冬の夜が好きだ。
澄み切った空気、白く浮かぶ吐息、見上げれば群青色の空に散りばめられた星たち。
世界はこんなにも美しいのに、なぜだか私は心にぽっかりと穴が空いている。
理不尽な社会、冷え切った両親の仲。何もかもが嫌になり、気づけば外に飛び出していた。
行くあてもなく自由気ままに歩いていると、アーケード内の街灯がその存在感を示すように煌々と光っているのが視界に入る。まるで吸い込まれるように、その商店街に足を踏み入れた。
この時間まで開いている店はなく、全てシャッターが下りている。
街灯に照らされたシャッターには、手書きの看板や古びたポスターが貼られている。その内容はもう読めないほど色褪せているが、かつてはこの商店街が賑わっていた証拠だ。
ふと、昔ここを訪れた記憶が蘇る。あの頃は、家族でこの商店街を歩いたものだった。笑い声が絶えず、母が買ってくれた温かいココアの味が懐かしい。
今やその温かさはどこにもない。家庭の中には冷たい沈黙が支配し、私はいつもその中で居場所を失っている。友人たちも、それぞれの道を歩み始め、私だけが取り残されているような気がしてならない。自分の未来が見えない不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
冷たい風が肌を刺すように、中央通りを吹き抜けていく。
静寂が辺りを包み込み、まるで時間が止まったかのような感覚に襲われる。
ここには私独りしかいない。寂しさもあり、開放感もあった。
遠くから微かに聞こえる車の音が、一層この静けさを引き立てる。
一体どこへ行こうと言うのだろう。
歩いても歩いても、アーケードの終わりは見えてこない。
中央通りをまっすぐに歩いているはずなのに、まるで別世界へ迷い込んだかのようだ。
遠くの街灯が点滅し、消えそうになりながらも懸命に光を放っている。その姿が、まるで自分自身を見ているようで、思わず苦笑してしまう。どんなに辛くても、私はまだここにいる。そして、この世界のどこかに、自分を理解してくれる存在がいるかもしれないという微かな希望を胸に抱きながら、静かな夜の中に息を潜めている。
足元に目をやると、落ち葉が風に吹かれて小さな渦を描いている。
俯き加減で歩を進めていくと、前方から人の気配がした。
こんな時間に、歩いている人がいる……?
左に避けようとすると、どこかで聞いたことのある低い声が響いた。
「もしかして、高尾……?」
名前を呼ばれたので顔を上げると、天然パーマの黒髪にメガネの男の人が立っていた。厚手のコートにマフラー、という寒さ対策の完璧な服装だ。息で白く曇ったレンズから覗く鋭くも優しげな瞳。その姿を見て、一瞬で思い出が蘇った。
「先生……」
声が震える。寒さのせいか、それとも驚きのせいかはわからない。
高校時代の元担任、数学の遠山先生だった。
私は高校生の頃、数学の勉強に熱心だった。いや、正確には、先生に認められたくて必死だった。先生の授業が好きで、先生の教え方が好きで、何より先生自身が好きだった。
先生に名前を呼ばれたくて、予習も欠かさなかった。本当は数学なんて苦手なのに、得意なフリをしていた。
その時の思い出が、次々と頭に浮かぶ。授業中、黒板に書かれた方程式の意味がわからなくて、放課後に質問に行った時のこと。先生は丁寧に説明してくれて、その笑顔に胸がときめいた。もっと近づきたくて、もっと頑張ろうと思った。
あの頃と変わらない先生が、今私の目の前にいる。
「こんな遅い時間に、どうしたんだ? しかも、そんな格好で」
先生が心配そうに近づいてくる。
私は、薄手のカーディガンとチュニック、ジーンズという軽装だったことに気づく。
「あ、ちょっと外に出たくなって……」
「それにしても、寒すぎるだろう」
と言いながら、先生は自分のマフラーを外し、私の肩にかけてくれた。その温もりが、一瞬で心まで届くような気がした。
「ありがとう……ございます……」
私の顔は赤くなっているかもしれない。もしそうなら、寒さのせいにしておこう。
「先生こそ、こんなところでどうしたんですか?」
たしか、先生の家はこの辺りじゃなかったはず。
「ああ、友達の家に行っててな。その帰りなんだ」
そう言われて、「彼女ですか?」と喉元まで出かかったけれど、訊く勇気がなかった。
だって、もし肯定されたら……今の私は、きっと受け止められない。
嫌なことを忘れたくて外へ出たのに、これ以上嫌なことを、聞きたくない。
高校を卒業してから約四年、大学で告白されたこともあった。友達に誘われて合コンに行ったこともある。いい雰囲気になった人はいるけれど、その度に先生のことがよぎって先へは進めなかった。
私は、先生を忘れられなかった。
先生は、何かを察してくれたのか自販機のある店先のシャッターの前に、私を座らせた。
そして「ちょっと待ってな」と言って、自販機に小銭を入れる。
カシャンカシャンと機械の内部に落ちていく音が、今は滑稽なほどこの空間に不釣り合いだ。
「なにがいい?」
訊かれて、一瞬ドキッとした。
選択しなければならないということが、今の私には苦痛だったから。
それが、たった数種類のものであったとしても。
「え……と、じゃあ、ココアで」
断るのも悪いかと思い、先ほど頭に浮かんだ母との思い出の味を頼んだ。
購入した二本のうち、一本を差し出される。
「ほい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
腰を下ろしたまま、熱いココアを少しずつ口にする。
先生は私の隣で立ったまま、黄色いショート缶を力強く振ってから飲み始めた。
「先生、それなんですか?」
「コーンスープ。あったまるだろ」
ニカっと白い歯を見せてイタズラっぽく笑う。
そんなものがこの自販機にあったのか。
「好きなんですか?」
「まあ……好き、かな?」
あっ、と思った。
全然そんな意味じゃないのに。先生の声でその言葉を聞くと、かあっと体が熱くなる。
そういえば、高校生の時も先生の口からそれを聞きたくて、同じような質問をした記憶がある。あれが好き、これが好き。その時に聞いた先生の好きなものは、全部覚えている。
「こ、今度私も飲んでみようかなっ」
照れを隠すように、視線をそらしながら私は言葉を続けた。ココアの温かさが手のひらに伝わり、心も少しだけ温かくなった気がした。
先生はなにも訊いてこない。静かすぎて、ゴクっと喉を通る音が聞こえてしまいそうで恥ずかしい。静けさに耐えられず、私の方から質問した。
「まだ高校教師やってるんですか?」
「やってるよ。今年異動した。高尾は?」
「……就職活動中です」
「そうか……まあ、高尾のペースで行けばいいさ」
「励ましてくれないんですか?」
「ん? がんばれよ、的な?」
先生の問いに、頷くことができなかった。どう言ったらいいのかわからない。
「だってさ、高尾はがんばってるんだろ? それなのに『がんばれ』なんて、必要ないだろう?」
先生はそう言って、優しく微笑んだ。
「ただ、お前が自分のままでいること、それが一番大事なんだ。だから、無理をせずに自分を信じて進んでいけばいい。俺はいつでも応援してるからさ」
その言葉に、心が少しだけ軽くなった気がした。
「さて、行くかぁ」
先生は空になった缶を備え付けのゴミ箱に捨てて、軽く伸びをした。
──先生が行ってしまう。
私のココアはまだ少し残っている。
先生と一緒にいたくてゆっくり飲んでいたから、もうすっかり冷めてしまっていた。
もう少しだけ、このままでいたい。
「……一緒に行くか?」
「え……?」
「少しばかり、ドライブに」
私の気持ちを察してくれたのか、それとも祈りが通じたのか。
思いがけない誘いに私は肯定の返事をし、残りのココアを一気に飲み干した。
さっきまで長く感じたアーケードは、先生についていくととても短く感じて、すぐに夜の闇へと変わった。
「いいんですか、先生。帰ることろだったんじゃ?」
「まあ、たまにはいいだろ」
先生の車は、商店街の側の駐車場に停められていた。車に乗り込んで発進する。
どんどん、どんどん街が遠くなっていく。
安心感のある街の灯りは遠のいていくのに、ワクワクする。
こんな夜中に車で出かけるなんて初めてだ。
田舎道には街灯もなく、周囲は暗闇に包まれている。時折、対向車のライトが一瞬だけ周囲を照らし、先生の横顔が浮かび上がる。そのたびに心臓がドキドキと音を立てた。
車はさらに進み、ぐんぐんと山道を登っていく。気圧の変化で、ツンと耳がおかしくなるけど、それすらも新鮮で楽しい。
先生が車を停めた場所は、ちょうど山の中腹にある駐車スペースだった。
車が三台ほど停められる程度の広さで、柵の向こうは山間から街を望める。しかし、もう時間も遅いためか街の灯りはまばらだった。柵の下には深い闇が広がっていて、まるでそこ知れぬ暗黒に呑まれそうだ。
「もう少し早い時間だったら、夜景が見られたんだけどなぁ。でも、上を見てみろよ」
「上?」
言う通りに、首を上へ向ける。
それは、先ほど街中でみた星空とは違う、本当に満天の星だった。
「こうすれば……ほら。寝っ転がれるだろ」
先生は、車と柵の間を開けて駐車していて、そこにレジャーシートを敷いてくれた。
靴を脱いで言う通りに仰向けになってみるけれど、アスファルトがごつごつしていて、とても横になれない。
「ああ、じゃあ、これ。敷いていいよ」
と先生は着ていたコートを脱いで敷いてくれた。
「そんな。マフラーもお借りしてるのに」
「いいからいいから。あ、じゃあマフラー借りていいかな? 枕にするから」
先生のコートの上に寝転がり、仰向けになる。
今度こそ満天の星空を見上げるけれど、隣には先生がいて、マフラーよりも強く先生の匂いがして、心拍数がどんどん上がっていくのがわかる。
「きれいだな」
私の右側で、先生が呟くように言った言葉が心地よく、脳内でリフレインする。
さっきの『好き』と同じで、私に言われた形容ではないのに、都合よく解釈してしまう。
「思い出したんだ。たしか高尾が冬の空が好きだって言ってたのを」
そんなこともあったなぁと、当時のことを思い出す。何よりも先生が覚えていてくれたことが、一番嬉しかった。
「その時、『なんで?』って訊き返したら、星がきれいに見えるからだって。俺さ、高尾に教えてもらったんだ」
先生の声が、なんだか寂しそうだった。
でも、距離が近すぎて恥ずかしくて先生の方を向けず、上を向いたまま先生に訊ねた。
「先生も……。なにか辛いことがあったんですか?」
「そりゃもう……。生きていれば色々とあるさ。でも、そんな時に少しだけ上を向いたら星空があって。星空を見るたびに高尾のことを思い出すようになって」
互いに吐いた白い息が、空中で交わっていく。
先生の心に私がいてくれた。先生の孤独や辛さが、少しでも私との思い出で和らいでいたのなら、こんなにも嬉しいことはない。
目頭と、心が、じんわりと熱くなってくる。
「今日も、あのアーケードに入る前に、星がきれいだなって思いながら歩いてたら……高尾がいた」
先生は、あった出来事を言っているだけなんだろう。だけど、そんなにも私のことを思い浮かべてくれていたなんて、ドキドキしすぎて心臓が止まりそうだ。
私はやっぱり、まだ先生のことを──
その先の言葉を言いかけて、飲み込んだ。
私はまだ誇れる自分になっていない。
今はまだ、いう時じゃない。
言えるようになるまで、この気持ちは大切にしまっておこう。
そう思っていたのに、私の右手と先生の左手が触れてしまった。
「……っ、すみませ……」
はっと息を呑んで手を引っ込めようとすると、その手を先生がぎゅっと握りしめてきた。
そして指を絡めるように握り直してくる。その瞬間、私の指に固い物が触れ現実を突きつけてきた。
先生の手の温もりと、指に触れる冷たい金属の対比が、私の心を混乱させる。
──気づかなかった。
先生、結婚してたんだ……。
なんだ、私、馬鹿みたい。
一人で舞い上がって、こんなところまでついてきて。
複雑な気持ちで、先生の手をするりと解き、起き上がった。
どんな顔をしていいかわからず、背中を向けて座る。
「先生、どうして私をここに連れてきたんですか?」
「高尾を放っておけなかった……っていうのは口実かな。俺も独りでいたくなかった」
先生も起き上がって、私と背中合わせに座った。
独りでいたくない——それは、私と同じ気持ちだ。
先生、何があったんですか? そう訊く勇気があったらいいのに。
これは不貞行為だという自覚はあった。
先生がそのつもりなら、私だって……。
私は静かに向き直り、先生の背中に額をくっつけた。
「先生……私で、慰められますか?」
自分の言葉が思ったよりも震えていることに気づいた。こんな大胆なことを言うなんて、今までの私なら考えられなかった。でも、先生の孤独を感じると、自分の存在が少しでも役に立ちたいと思った。
「高尾はそんなに悪い子だったのか?」
先生が振り返る。見つめ合う二人の間に、夜の静けさが流れる。先生の瞳に映る自分の姿が、一瞬だけど子供の頃の私に戻ったような気がした。
「もう子供じゃありません」
「そうだな。……じゃ、目、閉じて」
先生の言葉に従い、そっと目を閉じる。まぶたの裏に、これから何が起こるのかという期待と不安が交錯する。
しかし、ほんの一瞬、温かくて柔らかいものが触れたのは、額だった。
「……? 先生?」
目を開けると、先生が淡く微笑んで私の頭を撫でる。その微笑みには、哀しみが混ざっているように見えた。
「高尾、ごめんな。おまえにそんなことを言わせてしまって」
──やっぱり、私じゃダメなんだ。
だけど、これで良かったんだ。先生は変わらず優しい。
この先へ進むべきではない。わかっていながらも、私は流れに身を任せようとしてしまった。
先生の手の温もりを感じながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
それからしばらく、私と先生は先ほどと同じように背中合わせに座っていた。
お互い視線を交わすのは恥ずかしい。でも独りではいたくない。
その気持ちが露わになった今、こうしているのが一番心地良かった。
最初に見た星が少しだけ西へ移動した頃、一つの星が流れて消えた。
「あっ、流れ星!」
「えっ、どこ?」
「消えちゃいました」
お願い事を三回唱える間もなく、本当に一瞬だった。
そういえば、今の時期はふたご座流星群が見られるってネットで見たような気がする。
光の尾を引きながら、流れ星が次々と現れ、消えていく。
私たちは、口を閉ざしたままじっとそれを眺めていた。
私の儚い願いは、流れ星のように夜空に溶けて消えてしまったけれど、私は先生と見たこの光景を忘れない。
やがて空が白み始め、夜明けが訪れようとしていた。
車の中ではずっと沈黙が続き、ただ流れゆく景色を眺めているだけだった。
そこに後悔や無念はなかった。
これで良かったんだ、夢のような時間はもう終わったのだから。
街へ戻り、家の近くで車から降ろしてもらった。
「先生、ありがとう。今夜のこと、ずっと忘れません」
そう言って車のドアを閉めたと同時に、私は先生への想いを断ち切った。
先生がどんな顔をしているのか、もう確かめる勇気はない。振り返りたい気持ちを抑えつつ、背を向けて一歩一歩歩き出し、私は、最後に心の中で呟いた。
──先生、あなたが好きでした。
澄み切った空気、白く浮かぶ吐息、見上げれば群青色の空に散りばめられた星たち。
世界はこんなにも美しいのに、なぜだか私は心にぽっかりと穴が空いている。
理不尽な社会、冷え切った両親の仲。何もかもが嫌になり、気づけば外に飛び出していた。
行くあてもなく自由気ままに歩いていると、アーケード内の街灯がその存在感を示すように煌々と光っているのが視界に入る。まるで吸い込まれるように、その商店街に足を踏み入れた。
この時間まで開いている店はなく、全てシャッターが下りている。
街灯に照らされたシャッターには、手書きの看板や古びたポスターが貼られている。その内容はもう読めないほど色褪せているが、かつてはこの商店街が賑わっていた証拠だ。
ふと、昔ここを訪れた記憶が蘇る。あの頃は、家族でこの商店街を歩いたものだった。笑い声が絶えず、母が買ってくれた温かいココアの味が懐かしい。
今やその温かさはどこにもない。家庭の中には冷たい沈黙が支配し、私はいつもその中で居場所を失っている。友人たちも、それぞれの道を歩み始め、私だけが取り残されているような気がしてならない。自分の未来が見えない不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
冷たい風が肌を刺すように、中央通りを吹き抜けていく。
静寂が辺りを包み込み、まるで時間が止まったかのような感覚に襲われる。
ここには私独りしかいない。寂しさもあり、開放感もあった。
遠くから微かに聞こえる車の音が、一層この静けさを引き立てる。
一体どこへ行こうと言うのだろう。
歩いても歩いても、アーケードの終わりは見えてこない。
中央通りをまっすぐに歩いているはずなのに、まるで別世界へ迷い込んだかのようだ。
遠くの街灯が点滅し、消えそうになりながらも懸命に光を放っている。その姿が、まるで自分自身を見ているようで、思わず苦笑してしまう。どんなに辛くても、私はまだここにいる。そして、この世界のどこかに、自分を理解してくれる存在がいるかもしれないという微かな希望を胸に抱きながら、静かな夜の中に息を潜めている。
足元に目をやると、落ち葉が風に吹かれて小さな渦を描いている。
俯き加減で歩を進めていくと、前方から人の気配がした。
こんな時間に、歩いている人がいる……?
左に避けようとすると、どこかで聞いたことのある低い声が響いた。
「もしかして、高尾……?」
名前を呼ばれたので顔を上げると、天然パーマの黒髪にメガネの男の人が立っていた。厚手のコートにマフラー、という寒さ対策の完璧な服装だ。息で白く曇ったレンズから覗く鋭くも優しげな瞳。その姿を見て、一瞬で思い出が蘇った。
「先生……」
声が震える。寒さのせいか、それとも驚きのせいかはわからない。
高校時代の元担任、数学の遠山先生だった。
私は高校生の頃、数学の勉強に熱心だった。いや、正確には、先生に認められたくて必死だった。先生の授業が好きで、先生の教え方が好きで、何より先生自身が好きだった。
先生に名前を呼ばれたくて、予習も欠かさなかった。本当は数学なんて苦手なのに、得意なフリをしていた。
その時の思い出が、次々と頭に浮かぶ。授業中、黒板に書かれた方程式の意味がわからなくて、放課後に質問に行った時のこと。先生は丁寧に説明してくれて、その笑顔に胸がときめいた。もっと近づきたくて、もっと頑張ろうと思った。
あの頃と変わらない先生が、今私の目の前にいる。
「こんな遅い時間に、どうしたんだ? しかも、そんな格好で」
先生が心配そうに近づいてくる。
私は、薄手のカーディガンとチュニック、ジーンズという軽装だったことに気づく。
「あ、ちょっと外に出たくなって……」
「それにしても、寒すぎるだろう」
と言いながら、先生は自分のマフラーを外し、私の肩にかけてくれた。その温もりが、一瞬で心まで届くような気がした。
「ありがとう……ございます……」
私の顔は赤くなっているかもしれない。もしそうなら、寒さのせいにしておこう。
「先生こそ、こんなところでどうしたんですか?」
たしか、先生の家はこの辺りじゃなかったはず。
「ああ、友達の家に行っててな。その帰りなんだ」
そう言われて、「彼女ですか?」と喉元まで出かかったけれど、訊く勇気がなかった。
だって、もし肯定されたら……今の私は、きっと受け止められない。
嫌なことを忘れたくて外へ出たのに、これ以上嫌なことを、聞きたくない。
高校を卒業してから約四年、大学で告白されたこともあった。友達に誘われて合コンに行ったこともある。いい雰囲気になった人はいるけれど、その度に先生のことがよぎって先へは進めなかった。
私は、先生を忘れられなかった。
先生は、何かを察してくれたのか自販機のある店先のシャッターの前に、私を座らせた。
そして「ちょっと待ってな」と言って、自販機に小銭を入れる。
カシャンカシャンと機械の内部に落ちていく音が、今は滑稽なほどこの空間に不釣り合いだ。
「なにがいい?」
訊かれて、一瞬ドキッとした。
選択しなければならないということが、今の私には苦痛だったから。
それが、たった数種類のものであったとしても。
「え……と、じゃあ、ココアで」
断るのも悪いかと思い、先ほど頭に浮かんだ母との思い出の味を頼んだ。
購入した二本のうち、一本を差し出される。
「ほい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
腰を下ろしたまま、熱いココアを少しずつ口にする。
先生は私の隣で立ったまま、黄色いショート缶を力強く振ってから飲み始めた。
「先生、それなんですか?」
「コーンスープ。あったまるだろ」
ニカっと白い歯を見せてイタズラっぽく笑う。
そんなものがこの自販機にあったのか。
「好きなんですか?」
「まあ……好き、かな?」
あっ、と思った。
全然そんな意味じゃないのに。先生の声でその言葉を聞くと、かあっと体が熱くなる。
そういえば、高校生の時も先生の口からそれを聞きたくて、同じような質問をした記憶がある。あれが好き、これが好き。その時に聞いた先生の好きなものは、全部覚えている。
「こ、今度私も飲んでみようかなっ」
照れを隠すように、視線をそらしながら私は言葉を続けた。ココアの温かさが手のひらに伝わり、心も少しだけ温かくなった気がした。
先生はなにも訊いてこない。静かすぎて、ゴクっと喉を通る音が聞こえてしまいそうで恥ずかしい。静けさに耐えられず、私の方から質問した。
「まだ高校教師やってるんですか?」
「やってるよ。今年異動した。高尾は?」
「……就職活動中です」
「そうか……まあ、高尾のペースで行けばいいさ」
「励ましてくれないんですか?」
「ん? がんばれよ、的な?」
先生の問いに、頷くことができなかった。どう言ったらいいのかわからない。
「だってさ、高尾はがんばってるんだろ? それなのに『がんばれ』なんて、必要ないだろう?」
先生はそう言って、優しく微笑んだ。
「ただ、お前が自分のままでいること、それが一番大事なんだ。だから、無理をせずに自分を信じて進んでいけばいい。俺はいつでも応援してるからさ」
その言葉に、心が少しだけ軽くなった気がした。
「さて、行くかぁ」
先生は空になった缶を備え付けのゴミ箱に捨てて、軽く伸びをした。
──先生が行ってしまう。
私のココアはまだ少し残っている。
先生と一緒にいたくてゆっくり飲んでいたから、もうすっかり冷めてしまっていた。
もう少しだけ、このままでいたい。
「……一緒に行くか?」
「え……?」
「少しばかり、ドライブに」
私の気持ちを察してくれたのか、それとも祈りが通じたのか。
思いがけない誘いに私は肯定の返事をし、残りのココアを一気に飲み干した。
さっきまで長く感じたアーケードは、先生についていくととても短く感じて、すぐに夜の闇へと変わった。
「いいんですか、先生。帰ることろだったんじゃ?」
「まあ、たまにはいいだろ」
先生の車は、商店街の側の駐車場に停められていた。車に乗り込んで発進する。
どんどん、どんどん街が遠くなっていく。
安心感のある街の灯りは遠のいていくのに、ワクワクする。
こんな夜中に車で出かけるなんて初めてだ。
田舎道には街灯もなく、周囲は暗闇に包まれている。時折、対向車のライトが一瞬だけ周囲を照らし、先生の横顔が浮かび上がる。そのたびに心臓がドキドキと音を立てた。
車はさらに進み、ぐんぐんと山道を登っていく。気圧の変化で、ツンと耳がおかしくなるけど、それすらも新鮮で楽しい。
先生が車を停めた場所は、ちょうど山の中腹にある駐車スペースだった。
車が三台ほど停められる程度の広さで、柵の向こうは山間から街を望める。しかし、もう時間も遅いためか街の灯りはまばらだった。柵の下には深い闇が広がっていて、まるでそこ知れぬ暗黒に呑まれそうだ。
「もう少し早い時間だったら、夜景が見られたんだけどなぁ。でも、上を見てみろよ」
「上?」
言う通りに、首を上へ向ける。
それは、先ほど街中でみた星空とは違う、本当に満天の星だった。
「こうすれば……ほら。寝っ転がれるだろ」
先生は、車と柵の間を開けて駐車していて、そこにレジャーシートを敷いてくれた。
靴を脱いで言う通りに仰向けになってみるけれど、アスファルトがごつごつしていて、とても横になれない。
「ああ、じゃあ、これ。敷いていいよ」
と先生は着ていたコートを脱いで敷いてくれた。
「そんな。マフラーもお借りしてるのに」
「いいからいいから。あ、じゃあマフラー借りていいかな? 枕にするから」
先生のコートの上に寝転がり、仰向けになる。
今度こそ満天の星空を見上げるけれど、隣には先生がいて、マフラーよりも強く先生の匂いがして、心拍数がどんどん上がっていくのがわかる。
「きれいだな」
私の右側で、先生が呟くように言った言葉が心地よく、脳内でリフレインする。
さっきの『好き』と同じで、私に言われた形容ではないのに、都合よく解釈してしまう。
「思い出したんだ。たしか高尾が冬の空が好きだって言ってたのを」
そんなこともあったなぁと、当時のことを思い出す。何よりも先生が覚えていてくれたことが、一番嬉しかった。
「その時、『なんで?』って訊き返したら、星がきれいに見えるからだって。俺さ、高尾に教えてもらったんだ」
先生の声が、なんだか寂しそうだった。
でも、距離が近すぎて恥ずかしくて先生の方を向けず、上を向いたまま先生に訊ねた。
「先生も……。なにか辛いことがあったんですか?」
「そりゃもう……。生きていれば色々とあるさ。でも、そんな時に少しだけ上を向いたら星空があって。星空を見るたびに高尾のことを思い出すようになって」
互いに吐いた白い息が、空中で交わっていく。
先生の心に私がいてくれた。先生の孤独や辛さが、少しでも私との思い出で和らいでいたのなら、こんなにも嬉しいことはない。
目頭と、心が、じんわりと熱くなってくる。
「今日も、あのアーケードに入る前に、星がきれいだなって思いながら歩いてたら……高尾がいた」
先生は、あった出来事を言っているだけなんだろう。だけど、そんなにも私のことを思い浮かべてくれていたなんて、ドキドキしすぎて心臓が止まりそうだ。
私はやっぱり、まだ先生のことを──
その先の言葉を言いかけて、飲み込んだ。
私はまだ誇れる自分になっていない。
今はまだ、いう時じゃない。
言えるようになるまで、この気持ちは大切にしまっておこう。
そう思っていたのに、私の右手と先生の左手が触れてしまった。
「……っ、すみませ……」
はっと息を呑んで手を引っ込めようとすると、その手を先生がぎゅっと握りしめてきた。
そして指を絡めるように握り直してくる。その瞬間、私の指に固い物が触れ現実を突きつけてきた。
先生の手の温もりと、指に触れる冷たい金属の対比が、私の心を混乱させる。
──気づかなかった。
先生、結婚してたんだ……。
なんだ、私、馬鹿みたい。
一人で舞い上がって、こんなところまでついてきて。
複雑な気持ちで、先生の手をするりと解き、起き上がった。
どんな顔をしていいかわからず、背中を向けて座る。
「先生、どうして私をここに連れてきたんですか?」
「高尾を放っておけなかった……っていうのは口実かな。俺も独りでいたくなかった」
先生も起き上がって、私と背中合わせに座った。
独りでいたくない——それは、私と同じ気持ちだ。
先生、何があったんですか? そう訊く勇気があったらいいのに。
これは不貞行為だという自覚はあった。
先生がそのつもりなら、私だって……。
私は静かに向き直り、先生の背中に額をくっつけた。
「先生……私で、慰められますか?」
自分の言葉が思ったよりも震えていることに気づいた。こんな大胆なことを言うなんて、今までの私なら考えられなかった。でも、先生の孤独を感じると、自分の存在が少しでも役に立ちたいと思った。
「高尾はそんなに悪い子だったのか?」
先生が振り返る。見つめ合う二人の間に、夜の静けさが流れる。先生の瞳に映る自分の姿が、一瞬だけど子供の頃の私に戻ったような気がした。
「もう子供じゃありません」
「そうだな。……じゃ、目、閉じて」
先生の言葉に従い、そっと目を閉じる。まぶたの裏に、これから何が起こるのかという期待と不安が交錯する。
しかし、ほんの一瞬、温かくて柔らかいものが触れたのは、額だった。
「……? 先生?」
目を開けると、先生が淡く微笑んで私の頭を撫でる。その微笑みには、哀しみが混ざっているように見えた。
「高尾、ごめんな。おまえにそんなことを言わせてしまって」
──やっぱり、私じゃダメなんだ。
だけど、これで良かったんだ。先生は変わらず優しい。
この先へ進むべきではない。わかっていながらも、私は流れに身を任せようとしてしまった。
先生の手の温もりを感じながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
それからしばらく、私と先生は先ほどと同じように背中合わせに座っていた。
お互い視線を交わすのは恥ずかしい。でも独りではいたくない。
その気持ちが露わになった今、こうしているのが一番心地良かった。
最初に見た星が少しだけ西へ移動した頃、一つの星が流れて消えた。
「あっ、流れ星!」
「えっ、どこ?」
「消えちゃいました」
お願い事を三回唱える間もなく、本当に一瞬だった。
そういえば、今の時期はふたご座流星群が見られるってネットで見たような気がする。
光の尾を引きながら、流れ星が次々と現れ、消えていく。
私たちは、口を閉ざしたままじっとそれを眺めていた。
私の儚い願いは、流れ星のように夜空に溶けて消えてしまったけれど、私は先生と見たこの光景を忘れない。
やがて空が白み始め、夜明けが訪れようとしていた。
車の中ではずっと沈黙が続き、ただ流れゆく景色を眺めているだけだった。
そこに後悔や無念はなかった。
これで良かったんだ、夢のような時間はもう終わったのだから。
街へ戻り、家の近くで車から降ろしてもらった。
「先生、ありがとう。今夜のこと、ずっと忘れません」
そう言って車のドアを閉めたと同時に、私は先生への想いを断ち切った。
先生がどんな顔をしているのか、もう確かめる勇気はない。振り返りたい気持ちを抑えつつ、背を向けて一歩一歩歩き出し、私は、最後に心の中で呟いた。
──先生、あなたが好きでした。