「別れよう」
 雨が降り注ぐ住宅街、ひんやりとした夜風に乗せて放たれたその言葉は、私の心を、底の見えない闇へと落とした。
『家の近くまで行くから今から会えない?』とLINEがきて、何かと思えば別れを告げるためだなんて。久々に会える喜びに胸を躍らせていた自分がバカみたい。

 最後に会ったのは一ヶ月ほど前。その時と比べると目の前にいる隼人(はやと)は別人みたいだ。
 甘えん坊で人懐っこく、笑うと目が線のように細くなり、笑ったときできたエクボに指を押し込むのが好きだった。今はそれもできそうにないくらい頬は痩せこけている。いつものセンターパートではなく、髪はくしゃくしゃになっていて乱れているのが一目で分かった。

「え、ちょっと待ってよ。いきなりなに言っ」
日菜(ひな)のことを考える余裕がないんだ」

 私の言葉を(さえぎ)った隼人は目の前から立ち去っていく。
 あまりの唐突の言葉に、持っていた傘も風に飛ばされ住宅街の闇へと消えていった。
 この時、物理的な距離ではなく、隼人の心さえも遠くに行ってしまうのが分かった。


 隼人と付き合ったのは一年くらい前。今日みたいな雨の日だった気がする。
 大学のサークルで知り合った彼に一目惚れした私は、積極的にアプローチをしてそのまま付き合うことができた。
当時大学四年生だった彼は早い段階で就活が終わっていたこともあって、二人の時間は十分に確保できていた。けれど、就職を境に会う頻度は減っていき、連絡も一日に一通。時間が経つにつれて、私の日常から隼人が薄れていくのを感じていた。

 心配になって『お仕事たいへん?』『大丈夫?』とメッセージを送っても、返ってくる言葉はいつも同じ『大丈夫だよ』だけ。深追いのLINEを送ることも(はばか)れる。だって隼人の負担にはなりたくなかったから。

 今になって思う。あの時ちゃんと隼人と向き合っていることができていたら。って。
 遠ざかる隼人の背中を追いかける余力がない私は、膝から崩れ落ちていく。ジーンと鈍い痛みが走るが、それすらも一瞬で消え去っていく。募る後悔と喪失感から頬に生暖かいものが伝い、水たまりへと溶け込んでいった。

 濡れた体に冷たい風が吹きかかる。
 表面的に冷えた体はやがて深部の温度までを奪い、体の内側からぶるぶると震え始めた。
「嫌だ...」

 こんな時に寄り添ってくれる人が欲しい。きっと、友達では満たされることはないだろう。手の温もり、体温、愛情。どうしてもまた、あなたを求めてしまう。
 でももう、隼人は私を抱きしめてはくれない。

 そうして隼人と、人肌恋しくなる季節に別れた。


「ねえ占い行ってみようよ!」
 一月一日、新年を迎えて早々、美彩(みさ)が占いに行こうと提案してきた。事の経緯は、お互いの恋愛相談をするために美彩の家で語り合っているときだった。

「隼人くんと別れてから日菜が日菜じゃないみたいで、なんか私まで悲しくなっちゃうんだもん」
 親友の気遣いに一瞬うるっときたが、その感情すらもアルコールで腹のなかに流し込む。
「ありがとうね、本当に」

「私もかれこれ一年ちょっと彼氏いないから寂しんだよね」
 そう言った美彩は缶酎ハイを空にする。それに釣られて私もグイッと飲みほした。

「じゃあ近いうちに占い行ってみようか」
 張り切った様子で美彩は「そうだね!」と言い、この日何本目かも分からない缶酎ハイで再び乾杯をした。


 長い一本道が大勢の人たちで埋め尽くされ、あたりは甘い香り、香ばしい香りが充満している。この空間だけ異国の雰囲気を感じる。行き交う人々は「あの肉まん可愛くない?」やら「めっちゃ美味しい!」と楽しそうだ。
 それにしても、カップルが多いように感じる。私が意識しすぎているのか。

 美彩と約束通り休みを合わせて占いをしに来た。何店舗も存在する中で、一際目立つお店があった。
『恋愛占い専門』
 私たち二人は目が合い、思わず吹き出してしまった。
 美彩はツボに入ったようで「ここしかないでしょ」とテンポ良く手を叩きながら引き笑いをしている。
 
 美彩が落ち着きを取り戻したところで、私は口にする。
「じゃあ、行こうか」
 木製の扉に手をかけ、キィと軋む音と共に店内へと入った。


 占い師からの投げかけに一問一答をし、その情報を紙にまとめているところを私たちはぼんやりと見つめていた。
 美彩はか細い声で「占いってこんな感じなんだね」と囁く。緊張感によって身を恐縮させた私は「やめなって」と美彩を肘で小突いた。

 占い師の女性は左手に持つペンを顎でカチカチと鳴らし、ため息混じりで「そうね〜」と私たちの顔を交互に眺めはじめた。

「身近の人を恋愛対象にしちゃダメね」
「身近の人はダメ...」
 それに続く言葉が思い浮かばず、思わず黙りこくってしまう。

「最近男性からメッセージとか来ない?例えば、今度飲みにいかない?とか」
「あ、はい。中高の同級生からたまにきます」
「そういう男性はね、あなたを下心で見ている可能性が高いの。仲良いお友達だったら話はべつよ?でも少し知っている人は気をつけたほうがいいわ」

 なんとなく占い師が言っていることが理解できた。SNSに隼人との写真を載せていたときは男性からのメッセージが来なかったけど、別れて写真を消した日から頻繁にメッセージが来るようになった。

「お互いが何も知らない状態、つまり、ゼロから始める関係性のほうが余計なフィルターをかけずに相手のことを見ることができる。だって、全くの他人で気になる異性がいたら本能的に相手のことを知ろうとするでしょ?」
 占い師からの言葉は、私の体をスッとすり抜けていくような感覚にさせた。

 その後は美彩へのアドバイスも終わり、私たちは占い屋を後にした。


「ってことで二人でマッチングアプリやってみよ!新しい出会いもあるだろうし」
 占いを終えた私たちは、近くにあったチェーンのカフェにいた。
「マッチングアプリか〜。するなら周りの人たちにはバレたくないな。それにちょっと怖いし」

 私には縁のないものだと思っていた。でもよく考えてみれば、全くの他人と出会うのに一番最適なツールであることは確かだ。ただどうしても周りの目を気にしてしまう。
 使い方がいまいち分からない私に対して、美彩は慣れたような手つきでアプリを操作している。左、右、左、右と手を休めることなく画面をスライドさせている。

「ねえ本当にアプリ使うの初めてなの?すっごい慣れた手つきでいじってるけど」
「もちろん!友達が使ってるのを見てたから自然と覚えちゃったの」
 普段は不器用でおちゃらけている美彩だが、妙なところに感心をしてしまう。
 美彩のように高速でスライドはせず、画面に映る相手のプロフィールを隅から隅まで読む。

 なんか違う。これも違う。あ、ちょっと惜しい。
 そんなことを繰り返していると、ある一人の男性の顔写真に目がとまり、気がづくと画面を右にスライドをしていた。プロフィールを一文も目を通さずに。

『かける』
社会人一年目
職場で出会いがないので始めてみました。よろしくお願いします。

 プロフィールに書かれているのは、定型文のような自己紹介だけ。もしこれで成立してしまったらどうしようかと、不安な気持ちが胸の中で渦巻く。
 画面に映る“かける”の顔をしばらく眺める。センターパートの髪、笑ったとき線のようになる眼、それとエクボ。なんだか、隼人に似ている。

 右にスライドをしてからそれほど時間が経たないうちに、ピコンと通知音が鳴った。

『かけるさんとマッチしました!さっそくお話してみましょう!』

「え、まって!日菜マッチしてるじゃん!よかったね」
「う、うん。間違えていいねしちゃった人なんだけどね」と反射的に嘘をついてしまった。
「いいな〜。私なんてまだ誰からもこないよ」

 そう言いながらも少し経ったころ、美彩も一人の男性とマッチが成立していた。
 二人して「これからが勝負よね」と声高らかにしながらも、どうしても不安を隠せずにいた私の顔は、まだ引きつったままだった。

 美彩とカフェで別れてから、今日の疲れが一気に体にのしかかる。眼の奥がじんわり、瞼が重い。
 最寄駅に到着し、とぼとぼと家までの道を歩いていく。頭上を見上げると、ネイビーブルーの空が広がっていた。西側の空は微かにオレンジ色になっていて、今日一日の私の頑張りを労っているかのようだ。

 占いに行ったことは、果たして私にとって良い選択だったのか。もしかしたら違った選択肢もあったのではないだろうか。
 脳内のスクリーンに、あの日の隼人の後ろ姿が映し出される。
 ダメ、ダメ、考えちゃダメ。もう終わったんだもの。
 考えても考えても答えは出ず、胸の中に広がる霧を振り払えないまま家に到着した。


かける:初めまして、かけるっていいます。プロフィールを読んで、りなさんのことが気になったのでいいね押しました!
    お話しできたら嬉しいです、よろしくお願いします!

 出会いがなくて始めました。
 漫画とアニメが好きで、休日は家でゴロゴロしています。よろしくお願いします。

 いったいこのプロフィールのどこを見て気になったというのだろうか。自分と同じように誤操作なのではないかと悪い方向へと思考が傾く。身バレを恐れた私は本名は名乗らず、りなということにしている。このまま無視するわけにもいかず、ありがちな返答をした。

りな:初めまして、りなです、いいねありがとうございます!私もお話したいです!
かける:メッセージ返ってくると思わなかったから嬉しいです!あと自分もアニメ結構観ますよ!
りな:え、ほんとですか⁉︎いまはなに観てますか?

 こうしてメッセージを重ねているうちに、思いのほか話が盛り上がり、会う約束までしてしまった。マッチングアプリに対する偏見はあったが、いざ相手と話してみると案外おもしろい。新しい出会いがあったことに多少の喜びを覚えるが、やっぱり頭の片隅には隼人がいて、かけるさんに申し訳ないことをしていると自覚していた。ただ、このまま過去の恋愛を引きずるのは良くない。そう言い聞かせ、かけるさんとのメッセージを続けることにした。
 そして、当日の朝を迎えた。


 昼すぎに待ち合わせをしているため、時間は思ったよりもある。いつもよりも気合を入れて準備に取りかった。
 メイクは問題ない?前髪はちゃんと作れてる?と独り言を口にする。クローゼットからコートを取り出してはしまう、取り出してはしまう。そうこうしていると出発時刻までわずかだということに気づいた。

 ベージュのダウンジャケットの下には白のニット、下は白のハーフパンツ。マフラーをして、これで大丈夫。姿見で最終チェックを済ませて、新鮮な気持ちでドアを開ける。

 深呼吸をすると鼻を通る空気は冷たく、鼻腔に刺激を与えた。
 今日は晴れてよかった。
 
 約束の集合場所に着くと、犬の銅像の周りには多くの人だかりができている。スマホを眺めている人、周囲を見渡しながら電話をする人、椅子に腰をかけて目を瞑っている人。私と同じように、この人たちも誰かを待っているのだろう。
 スマホに目を移し、かけるさんの顔写真を見る。この顔を探すのには苦労しなさそうだなとキョロキョロしていると、探していた人が視界に入った。

 ドキッと心臓が跳ね上がり、真冬なのにも関わらず掌が湿ってきた。呼吸を整えようにもなかなか落ちついてくれず、心拍音が鼓膜で振動している。
 ここに来て足がすくんで動揺している私は声をかけられずにいたが、周りを見渡すかけるさんと目が合った。一歩、そしてまた一歩と近づいてくる。獰猛な肉食獣に襲われる小動物のように、ただその時を待つことしかできない。

「りなさんですよね?」
「あ、は、はい!そうです」

 緊張のあまりに開口一番で声が裏返ってしまった。

「会えて嬉しいです。写真で見るより綺麗ですね」
「あ、ありがとうございます。こちらこそ会えて嬉しいです」

 誰にでも言っているのではと、その言葉に多少は疑ったが褒められて嫌な気はしない。
 私とは頭ふたつ分ほどの身長差、黒のコートに黒のパンツ、首元には真珠のネックレス。そしてほのかに感じる甘い香り。落ちついた雰囲気が大人の色気を(かも)し出している。これが社会人と学生の差というものなのだろうか。

「外にいると寒いんで、早速カフェ行きましょ」
「はい!行きましょ」

 かけるさんがチョイスしてくれたカフェは集合場所からは遠くないみたいで、意外と早く着くみたいだ。
 大きな交差点、信号が青になると大勢の人たちは一斉に歩きだす。行き交う人を避けていると、かけるさんとの距離がグッと縮まる。互いの腕が触れ合い、不覚にも心臓が跳ね上がった。

「こんなに人いるんですね」
「本当だね。りなさん普段こっちのほうは来ますか?」
「いや、まったく来ないので人酔いしちゃいそうです」と口角が上がった口元を手で覆う。
「そうなんですね!俺もこっち来ないから人酔いしちゃいそう」
 私に合わせているのだろうか。かけるさんも口角をあげて表情を緩め、眼が線のように細くなる。

 しばらく歩きながら話していると互いに慣れてきたのか、敬語を使うことなく言葉を交わすようになっていた。つい先ほど会ったばかりの異性と、気軽に話しているのが不思議でならない。マッチングアプリを始めていなかった頃の自分では、きっと想像できないであろう。
 会話に夢中になっていると、いつの間にか目的のお店に着いていた。

 白と黒で統一された店内、食べ物も飲み物も全て白と黒。シックな雰囲気でカフェとは思えないほどの空間だ。
 カウンター席に着いた私たちは、注文をしたカフェラテとショートケーキが届く。

「りなはどうしてマッチングアプリを始めたの?」
 ストローを咥えたかけるは真っ直ぐな眼差しで見つめてくる。彼氏と別れたから始めてみただなんて口が裂けても言えない私は、突発的に「興味本位で始めたの」と嘘をついた。

「そうだったんだ。もう何人かとアプリで会ったりした?」
「今回が初めてだよ。だからすごい緊張したし、正直いまも少しだけ緊張してる」
 かけるは共感するように「まあ始めて会う人だからね、それは緊張するよね」と笑みを浮かべた。

「かけるは?アプリ始めて誰かと会ったりした?」
「俺も初めてだよ」
「あ、そうなの?」
 かけるは「うん。こう見えて初めてなんです〜」とおちゃらけてみせた。第一印象の大人っぽさとはまた違い、可愛い。と思ってしまった。

「ちょっとトイレ行ってくるね」
 そう言ったかけるはスマホを手に取りお花を摘みに行った。待ち時間、スマホの内カメで髪が乱れていないかを確認し、美彩からのLINEに返信をする。

美彩:どう?楽しんでる?
日菜:うん!思ってたよりも楽しいよ!

 時間を確認すると、かけると会ってから三時間が経っていることに気づく。時の流れというものは不思議なもので、授業とは比べものにならないほど時間が経つのが早い。

「おまたせ。りなは行かなくて大丈夫?」
「うん、私はいいかな。ありがと」
「おっけー。てかこの後どうしようか?」
「んー。夜ごはん食べたい」
 私がそう言うとかけるは「じゃあ行こ、俺もお腹空いてきた」と言い、二人でカフェを後にした。

 日中と比べると外は寒さを増していて、日は傾き始めていた。隣を歩くかけるは「寒いね」とコートに手を入れ身を縮こませている。
「ほんっと寒い!はやくどこかお店入ろ」
 そうして私たちは、目についた居酒屋にそそくさと入り、単品料理と生ビールを注文をした。

「かんぱ〜い」とグラスを重ね合わせ、かけるに言っていなかったことを話した。
「あのね、私りなって名前じゃなくて、本当は日菜っていうの」
 このまま黙っているのも申し訳ないと思うし、会って話してみたけど普通に良い人だった。
 するとかけるは「そうなの?まあ本名でやるのも色々と怖いもんね」と返してくれて少し安心する。

 隼人のことは口にしなかったが、そこからは互いの過去の恋愛や価値観など色んなことを話した。気がつくと目の前のかけるは頬を赤くして陽気になっている。最初の印象とはまた違った一面が見れて、なんだか嬉しい。でもやっぱり、目の前のかけるが笑うと、隼人のことを思い出してしまう。何を考えているんだ私は。

 盛り上がっていた会話も落ち着き、酔ってきたのか、それとも疲れたのか、かけるは先程と比べて口数が減っている。
 心配になった私は「大丈夫?時間的にそろそろ駅に向かう?」と聞くが「大丈夫」と質問に対して曖昧な返事をするだけだった。

 かけるは重たげな瞼を向けたまま、グラスに残ったサワーに手をかけようとする。その行動を阻止するように、反射的にかけるの手を抑えた。じわじわと自分がとった無意識の行動に恥ずかしさを覚える。お酒が入っていなかったら絶対にしないはずなのに。初対面の人なら尚更だ。

「あ、なんかごめん。でも本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。そろそろ駅に向かおうか」

 そう言ったかけるは、穏やかで優しさを含んだ笑みを浮かべるが、一瞬だけ表情が崩れたのを私は見逃さなかった。レジのほうへと歩いていく大きな後ろ姿は、沈んでいく太陽のような儚さを纏っていた。

 わりと長い時間室内にいたことで、外の空気がより一層冷たく感じる。真冬の冷たい風を浴びたことで、少しずつぼうっとした頭も覚めていくのがわかった。
 道の端で寝転がる人、はしゃぐサラリーマンの集団、手を繋ぐ男女。繁華街は色んな人で溢れかえっている。私たちは駅までの道を、さっきまでの沈黙がなかったかのように喋りながら歩いていく。

 しばらく歩いていると犬の銅像が目に留まり、今日一日のことが回想される。緊張で声が裏返ったこと、おしゃれなカフェに行ったこと、思っていた以上に話が盛り上がったこと、二人で夜ごはんを食べたこと。いま振り返ると、とても充実した一日だった。正直なところまた会いたい。そんな感情が芽生えていることに自分でも驚いていた。

 改札口まで辿り着き「今日は楽しかった。ありがとう」と伝えると、かけるは「こちらこそありがとう。楽しかった」と浮かない表情をしている。
 帰り道までの空気とは打って変わり、義務的なその言葉は私の心を不安にさせた。あのときと同じ表情を浮かべている。だからといって深追いをすることもできない。この状況で繋げる言葉を見つけることができず、再び沈黙が生まれてしまった。

 改札口から流れ出てくる人たちが、私たちの間を通り過ぎていく。駅のアナウンス、停車する電車の鈍く重たい音、誰かの話し声。

「まだ、帰りたくない」
「え、時間は大丈夫?帰るの遅くなっちゃわない?」
「そういうことじゃなくて...」

 帰りたくない。かけるが口にした言葉の意味を考える。思い違いであったら大変恥ずかしいことではあるが、もしかしたら。

「朝まで一緒にいてほしい」
 戸惑う私に、かけるは手を差し出す。きっと、そういうことなのだろう。
 本音を言うならば私もまだ一緒にいたい。ただ理性が働き、本当にこの手をとってもいいのだろうかと考えてしまう。マッチングアプリを始めた目的が頭によぎる。新しい出会い、過去の恋愛を忘れるため。

 断る勇気もない。そして本来の目的を思い出した私は、差し出されたかけるの手を握る。
 そうして私たちは手を繋ぎ、煌めく夜の街へと歩き出した。


 ぼんやりとした意識の中、隣で背を向けて寝ているかけるを見つめる。寝たふりをしてこっちを向いてくれるのでは、と淡い期待をしてみるが、ゆすっても突いてもピクリとも動かず、規則的な寝息を立てている。

「もう、意味わかんない」
 胸の内に隠していた言葉が、つい漏れてしまった。

 言葉にしようにも上手く表現できないこの感情は、いったい何なのだろう。自分が抱える感情への疑い、一緒にいることを選んだのは正しかったのか否か。本能が理性を追い越し、一時的な感情に流されただなのでは?それでもかけるについて行ってしまったのは、多少はかけるに対して好意があったからでは?でも一日で判断するのはあまりにも速すぎた。

 雨の日の隼人の後ろ姿が浮かぶ。
 私は本当に何をしているんだ。何のためにマッチングアプリを始めたのだろう。
 ねえ、あなたは私のことをどう想っているの?あなたから見た私はどう映っているの?いったい何を考えているの?微かに汗ばんだ背中を、指先で二文字の言葉をなぞる。

 さっきみたいに「好き」って言ってよ。


 カーテンの隙間から漏れる光が眩しい。霞んだ視界が徐々に輪郭を表していき、見慣れない部屋を目の前に一瞬で目が覚めるが、昨晩の出来事を思い出して落ち着きを取りもどした。

「おはよ。起こしちゃった?」
「お、おはよ。ううん。大丈夫だよ」
 数時間前まで親しげに話していたのに、どうしてだか距離が遠く感じてしまうのは考えすぎだろうか。昨日までの出来事を思い返すと、余計に自分が惨めに思えてくる。わずかに寄せていたこの想いは行き場を失い、胸の中でざわざわと|蠢(うごめ)いている。

「午後から予定あるから、もう少ししたら行くね」
 鏡の前で髪をセットしているかけると目が合い、いたたまれない気持ちから視線を逸らした。
「わかった。私も出る準備するね」
 準備を終えた私たちはフロントに鍵を返し、駅までの道中は無言を避けるように無理やり言葉を紡いだ。

 このあと予定があるというかけるは、駅の改札前まで見送ってくれるという。こんなところで優しくしないでほしい。美彩になんて報告すればいいのだろうと、そんなことで頭がいっぱいになっていた。

「昨日今日とありがとう!楽しかった」
 真冬の空気に溶け込んでいってしまうほど、透明感を(まと)ったその姿に思わず見惚れてしまう。
「こちらこそ、楽しかったよ。また会ってくれる?」
「予定が合ったら。それじゃあね」

 そんな曖昧な返事をしないでよ。「また会おうね」なんて言葉をかけてほしかっただけなのに。
 改札をくぐってホームへと向かう途中、振り返ってみてもそこにはもうかけるの姿はなかった。
 悔しくて悔しくて、別れ際までこんな思いをするだなんて。きっとこれは、過去の恋愛を忘れるために動いた私への罰なんだろう。なんて都合のいい女だ。

 センターパートの髪、笑ったとき線のようになる眼、それとエクボ。忘れようと努力をしていたって、頭の片隅には隼人がいる。いったい私はどうすればいいのだろうか。
 昨日までの楽しさは消え去り、憂鬱な気持ちを引きずりながら帰りの電車を待つのだった。


 家に到着してすぐマッチングアプリを開くと、予想はしていたけれどそこにはもうかけるのアカウントは存在していなかった。実際に出会ったのはたかが一人。でも自分の恋愛歴に傷をつけたようで、後悔と自己嫌悪で胸が苦しくる。
 留めていた感情が決壊するように、涙が溢れ出してくる。気づいたときには家を飛び出し、あてもなくただひたすら歩き続けた。

 疲労を感じたときにはすっかり日は沈んでいて、私はひと気のない住宅街にいた。
 脱力するように道の端に座り込む。

「こんなところで何してるの?」
 声のするほうに顔を向ける。
「逆になんでこんなところにいるのよ」
 思わぬ人との遭遇で、枯れたはずの涙がまた溢れ出してくる。
「何でって、すぐそこが家だから」
 やっぱり忘れるだなんて私にはできない。心からこの人のことが好きだったんだ。いや、好きなんだ。

「ねえ隼人。助けて」
「とりあえず寒いからうちに入りな。部屋散らかってるけど」

 隼人のことを忘れるために始めたマッチングアプリで自分の首を絞め、最終的に隼人に縋りついてしまう。自己嫌悪でどうしようもなくなるけれど、今だけは甘えさせてほしい。

 私はなんて都合のいい女なんだろう。