離感を保って。