この街に引っ越したばかりの頃、仕事帰りに電車から降りた際に突然目の前を歩いていた女の子が倒れる瞬間に遭遇してしまった。咄嗟に手を貸してしまったもののどうしたらいいのか分からず、結局駅員が来るまでおろおろしただけだった。自分の無力さを感じた苦い記憶でもある。

「実はあの場には私もいたのです。病院から逃げ出した妹を追いかけてようやく見つけて名前を呼んだら、何故かあなたが反応して。同じお名前ならそれも当然ですね」
「そういえば、女の子が倒れる瞬間に名前を呼ばれたような気がします」
「他の人たちが倒れた妹を見ない振りする中であなただけが助けてくれました。最後に会えて良かったです。感謝しています。ありがとうございました」

 そう言って、輝星が頭を下げたのでぎょっとして「頭を上げてください!」と返してしまう。

「今日はわたしが助けてもらいました。こちらこそ感謝しています。でも最後というのはどういうことなんですか……?」
「実はその妹が近々設備が整っている都内の病院に転院することになりまして、私も付き添おうかと」
「じゃあ、このお店は……」
「閉める予定です。ですが引っ越し先で再開したいと思います。同じ店名で、この味を提供しようかと。祖父を知る者がいない街なら、比較されることもないでしょうから」
「そうなんですね。残念です。またお邪魔したいと思っていたので」
「また来てください。あなたとはもっと話したいのです。今だけではなく、これから先も。時間が許す限り」
「洋服が乾くまで?」
「できれば、この雨が晴れるまで。今日は一晩中降るみたいですから」

 外に目を向ければ雨は一向に止む気配が無かった。この街に詳しい輝星が言うのなら間違いない。

「あなたと一夜を共にしたい。勿論、変な意味ではありませんよ。語らいたいだけです。私たちは()()そんな仲ではありませんから」
「まだということは、今後変わる可能性があると思っているんですか?」
「そうありたいと思っています。少なくとも私は。ですがあなたに先約がいるのなら諦めましょう。この片恋も今夜の雨と共に洗い流します。未練が残らないように」

 輝星の穏やかな笑みに星来の胸が高鳴ってしまう。素直に答えていいのか迷ってしまう。遠距離が前提の恋なんて辛いに決まっている。せっかく恋人になっても、きっと恋人より妹を優先されるだろう。それに加えて、越した先で輝星がもっと良い人を見付けて心変わりする可能性だってある。それなら嘘を吐いた方がずっと良い。結ばれるかもしれないと期待するよりも、結ばれないと思って諦めてしまった方がずっと楽だ。
 でも星来の中でこのまま終わらせたくないという気持ちがあるのも確かだった。
 傷付くと分かっていても、それでも許されるのなら――。

「……先約はありません。わたしもあなたのことを知りたいです。時間が掛かってしまったとしても、いつか深い仲になれたら良いと思っています」
 
 星来の答えに輝星は満ち足りた笑顔を浮かべる。
 ここから星来の恋は始まるのだろうか。それとも一夜限りで終わってしまうのか。それを知る者はどこにもいない。
 この長雨さえもきっと――。