「失礼いたします」
スッと部屋の襖が開いて、サキが入ってきた。
「伊織さま、おはようございます――って、あらまあ! 若さまったら、伊織さまのお部屋でごいっしょに眠られたんですか? ご自分のお部屋ではなく? 一夜をともに?」
「……ちがう。うるさいぞ」
「違いませんでしょう! ではどうしてこちらに?」
「……サキ」
「こちらでお眠りになったんでしょう? 伊織さまのお布団で!」
「そうだが、そうじゃない!」
「まあ! やはり当主様にご報告を……!」
「やめろ!!」
「…………」
ふたりのやりとりを、伊織は目をぱちくりとさせて見ていた。
使用人と軽口を言う十夜は微笑ましく、伊織の心を和ませた。
「とにかく。お祖父さまには言うな」
十夜は、立ち上がると、伊織に向かって言った。
「……俺はこれから会社へ行くが、お前さえよければ、俺の屋敷でこのまま何日か休んでいってくれ」
「えっ? よ、よろしいのですか……?」
思わぬことを言われて、伊織は聞き返した。
一晩だけの保護だと思っていたので、少し驚いた。
……今日には羊垣内の家に帰るものだと思っていたのだ。
「えっと……。い、いえ、やっぱりそんなわけには……」
「なにか用事があるのか? なら家へ送っていこう」
「い、いえ、そういう、わけでも……。…………」
家に、帰りたいわけでも、ない。
しかし、ここへずっといるわけにも……。
そんなことを考えていると、十夜は続けて言った。
「使用人には話をつけておく。体が回復するまでいてくれていい」
「そ、そんな……! そんな、わたしにばかり、都合のいいことは……!」
「ははっ」
十夜は笑った。
「俺の屋敷にいるのは都合が良いのか? ではなおさら良い。ではな」
「あのっ、十夜さま……っ」
十夜は、ひらりと手を振ると部屋から出た。
その後をサキが「伊織さま、またすぐ戻ってまいりますからね」と言って続く。
「あ……」
行って、しまった。
(ここは……わたしの家とは大違い……)
綺麗で広い部屋、新しい着物、そしてなにより――優しい人たち。
伊織は、部屋にとどまった。
(ここは、温かくて。でも、ずっとはいられないだろうから。今だけは……十夜さま達と、いっしょにいさせて、ください……)
***
十夜とサキが、廊下を歩く。
「若さま。伊織さまのお怪我は……」
「ああ。羊垣内を少し調べさせてこい」
「はい。かしこまりました。……おかわいそうですねぇ」
「なにか、あるのだろう」
おどおどした態度、涙を流しながら眠っていたこと、体中にあるという古傷、そして――湖でのこと。
「……彼女が家に帰りたくないだろうことは分かった。しばらく俺の屋敷で保護する。客人として丁寧にもてなせ」
「かしこまりました。……ですが、客人扱いでよろしいのですか?」
「他になにがある」
十夜は自室へ入ると、仕事の資料に目を通す。
サキは入り口に控えたまま言った。
「なんだか、若さまの体調がよろしいようで、サキは嬉しゅうございます。……ところで、伊織さまとは一体どこでお会いになったんですか? 昨日は若さまがお部屋にお戻りにならなかったものですから、聞けずじまいでした」
「……見回りで、拾った」
「それはそうでしょうけれど。さっそくごいっしょに一晩お過ごしになるなんて、私どもも『リスト』をご用意した甲斐がありましたねぇ!」
そう言ってサキは嬉しそうに笑った。
「…………はぁ」
十夜は、ため息をつく。
――『リスト』。九頭竜家が用意した、十夜のためのお見合い候補リスト。十二支の家の未婚の令嬢が載っているものだ。
(……あれがあるから、俺は彼女が選択肢にあると思ってしまう。――あのリストは、九頭竜が用意した一方的なリストだ)
サキの声は弾んでいる。
「屋敷に置かれるということは、つまりはそういうことなんでしょう? ああ! ようやく若さまが女性に興味を持ってくださった! これでついに、ご当主になりますね!」
「いや、違う」
「え? なにがです? ”九頭竜家の次期当主は結婚すると当主を引き継ぐ”じゃあありませんか!」
「……それは、そうだが」
九頭竜家は、結婚することで一人前とされる。次期当主である十夜は、結婚すると当主を引き継ぐことになっていた。
皆、十夜の結婚には興味を持っていた。
しかし、十夜自身がなかなか結婚への興味を持てないでいたのだ。――今までは。
「ついに若さまが当主の代です!」
「……いや、違う。違うんだ、彼女は」
「はい?」
目を丸くするサキに、十夜は言った。
「あくまで、客人として……療養してもらう。それだけだ」
「若さま? それはどうしてですか?」
(これは、俺の都合であって……彼女の都合ではない。だが……)
眠る伊織を思い出す。
その寝顔を見たときに、胸がざわめいた――。
十夜は、頭を振った。
「……とにかく。彼女は客人として、丁重に扱え」
そうして十夜は、屋敷を出発した。
***
十夜が出勤してしまうと、伊織は再び布団に入った。
(…………こんなに体を休められるのは、いつぶりだろう……)
十夜ほどではないが、伊織も――折檻部屋のせいで――連日睡眠不足であった。
それに、客人として、客間からあまり出ないほうがいいだろう。
そんなことを考えているうちに、いつしか眠りに落ちていった。
(……これは、夢だ……)
いつの間にか、伊織は羊垣内家の庭に立っていた。
十八歳の伊織の周りを、小さな子どもの伊織が「きゃっきゃっ」と駆け回る。
気がつくとその駆ける姿はいなくなり、かと思うと自分の背が縮んでいる。
「…………」
伊織は、十歳ぐらいの姿になった。
「何をしている」
「あ……お父さま」
顔を上げると、父がいた。
伊織の口が、勝手に開く。
「お父さま、あの、羊の力が使えるようになりました」
「……見せてみろ」
「はい」
いつの間にか手のひらには、温かなイタチが乗っている。
小さな十歳の伊織は、その――眠っているイタチを差し出した。
縁側に立ったままの父と、庭に出たままの伊織。
つまりはイタチから父までは遠く、近付いてきてはくれなかった。
「……それはなんだ」
「眠らせたイタチです……」
「なに? 眠らせた、だと……」
父は眉をひそめる。
それから、
「嘘を吐くんじゃない。死体を拾ってきたのだろう?」
「ち、違います……!」
「ぐったりしているじゃないか」
「眠っています。本当です……!」
手のひらのイタチは、いつの間にか消えている。
「あ、あれ……っ?」
「ふん。では、」
父は庭をざっと眺めると、
「あそこにいるカラスを眠らせてみろ」
「え、……あ、はい……!」
背後を指さされ、伊織は慌てて振り向くと、塀にカラスがいるのが見えた。急いで腕を伸ばし、カラスへ手のひらを向けるが――上手くいかなかった。
「カア、カア」
カラスは元気に鳴きながら、塀の上に居座っている。
父はその様子を、腕組みをしながら眺めていた。
「…………」
「あの、お父さま……。そんな急には……できませんでした。申し訳ありません……」
「急にできんものが戦場で役に立つわけがないだろう」
「そ、それは……」
伊織に背を向けて、父は去って行く。
「お父さま……!」
はっ……と目を覚まし、伊織は起き上がった。
「夢……だ、よね」
妙な夢だった。まるで、家に帰って能力に目覚めた話をしても、歓迎されないみたいに。
実際の十歳の頃に、こんな出来事はない。能力は先ほど発現したのだから当然だ。
それでも、朝に芽生えた少しの希望の芽が萎れるには、充分だった。
思わず、布団を握りしめる。
「わたしは……役に立たないのね……」
伊織は小さく呟いた。
***
会社に向かう車の中で、運転席のモニターに通知が届く。
運転手の男はそれをちらりと確認すると、前を向いたまま十夜に報告した。
「若さま。連絡が。地葉の東部に妖怪が大量発生しているとのこと。双馬から応援要請がありました」
「……他の家に任せられないのか?」
「『九頭竜だと早く終わる』とのことです」
「……はぁ。行くぞ。会社には連絡しておいてくれ」
「はい。かしこまりました」
次の信号で、車は進行方向を大きく変えた。