ここ、星ヶ丘町は、“町”というより“村”に近く、人口が少ない。その中でも、江戸時代辺りから続いてきた名家が“須古星家”だった。
そして、俺の隣を歩く少女は、その須古星家の血筋だと言う。
「私、須古星海月って言います。案内、ありがとうございます。……あの、先に言っておきますけど、私のことを下の名前で呼ぶなら、さん呼びはしないでください」
海月はそうハッキリ言った。
けれど、俺は呼び方よりも、その名前自体に驚いていた。
「く、らげ……?」
「変わった名前ですよね。よく言われます」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、どうしたんですか?」
海月からの問いに、俺は少し黙った。
一瞬迷って、言った。
「……俺の大切な人も、“くらげ”って名前だったなぁ。って」
俺がそう言うと、海月は少し首を傾げてから、「大切な人って、初恋の人ですか? 片想いの人ですか? それとも彼女ですか?」と聞いてきた。名家の出身にしては、プライバシーというものを知らないらしい。
「あの、お名前なんて言うんですか?」
「名前……霞澤、酔夢」
「酔夢さん……珍しいお名前ですね!」
「……あんまり下の名前で呼ばないで。その名前、好きじゃないから。あと、さん呼びも苦手」
「好きじゃないもの、たくさんあるんですね」
「ぅぐ……」
痛いところを突かれ、俺はよくわからない声を出した。
ほんっとうにプライバシーないな……。
「海月は、なんでここに来てるの?」
「私?……里帰り的なやつです」
「里帰り? ここの出身なの?」
「あ、どちらかといえば、両親の里帰りです」
「あぁ、そういうことね」
そこまで話して、俺たちは黙った。
気まずい沈黙。
そんな沈黙を破ったのは、海月の悲しげな一声だった。
「……私、お母さんがいないんです」
「え?」
そう言って俺を見上げる少女の瞳には、クラゲがいた。
瞳という水槽に浮かぶ、ミステリアスなクラゲ。
「病気です。私を産んでから、少しずつ体調が悪くなっていきました。……幸せが、ジワジワと崩壊していく音がしていました」
「……」
海月の唇は、端の方がほんの少し上がっていた。
それでも、それは、顔に張り付いた嘘でしかないのかもしれない。
「お母さんが死んじゃってから、お父さんの精神も崩れていきました。すごく愛してたんでしょうね。……だから今は、1人です」
「そう、なんだ……」
海月の悲しげな笑顔に、俺はなにも言えない。
こういう人間に対する変な同情や励ましは、無意識下の悪意にしかなれないと、俺はもう、知ってしまっているから。
◇◇◇
さっきの海辺から、歩いて15分ほど。
竹藪を抜けた先には、大きな屋敷があった。
その屋敷の玄関近くに、これまたご丁寧に“須古星”と書かれた表札がある。
「はい、ここ」
「わぁ、ありがとうございました!」
俺がそう言って屋敷を指差すと、海月はヒマワリのような明るい笑顔になった。
「うん。じゃあ、俺帰るから——」
そんな海月とは対照的に、俺は目の前の大きな和風の屋敷から目を逸らすように回れ右をした。
その時。
「——ん? おぉ、海月か!」
海月のものでも、俺のものでもない、力強い男の人の声が響いた。
振り返って見てみると、そこには70代くらいの老人が立っていた。
「ひさしぶりです、信一さん!」
「おう、ひさしぶりだな。物音がするから、強盗でも来たんじゃねぇかって思ったら、海月だったか。……ん? そこの男は?」
信一と呼ばれた老人は、俺を見つけるなり、鋭くこちらを見つめてきた。
頭の中で、過去がフラッシュバックする。
………似てる。
「あ、この人は、道に迷ってた私を、ここまで案内してくれた人です!」
「ん? そうなのか? そりゃあ、悪かったな」
「いや、別に。全然、大丈夫です」
居心地が悪いと感じて、俺の声は、ほんの少し掠れていた。
そんな俺のことを察する能力がなかったのか、信一さんは笑って手招きをした。
「おい! お前さん、ちょっと付き合え!」
「え、えぇ……?」
「少し話をしてみてぇんだ。上がれ」
信一さんは笑いながらそう言ったけれど、さすが名家の血筋と言うべきだろうか。纏うオーラには、お前に拒否権はないと言わんばかりの威圧感が混ざっていた。
「……わかりました」
俺は頷きながらそう言った。
信一さんも、どこか満足げに頷いていた。
この時、俺はもう、バニラアイスのことを諦めていた。
そして、俺の隣を歩く少女は、その須古星家の血筋だと言う。
「私、須古星海月って言います。案内、ありがとうございます。……あの、先に言っておきますけど、私のことを下の名前で呼ぶなら、さん呼びはしないでください」
海月はそうハッキリ言った。
けれど、俺は呼び方よりも、その名前自体に驚いていた。
「く、らげ……?」
「変わった名前ですよね。よく言われます」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、どうしたんですか?」
海月からの問いに、俺は少し黙った。
一瞬迷って、言った。
「……俺の大切な人も、“くらげ”って名前だったなぁ。って」
俺がそう言うと、海月は少し首を傾げてから、「大切な人って、初恋の人ですか? 片想いの人ですか? それとも彼女ですか?」と聞いてきた。名家の出身にしては、プライバシーというものを知らないらしい。
「あの、お名前なんて言うんですか?」
「名前……霞澤、酔夢」
「酔夢さん……珍しいお名前ですね!」
「……あんまり下の名前で呼ばないで。その名前、好きじゃないから。あと、さん呼びも苦手」
「好きじゃないもの、たくさんあるんですね」
「ぅぐ……」
痛いところを突かれ、俺はよくわからない声を出した。
ほんっとうにプライバシーないな……。
「海月は、なんでここに来てるの?」
「私?……里帰り的なやつです」
「里帰り? ここの出身なの?」
「あ、どちらかといえば、両親の里帰りです」
「あぁ、そういうことね」
そこまで話して、俺たちは黙った。
気まずい沈黙。
そんな沈黙を破ったのは、海月の悲しげな一声だった。
「……私、お母さんがいないんです」
「え?」
そう言って俺を見上げる少女の瞳には、クラゲがいた。
瞳という水槽に浮かぶ、ミステリアスなクラゲ。
「病気です。私を産んでから、少しずつ体調が悪くなっていきました。……幸せが、ジワジワと崩壊していく音がしていました」
「……」
海月の唇は、端の方がほんの少し上がっていた。
それでも、それは、顔に張り付いた嘘でしかないのかもしれない。
「お母さんが死んじゃってから、お父さんの精神も崩れていきました。すごく愛してたんでしょうね。……だから今は、1人です」
「そう、なんだ……」
海月の悲しげな笑顔に、俺はなにも言えない。
こういう人間に対する変な同情や励ましは、無意識下の悪意にしかなれないと、俺はもう、知ってしまっているから。
◇◇◇
さっきの海辺から、歩いて15分ほど。
竹藪を抜けた先には、大きな屋敷があった。
その屋敷の玄関近くに、これまたご丁寧に“須古星”と書かれた表札がある。
「はい、ここ」
「わぁ、ありがとうございました!」
俺がそう言って屋敷を指差すと、海月はヒマワリのような明るい笑顔になった。
「うん。じゃあ、俺帰るから——」
そんな海月とは対照的に、俺は目の前の大きな和風の屋敷から目を逸らすように回れ右をした。
その時。
「——ん? おぉ、海月か!」
海月のものでも、俺のものでもない、力強い男の人の声が響いた。
振り返って見てみると、そこには70代くらいの老人が立っていた。
「ひさしぶりです、信一さん!」
「おう、ひさしぶりだな。物音がするから、強盗でも来たんじゃねぇかって思ったら、海月だったか。……ん? そこの男は?」
信一と呼ばれた老人は、俺を見つけるなり、鋭くこちらを見つめてきた。
頭の中で、過去がフラッシュバックする。
………似てる。
「あ、この人は、道に迷ってた私を、ここまで案内してくれた人です!」
「ん? そうなのか? そりゃあ、悪かったな」
「いや、別に。全然、大丈夫です」
居心地が悪いと感じて、俺の声は、ほんの少し掠れていた。
そんな俺のことを察する能力がなかったのか、信一さんは笑って手招きをした。
「おい! お前さん、ちょっと付き合え!」
「え、えぇ……?」
「少し話をしてみてぇんだ。上がれ」
信一さんは笑いながらそう言ったけれど、さすが名家の血筋と言うべきだろうか。纏うオーラには、お前に拒否権はないと言わんばかりの威圧感が混ざっていた。
「……わかりました」
俺は頷きながらそう言った。
信一さんも、どこか満足げに頷いていた。
この時、俺はもう、バニラアイスのことを諦めていた。