*
あの夜からかれこれ半年と少し。
私たちの関係は現在進行中。
彼女はと言えば、あの夜から数日経ったころ、風の噂で別れたと耳にした。
それが、あの夜よりも前なのか後なのかは、わからない。
どちらでも、構わなかった。
この半年間、彼女の存在がチラついたことはなかったし、高岡くんは私を恋人のように扱ってくれている。
それが今、揺らいでいる。
はじまりは一か月前。馴染みの小料理屋で食事をしていたときのこと。
トイレに立ち上がった彼・高岡くんが一瞬止まり、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取り画面を見たと思ったら、そのままスマホをテーブルに置いた。画面を伏せて。
もともと、高岡くんがスマホをチェックすることも珍しいなと思ったし、その直後にわざわざ画面を伏せて置いたことに違和感を感じた。
もしかして……。
ううん、考えすぎだって。
頭ではその可能性を否定するのに、体はそうじゃなかった。
どっどっどっどっと、全身の血が物凄い速さで流れ出して否定する因子を搔っ攫っていく。
そのときは、気付かなかった振りをしてやり過ごしたけれど。
一度気になったら、もうダメだった。
スマホ見る回数多くない?
トイレにもスマホを持って行くの?
会う回数減ってるよね?
それまで気にもしていなかったことが見えてきて、気になってしまう。
気のせいなのかもしれない。
だって、会う時間は確実に減っているけれど、高岡くんの私への態度に変化はなかったから。
でも……、気のせいじゃないかもしれない。
そんな押し問答を繰り返して、早一ヶ月。
問いただす勇気も、こっそりスマホの中身を見るような勇気も私にはなくて。悶々としたまま、時間だけが過ぎていく。
『おつかれさま。今日、夕飯一緒に食べない?』
『おつかれ。今日も残業になりそう。ごめん』
『終わるの待ってるよ』
『何時になるかわからないから、ごめん』
直接言って断られるのが怖くて社内のチャットツールで誘ってみたものの、案の定玉砕してしまう。
そう……、勘違いでも、気のせいでもないのだ。
カタカタカタ……。
『新しい彼女できた?』
キーボードを打って、チャットツールの入力欄にそう入力してみる。
エンターキーを押せば送信される。
このメッセージを読んだ高岡くんは、どんな顔をするだろうか。なんて返ってくるだろうか。
きっと、『ごめん』って返ってくるんだろうなと容易に想像できてしまう。
新しい相手ができたなら、平凡な私はお払い箱だろう。
彼女と上手くいかなかったとき、たまたま近くに自分に惚れている女がいたから、寂しさを埋めるために私を利用しただけにすぎない。
(だって、私……)
――好きという言葉を彼から言われたことがない。
タタタタ――……タンッ。
力任せにバックスペースキーを連打して、打ち込んだ文字を消していく。
たとえ、つぎが現れるまでのつなぎだとしても、この恋を終わらせる意気地も覚悟も私にはなかった。
結局、定時を少し過ぎて会社を出た。華金だけあって、いつもより人通りが多く、賑やかで明るい雰囲気に包まれている街中を一人で歩きながら、私はこの半年間を思い返していた。
高岡くんと並んで帰る駅までの道のりが、私は好きだった。
帰りにどこかでご飯を食べて、高岡くんの最寄り駅で途中下車して家で過ごした。
休日には、高岡くんの家で過ごしたり出かけたり。
はじまり方こそうやむやだったけれど、私たちはちゃんと恋人だった……はず。
けれど、心の底にはずっと不安が棲みついていた。
――私たち、恋人だよね?
――私のこと、好き?
ときどき、そう言って問い詰めたい衝動に駆られる。
そして毎回、その衝動よりも大きな不安が私を止める。
――終わってもいいの?
あの夜からはじまったこの関係は、名前を付けたら終わってしまうような気がして、いつだって言いたいことを飲み込んでしまう。
「――あ! 希子!」
唐突に自分の名を呼ばれ、私は肩をびくつかせた。顔をあげれば、歩道沿いの立ち飲みバルに「こっちこっち」と手を振る同僚の姿が目に入り、そちらへ歩み寄る。
「やだもう、びっくりしたー」
同期の奈々と愛梨沙だった。
「飲むなら誘ってよ」
「ごめんごめん、うちらも突発だったんだよ」
「そうそう、というわけで、希子も一緒にどう?」
「嬉しい。飲みたい気分だった!」
鞄を足元の荷物ラックに入れて、私も胸の高さまである小さなテーブルにつく。店員を呼んで注文をするとすぐにきんきんに冷えたビールが運ばれてきて、私たちは乾杯をした。予期せぬ同期同士の女子会は、近況報告が徐々に愚痴に変わっていく。
「あっ、そうだ、希子に会ったら聞こうと思ってたんだけど、高岡くんがうちの部署の派遣の子とデキてるってマジ⁉」
「……え?」
「それが、派遣なのに夜遅くに高岡くんと会社出てきたって目撃情報が」
「しかも何度も!」
「これはもう黒でしょ! なんか聞いてないの?」
思いもよらない話に地面がぐらぐらと揺れて、私はジョッキを強く握りしめた。テーブルに置いた腕に力を込める。そうしないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
嘘でしょ……。
「聞いてない……なにも……」
「あちゃー、希子も知らないかー! 高岡くんて恋愛の話あんまりしないもんね」
「でもこれだけ何度も目撃情報あると、信憑性高いよねぇ」
「ね、ねぇ、その子っていつからうちに来てるの?」思わず前のめりに聞くと、愛梨沙が首を捻る。
「えーっと、確か二か月前くらい?」
「そうだね、山口さんの産休と入れ替わりだから多分そのくらい」
ガツンと鈍器で頭を殴られたみたいな衝撃が走って、目の前が真っ暗になった。
まさか、新しい相手が社内の人だったなんて……。
「彼女と別れてしばらく浮いた話聞かなかったから引きずってるのかなーとか思ってたけど。まさか高岡くんの傷心を癒したのが派遣女子とは」
「結局男はなんだかんだ見てくれの可愛い女が好きだよね。――希子は? いい出会いないの?」
「ない、よ……もう仕事で手一杯」
「だよねぇ、わかる。あーあ、あたしの運命の王子さまはいつになったら現れるのかしらー」
「でたよ、愛梨沙の永遠に現れない王子さま!」
「なにそれひどっ」
あははは、と二人に合わせてどうにか笑ってやり過ごすも、上手く笑えているかはわからない。
それでも、一人になりたいような、なりたくないような、そんな気分だった私はもう少しこの場にいることを選ぶ。
変わりゆく話題に相槌を打ちながら、私は現実をビールと一緒に飲み込んでいくのに必死だった。
「ちょっと! あれ!」と、突然奈々が声を潜めて指を差し、私と愛梨沙も釣られて振り向いた。
私たちのところから少し離れた人混みの中に、私は一瞬でそのひとを捉える。一年以上、恋焦がれてきた彼を、見間違えるはずがなかった。
秋風に髪をなびかせながら、高岡くんは自分の隣に顔を向けて微笑んでいた。
――いやだ、見たくない。
自分じゃない女の人に向ける高岡くんの笑顔も、相手の顔も見たくない。
なのに、私は彼の見つめる視線の先へと視界を広げる。
そこにいたのは、華奢で可愛らしい女性だった。
私とは明らかに違う、華やかでやわらかな雰囲気を纏った人。
見なければよかったと、後悔に苛まれながらも二人から目が離せない。
「やっばぁ、現場押さえちゃったよ!」愛梨沙が私の肩を揺らす。
「あの子が……?」
「そう、派遣の冴木さん」
「うっわぁ、こう見るとちょっとお似合い過ぎて文句言えないかも」
「確かに」
二人の言う通り、文句のつけようがないくらい、高岡くんと彼女はお似合いだった。
「高岡君、こっち気付くかな?」
奈々の言葉に、心臓が飛び跳ねる。
そうだ、二人は今こっちに向かっていて、もう少しで目の前を通り過ぎるだろう。焦って視線をずらしたその直前、高岡くんがこちらを見た――気がした。
ううん、確かに目が合った。一瞬だったけど。
「うわっ、今こっち見なかった⁉」
「見たよね? 同期をスルーかよ高岡ー!」
「薄情者め」
二人とも声を潜めてはいるけれど、目はしっかり高岡くんたちに照準を合わせたままだ。私はもうこれ以上見たくなくて顔を逸らし、固唾をのんで二人が通り過ぎるのを待つ。
「――……れで、夕飯どうします? ……って、高岡さん、聞いてますー?」
「あ、ごめん。どこか行きたい……――」
会話が近づいて、遠ざかっていく。
目も耳もすべて塞いでしまいたいのを我慢して、俯いてやり過ごした。
異常な速さで脈打つ鼓動が息苦しい。
知りたくなかった、見たくなかった、聞きたくなかった。
「いやマジか」
「やるな派遣社員」
二人の後ろ姿が人混みに飲まれていった後、奈々と愛梨沙が大げさに息を吐いてからアルコールを一気に流し込んだ。私も握りしめていたグラスを口に運ぶ。少しぬるくなったビールは、一層強く苦味を感じた。
あの夜からかれこれ半年と少し。
私たちの関係は現在進行中。
彼女はと言えば、あの夜から数日経ったころ、風の噂で別れたと耳にした。
それが、あの夜よりも前なのか後なのかは、わからない。
どちらでも、構わなかった。
この半年間、彼女の存在がチラついたことはなかったし、高岡くんは私を恋人のように扱ってくれている。
それが今、揺らいでいる。
はじまりは一か月前。馴染みの小料理屋で食事をしていたときのこと。
トイレに立ち上がった彼・高岡くんが一瞬止まり、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取り画面を見たと思ったら、そのままスマホをテーブルに置いた。画面を伏せて。
もともと、高岡くんがスマホをチェックすることも珍しいなと思ったし、その直後にわざわざ画面を伏せて置いたことに違和感を感じた。
もしかして……。
ううん、考えすぎだって。
頭ではその可能性を否定するのに、体はそうじゃなかった。
どっどっどっどっと、全身の血が物凄い速さで流れ出して否定する因子を搔っ攫っていく。
そのときは、気付かなかった振りをしてやり過ごしたけれど。
一度気になったら、もうダメだった。
スマホ見る回数多くない?
トイレにもスマホを持って行くの?
会う回数減ってるよね?
それまで気にもしていなかったことが見えてきて、気になってしまう。
気のせいなのかもしれない。
だって、会う時間は確実に減っているけれど、高岡くんの私への態度に変化はなかったから。
でも……、気のせいじゃないかもしれない。
そんな押し問答を繰り返して、早一ヶ月。
問いただす勇気も、こっそりスマホの中身を見るような勇気も私にはなくて。悶々としたまま、時間だけが過ぎていく。
『おつかれさま。今日、夕飯一緒に食べない?』
『おつかれ。今日も残業になりそう。ごめん』
『終わるの待ってるよ』
『何時になるかわからないから、ごめん』
直接言って断られるのが怖くて社内のチャットツールで誘ってみたものの、案の定玉砕してしまう。
そう……、勘違いでも、気のせいでもないのだ。
カタカタカタ……。
『新しい彼女できた?』
キーボードを打って、チャットツールの入力欄にそう入力してみる。
エンターキーを押せば送信される。
このメッセージを読んだ高岡くんは、どんな顔をするだろうか。なんて返ってくるだろうか。
きっと、『ごめん』って返ってくるんだろうなと容易に想像できてしまう。
新しい相手ができたなら、平凡な私はお払い箱だろう。
彼女と上手くいかなかったとき、たまたま近くに自分に惚れている女がいたから、寂しさを埋めるために私を利用しただけにすぎない。
(だって、私……)
――好きという言葉を彼から言われたことがない。
タタタタ――……タンッ。
力任せにバックスペースキーを連打して、打ち込んだ文字を消していく。
たとえ、つぎが現れるまでのつなぎだとしても、この恋を終わらせる意気地も覚悟も私にはなかった。
結局、定時を少し過ぎて会社を出た。華金だけあって、いつもより人通りが多く、賑やかで明るい雰囲気に包まれている街中を一人で歩きながら、私はこの半年間を思い返していた。
高岡くんと並んで帰る駅までの道のりが、私は好きだった。
帰りにどこかでご飯を食べて、高岡くんの最寄り駅で途中下車して家で過ごした。
休日には、高岡くんの家で過ごしたり出かけたり。
はじまり方こそうやむやだったけれど、私たちはちゃんと恋人だった……はず。
けれど、心の底にはずっと不安が棲みついていた。
――私たち、恋人だよね?
――私のこと、好き?
ときどき、そう言って問い詰めたい衝動に駆られる。
そして毎回、その衝動よりも大きな不安が私を止める。
――終わってもいいの?
あの夜からはじまったこの関係は、名前を付けたら終わってしまうような気がして、いつだって言いたいことを飲み込んでしまう。
「――あ! 希子!」
唐突に自分の名を呼ばれ、私は肩をびくつかせた。顔をあげれば、歩道沿いの立ち飲みバルに「こっちこっち」と手を振る同僚の姿が目に入り、そちらへ歩み寄る。
「やだもう、びっくりしたー」
同期の奈々と愛梨沙だった。
「飲むなら誘ってよ」
「ごめんごめん、うちらも突発だったんだよ」
「そうそう、というわけで、希子も一緒にどう?」
「嬉しい。飲みたい気分だった!」
鞄を足元の荷物ラックに入れて、私も胸の高さまである小さなテーブルにつく。店員を呼んで注文をするとすぐにきんきんに冷えたビールが運ばれてきて、私たちは乾杯をした。予期せぬ同期同士の女子会は、近況報告が徐々に愚痴に変わっていく。
「あっ、そうだ、希子に会ったら聞こうと思ってたんだけど、高岡くんがうちの部署の派遣の子とデキてるってマジ⁉」
「……え?」
「それが、派遣なのに夜遅くに高岡くんと会社出てきたって目撃情報が」
「しかも何度も!」
「これはもう黒でしょ! なんか聞いてないの?」
思いもよらない話に地面がぐらぐらと揺れて、私はジョッキを強く握りしめた。テーブルに置いた腕に力を込める。そうしないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
嘘でしょ……。
「聞いてない……なにも……」
「あちゃー、希子も知らないかー! 高岡くんて恋愛の話あんまりしないもんね」
「でもこれだけ何度も目撃情報あると、信憑性高いよねぇ」
「ね、ねぇ、その子っていつからうちに来てるの?」思わず前のめりに聞くと、愛梨沙が首を捻る。
「えーっと、確か二か月前くらい?」
「そうだね、山口さんの産休と入れ替わりだから多分そのくらい」
ガツンと鈍器で頭を殴られたみたいな衝撃が走って、目の前が真っ暗になった。
まさか、新しい相手が社内の人だったなんて……。
「彼女と別れてしばらく浮いた話聞かなかったから引きずってるのかなーとか思ってたけど。まさか高岡くんの傷心を癒したのが派遣女子とは」
「結局男はなんだかんだ見てくれの可愛い女が好きだよね。――希子は? いい出会いないの?」
「ない、よ……もう仕事で手一杯」
「だよねぇ、わかる。あーあ、あたしの運命の王子さまはいつになったら現れるのかしらー」
「でたよ、愛梨沙の永遠に現れない王子さま!」
「なにそれひどっ」
あははは、と二人に合わせてどうにか笑ってやり過ごすも、上手く笑えているかはわからない。
それでも、一人になりたいような、なりたくないような、そんな気分だった私はもう少しこの場にいることを選ぶ。
変わりゆく話題に相槌を打ちながら、私は現実をビールと一緒に飲み込んでいくのに必死だった。
「ちょっと! あれ!」と、突然奈々が声を潜めて指を差し、私と愛梨沙も釣られて振り向いた。
私たちのところから少し離れた人混みの中に、私は一瞬でそのひとを捉える。一年以上、恋焦がれてきた彼を、見間違えるはずがなかった。
秋風に髪をなびかせながら、高岡くんは自分の隣に顔を向けて微笑んでいた。
――いやだ、見たくない。
自分じゃない女の人に向ける高岡くんの笑顔も、相手の顔も見たくない。
なのに、私は彼の見つめる視線の先へと視界を広げる。
そこにいたのは、華奢で可愛らしい女性だった。
私とは明らかに違う、華やかでやわらかな雰囲気を纏った人。
見なければよかったと、後悔に苛まれながらも二人から目が離せない。
「やっばぁ、現場押さえちゃったよ!」愛梨沙が私の肩を揺らす。
「あの子が……?」
「そう、派遣の冴木さん」
「うっわぁ、こう見るとちょっとお似合い過ぎて文句言えないかも」
「確かに」
二人の言う通り、文句のつけようがないくらい、高岡くんと彼女はお似合いだった。
「高岡君、こっち気付くかな?」
奈々の言葉に、心臓が飛び跳ねる。
そうだ、二人は今こっちに向かっていて、もう少しで目の前を通り過ぎるだろう。焦って視線をずらしたその直前、高岡くんがこちらを見た――気がした。
ううん、確かに目が合った。一瞬だったけど。
「うわっ、今こっち見なかった⁉」
「見たよね? 同期をスルーかよ高岡ー!」
「薄情者め」
二人とも声を潜めてはいるけれど、目はしっかり高岡くんたちに照準を合わせたままだ。私はもうこれ以上見たくなくて顔を逸らし、固唾をのんで二人が通り過ぎるのを待つ。
「――……れで、夕飯どうします? ……って、高岡さん、聞いてますー?」
「あ、ごめん。どこか行きたい……――」
会話が近づいて、遠ざかっていく。
目も耳もすべて塞いでしまいたいのを我慢して、俯いてやり過ごした。
異常な速さで脈打つ鼓動が息苦しい。
知りたくなかった、見たくなかった、聞きたくなかった。
「いやマジか」
「やるな派遣社員」
二人の後ろ姿が人混みに飲まれていった後、奈々と愛梨沙が大げさに息を吐いてからアルコールを一気に流し込んだ。私も握りしめていたグラスを口に運ぶ。少しぬるくなったビールは、一層強く苦味を感じた。