*
休日は、スマホが鳴るのを恐れて、電源を切った。
高岡くんから連絡がくるのも、ないのも嫌で現実から目を背ける。なにも手がつかないまま家でだらだらと過ごして土日が終わり、月曜日の朝、スマホを起動させると、高岡くんからの着信とメッセージが入っていた。
たとえそれが別れ話だったとしても、少なからず私のことが彼の頭に浮かんだことにこの期に及んで喜びを感じてしまう。
向き合う勇気がなくて、メッセージを開かないまま出社した。
極力高岡くんを視界に入れないように、近づかないように過ごしていたら、チャットツールに『今日、仕事終わったら二人で話したい。時間取れる?』とメッセージが入った。
――あぁ、終わっちゃう。
その文字をぼんやりと眺めながら、そんなことを思った。
いつ、用済みだと捨てられるのかと、二人が並ぶ姿を目撃するよりももっと前、新しい女の影に気付いた頃からそう考えては、そのときがくるのを怯えていた。
怯えながらも、二人のときは高岡くんは普通だし優しかったから、考えないようにして過ごしてた。
もしかしたら、私を選んでくれるかもしれない……なんて考えはなかったと言えば嘘になる。
だけど、その微かな希望は、昨日彼に目を逸らされた瞬間に粉々に打ち砕かれてしまった。
私に、冴木さんと一緒にいるところを見られても顔色一つ変えなかったことがすべてを物語っている。
『終わったら連絡します』
そう入力してエンターキーを押してメッセージを送信した。
二人きりになる決心がつかなくて、結局仕事を終えたのは八時を少し回った頃。人がまばらなフロアの中、私は鞄を手に席を立つ。その物音で高岡くんがこちらを見上げた。
目が合ったので私はなにも言わずにそのままフロアを出た。
エレベーター待ちしてる間に、追いついた高岡くんが私の隣に立つ。
「おつかれ」
「……おつかれさま」
前を向いたままそう言って、私たちは無言のまま会社を出る。
すっかり暗くなった空の下、通いなれた駅までの道のりを並んで歩いた。
同じ部署で同期の私が高岡くんの隣を歩いていても、噂にはならない。
お姫さまじゃないから。
“お似合い”じゃないから。
周りから見ても、私は高岡くんの対象外だった。
「ねぇ、高岡くん」
駅のホームで電車を待っているとき、私が先に口を開く。
「うん」
「私のこと、好きだった?」
私はそんなずるい質問を投げかける。優しいこの人なら、そう聞けば嘘でも私が求める言葉を返してくれると確信していた。
「……今も、好きだよ」
嘘つき。
……ううん、たぶん嘘じゃないんだろうなと思い直す。彼なりに、私を好きでいてくれているんだろう。
すぐに切り捨てるのを躊躇うくらいには。
(どうしてこんなに苦しいんだろう)
ずっと聞きたかった言葉をもらえて嬉しいはずなのに。
深いため息が聞こえてきて隣を仰ぎ見ると、眉を少し下げた顔の彼と目が合った。
「メッセ、見てないだろ。冴木さん……この前一緒にいた人とは……あの日で終わりにしたから」
「……え?」
終わりにした……?
予想してなかった言葉に、頭が真っ白になる。
「神谷とは、このまま終わりたくない。ちゃんと会って話がしたいってメッセ送ったんだけど」
「嘘……」
高岡くんがなにを言っているのか理解できなくて、そんな言葉が勝手に零れ落ちた。
「……信じられない?」
傷ついたような顔の高岡くんから視界を逸らす。
「だって……」
だって、そんなはずないもの。
「私は、」
私は、お姫さまじゃない。
王子様が選ぶのは、いつだって可愛くて綺麗なお姫様で、その辺にごまんといる村娘なはずがない。
『まもなく電車が参ります……』
電車がホームに入ってくる。風で顔にかかる髪に気を取られていると、不意に高岡くんが私の手を握った。
会社の最寄り駅で、そんなことしたことなかったのに。
土日の二日間で、彼の中でなにがどう変化したのか、私にはなにひとつわからなくて混乱するばかり。
電車から人が吐き出されると、高岡くんが私よりも先に電車に乗った。反対側のドアの隅に陣取って、壁側に私を置いてくれる。
高岡くんは、王子さまだった。
おとぎ話に出てくる王子さま。
だけど、私の王子さまじゃなかった。
彼の最寄り駅まで十五分。
どうしてだろう、いつもはあっという間に過ぎてしまうのに、今日はとても長く感じる。
つながれたままの彼の手が、冷えきった指先に優しいのに、私の心は少しも温まらない。
一駅止まっては人が出入りを繰り返し、ついにアナウンスが聞き慣れた駅名を告げる。
扉が開いて、電車が呼吸する。降りて、乗り込む人たちを見届けてから高岡くんが動き出す。快速待ちのため、ドアが閉まるにはまだ余裕があった。
高岡くんは、私の手を引いて電車を降りる。けれど、私はドアの手前で歩みを止めた。
私たちの間にあるホームと電車の隙間が、まるで底なし沼のように見えて私は一歩を踏み出せなかった。
振り向いた彼の、色素の薄い茶色い瞳が不安げに揺れている。
そんな目をしないで。
私の心が揺らいでしまいそうになる。
快速電車が、轟音を立てながらホームの向こう側を通過していった。
「終わりにしたくない」
(なら、どうして終わりにしたの?)
瞼に、“お似合い”の二人の姿がくっきりと浮かび上がり、チクリと胸が痛む。
はじめなければ、終わりはこない。
懇願のような言葉とは裏腹に、高岡くんは私の手を握るだけ。
離しも、引っ張りもしない。
私は、もうこの真っ暗な境界線を越えられない。
あんなに……、あんなに、お姫さまになることに焦がれていたのに。
あの夜は、少しの勇気で越えられたのに。
今の私には無理だった。
またいつ可憐なお姫さまが現れるかわからない。
周りからは“不釣り合いだ”と白い目を向けられる。
不安と劣等感にまみれて、さらに彼の天秤の上に立たされて怯えながらこの人の隣にいられるほど、私は強くないのだと知ってしまった。
『まもなく、三番線○○行きが出発します、お乗りのお客さまは……』
「私……、高岡くんのことずっと好きだったの」
一目惚れだったけど、知れば知るほど優しい彼に惹かれていった。
憧れにも似たこの思いは、まぎれもない恋だった。
「終わりなの、俺たち」
眉根が寄せられて歪んだ表情に、こちらが泣きそうになった。
あぁ、どうして私たちはあんなはじまり方をしてしまったんだろう。
寂しさを埋めるだけの愛でも構わないからと、自ら選んだあの夜を今になって悔やむことになるなんて。
あんなはじまり方じゃなかったら……、勇気を出して気持ちを伝えていれば、もうすこし違う今だったかもしれない。
溢れてくるのは、そんな無意味なことばかり。
たとえあの夜をやり直したとしても、どうせ私はまたあの夜を繰り返してしまうから。
だから、何度やり直しても、今は変わらない。
私は、変われない。
そう、私は、王子さまの隣で幸せそうに笑うお姫さまにはなれない。
「……ありがとう。この半年間、私、幸せだった」
たとえひとときでも、私をお姫さまにしてくれてありがとう。
この夜が明けたら、ただの会社の同期に戻るから。
会社で顔を合わせたら、笑顔で「お疲れさま」って挨拶するから。
だからどうか、また笑顔で言葉を交わしてほしいと願いを込めて、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
――ピルルルルル ……
警告音が鼓膜を叩く。
そっと腕を引けば、私の手はなんの抵抗もなく高岡くんの手からすり抜けていく。
「また明日、会社でね」
まるで私たちの関係を断ち切るかのように、電車のドアが閉じられた。
休日は、スマホが鳴るのを恐れて、電源を切った。
高岡くんから連絡がくるのも、ないのも嫌で現実から目を背ける。なにも手がつかないまま家でだらだらと過ごして土日が終わり、月曜日の朝、スマホを起動させると、高岡くんからの着信とメッセージが入っていた。
たとえそれが別れ話だったとしても、少なからず私のことが彼の頭に浮かんだことにこの期に及んで喜びを感じてしまう。
向き合う勇気がなくて、メッセージを開かないまま出社した。
極力高岡くんを視界に入れないように、近づかないように過ごしていたら、チャットツールに『今日、仕事終わったら二人で話したい。時間取れる?』とメッセージが入った。
――あぁ、終わっちゃう。
その文字をぼんやりと眺めながら、そんなことを思った。
いつ、用済みだと捨てられるのかと、二人が並ぶ姿を目撃するよりももっと前、新しい女の影に気付いた頃からそう考えては、そのときがくるのを怯えていた。
怯えながらも、二人のときは高岡くんは普通だし優しかったから、考えないようにして過ごしてた。
もしかしたら、私を選んでくれるかもしれない……なんて考えはなかったと言えば嘘になる。
だけど、その微かな希望は、昨日彼に目を逸らされた瞬間に粉々に打ち砕かれてしまった。
私に、冴木さんと一緒にいるところを見られても顔色一つ変えなかったことがすべてを物語っている。
『終わったら連絡します』
そう入力してエンターキーを押してメッセージを送信した。
二人きりになる決心がつかなくて、結局仕事を終えたのは八時を少し回った頃。人がまばらなフロアの中、私は鞄を手に席を立つ。その物音で高岡くんがこちらを見上げた。
目が合ったので私はなにも言わずにそのままフロアを出た。
エレベーター待ちしてる間に、追いついた高岡くんが私の隣に立つ。
「おつかれ」
「……おつかれさま」
前を向いたままそう言って、私たちは無言のまま会社を出る。
すっかり暗くなった空の下、通いなれた駅までの道のりを並んで歩いた。
同じ部署で同期の私が高岡くんの隣を歩いていても、噂にはならない。
お姫さまじゃないから。
“お似合い”じゃないから。
周りから見ても、私は高岡くんの対象外だった。
「ねぇ、高岡くん」
駅のホームで電車を待っているとき、私が先に口を開く。
「うん」
「私のこと、好きだった?」
私はそんなずるい質問を投げかける。優しいこの人なら、そう聞けば嘘でも私が求める言葉を返してくれると確信していた。
「……今も、好きだよ」
嘘つき。
……ううん、たぶん嘘じゃないんだろうなと思い直す。彼なりに、私を好きでいてくれているんだろう。
すぐに切り捨てるのを躊躇うくらいには。
(どうしてこんなに苦しいんだろう)
ずっと聞きたかった言葉をもらえて嬉しいはずなのに。
深いため息が聞こえてきて隣を仰ぎ見ると、眉を少し下げた顔の彼と目が合った。
「メッセ、見てないだろ。冴木さん……この前一緒にいた人とは……あの日で終わりにしたから」
「……え?」
終わりにした……?
予想してなかった言葉に、頭が真っ白になる。
「神谷とは、このまま終わりたくない。ちゃんと会って話がしたいってメッセ送ったんだけど」
「嘘……」
高岡くんがなにを言っているのか理解できなくて、そんな言葉が勝手に零れ落ちた。
「……信じられない?」
傷ついたような顔の高岡くんから視界を逸らす。
「だって……」
だって、そんなはずないもの。
「私は、」
私は、お姫さまじゃない。
王子様が選ぶのは、いつだって可愛くて綺麗なお姫様で、その辺にごまんといる村娘なはずがない。
『まもなく電車が参ります……』
電車がホームに入ってくる。風で顔にかかる髪に気を取られていると、不意に高岡くんが私の手を握った。
会社の最寄り駅で、そんなことしたことなかったのに。
土日の二日間で、彼の中でなにがどう変化したのか、私にはなにひとつわからなくて混乱するばかり。
電車から人が吐き出されると、高岡くんが私よりも先に電車に乗った。反対側のドアの隅に陣取って、壁側に私を置いてくれる。
高岡くんは、王子さまだった。
おとぎ話に出てくる王子さま。
だけど、私の王子さまじゃなかった。
彼の最寄り駅まで十五分。
どうしてだろう、いつもはあっという間に過ぎてしまうのに、今日はとても長く感じる。
つながれたままの彼の手が、冷えきった指先に優しいのに、私の心は少しも温まらない。
一駅止まっては人が出入りを繰り返し、ついにアナウンスが聞き慣れた駅名を告げる。
扉が開いて、電車が呼吸する。降りて、乗り込む人たちを見届けてから高岡くんが動き出す。快速待ちのため、ドアが閉まるにはまだ余裕があった。
高岡くんは、私の手を引いて電車を降りる。けれど、私はドアの手前で歩みを止めた。
私たちの間にあるホームと電車の隙間が、まるで底なし沼のように見えて私は一歩を踏み出せなかった。
振り向いた彼の、色素の薄い茶色い瞳が不安げに揺れている。
そんな目をしないで。
私の心が揺らいでしまいそうになる。
快速電車が、轟音を立てながらホームの向こう側を通過していった。
「終わりにしたくない」
(なら、どうして終わりにしたの?)
瞼に、“お似合い”の二人の姿がくっきりと浮かび上がり、チクリと胸が痛む。
はじめなければ、終わりはこない。
懇願のような言葉とは裏腹に、高岡くんは私の手を握るだけ。
離しも、引っ張りもしない。
私は、もうこの真っ暗な境界線を越えられない。
あんなに……、あんなに、お姫さまになることに焦がれていたのに。
あの夜は、少しの勇気で越えられたのに。
今の私には無理だった。
またいつ可憐なお姫さまが現れるかわからない。
周りからは“不釣り合いだ”と白い目を向けられる。
不安と劣等感にまみれて、さらに彼の天秤の上に立たされて怯えながらこの人の隣にいられるほど、私は強くないのだと知ってしまった。
『まもなく、三番線○○行きが出発します、お乗りのお客さまは……』
「私……、高岡くんのことずっと好きだったの」
一目惚れだったけど、知れば知るほど優しい彼に惹かれていった。
憧れにも似たこの思いは、まぎれもない恋だった。
「終わりなの、俺たち」
眉根が寄せられて歪んだ表情に、こちらが泣きそうになった。
あぁ、どうして私たちはあんなはじまり方をしてしまったんだろう。
寂しさを埋めるだけの愛でも構わないからと、自ら選んだあの夜を今になって悔やむことになるなんて。
あんなはじまり方じゃなかったら……、勇気を出して気持ちを伝えていれば、もうすこし違う今だったかもしれない。
溢れてくるのは、そんな無意味なことばかり。
たとえあの夜をやり直したとしても、どうせ私はまたあの夜を繰り返してしまうから。
だから、何度やり直しても、今は変わらない。
私は、変われない。
そう、私は、王子さまの隣で幸せそうに笑うお姫さまにはなれない。
「……ありがとう。この半年間、私、幸せだった」
たとえひとときでも、私をお姫さまにしてくれてありがとう。
この夜が明けたら、ただの会社の同期に戻るから。
会社で顔を合わせたら、笑顔で「お疲れさま」って挨拶するから。
だからどうか、また笑顔で言葉を交わしてほしいと願いを込めて、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
――ピルルルルル ……
警告音が鼓膜を叩く。
そっと腕を引けば、私の手はなんの抵抗もなく高岡くんの手からすり抜けていく。
「また明日、会社でね」
まるで私たちの関係を断ち切るかのように、電車のドアが閉じられた。