朝だというのに空は曇りで、薄暗い。
もうすぐ雨が降るかもしれない。
伊織の足取りは、重い。
(帰って、きたんだ……)
伊織は、羊垣内家の門を見上げて――静かにくぐった。
ふと、前方――屋敷の方から――ひとりの男が歩いてくるのが見えた。
男は、高い身長を持つ短髪で、鍛えられた筋肉が服の上からでも分かる。
伊織は、その男性に見覚えがあった。
「……猿城寺、ヤシロさま……」
「お前……」
猿城寺ヤシロ。猿の家の――梨々子が婿にしようと狙っている男だ。
顔が整っていること、能力が高いこと、――猿の家に男児が多いこと。それが、父にも梨々子にも都合が良いらしい。
(羊垣内家へきているってことは、きっと、婚約の話は進んでいるのね……)
伊織は、頭を下げた。
「ようこそ、お越しくださいました……」
「いや、もう帰るところだ。お前がいないから、どうなっているのかと梨々子に聞いたが、分からないと言われたぞ」
「……そう、ですか……」
ヤシロは体が大きく、伊織にとっては威圧感があり――なんだかあまり目を合わせられない。
――梨々子との婚約の話も進んだのだろうか。
(そうすると、わたしが家を出される話も進む……かも……)
伊織は、これからのこと思うと、気が重くなった。
ヤシロは言った。
「どうかしたのか?」
「いえ……。なんでもありません……」
「そうか。梨々子に菓子を渡して置いた。後でお前も食え」
「……ありがとうございます」
ヤシロは羊垣内へ来るときは毎回、なにか手土産を持参している。
しかし、それを伊織が食べたことはない。だから今回も、梨々子が全部持っていくだけだろう。
それでも伊織はそのことを、ヤシロに言ったことはない。
――どうしても欲しいわけでもないし、このことで梨々子と衝突したくもない。
「いつも梨々子の好みの菓子ばかりで、すまない。たまにはお前の好きな菓子も持ってきてやりたいが」
「いえ。それには及びません」
(ヤシロさまは、梨々子の相手だし……)
「はあ。お前はいつ聞いても好きな菓子はないと答える」
「……はい。特にありませんので、これからも梨々子のことをよろしくお願いいたします……」
好きな……食べ物。
伊織は、昨日の――プリン・ア・ラモードのことを思い出す。
(……十夜さま……。……ううん、考えては、ダメ……)
ヤシロが言った。
「で、さっきの黒塗りの車はなんだ?」
「え……」
「今お前が乗ってたやつだ」
「…………」
伊織は顔を上げた。
九頭竜の車のことだろう。
(どう言ったらいいの……。そもそも、九頭竜家の車だって、言ってもいいのかな……?)
この話は、この男にしてもいいのか。
下手に噂されてしまっても困る。
(――わたしが保護された話は、羊垣内家にとってマイナス? 九頭竜家にとっては……?)
「お前、誰と会った?」
「…………」
「…………」
伊織が黙っているので、ヤシロも黙っていた。
「ちっ。もういい。帰る」
「あ……。では……失礼します」
「じゃあな」
「お気をつけて、お帰りください……」
ヤシロが家の門をでていくのを、伊織は頭を下げて見送った。
***
「嫁入り前の娘が、三日もどこへ行っていたんだ!」
ぱしん――と頬をぶたれて、伊織は尻餅をついた。
玄関に入るがいなや、父と出くわしてしまったのだった。
「あ、あの……」
「馬鹿娘が……!」
「ご、ごめんなさい、あの、わたし……」
「どうして帰ってこなかった!?」
そこへ、ひょっこりと梨々子がやってきて――軽い口調でこう言った。
「外泊ってことはぁ、お姉さま、ひょっとして傷物になったんじゃない?」
「!? い、いえ、そのようなことは……なにも……!」
「えー? でも野宿してきたにしては、綺麗じゃない? どなたのお家にお泊まりになったのぉー?」
「それは……! 違います……!」
「お姉さまにお友達がいるなんて聞いたことないわ。じゃあ、男の人のところってことになるわよね? くすくす!」
「…………っ」
(なんて言おう……。十夜さまと九頭竜家の皆さんに迷惑は掛けられない……)
どう言えば穏便に――体裁良く説明できるだろうか。
伊織の手に汗がにじむ。
梨々子はそんな伊織を見て、「きゃはは」と笑い声を上げた。
「え! まさか本当にー? あは! お姉さま、やるぅ!」
「ち、違います……! そんなんじゃ……!」
言いながら、――上手く言葉が出てこない。
視界の端に、父の眉がつり上がったのが見えた。
「なんだと……? 傷物なのか……?」
「お父さまぁ、確かめたほうがいいんじゃない? ――ねぇ、あなたたち」
「「はい」」
若い女の使用人が何人か来て――伊織を取り押さえた。
(確かめる……って、なにを……?)
使用人の手が、着物の帯に手をかけて――
「……!」
伊織はぞっとする。
懇願するように父に向き直った。
「ち、誓ってそのようなことはありません……! 絶対です、信じてください、お父さま……!」
「えー。お父さま、お姉さまのいうことを信じちゃだめよ。だって、お姉さまは純潔でなくちゃいけないんでしょう? くすくす!」
「…………」
父の拳が小刻みに震える。
(ああ、どうしよう、どうしよう――)
「皆、おやめなさい」
そう言って現れたのは、意外にも継母だった。使用人達にストップを掛ける。
「落ち着いて。こんな貧相な体の女に、男の相手が務まるものですか。……ね、栄介さん。梨々子」
「…………カノコ」
「お母さま!」
父――栄介と、梨々子を止めたのは、継母であるカノコだった。
継母がめずらしく庇ってくれたので、伊織も驚いた。
(……女同士だから、そこは……庇って、くれた、のかな……?)
伊織はそう考えてから、継母の命で使用人の手が離れていることに気がついた。はだけている着物を、手早く整える。
胸に手を当てると、カサリと紙の感触。
(大丈夫……。十夜さまの手紙は、落ちてないわ……)
梨々子が言う。
「でもお母さま、お姉さまが外泊したのは事実だわ。やっぱり、男がいるかは確認した方がいいと思うわ!」
「……はぁ」
継母は、伊織に聞いた。
「お前、男がいるわけじゃないわよね?」
「い、いえ……わたしには、そのような方はおりません……!」
「ふん。……栄介さん」
父はごほんと咳払いをすると、言った。
「傷物になってさえいないのなら、どこへ泊まろうがどうでもいい。――伊織、お前に縁談が来ている」
「えっ……」
ドキ……と胸が鳴る。
伊織の頭に、十夜の姿が浮かんだ。
(まさか、もしかして……?)
(でも、十夜さまは……お見合いをすることになっていて……。十二支の家の女子で……。え……でもそれって……もしかして……?)
十夜のことを思う。期待感と、ぬぐえない不安とが一気に混ざり合い――胸の音で、期待感が勝っていることを知る。
――しかし、父は言った。
「酉の家――鳥飛田 朝人さまだ」
(鳥飛田、朝人さま……)
伊織は、その名前を聞いて――なにも思い出せなかった。
(し、知らない方だ……)
伊織は、会合にも連れて行ってもらっていない。十二支の家にどのような男性がいるか、疎かった。
それよりも。
(十夜さまじゃ、なかった……。そう、だよね……。……わたしじゃないって、分かってたのに。期待してはいけなかったのに……。どうしてわたしはまた、十夜さまのことを、考えてしまったの……?)
――勝手に期待して、勝手に落胆しているなんて。
伊織は、肩を落とした。
そんな伊織の後ろで、梨々子は軽快に笑いだした。
「あははっ! 鳥飛田家! あははっ! なるほどねー」
「梨々子……?」
「いいじゃない! お似合いよぉ! お姉さまにぴーったり!」
伊織は、梨々子がなぜそんなにも笑うのかわからない。
「梨々子。酉の家でも、ありがたいことだ」
父は言ってから、伊織を見た。
「……伊織。お前には縁談がこないんじゃないかと思っていた。だが、ありがたいことに酉の家から話が来た。……お前が飛び出していったのは、梨々子の結婚が羨ましかったからだろう?」
「…………」
「酉はうちのひとつ上の序列だが……こちらにとってなかなか良い条件だった」
「条件……ですか?」
伊織の疑問には、継母が答えた。
「うふ。栄介さんはね、お前を嫁に出す代わりに、鳥飛田の事業をすこーし分けてもらうんですってね。だから絶対、ぜーったいお嫁に行ってちょうだいね。ああ、もちろん見限られないでちょうだい。お前が万が一出戻ったりなんかしたら、契約反故で大迷惑よ。――わかるわね?」
「え……、っと……」
そこにはもう、一瞬でも優しく見えた継母の姿は、ない。いつも通りの、つり上がった眉を見せた。
父は継母の隣に並んだ。
「これで、うちの経営も楽になる。伊織、お前が担保だ」
「……担、保……ですか……」
家の命運がかかっているから、破棄できない婚約――ということだった。
家の収入は悪くないはずだ。だが、それ以上に――継母と梨々子の浪費は激しかった。そのせいだろう。
「頼んだぞ、伊織」
「しっかり妻の勤めを果たしなさいねぇ」
「そうね。でも、――」
梨々子は言った。
「でも、お仕置きは必要だと思うわ。そうでしょう、お父さま、お母さま? お姉さまってば、私の話をさえぎって、飛び出して行ってしまったんですもの! 普通、お茶くらいいれなおすわよねー」
(……え……?)
急にお仕置きというワードがでてきて、伊織はサァッと青ざめた。
継母はくすくす笑うと、頷いた。
父は、伊織を見下ろすと、
「……そうだな。……任せる」
「うふ。任されたわ」
「お、お父さま……っ」
伊織は手を伸ばすが、――父はもうこちらを見ない。
「…………っ」
父の背中は去って行く。
(わたしが……悪いんだ。わたしが……三日も、家をあけたから……。だから、お仕置き、に……)
継母は、冷たい声で使用人たちへ言い放った。
「さああなたたち、それを持って、いつもの折檻部屋へ」
梨々子がニヤニヤと笑いながら、伊織を眺めていた。