キツイと評判のエリアマネージャーの(しきみ)に個人面談という名目で会議室に呼び出されたのは、寒い風が肌を突き刺す秋のことだった。

「藻岩店のスタッフって、馴れ合いすぎで緊張感がないんだって?
 そのせいで去年の同月売上より低下してるって報告を受けたんだけど。」

 樒は、電子タバコをふかしてあごをつき出した。

「そんなこと、どこから・・・。」

 私はハッとして先日入店してきた新店長の顔を思い浮かべた。

(アイツしかいない!)

 ワナワナと怒りで震える手を膝に押さえつけてうつむく私。
 樒は電子タバコをケースにしまい、席を立つと冷たく言い放った。

「来月の売上が悪かったら、すぐにスタッフ全員をバラバラにして別店舗に異動させるつもりよ。
 覚悟しておいてね。」

 無常に閉じた会議室の扉と空中に漂うメンソールの残り香が、行き場のない負の感情を私の中で増幅させた。

 ※

空木(うつぎ)店長、ちょっといいですか?」

 私に呼ばれて顔をあげた店長は、集めていた髪くずを回転ぼうきごと壁ぎわによせた。

「お話があります。
 このあとお時間いただいてもよろしいですか?」 

「今じゃダメ?」

 私は吹き抜けの天井に大音量の音楽と人々の話し声がこだまする美容室の店内をクルッと見まわして、苦い顔をした。

「できれば、もう少し静かな場所がいいかと。」 

「じゃあ、これからメシでも食いに行きますか。」

 迷うことなく腰に付けていた黒革のシザーケースのベルトを外す店長を、私はあわてて引きとめた。

「まだ営業中ですよ!」

「もう予約客は来ないよね。
 営業終了までの1時間に、来るかわからない新規客を待つのと俺との話し合いで食事に行くのは、どちらが効率がいいと思う?」

 ド正論。
 私も黙って肩掛けのシザーケースをワゴンの上に置いた。

 銀のメッシュを入れたツーブロックの長髪を一束で結んだ髪に鼻ピアス。
 見た目は派手でチャラいけど、店長の行動は的確でソツがない。

 さすが今年の春に中途採用で入社したばかりなのに、この秋から藻岩店に新店長として配属されただけあるわ。
 でも確かこの人・・・。

「でも空木店長のお子さん、まだ小さいんですよね?
 早く帰ったほうがいいんじゃないですか?」

「うちの奥さんは優秀だから、大丈夫。
 梅原(うめはら)さんってマジメなんですね、意外に。」

「意外?」

「ふだんが、火傷するくらいポジティブだから。」

 目があった途端、店長の眼鏡の奥の瞳が細くなり人懐っこく笑った顔が子供みたいに見えた。
 もっとドライな人なのかと思っていたから、それは予測不可能で意外な不意打ちだった。

(え、こんな風に笑うんだ・・・でも、だまされるもんか。)

 私は顔には愛想笑いを浮かべながら、こころの中では内なる怒りをフツフツと沸点近くまで(たぎ)らせていた。

(この人のせいで異動させられるんだから、最後にガツンと文句を言ってやらなきゃ!)

 ※

 私が8年間勤務している美容室【シルバーフレーム】は、札幌市内に9店舗を展開している地域では有名な老舗の美容室。
 憧れていたこのお店に、念願かなって入店できた私は朝から晩まで365日美容と向き合っていた。
 
 スタッフ全員が、他の店舗には接客も技術も負けたくないという美容ヲタクの集団で、営業終了後のミーティングはケンカから始まり泣いて終わるという謎のルーティーンが日常。
 おかげで私は、高校時代からつき合っていた彼氏にフラれてからというもの、恋愛には全く縁がない。
 今年26歳だけど、いつになったら結婚できるのかと同期で新婚の彼岸(ひがん)からは馬鹿にされている。

 でもいいの。
「次期店長は梅ちゃんだね。」と裏で囁かれるくらい、私の仕事への情熱は周りのスタッフにも認められているし、私も店長という肩書を意識してまんざらでもなかったから。

 【怪物】空木 新(うつぎ あらた)が来るまでは ―。

 ※

「同期は全員ぶっとばすんで、先輩がたもよろしく。」
 
 今年の春から中途採用された空木 新は最初から規格外だった。
 入社式では、ひな壇での自己紹介のときに全スタッフを敵に回すような発言をして会場を騒然とさせた。

 でもそれが虚勢ではないと、そこにいた全員が思い知ることになる。

 彼は与えられた新規客を短期間で顧客に変え、その紹介客の連鎖で営業中の指名稼働率はほぼ100%。
 個人売上は脅威の半年連続1位、物販売上も歴代最高の記録を樹立した。
 そして秋には店長会議の満場一致で【藻岩店の新店長】の座を射止めてしまった、まさに【怪物】。

 凡人が毎日努力を積んでも天才の一日には敵わないと思い知らされたのは、つい最近のことだった。
「梅原さんは、独身?」

 手ごろなお値段のワインがズラリと並ぶワイン酒場で、私は頬ばったばかりの窯出しピザにむせてしまった。

 涙目で咳込む私の背中を、カウンターの隣に座る店長がさすってくれる。
 香水でもつけているのか、甘い香りがほのかに鼻をくすぐった。

「なんかゴメン。」

「好きで独身やってるんで、謝らなくても大丈夫です。
 同期で新婚の彼岸(ひぎし)には【負け犬】なんて言われていますけどね。」
 
 我ながら自虐ネタがリアルで痛々しい。
 店長は苦笑しながら私の前にレモン水を置いた。

「だから彼岸くんは『残念イケメン』て裏で言われてるってこと?」

 あんたは裏で【怪物】ってあだ名だけどね。
 私はレモン水を一気飲み干して、密かにこころで毒づいた。 

 ※

「そろそろ本題にいきましょうか。梅原さんの話って何ですか?」

「樒さんに・・・藻岩店のスタッフが慣れ合いすぎて売上に響いていると密告したのは店長ですよね?」

 沈黙。
 つまり図星ってことね。

「店長は来たばかりで知らないでしょうけど、私たちはプロです。
 営業中はふざけたりしていますが、裏では切磋琢磨してケンカしながらもお店とお客様のために情熱を注いできました。
 それを何も知らない部外者の店長が、横から口を出すのっておかしいと思います!」

 私は思い切ってまくし立てた。

「来月の売上次第では、みんなバラバラに異動させられてしまいます!
 全部店長のせいです‼」

「そんなことはさせないよ。」

「でも、樒さんが・・・!」

 思わずその場に立ちあがった私は、穏やかに腕を組んで正面を見すえる彼を見て驚きを隠せなかった。

「藻岩店の店長は俺だ。
 俺の承諾なしにチームを解散だなんて、社長だろうと絶対にさせない。」

 淡々と吐き出される熱い言葉に【怪物】の片鱗はどこにも見えない。
 むしろ、こんなに挑発的な私の言葉に全く動じないのが不思議でならなかった。

「エリアマネージャーに店の印象を聞かれたときに『スタッフが慣れ合っていて緊張感がない』ということは、確かに俺が言った。
 そこに悪意はなかったけど、梅原さんやみんなを傷つけたなら謝るよ。ごめん。」

 あの【怪物】が素直に謝った!
 私は行き場のない怒りを持て余してストンと座った。

「分かりました。悪気がなかったから許すというわけではないですが、もう二度と店の悪口を樒さんに吹きこまないでくださいね。
 あの人、性格悪いんで。」

「そうする。共有ありがとう。」
 店長はそこで初めて私と目を合わせた。

「梅原さんは正義感が強いんだね。
 もしかして、俺が彼岸くんのこと悪く言ったのも気に障ったかな?」

「あ、それは全然ですよ。事実なんで。」

 ずいぶん心の機微に敏い人なんだ。
 私は重い空気を一蹴するために、ワインをがぶ飲みしてわざと彼岸の話をした。

「実は彼岸とは高校時代からの腐れ縁なんです。
 ヤツが結婚するまではお互いの家を行き来するくらい仲が良かったんです。
 さすがに奥さんに気が引けて、店でしか会話はしなくなりましたけどね。」

「へぇ。それは羨ましいな。」

 羨ましい?

 私は背中が痒くなった気がして不意に身をよじった。
 この人との会話が、なんだかくすぐったい。
 
「そういえば、店長っておいくつなんですか?」

 店長はワインを飲み干すと、口の端をあげてニヤリとした。

「いくつに見える?」

「飲み屋の会話じゃないんだから。
 ん-と、私よりは若いですよね? 24か5くらいかな・・・。」

「惜しい、26。」

「えっ、タメっすか⁉ 若っ!」

「そんなに予想より外れてなくない?
 でも 梅原さんは肌がピチピチしてるから、もっと若いと思っていた。」

 恥ずかしい。私は自分の肌に自信なんてないのに。
 奥さんとでも比べているのかな。

「タメに言われても嬉しくないし、ピチピチとか言ってる時点で若くないですよ。」

「じゃあお互い若くないということで、敬語やめよう。
 俺もみんなが呼んでるように『梅ちゃん』って呼びたい。
 いい?」
 
 酔いが回ってきたのか同い年ということで気が緩んだのか、店長は急に甘えた態度を取ってきた。

「どうぞ。でも、私からあだ名では呼べませんよ。」

「どうして?」

「店長だからです!」

「マジメか!」

 ずっこけながらバーカウンターにうつ伏せた店長は、頭だけ動かして私を見上げた。
 眼鏡越しの店長の目つきが、少しだけトロンとして色っぽい。

「さっきの話もだけど、そういうの嫌だ。
 俺だけよそ者って思われてるんだとしたら、悲しくなっちゃうな。」 

「ごめんなさい。気をつけるね。」

 私は下唇を噛んだ。
 怒ると人を責めすぎるのが欠点だと元カレにも言われていたのに。

「じゃあ、『新』って呼んでくれない?」

「それはムリ!」

「2人でいるときだけ!」

 酔うとタチが悪いヤツだな。
 私はしょうがなく小声でつぶやいた。

「あ・ら・た。」

「ん?」

「新!」

 私が勇気を出して名まえを呼ぶと、新は満足そうに笑って私の頭を犬みたいにワシャワシャと撫でた。

「よーしよし!
 これは2人だけの秘密にしようね。」

 そういうと新は、私の右手の小指に自分の左手の小指を絡めて【ゆびきりげんまん】をした。

 あれ?

 私はその時、気づいてしまった。
 新の左薬指にあるはずの結婚指輪がないことに。
 頭が重くて目も開かない。
 目を閉じたままゆうべ飲んだワイングラスの数を頭の中で数えていると、フッと甘い香りが鼻についた。

(前にも嗅いだことのある匂い。だけど、どこで・・・?)

 そう思いながら薄目を開けると、私は心臓が止まるかと思った。
 目の前には新が立っていた。

「おはよう。」

 しかも雰囲気から察するに、ここはラブホテルの部屋だ。

「あの、私たち・・・?」

「もしかして覚えてないの? あんなに飲むからだよ。」

「それは新との会話の()を埋めるためで・・・。」
 弁明しながら起きようとすると、部屋がぐるりと回って気持ち悪い。再び枕に顔をうずめると、またあの甘い香りに包まれた。

「無理しないで寝ていたら? 今日は昼から出勤したらいい。」

 よく見ると新はもう身なりを整えている。
 私は布団で顔を隠しながら、謝った。

「なんか、迷惑かけてスミマセン。記憶なくて・・・大丈夫ですか?」

 新はクシャッと笑うと、布団をずらして私の顔をのぞきこんだ。

「それは俺のセリフ。襲ってはいないから安心して!
 でも、起きなかったら・・・。」

「え?」

「なんでもない。じゃ、先に店に行ってるね。」

 ※
 
 昼から出勤した私は新を避けるように仕事をした。
 何もなかったとはいえ、同じベットで一夜をともに過ごしたことは黒歴史で間違いない。

 運が悪いことに、今日の私を指名する顧客はいなかった。
 他のスタイリストのヘルプをして時間を過ごしていると、急に新が話しかけてきた。

「髪を切りたいんだけど、梅ちゃんを指名してもいい?」

「あ・・・。」

 どう言い逃れしようか考えていると、受付嬢の由梨花が個室の鍵を渡した。

「いってらっしゃい♪」

 本当に私が新の髪を切るの⁉

 ※

 同業者のカットは苦手。
 新はそんな私にお構いなしに、個室のセット面に足を広げて座った。

「梅ちゃんの好みのタイプにして。
 あ、彼岸くんみたいなマッシュにしたら梅ちゃんにハマるかな?」

「冗談はやめてください。
 それに彼岸は私のタイプじゃないです。」

「聞いて良かった。
 あと、今はふたりきりだから敬語禁止!」

 グイグイくるじゃん。
 私は気をつかうことを諦めた。

「じゃあ、思い切って短くする?
 ツーブロックを生かしたスパイキーなアップバングにしてみるとか。」

 同業者のカットは苦手だけど、新の髪をイメチェンするのは面白そう。
 
「いいね。今年の夏は暑かったから本当はショートにしたかったんだ。
 昔は俺、野球部だったし。」

「坊主頭だったの?」
 
 意外すぎて、鏡越しに新を見つめてしまっていた私。
 それに気づいた新が、上目遣いにはにかんだ。

「自分の髪は効率ばっかりで、デザインなんて考えたこともなかった。
 だからこそ、他人の髪にはこだわってしまうのかもなって、最近思うんだ。」

 確かに、新のカウンセリングは他のスタイリストより長い。
 以前ならしつこい性格だなと思っていたけど、事情が分かると納得だ。

 それも指名人気につながるなら、私も見習わなきゃ。

「新の髪って、多いけど柔かいね。細かくガイド取っていくね。」

 その時、新の髪からふんわりと甘い香りが漂った。
「この匂い、なんの香りだっけ?」

「銀木犀。」

「金木犀は知ってるけど、そんなのあるんだ。」

「中毒性のある花で、【誘惑】の意味があるんだって。」

 ※

「梅ちゃんって、丁寧な仕事をするよね。」

 新は私に髪を切られている間も、ずっと私の手もとから視線を外さない。
 ねっとりと絡みつくような視線を受けながら、私は無意識に汗ばむのを感じていた。

 銀木犀の花言葉を聞いてしまったからだろうか。
 緊張とはまた違った種類の汗。

「お客様からのクレームも一度も聞いたことないし。見ていて安心する。」

 私、見られていたんだ・・・。いや、店長だから当たり前か。

 私はシルバーの枠の両面鏡を見開くと、新の後ろ姿が見えるように正面の鏡に反射させた。

「出来たけど、どうかな?」

「完璧。セットが楽そう。逆にどう?」

「私天才かも。」

「自分で言う?」

 私と新は昔からの友だちのように弾けて笑い合った。

 ※

「ね、金曜の夜って空いてる?」

 美容道具を片付けるのを手伝っていた新が、不意に甘えた声を出した。

「顧客のDJがシティポップのイベントをやるんだけど、チケットが余ってるんだ。
 入場タダだし良かったら行かない?」

「えっと・・・友達が少なくて。
 前はよく彼岸と踊りに行ったりしてたけど、さすがに既婚者は誘えないしね・・・。」

 アイロンのコードを巻き取る手を止めた新が、パッと顔を輝かせた。

「じゃあ、俺と行く?」

「新だって既婚者でしょう。」

「俺のところは大丈夫なの。じゃあ、決まり。金曜日楽しみにしているね。」

 なんで、家族がいるのに大丈夫なんて言うの?
 私はそう思ったけど口には出せずにいた。
 黒い大型のミニバンが私のマンションのエントランスに横付けされて、私は運転席の新に手を振った。
 元彼がセダンタイプの車に乗っていたから、大きくて長い車が新鮮に思えた。

「あんまり片付けてないけど、気にしないで。」

 自動で開いた扉の後部座席にチャイルドシートが2つ取り付けられている。

 ・・・だよね。
 分かっているのに、この気持ちはなんだろう。

「いつもと雰囲気違うね。」

 薄い色合いのサングラスを少しずらした新が私を上から下まで眺めた。
 いつもはユニセックスなワイドシルエットの服装にお団子頭だけど、今日は黒のAラインミニワンピースにフワフワにした編み込みをたくさん引き出して、インナーカラーを目立たせたあざとい系女子を意識している。

「シティポップのイベントは初めてだから、とりあえずシンプルにしてみたんだ。」

「・・・可愛い。」

「やめてよ。あんまり褒めると勘違いしちゃう。」

 サングラスの柄を咥えた新が、聞き取れないくらいの小声で呟いた。
「勘違いしてもいいよ。」

 助手席のシートベルトを締めた途端、車は私を乗せて走り出した。

 ※

 ネオンが輝く歓楽街に向かっていると思ったのに、連れてこられたのは街灯の少ない丘の上。
 しかも林に囲まれた最奥部の一軒家だった。

「ここでイベントがあるの?」

「梅ちゃんを独り占めしたくなったの。」

「え?」

「俺の隠れ家へようこそ。」

 ※

「わあ!」

 ほの暗い狭い階段を二階に上がると、一軒家の外観からは想像ができない夜景が大きな窓一面に広がるバーだった。
 5席とカウンターと最低限のキャンドルの灯りしかない室内にはひっそりとジャズが流れていて、静かな大人の空間を醸し出している。

「私浮いていないかな。」

 生オレンジがお洒落に飾られたカクテルに怖気づいて新にそっと耳打ちすると、新がお月様のような丸い氷の入ったロックグラスを傾けて肩を寄せた。

「素敵ですよお姫様。」

 絶好のロケーションに美味しいカクテル。
 これで隣に座る新が彼氏だったら、文句ナシに最高の神デートなのに。

 ぼうっと宝石のような夜景に目を奪われていると、「ハッピーバースデイ!」という声ともに花火が刺さったケーキを店員さんが運んできた。

「おめでとう同い年!」
 新が頬杖をついてニコニコしている。

「わ、私の誕生日⁉ なんで知ってるの?」

「アシスタントたちが昨日、話しているのが聞こえちゃったんだ。」

「ねえ新。嬉しいけど、こんなの奥さんにバレたら勘違いされるよ。
 もしかして、ケンカでもしてるの?」

「うちは仲良し夫婦だと思うよ。」

「なら、どうして・・・。」 

 私はどういう顔をしていいか分からなかった。

 ※

「梅ちゃん、今日は俺のわがままに付き合ってくれてありがとう!」

 マンションの部屋の前まで送ってくれた新は、ニッコリと微笑んだ。

「正直に話すと俺、デキ婚で奥さんにトキめいたことがないんだ。子供は可愛いけど、生活は義務みたいな感じ。
 でも、藻岩店に配属されてから太陽みたいな梅ちゃんに出会えて、毎日が刺激的になったんだ。
 おかげで独身に戻れたみたいで楽しかったし、それに・・・。」

 新は目をそらすと、自分の前髪をクシャリとつかんだ。

「梅ちゃんを本気に好きになりそうな自分に、いい思い出ができた。」

 何よ、それ。

「おやすみ。」

 踵を返して背中を向けた新に、走って追いついた私は後ろから抱きついた。
「新のバカ!」

 むせかえる銀木犀の香り。
 いつもほのかに香っていたそれは、今夜は妙に鼻についた。

「自分だけ思い出にするなんて、ズルいよ・・・!」

「う、梅ちゃん?」

「私、私の気持ちはどうなるの?」

 新がジッと動きを止めて、黙って私の言葉を待っている。
 私は嗚咽を漏らしながら叫んだ。

「ダメなのに・・・新のこと、好きなのにッ・・・!」

 新は振り向きざまに私の唇に震える自分の唇を重ねた。
 長いまつ毛が、私の目の前に霞んで見えた。

「いいの? もう、戻れなくなるよ。」

 私は新の言葉を遮るように背伸びをして唇をふさぐと、新に強く抱きしめられた。

 獣のようにお互いを求めるわたしたちは、ひと気のないマンションの廊下で果てないキスに溺れた。
 一夜をともにした次の日から、新の私に対する執着は度を越してあからさまになった。

 朝はお迎えに来て一緒に出勤し、昼休憩は私のマンションで過ごす。
 営業後も平日は必ず立ち寄り、帰宅後も眠るまでメールでやり取りをする。
 
 店の中でもヒマさえあれば人目を盗んで手を繋ごうとするので、目撃したスタッフの間で私たちの不倫の噂はあっという間に広まってしまった。
 彼岸にまで距離を取られてしまったのは自業自得で、もはや弁明のしようがない。

 私たちは狂っている。
 自覚症状があるのにやめられない。

 これはすべて銀木犀の香りのせい。

「わざとだよ。梅ちゃんに気づいてほしくて、誘惑したくて選んだ香水なんだ。」

 私の肌を愛撫するたびに、新は耳元でそう囁いた。
 それはまるで、呪いの言葉。

 新が家族サービスで会えない週末は眠れなくて睡眠薬が増えた。
 ダメだと思ってもやめられず、吐いては眠り、また目が覚めると薬に手が伸びる。

(いつか、悪い夢が醒める日が来る。)

 私は新が既婚者で子供と幸せそうに暮らしているということを、悪夢のように思っていた。

(本当の世界の新は、私とつきあっている新だ。)

 ※

「梅ちゃん、どうせヒマでしょ?」

 ある日曜日、彼岸が私のマンションに現れた。
 新を待つために引きこもっていた部屋から無理やり連れ出された先は、街中にある大きな総合病院だった。

「梅ちゃんさん、お久しぶりです。」

 彼岸の嫁の4つ年下のすずが、ベットの上で微笑んでいる。
 腕には生まれたての小さな赤ちゃんを抱えて。

「俺に似てイケメンだろ。」

「あら、あたしに目は似てるってお義母さんが言ってたよ。」

 私には2人が眩しすぎた。

「 梅ちゃん、ひかるを抱っこしてみる?」

 誇らしげに赤ちゃんを私に手渡そうとする彼岸に、私は一瞬怯んだ。
 見たこともない新の家族が頭によぎる。

 私にそんな資格があるかな・・・。
 壊れ物のような赤ちゃんを、私は恐るおそる受け取った。

 温かい。それに、小さくて軽い。
 小さな手が不器用にうごめくのを見て、私は閉じようとするその手の中に小指を差し込んだ。

 すると私の指に触れた小さな手が、すごい力で私を捕えた。
「こんなに小さいのに、すごい力!」

 私は自分の顔がほころぶのが分かった。

「最近悩んでるみたいだから、パワーもらって帰ってよ。
 いつでも悩みは聞くから、ひとりで抱え込まないで前みたいにメールくれよな。」

 彼岸の言葉がまるで呪いを解く呪文のように頭の中に響いて、思わず泣いてしまった。
 
 醜い恋の終わりは突然訪れた。
 いつもどおり新のミニバンに乗ったときのこと。

 いつもの甘い口調で新が私の膝に手を這わせた。

「そういえば、このまえ車にパンスト忘れていっただろ?
 奥さんに言い訳するの大変だったんだからな。
 くれぐれも気をつけてよ。」

「奥さんの勘違いじゃない? 私がパンスト履くような服装をする訳ないじゃない。」

 そう言い返したときの新のひきつった顔。
 私は、自分でも驚くくらい醒めてしまった。

 胸に氷のかたまりがあるかのように、冷えた心は頭を冷静にさせた。
 奥さんがトラップを仕掛けたか、別の浮気女の存在アピール?

 どちらにしても、もう限界。

「もういい、止めて。」

 私は新に急ブレーキをかけさせて、勝手に車を降りた。

「梅ちゃん、待って。」

 運転席の窓を開けて、新が叫んだ。
 私はこころから笑いながら叫び返した。

「だいじょうぶ。
 もう、私ひとりで歩けるから。」

 新の声が遠くなり、私はひとりで硬いアスファルトを踏みしめた。
 紅葉が辺り一面を覆いつくし、地面は色鮮やかな絨毯みたいだ。
  
 あの車を降りるまでは、世界がこんなに美しいことに気づかなかった。
 
 銀木犀の木もやがてくる冬に備えて葉を散らす。
 もうあの誘惑の香りは匂うことはない。

 私は空を見上げた。

 息が白く立ち昇る。
 もうすぐ冬がくるだろう。

                 〈終〉
 

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