何を言われたのか理解できなかった星来は瞬きを繰り返すとどういう意味が問おうとするが、その前に輝星はカウンターの内側に戻ってしまう。「こちらの席にどうぞ」と手招かれるままにカウンターの一席に座ると、無言のまま輝星は慣れた手付きでコーヒーを淹れ始めたので、星来もスマホを取り出して画面を見ている振りをする。
 しかし先程の言葉が引っかかっているからか、真剣な顔でケトルからお湯を注ぐ輝星から目を離せなくなり、結局スマホを置いて輝星の姿を盗み見てしまう。すらりとした長身に目鼻立ちの整った顔、皺一つ無いシャツ、黒いエプロン姿もバリスタとして様になっている。こんなイケメンが知り合いにいたら忘れるはずが無い。となると、星来を誰かと勘違いしているのか。
 
(あなたとはってことは、少なくともこの人はわたしの顔を知っていて声を掛けたんだと思ったけど、でも会った覚えがないんだよね。仕事関係者でも無さそうだし、勘違いじゃなかったら子供の頃とか……?)

 あれこれ考えているうちに香ばしいコーヒーの香りが強くなる。ようやく輝星は顔を上げると、傷一つ無い白い陶器製のカップに入ったコーヒーを渡してくれる。

「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」

 早速両手で取って顔に近づけると、馥郁としたコーヒーの香りに胸が躍る。白い湯気に息を吹きかけて冷ますと、そっと口に含む。フルーティーで華やかな香りが口の中に広がり、ほのかな甘みと酸味の味に心が和む。いつも飲んでいる市販のインスタントコーヒーとは違った濃厚な味わいにほうっと息を吐く。

「美味しいです」
「良かった。滅多に褒められることが無いので嬉しいです。今ではお客様といったらケンくらいですから、あいつは褒めてくれなくて」
「そうなんですか?」
「ええ。若い人たちにはSNS映えするようなお洒落なカフェが良いでしょうし、場所も奥まった細路地にあるからか滅多に新規のお客様が来ないのです。常連の地元住民も高齢になって足が遠のいてしまうか、住みやすい余所に引っ越してしまって、年々減っていまして。そうしていつの間にか祖父母の代から営んでいる店というのも、この店かケンのクリーニング店くらいになってしまいました」
「若い人って、マスターさんも充分若いと思いますけど……」
「そうですか? まあ、私は煌びやかなカフェより、こうした昔ながらの喫茶店の方が落ち着くので。昔から出入りしていたからというのもありますが……」

 そこではたと思い出したのか、輝星は「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」と背筋を伸ばして穏やかな笑みを浮かべる。

「私は寺角(てらかど)輝星と言います。この喫茶『スターダスト』のマスター兼バリスタです」
加瀬(かせ)星来です。今日は助けていただきありがとうございました」

 軽く頭を下げながら輝星の様子を伺う。ほんのわずかではあったが、星来が名乗った瞬間に輝星の眉が動いたのを確かに見た。やっぱりというような輝星の顔に星来の中で疑惑は確信に変わる。
 この輝星という青年は「セイラ」という名前に心当たりがある、それはこの雨の中、見ず知らずの星来を助けた理由と関係あると……。
 そこで少しだけ鎌をかけることにする。

「星来って名前ちょっと変わってますよね。身近にいなくて、どこに行っても目立ってしまうんです。これもキラキラネームの一つみたいで」
「そんなことはありません。私の知り合いにもいますよ。同じ名前の人」
「そうなんですか! きっと可愛い人ですよね。私とは違って」

 おどけたように笑ってみせれば、コーヒーを淹れる手を止めて輝星は首を横に振る。

「私が知る『セイラ』は、小さい頃からとにかく手が付けられないやんちゃな女の子でした。両親や私の元を抜け出して勝手に外に出て迷子になって……警察に保護されて両親に怒られるまでがセットでした」
「随分と活発な子なんですね」
「ええ。今ではもうすっかり成長して大人しくなりましたが、ついこの間も勝手に病院を脱走して保護されたんですよ。この近くの駅で」
「病気? あの失礼ですが、『セイラ』さんはどこか身体が良く無いんですか?」
「生まれつき身体が弱いんです。心臓に関する病気を患っていて。もう余命は幾許も無いと、先日主治医に言われてしまいまして」

 その時、丁度店内を満たしていたジャズが終わったのか、静寂に包まれた店内に雨音だけが響き渡る。すぐに次の曲が再生されたものの、星来にはどこか長く感じられた。

「心配ですね。大切な方なんですよね。その『セイラ』さんって……」
「ええ。大切な妹なんです」
「あっ、妹さんっ!?」

 ずっと恋人のことを話していると思っていたのでまさか妹とは思わず、星来は素っ頓狂な声を上げてしまう。一方の輝星は何に驚いたのか理解できないといった様子で、きょとんと首を傾げていたのだった。

「先程お貸しした部屋に妹と祖父と撮った写真を飾っていたのですが気付きませんでしたか?」
「見ましたが、てっきり恋人との写真だとばかり……」
「そう見えてもおかしくないですよね。撮影の時も、高校生にもなって兄妹で手を繋ぐなんて恥ずかしいと思ったものです。でも嬉しそうな祖父には逆らえませんでした。祖父母は早くに両親を亡くした私たち兄妹の親変わりでもあるのです」
「良いお兄さんですね」
「今となっては良い思い出です。あの写真を撮影した直後に祖父が倒れて店を閉めざるを得なくなり、妹は病気が悪化して学校に通うことさえできなくなりましたから」

 カップを手に取ると輝星は口に含む。そして眉間の皺を深くして目線を低くする。

「私が淹れるコーヒーだって、本当はまだまだ祖父の味には遠く及びません。店を再開させたものの、どうしても祖父の味と比べられてしまう。妹に何かある度に唯一の家族である私が病院から呼び出されて、店も満足に開けられません。自分のことなんて以ての外。人生とはなかなか上手くいかないものです」
「でも寺角さんはお店とご家族を両立されていてすごいです。わたしは不器用なのでどちらか片方しか出来ません」
「不器用なのは私も同じです。それに私はあなたとは違って、周囲にまで気を配れません」
「わたしとは違って……?」
「先日、駅で倒れた妹を介抱してくださったでしょう。お礼を言いたかったのですが、名乗らずに立ち去ってしまったので探すのに苦労しました」

 何のことか思い出せなかったが、しばらくして「ああっ!」と声を上げる。

「あの時の女の子が妹さんだったんですか!」