高校生の時――。
 メガネをかけていっつもすまし顔の、1つ上の先輩に恋焦がれていた。
 めったに笑わない。大きな声も出さない。
 学校一の美人から告白されても、表情一つかえずにNO(ノー)を突きつけるような、クールで大人びた人。
 御幸蓮(みゆきれん)さん。
 
 そんな彼の視線をひとり占めしていたのが、当時、私の隣にいた女友達だった。
 隠してるつもりでしょうけど、私にはバレバレだったよ。
 だっていつも低温なあなたが、あの子を見つめる時だけ瞳に熱を宿すの。
 チリチリとした胸の痛みさえも聞こえるほどに。


 あれから7年――。
 彼女はもうすぐ、御幸センパイの親友の花嫁になる。


☆★☆


「ご無沙汰しています。白石(しらいし)です。覚えてますか?」

 蒸し暑い夏の夕暮れ。
 仕事帰りに約束したカフェ居酒屋で、私は卒業式ぶりに御幸センパイと再会した。

 半年後に結婚式を挙げるせりなに、二次会の幹事を頼まれたのは、10日前のこと。
 新郎の友人と2人で、ってお願いされた時に、絶対に彼の名前があがると思っていた。
 今日は初めての打ち合わせ。
 期待と緊張で昨日はほとんど眠れなかったなんて、先輩には絶対に悟られたくない。
 久しぶりにあなたのことを思い出しました――的なスタンスで、強気に優雅に微笑んでみせる。
 それなのに……

麻琴(まこと)ちゃん、だよな? 久しぶり」

 名前を呼ばれただけで、心臓が大きく跳ねてしまった。
 向かい側の席に座った彼を、私は息をのんで見つめる。
 どこかインテリジェンスで、知的な雰囲気は変わっていない。
 センター分けした短めの黒髪に、涼し気な瞳。トレードマークともいえる、ネイビーフレームの眼鏡。
 少し近寄りがたいような凛とした横顔とスマートな立ち居振る舞いは、今も昔も私の性癖に刺さる。
 でも大人になって、多少は柔らかくなったかな?
 私にこんなふうに、気軽に笑いかける人じゃなかった。

「忘れてるかなって思ってたので安心しました。ほら私たち、高校時代はあまり交流がなかったですし」 
「ああ、学年も違ったしな。でも俺ははっきりと覚えてるよ。セリちゃんがよく、君のことを話してたから」

 サラッとそんなことを語られて、またもや胸がトクンッと鳴る。
 せりなを通してでも、彼の目に留まっていたことが嬉しい。
 私の心はあっという間に、高校時代にタイムリープしていた。
 あー、ダメだ。
 このままじゃ、完全に彼のペースにはまってしまう。
 たった1つの歳の差が大きな壁になっていた、あの頃と同じではいたくないの。
 せっかく会えたんだから、今、目の前にいる私を見て欲しい。


☆★☆


 ビールを飲みながら軽く食事をして、私たちはまずお互いの近況を報告しあった。

「へえ、麻琴ちゃんってネイリストなんだ。表参道で自分のスタジオを開くって、けっこう凄いな」
「ははっ。高校時代の私からは想像できないですよね。オシャレなんか後回しで、毎日バレーに打ち込んでたのに」
「だからじゃない? 必死で頑張れる人だったから、社会人になっても変わらず、目標に向かって真っすぐに進めたんでしょ」

 先輩がストレートに、私のことを褒めてくれる。
 そう。こういう事を照れずに茶化さずに、サラッと言えちゃうところに憧れていた。
 やっぱり素敵だな。
 恋人……もちろん、いるよね。
 
「あ、あの……もし良かったら! カノジョさんにうちの店、紹介して下さいね」

 しまった! さりげなく存在確認のつもりが……声、ちょっと裏返った?
 誤魔化すように笑って、名刺を差し出す。
 彼はそれを躊躇いながら受けとって、軽く苦笑いした。

「残念ながら今は、そういう人はいないんだけど。そうだな、会社の女性陣にでも宣伝しておくよ」

 うそ、まさかのフリー?
 気持ちが高揚する。落ち着け、私。

「御幸さん、次もビールでいいですか? お料理って足りてます?」

 2杯目をオーダーし、運ばれてきたサラダを取り分けた。
 こんなテンプレ行動、普段だったら絶対にやらないのに。
 御幸センパイに少しでもよく見せたくて、気の利いた女を演じてしまう。

「ありがとう。でも、麻琴ちゃんもゆっくり食べて。俺は自分のペースでやるから」

 私からサラダ皿を受けとった彼の顔が、わずかに歪んだ気がした。
 もしかして、こういう事されるの鬱陶しいタイプだった?
 やばい、失敗した。
 浮かれて悦に浸っていた自分が恥ずかしい。

「すみません、私……」
「実はさ、俺。プチトマトが苦手なんだ」
「はい?」

 思いがけない言葉に驚いて、俯きかけた顔を上げる。
 御幸センパイはちょっと照れくさそうに、こめかみを小さく引っ掻いた。

「子供の時に食べすぎたみたいで。高校の時にはもう、弁当に入ってるのもキツくて」

 うそっ、リサーチ不足!
 でも新情報、何かうれしい。

「そうだったんですね。じゃあ、残して頂いて大丈夫ですよ」
「麻琴ちゃんは、食べられる?」
「はい。実はサラダの宝だと思っていて」
「ハハッ。だから綺麗に、頂上にのっけてくれたんだ」

 御幸センパイは私の顔とトマトの乗ったお皿をマジマジと見比べて、可笑しそうに声を出して笑った。
 片方の眉が下がってる。こんなふうに顔をクシャッとして笑うんだ……なんか可愛い。
 日常の姿が垣間見えた気がして、嬉しくなって頬がゆるむ。
 そんな私の顔をのぞき込むように、彼はちょっと前かがみになった。

「じゃあ、はい。俺の分も食べて?」

 ひょいっとトマトのへたをつまみ、私の口元にゆっくりと手を伸ばす。

「え?」

 えぇ~?? こ……これは。あ~ん、してくれるって事でいいんでしょうか?
 あのクールな御幸センパイが? 私に!?

「い、頂きます」

 妙にかしこまりながら、おちょぼ口でプチトマトを受け止める。
 先輩の指先が、私の唇にかすかに触れた。
 たった一瞬のそれだけで、心拍数が上昇してしまう。
 女っぷりを見せつけて、彼をドキッとさせるつもりだったのに。
 悔しいけどさっきから、私の方がやられている。

 でも、大人になるってすごい。
 あの頃の高い壁は膝元まで下がり、今なら簡単に跳び越えることができそう。
 もしかしてずっと欲しかったこの人が、手に入るかもしれない……?


☆★☆


 一通りの食事を終えて、お互いが打ち解けたと感じた頃。
 私たちはようやく2次会の段取りを話し始めた。

「会場はもう押さえてあるんだ。紫己(しき)の大学のサークル仲間だけでも、50人近く集まるっていうから」

 御幸センパイがスマホの画面を寄せて、リストを見せてくれる。
 せりなの旦那様になる紫己(しき)さんは、高校時代からカリスマ的存在ですごくモテる人だった。
 当時は学校の半分以上の女子が、彼を慕っていたといっても過言じゃない。

「2次会の参加者、女の人が多いですね。せりな一筋で他に浮いた話も聞かないのに、さすが紫己さんって感じ」
「あいつは昔から天然の人たらしだからな。ほら麻琴ちゃんも、高校の時は紫己のファンだったろ?」
「あぁ……」

 そう言えば、そんな素振りを見せていたかもしれない。
 だって隣のあなたが好きとは、とても口に出せなかったから。
 みんなのノリに合わせて、せりなと紫己さんの関係に羨望の眼差しをむけていた。
 本当に羨ましかったのは、そっちじゃなかったのだけど。

「えっと……御幸さんと紫己さんって、いつからの友達なんですか?」
「んー、小学校の時かな。塾が一緒でさ」
「そんなに前から? じゃあ、せりなも?」 
「そう、あの子も一緒。いっつも紫己のあとを追いかけてたから、いつの間にか仲良くなってさ」

 しみじみと口にして、どこか遠くを眺めるように優しく目を細めた先輩。
 少し酔ってるのかな? 
 彼の視界の中心に、何か見えないものが映っているみたい。
 あれ……私、この感覚を知っている。
 何だか懐かしくて胸が痛い、この感じ。

 そしてハッとする。
 私はまた、届かないものをひたむきに追う、御幸センパイを目にしてるんじゃないかって。

「あはっ。じゃあ御幸さんにとって、せりなは妹みたいな感じですね?」

 先輩、まさかまだせりなを……?
 疑念をふりはらいたくて、できるだけ明るい声を出した。
 恋愛感情から切り離した場所に、わざと彼を突き放す。

「……だな。兄貴分としては、セリちゃんの幸せを心から願ってるよ」
「大丈夫ですよ、相手は完璧カレシの紫己さんですもん! 絶対に幸せにしてくれますって」
「うん、分かってる。セリちゃんに関して、あいつほど信頼度の高いヤツはいないもんな」
「です、です!」
「まあ、だからこそ……。何かあった時には、俺が飛んでってやんなきゃとも思ってるけど」
 
 伏し目がちにそう呟いた御幸センパイを見て、疑惑はますます濃くなる。
 もうあれから7年もたっているのに。
 ますます素敵な男性になっているのに。
 まさか彼の気持ちはあの頃と変わらず、まだせりなの場所にあるの?


☆★☆


 打ち合わせをどんなふうに切り上げて、店を出てきたのかよく覚えていない。
 飲んでないと思考が勝手に破裂しそうで、あれからワインをボトルで頼んだ。
 御幸センパイは「ほどほどに」って忠告してくれながらも、空になるまで付き合ってくれた。

 人通りの少ない、23時の西新宿。
 ビルの谷間にある公園で、私は酔いをさますためにベンチに座った。

「すみません……ちょっと飲みすぎちゃったみたいで。私は大丈夫なんで、御幸さんのタイミングで帰って下さい」

 これは半分本音で、半分は賭けだ。
 本当はまだ別れたくない。でも引きとめる言葉が見つからない。
 だから卑怯だと分かっていても、彼に選択を委ねるの。
 黙ってこのまま去ってくれれば、私もこれ以上踏み込まずにすむって。

「いいよ、付き合う。こうなる予感がしてて、止めなかったのは俺だし」
 
 彼はフッと口角をあげて、私の隣に腰を下ろした。
 一瞬だけ触れた手が熱い。
 生暖かい夜風がうずを巻いて、先輩と私をふわりとくるんだ。

「ねえ、御幸さん……」
「ん?」
「ずっと忘れられない人って、いますか?」

 私の不意の問いに、彼が息を飲んだのが分かった。
 せりなのことが、まだ好きなんですか?
 もうすぐ結婚して、永遠に手の届かない人になるのに。
 高校時代から……ううん。もしかして出会った頃から、ずっと想っているんですか?

 もどかしい気持ちで真っすぐに見つめる。
 御幸センパイは困ったように顔をそむけて、浅く唇をかむ。

「麻琴ちゃんは、いるの? そういう人が」

 常に毅然とした態度を崩さない、彼らしくない返答。
 質問に質問で返してくるなんてズルい。
 でも曖昧に嘘をつけないくらい、先輩の心は膨らんでいるんだと分かった。
 まだ好き、なんだね。
 霞がかっていた疑惑が確信にかわる。

「私はいますよ、高校時代からずっと忘れられない憧れの人が」

 ハッキリと言い切ると、彼はメガネの奥で眩しそうに目を細めた。

「そっか。いいな、明言できるの。カッコイイ」

 瞳に影を落としながら、どこか切なげに笑う。
 ああ、こういう表情好き。
 叶わない想いを抱いて心を痛めるあなたの姿は、いつも私の琴線に触れる。

 私やっぱり、この人が欲しい。
 過去の感傷にひたってるだけなのか。純粋で見返りを求めない恋を、ただ懐かしんでいるだけなのか。
 それは自分でもよく分からないのだけど。 
 10代の私には高く感じた壁を、今だからこそ乗り越えて、彼にもっと近づきたいって思っている。
 きっとこれが最後のチャンス。
 そしてもう、心なんて求めない。
 ちゃんと忘れるために、今夜『せりなの友人』という境界線を越えたいの。
 たとえもう2度と、「麻琴ちゃん」って笑いかけてもらえなくても。


「御幸さん……私ね」
「ん?」
「高校の時からずっと、紫己(しき)さんのことが好きなんです」

 渾身のウソをついた。
 警戒されずに同情を誘うには、こんな告白しか思いつかなかった。
 御幸センパイはちょっと驚いた顔をして、でも慈しむような目で私を見つめてくれる。

「それじゃ、ずっと辛かったな。紫己はいつだって、セリちゃんだけのものだったから……」

 変換すると、『セリちゃんはずっと、紫己だけのものだから。想いを口にする隙もなくて辛い』
 きっとこんな感じ?
 あなたは一生、自分の気持ちを隠し続けるつもりだろうから、私が代わりに言ってあげる。

「本当はあの人を、自分だけのものにしたかった。好きで好きでたまらなくて……」

 知らずのうちに、涙があふれていた。

「親友の大切な人じゃなければ、今すぐにでも奪いにいきたいのに」

 御幸センパイの気持ちを代弁してるだけ。
 なのに、自然と嗚咽が喉をつきあげる。

「イヤなの、本当は。結婚なんかして欲しくないって……」

 張り裂けそうな胸の痛みに耐えられなくなって、すがりつこうとした刹那――
 彼のほうが一足早く、私の肩を包みこんだ。
 優しく頭を撫で、それでいて強く私をかき抱く。

「それ以上は……口にしちゃダメだよ」

 だったら……

「あの人の代わりに、御幸さんが私を慰めてくれませんか?」

 このタイミングでそう言われたら、あなたは私を簡単に突き放せない。
 分かっていて、ねだったの。 


☆★☆


 ホテルの高層階。
 頭上の大きな窓からは、白く尖った月が見える。
 薄暗い部屋でその明かりだけを頼りに、私は御幸センパイの首にひしとしがみついてキスをした。
 ここまで来たら絶対に逃がさない。
 誰のことを見ていたとしても、それがどれだけの想いでも。
 今夜だけは、あなたは私のもの――。

 角度を変えてもう一度唇を合わせると、彼はようやく迷いを吹っ切ったようだった。
 遅いよって、心の中でつっこみを入れつつも、やっと手に入れた温もりが嬉しくて、また泣きそうになる。
 
 一夜限りの夢だからこそ、絶対に覚えておきたい。
 擦れあう舌の感触。
 長い指が私にどうやって触れて、形の良い唇がどこに痕を残したのか。
 低温なあなたが初めて私にくれた熱を、この先もずっと忘れたくない――。


☆★☆


 カーテンの隙間から、黄色い朝日が差しこむ。
 薄暗い部屋でその光だけを頼りに、まだベッドで眠る彼を起こさないよう、私は静かに身支度をととのえた。
 肌に残る微熱が愛おしくて、自分の体をギュッと抱きしめる。

 立ち去る前に、もう一度だけ顔が見たかった。
 そっと脇に近づくと、ふっと目を覚ました彼に、無意識に手首をつかまれる。

「麻琴ちゃん……」

 名前を呼ばれて、視線が交わる。
 胸の奥に閉まったはずの「好き」という言葉が、唇のはしから零れ落ちそうになったけれど――

「……ゴメン」

 そう先回りされて、すぐに冷静になれた。
 温度のない瞳。
 つかまれた手首からも、すぐさま温もりが消える。
 ああ、やっぱり私じゃダメだったか……。

「何を言ってるんですか? 私はただ、御幸さんに慰めてもらっただけですよ」

 不思議と悲嘆の気持ちはない。
 上手に微笑みさえ浮かべて、私は部屋を後にする。



 無機質な高層ビル街をおおう、夏の青空がやけに清々しく感じた。
 後悔なんて微塵もない。
 そう思っても涙が止まらないのは……
 もう2度と、見返りを求めない純粋な気持ちだけで、彼を見つめることは出来ないから。
 ただその事実が、淋しいだけだ。

 でも私は一足先に、あの頃の気持ちにケリをつけた。
 あなたも早く、その長い夜を駆け抜けられますように――。

 まだどこに続くか分からない道を、私は前だけを向いて闊歩する。

【End】