それから数日後の、午後。
 九頭竜家の屋敷・伊織の部屋に、ミナが訪ねて来た。

 ふたりとも双馬の能力で通常より回復が早く、普段通りに動けるほどになっていた。
 サキがお茶を配膳して退室したのを見て、ミナは伊織の手を包んで言った。

「この間は、ごめんなさい。まさか本体が穴の中に落ちてるなんて、思わなかったんです。対応が遅れちゃうなんて、不覚でした……。ミナがもっと早くに気がついていれば、あんなことには、ならなかったはずなのに……!」
「だ、大丈夫です……!」

 伊織が腕を下げると、ミナの手がするりと離れた。

「伊織ちゃん?」
「むしろ……わたしが足を引っ張ってばかりで、すみませんでした……。わたしが、頑張らないといけなかったのに……。ミナちゃんには、何度も守っていただいて……」
「えぇっ! あんなの全然問題なしです! 本当はミナが最後まで守りたかったですよ……! でも、まさか十夜さまがいらっしゃるなんて、思いませんでしたねっ!」
「は、はい……」

 伊織は、組んだ指を、もじもじと動かした。

(あの時、十夜さまが来てくださって……本当に、嬉しかった……)

 彼の鮮やかな戦闘、自分を心配してくれる姿、そのどれもが鮮烈に記憶に残っていた。

(あの後、わたしは気を失ってしまって、気がついたら病院だったけど……)

 あの日、十夜は仕事が忙しい中を抜けてきたらしく、しばらく日中は会っていない。夜も疲れた様子で帰ってくるので、あまり会話をしないようにしていた。

 ミナが笑って言った。

「まあ、大変でしたけど。いっしょに遠出ができて、楽しかったですねっ!」
「は、はい……!」

 同世代の女の子とこんな風におしゃべりするのは初めてで、伊織はこくりと頷いた。

「そうそう! ミナ、今日もお菓子を作ってきたんですよ! 食べますか?」
「あ、ありがとうございます……!」
「自信作ですよ~っ!」

 ミナは、洋風の手提げから、小箱を取り出した。蓋を開けると、中にはクッキーが入っている。
 ひとつ手に取って、口に運ぶ。さく、とした軽い口当たりと、ほどよい甘さが口に広がった。洋菓子――もとい菓子には馴染みのなかった伊織だが、これが美味しいことはわかる。
 任務は失敗気味だったけれど。友人との仲が深められた……と思う。
 窓を開けると柔らかな風が入ってきて、伊織は落ち着いて話せる自分に気がついた。
 ふたりは、しばらくたわいもない話で談笑した。



 やがて日が落ちて、夕方になった。
 窓から差し込む赤い光を見て、ミナは目を細めた。

「あら。ミナ、もう帰りますね」
「は、はい。また、良かったら……。来てください……!」
「ふふっ! そうしますっ!」

 ミナが立ち上がったので、伊織も見送ろうと立ち上がる。
 その時、廊下から十夜の話し声がして、伊織はそわそわと浮き足立った。

 ミナが、耳を澄ませた。

「あれ? 十夜さまも来客ですか? ふたりぶんの足音がします」
「あ、はい。今日は、大事なお客さまみたいで……。使用人のみなさんもなんだか普段と違う様子でした」
「へぇ、そうなんですね! 会社の方ですかね?」

 言いながら、伊織とミナは玄関へと向かった。


 玄関にいたのは、予想通りふたりだったけれど、予想と違って会社の人ではなかった。

(どうして、彼女が……?)

 十夜と並ぶ彼女は――彩女は、黒と金の着物を揺らし、優雅な仕草で振り返った。

「――あら。伊織さん? こんにちは。うふふ……」
「え……。あ……」
「ちょうど良かった」

 彩女は、ゆっくり伊織へと近付く。そして、そっと耳打ちした。

「――あなたのおかげで、父が焦りましてね。わたくし、ようやく縁談が進みますの。ありがとうございますわ」
「え……?」

 なにを言われたのか理解できず、伊織は目をぱちぱちとさせながら、彩女の顔を見た。彼女の美しい顔が、笑みを浮かべる。

「長かったですわ。……でも、ようやくですの。……あなたも、どうか幸せになってくださいませね?」
「おい、なにしてる。行くぞ」
「うふふ。……はい。十夜さん」

 十夜が急かして、ふたりは連れ立って玄関の戸を出た。

(十夜さまの来客って、彩女さまだったの……?)

 戸が閉まっていくのを、伊織は呆然と見ていた。
 パタンと最後まで戸が閉まる音がした後、ミナが、隣で言った。

「ひゃーっ。彩女さま、十夜さまのお屋敷に通っているって、本当だったんですねっ!」
「……か、よって……?」
「あれ? もしかして、知らないんですか? あ、ごめんなさい! 伊織ちゃんって、十夜さまと仲良さそうですし、知ってるのかと……!」
「な、なに……を……」

 ミナはいつものような屈託のない顔で伊織を見て、言った。
「十夜さまと彩女さまって、婚約されるんですよ?」
「え……?」

(十夜さまが、婚約……?)

 あまりに〝周知の事実〟かのようにさらりと言われたそれは、鉛が心臓の上に乗ったかのように、ズシンと重くのしかかる。
 伊織の心臓は、動いてないんじゃないかと思うくらい、ゆっくりとしか動かない。ポンプが止まって、どろりとした血流で脳が詰まりそうだ。
 呼吸が苦しくなって、うまく息が吸えない。

 ミナは続けて言った。

「噂では、九頭竜家はお見合いリストを作成してて、有力な令嬢の名前が連なっているとかで。それで、結局、十夜さまが選んだのは、昔っから仲の良い彩女さまなんですって! まぁ、『龍』だったら、序列二位の『虎』の家の令嬢は普通ですよねぇ……」
「……そう、なんですね……」

 ようやく絞り出せたのは、震える声だった。

(……お見合いリストには、有力な令嬢の名前しか、元々ないんだ……。〝無能〟で〝十二位〟の『羊』の家は、ありえない、ってこと……)

 伊織は胸をぎゅっと押さえた。

「そういえば先日、十夜さまって『龍』の当主さまに、婚約者の件で呼び出されたんですよね! いつ結婚式を挙げられるんでしょうっ!?」
「…………」

(……そして、十夜さまが選んだのが……彩女さま……)

 伊織は、彩女の姿を思い出す。優雅な立ち居振る舞い、美しいまっすぐな長い黒髪、金の瞳の、虎のお姫さま。家柄も充分で、能力も高いという、完璧な淑女。

(そりゃあ、そうなる、よね……)

 女嫌いという噂の十夜が、彩女と話す空気が少し他の令嬢と違って見える気はしていた。けれど、見ない振りをしていただけなのだ。

 ミナは、はっとした表情になると、伊織の肩を支えた。
「すみません! 伊織ちゃんって、ずっと会合に参加させてもらえなかったんですよね!? 知らないのも無理ありません!」
「…………」
「相談、良ければ乗りますよ……!」
「ありがとう……ございます……」
「……。ミナ、今日はもう帰りますね。伊織ちゃん、ごめんなさい。ゆっくり休んでくださいね……」

 ミナが帰って、伊織はひとりになった。



「どうした? ……おい!」

(なんだか遠いところで、声が、する)

「伊織、いるのか?」

(十夜さまの声だ。……どうして……)

「なにをしているんだ? こんなところで……」
「え……。……あ」

 気がつくと、あたりは暗くなっていた。――夜になったのだ。月は厚い雲に覆われていて、見えない。
 伊織は、中庭にある東屋に座っていた。

(そういえば、風に当たりたくて……来た……んだったかも)

 いつの間にか帰宅したらしい十夜は、持ってきた提灯を東屋の柱にかけた。

「……なにかあったのか? 夕食も断ったらしいが」
「えっと……」

 そうだっただろうか? そう言われれば、サキに聞かれて返事をしたかもしれない。

「だ、大丈夫です。ミナちゃんがお菓子をたくさんくださって、わたし、ちょっと食べ過ぎてしまって……」
「そうか。なら、いいんだ」

 そう言って十夜は、伊織の前にしゃがんだ。彼の青い瞳と、目が合う。

(十夜さま……)

 十夜の顔を見る。すべてを持つ、九頭竜家の御曹司。
 伊織は――そのまっすぐな瞳から、目を逸らす。

「と、十夜さまって、婚約、されるんですか……? ……その、お見合いリストから、選ばれたって……いう」
「――……」

 少しの間のあと、

「そうだ」
「……!」

 はっきりと言い切った、凜とした声に、伊織は言葉に詰まる。

(本当、だったんだ……)

 伊織は、きゅっと小さく拳を握った。

「じゃ、じゃあっ。『龍』の当主さまと婚約者の話をしたっていうのも……」
「ああ。祖父さまとは話をした」
「…………」


 わたしは、勘違いをしていたんだと思う。本当は、頭のどこかではわかっていた。
 梨々子が、序列の高い猿城寺家と婚約しようと躍起になっていたことも、序列の高い家の男は人気があることも。九頭竜十夜その人自身が、優秀な次期当主であることも。そのすべてが、十夜を遠い人にする。

 無情にも、父の声が頭に響く。

 ――「お前は能力がないんだから、どこの家もお前を欲しがらない」

 梨々子の笑い声が響く。

 ――「家は私が継ぐ。お姉さまのような、学なし・能なし・ 用なしは、羊垣内にはいらないの!」


「…………」

(十夜さまが優しくて、だから、わたし……勝手に夢を、見ていたの)

 お屋敷に置いてくれるだけでありがたくて、おそばでお役に立てるだけでも嬉しくて、なのに、きっと夢を、見過ぎていたんだ。

(本当は、わかってる。わたしと十夜さまとじゃ、釣り合わない……)

 もしもがあるなんて、期待をしては、いけなかったのに。

 ――今までだって、そうだった。期待してしまうと――絶対に叶わなかったじゃないか。実母との明るい生活も、父に認めてもらうことも、家族に虐げられずに暮らすことも、……それらはいつも、叶わない。
 ――それなのに、よりにもよって、どうして十夜さまとの未来を夢見ることが、できるというの?


 伊織は茫然自失としていたが、十夜はさらに、 少し照れくさそうに言った。

「……これからもずっと、夜眠るときに、そばで力を使ってくれないか」

(そんな……)

 伊織の頭の中はぐちゃぐちゃで、黒い糸が縦横無尽に絡まり合って、ザザザアと大きな雑音を鳴らす。彼の口がなにかを話しているが、父と梨々子の笑い声と、うるさい雑音がガンガン頭の中で響いて、耳にはなにも入ってこない……。

(十夜さまが彩女さまと結婚して……そのおそばで、このまま仕えるのなんて、とてもじゃないけど、耐えられない……)

 伊織の眉は、これ以上、下がりようがないくらいに下がった。

「……あの、十夜さま。わたし、もうこのお屋敷に、いられません。そのお話……辞退させてください」
「……どうした? なにか不満があるのか? お前の望みはなんだ? なんでも言ってみろ」

 十夜が、伊織の肩を強く掴んだ。少し痛い――けれど、嬉しかった。

 それだけ、わたしのこと、役に立つって、思ってくれてるんですね。

「わたしの、望み、ですか……?」

 彼の瞳には焦りの色が見える。そうですよね。やっと快眠できてるんだもの。でも、でも、ごめんなさい。わたし、自分勝手ですよね。十夜さまのお役に立ちたいって、立てて嬉しいって、あんなに思ってたのに。

(わたしの本当の望みは、十夜さまのおそばにいることだけど、)

「……ここを出て……暮らすこと、です」
「屋敷が悪いのか? 別の所に屋敷を用意してもいい」
「……違います」
「……。俺のそばでは、叶えられないことなのか……?」
「そうです」

 伊織は、力なく微笑んだ。
 十夜の腕が、伊織から離れ、ぶらんと垂れ下がった。

「……そうか」

 十夜は、伊織に背を向けると、家の中へと入る。
 その背を、伊織は見えなくなるまで見ていた。

(……わたし、自分で言ったのに、どうしてこんなに苦しいの……? これも、いつものように我慢していたら、そのうち通り過ぎていくよね……?)


 その日の夜、初めてふたりは、いっしょに眠らなかった。