会って話がしたい。
 付き合って三年目、二十六歳、社会人の彼氏であるアキヒロにそう言われて、わたしは舞い上がってしまっていた。二人の関係は良好だし、これはもう、結婚しようと言われる覚悟をしていなければならない。プロポーズの場所が彼氏の家だというのは少しロマンチックではないけれど、そんな贅沢は言っていられない。アキヒロと結婚できるというだけで、わたしは充分に幸せ者だ。
 アキヒロと結婚して、子どもができたら、わたしは今の仕事を辞めるのだろうか。今の仕事に不満はない。でも子どもを育てながら働くというのは、とても厳しいもののような気がする。なあんて、まだ結婚すると言われていないのに、気が早いか。もしかしたら全然違う話かもしれないし。
 アキヒロがわたしを自分の家に呼ぶのは珍しいことだ。わたしの家のほうが広いので、いつもはわたしの家にアキヒロが来る。アキヒロの家に行くことはあまりないから、少しだけ緊張してしまう。いや、この緊張は、きっとプロポーズを感じ取っているからだ。
 わたしはアキヒロを愛している。几帳面で、真面目で、ちょっと鈍臭い。やると決めたことはやり通す、意志の強さがある。アキヒロがこうだと決めたら、それを捻じ曲げるのは難しい。何かもっと筋の通った理論でもなければ、アキヒロが決めたことを覆すことはできない。頑固とも言える性格だけれど、慣れてしまえばどうということはない。まあ、単にわたしがアキヒロのことを好きだから、盲目になっているのかもしれない。
 それにしても、プロポーズかあ。いつかは、と思っていたけれど、今日だとは思わなかった。今日は何でもない日だ。付き合った記念日でも、出会った日でもないし、覚えやすい日でもない。アキヒロはどうして今日をプロポーズの日に選んだのだろう。アキヒロの中では何か意味がある日なのだろうか。
 わたしは仕事帰りにアキヒロの家に向かった。連絡したら、アキヒロはもう帰っているということだったので、わたしは直接アキヒロの家に行く。秋の風がわたしをひんやりと包む。
 アキヒロの家が近づくにつれて、わたしの心拍数が上がっていく。ああ、どきどきしちゃう。アキヒロは何と言ってくれるのだろうか。シンプルに、結婚してください、なのか、もっと別の言葉なのか。アキヒロならきっとシンプルな言葉なんだろうな。そんな、ロマンチックな台詞を期待してはいけない。プロポーズしてもらえるだけでも嬉しいのだから。
 アキヒロの家に着く。緊張しながら合鍵で鍵を開けて、アキヒロの家に入る。
「ただいまぁ」
「おかえり、ミズキ」
 ワンルームの部屋だから、玄関からリビングが見える。アキヒロはリビングの床に座ってテレビを見ていたようで、わたしが帰ってきたことに気づくと立ち上がって出迎えてくれた。
 アキヒロは部屋着に着替えていた。その格好でプロポーズするつもりなのだろうか。いつも着ているスエットの上下。なんというか、プロポーズらしさは全く感じられない。せめてスーツ姿のままわたしを待っていてほしかった。言葉や場所はどうでもいいけど、その格好でプロポーズされても決まらないのではないだろうか。わたしは少しがっかりした。
「疲れたぁ。アキヒロはご飯食べた?」
「いや、まだだよ。ミズキと一緒に食べようと思って。パスタでいいかな?」
「うん、いいよ。ありがと」
 アキヒロは鍋にお湯を沸かし始める。わたしは鞄をリビングに置いて、ラグが敷かれた床に座って足を伸ばす。ううん、疲れたなあ。
 アキヒロは自ら率先して家事をやってくれるタイプだ。男性にしては珍しいかもしれない。とても綺麗好きだから部屋の掃除は行き届いているし、わたしの部屋の掃除だってやってくれることがある。そういうところも好きだった。結婚相手としては申し分ないだろう。アキヒロなら、結婚した後に家事をやらなくなるという心配はないはずだ。
 わたしはリビングからアキヒロの様子を窺う。特に緊張している様子はなく、いつものアキヒロだった。わたしが立ち上がってキッチンに行くと、アキヒロは不思議そうにわたしを見た。
「どうしたの、ミズキ」
「ううん、どうもしてない」
 わたしはアキヒロに抱きつく。ぎゅうっと抱きしめると、アキヒロはわたしの背に腕を回してくれた。こういうところも好きだ。わたしが求めていることを察してくれる。
「仕事で何かあった?」
「ううん、何もないよ。ちょっと抱きつきたかっただけ」
「なんだよそれ。紛らわしいなあ」
 アキヒロは笑いながらわたしの背をぽんぽんと優しく叩く。わたしはアキヒロの匂いに包まれて、幸せな気分になる。ああ、ずっとこのままいられたらいいのに。
「でもハグは大切だってよく言うでしょ」
「そうなの? 初めて聞いたけど」
「それはアキヒロが知らないだけだよ。ハグの効果ってすごいんだよ。ストレス緩和とか、幸せホルモンの分泌とか、いろいろあるんだって」
「ふうん。ほら、お湯が沸いたから離れて」
 アキヒロはハグの効果にはあまり興味がなかったのか、わたしを離した。湯が沸いたのなら仕方ない。わたしはしぶしぶアキヒロから離れることにする。本音を言えばもう少し抱き合っていたかったのだけれど。
 アキヒロは乾麺を湯に入れて、タイマーをセットする。手が空いたアキヒロの後ろからまた抱きつくと、アキヒロは困ったように笑った。
「なんだよ、今日はハグの日?」
「いいじゃん、仕事で疲れてるの。ハグは無料なんだから、いいでしょ」
「火を使ってる周りで遊んじゃいけないって言われなかった?」
「遊んでないもん。わたしは真剣にハグを求めてるの」
「はいはい。じゃあ、麺を茹で終わるまでね」
 アキヒロは身体を反転させて、わたしを抱いてくれる。
 付き合って三年目の恋人がこうやってハグをするのは、珍しいことなのだろうか。世間では三年ともなると愛が冷めたり落ち着いたりすると聞くけれど、わたしたちにそんなことはない。むしろ、付き合い始めた頃よりも積極的になっているような気がする。
 わたしとアキヒロは、きっと鍵と鍵穴の関係なのだ。お互いに、お互いでなければならないのだ。わたしはアキヒロの体温を感じながら、そんなことを思っていた。
 ああ、キスがしたい。アキヒロをもっと感じたい。わたしがそう思ってアキヒロを見上げると、アキヒロの優しい顔がそこにあった。アキヒロはわたしの目を見て悟ったのか、ゆっくりと顔を近づけて、唇を重ねてくれた。わたしはとても満たされた気分になる。
 ねえ、こんなに幸せなカップルって、他にいないんじゃない? わたしたちって世界でいちばん幸せなんじゃない?
 アキヒロと見つめあっていたら、タイマーが時間を告げてわたしたちを引き戻した。アキヒロは何事もなかったかのようにわたしから離れて、パスタを湯から上げる。わたしは物足りない気持ちを抱えながら、パスタに絡めるソースを準備する。明太子のソースがちょうど二人分残っていた。
 パスタを盛って、ソースを絡めて、リビングのローテーブルに運ぶ。わたしとアキヒロは向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」「いただきます」
 明太子のパスタを食べるのは久しぶりだ。アキヒロの家に来た時はこうしたものを食べることが多いような気がする。冷蔵庫にあまり食材がないのだ。アキヒロが言うには、わたしが来るタイミングが悪いのだそうだが、実際のところはどうなのかわからない。アキヒロが手の込んだ料理をしている姿は見たことがない。あまり料理はしないのかもしれない。
 アキヒロの話はきっと食後にするつもりなのだろう。確かに、パスタを茹でている間にするような話ではない。もっと落ち着いた雰囲気で、静かに言ってほしい。わたしはアキヒロに水を向けることはせず、アキヒロが言いたいタイミングに任せることにした。
 思った通り、食事中にはアキヒロは話をしてこなかった。テレビを見ながら二人で談笑したけれど、アキヒロの話が始まることはなかった。それはそうだろう、こんな雰囲気で結婚しようと言われても、なんだか反応に困ってしまう。いや、断ることはないんだけどね。
 食べ終わり、皿を洗ってから、しばらくの間何とはなしにリビングに座る。わたしはアキヒロの肩に寄りかかり、幸せを噛み締めていた。この幸せが約束される日が来たのだ。アキヒロと家族になれる日が、遂にやってきたのだ。
 食事を終えたあたりから、アキヒロの表情が固くなってきていることには気づいていた。でもわたしはあえてそのままにしておいた。だって、急かして聞くような話ではないと思っていたからだ。アキヒロのタイミングで、最高のプロポーズをしてほしかった。
 アキヒロはわたしに肩を貸したまま、ぽつりと呟くように言った。
「ミズキ、話があるんだ」
 来た。わたしは目の前に餌をぶら下げられた動物のように食いつくところだったが、慌てて平静を装った。
 落ち着け。喜ぶのは、アキヒロの口から結婚しようと言われた後だ。
「怒らないで聞いてほしいんだ」
「……え?」
 話の行き先がおかしいことに気づいたのは、その時だった。怒らないでほしい。そんなプロポーズが存在するだろうか。こんな格好でごめんね、ということではないようだった。わたしが身体を起こしてアキヒロのほうを見たら、アキヒロは思い詰めたような顔をしていて、それがわたしを不安にさせた。
 なに? アキヒロはわたしに何を言おうとしているの?
 アキヒロはわたしから目を逸らすことなく、その先を告げた。
「別れよう」
「……ええ?」
 自分の耳がおかしくなったのかと思った。だって、何をどうしたらその結論に至るというのだ。わたしたちの関係は決して悪くないし、今だってこんなに幸せな気分だったのに、どうして別れようなんて台詞が出てくるのだろうか。
 わたしは状況を理解できていないのに、アキヒロは続けて言った。
「別れよう、ミズキ。ぼくたち、おしまいにしよう」
 二度目を聞いても、わたしは現実を受け入れられなかった。わたしの耳が正常に働いていることだけはわかった。だからといって、アキヒロが言っていることは理解できなかった。
 わたしが絞り出すことができたのは、理由を問う言葉だけだった。
「どうして? ねえ……どう、して?」
 にわかに涙が溢れてくる。堰を切ったように流れていく涙を止めることはできず、わたしは泣きながらアキヒロを見た。アキヒロは辛そうな表情で、わたしを抱き寄せた。
「アキヒロを好きなのはわたしだけだったの? アキヒロは、わたしじゃない人を好きになったの?」
「違うよ、ミズキのことを嫌いになったわけじゃない。他に好きな人ができたわけでもない。ぼくは、今でもミズキが好きだ」
「わけわかんない。どうしてそれで別れようなんて言うの?」
 わたしには他に理由が見つからなかった。今でもわたしのことが好きなのに、どうして別れなければならないのだろうか。お互いに愛し合っているのに別れるだなんて、そんな悲劇めいたことがあるわけがない。
 アキヒロは一度天井を見上げてふうっと息を吐き、重い口調で言った。
「海外に異動することになったんだ。ぼくが日本にいられるのは、もう今日だけしかない。明日の飛行機で発つことになっているんだ」
 突然降って湧いた話についていけず、わたしは混乱する。今日の夜だけしかアキヒロは日本にいられないということ? そんなの、どうして?
「あ……明日? どうしてそんなに短いの? そういうものなの?」
「違う。ずっと……言い出せなかったんだ。きっとミズキを傷つけてしまうと思って」
 たぶんアキヒロは優しさのつもりだったのだろう。わたしは異動が決まった日に言ってほしかった。そうしたら、こんな結末にはならなかったのではないかと思ってしまう。アキヒロと一緒にいられる期間があと数時間しかないなんて、考えられない。耐えられない。
「黙ってて、ごめん。別れてくれ」
 わたしは心を刃物で突き刺されたかのような気分だった。プロポーズだと思って浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。本当はこんな話だったというのに。どうしてわたしはアキヒロがこの話を隠していることに気づかなかったのだろう。アキヒロの様子がおかしいことくらい、気づけたはずなのに。
「わたしを、連れて行ってくれないの?」
 わたしは答えがわかっている問いを投げかけた。こんなことを聞いてもアキヒロを傷つけるだけだとわかっているのに、訊かずにはいられなかった。
 思った通り、アキヒロはわたしから視線を外して、小さな声で答えた。
「それは、できない」
「どうして? わたしだって英語なら少し喋れるよ」
「ぼくには……ぼくには、ミズキの人生を背負う覚悟がない。連れて行くなら結婚することになるだろ。ぼくには、重すぎるよ」
 結局のところ、それがアキヒロの本音なのだ。わたしは結婚するほどの女ではないのだ。好きだけれど、相手と一緒に生きていこうという気はないのだ。
 わたしはとめどなく溢れる涙を拭って、アキヒロを見た。アキヒロもわたしを見ていた。その瞳が全てを物語っていた。
 ああ、アキヒロは、困っている。わたしが絶対に拒否すると踏んで、それが嫌だったから今まで黙っていたのだろう。期日が近づいてしまえば、どれだけ嫌でも別れざるを得なくなる。あと数時間しかないのなら、わたしを連れて行くことは実質的に不可能だ。わたしはアキヒロのことを諦めざるを得ない。
 でも、だからといってアキヒロのことを諦めるの? 本当に、他に道はないの? わたしはアキヒロと別れることしかできないの?
 わたしは必死になって道を探した。どんなに辛い道だって構わない。アキヒロと一緒にいられるのなら、どんな努力だってするつもりだった。
「ねえ、アキヒロ」
「うん?」
「遠距離恋愛じゃだめなのは、どうして?」
 わたしはふと浮かんだ疑問をぶつけた。海を越えた遠距離恋愛が成就したパターンはいくらでもあるだろう。そこには努力があったのだろうが、今のわたしたちにできないというわけではないはずだ。アキヒロが何年赴任するのかわからないけれど、最初から無理だと諦めてしまうような困難な道ではないはずだ。
 アキヒロはわたしのほうを見ないまま、深く息を吐いた。
「ぼくが耐えられないよ。恋人とずっと会えないのは、寂しい」
「でも電話できるでしょ? その気になれば会うことだってできるじゃん。休みの日に日本に帰ってくればさ、会えるでしょ?」
「ねえ、ミズキ。ぼくはもう決めたんだ。きみとは別れる」
 アキヒロはわたしの機先を制した。これ以上この話をするつもりはないと言われているようなものだった。
「どうして? どうして、別れなきゃいけないの?」
 だめだ。泣いちゃだめだ。そう思っても、わたしの目からは涙が溢れてきた。わたしは手で涙を拭って、アキヒロを見つめる。アキヒロは苦しそうな表情を見せた。
「ミズキは、結婚する気のある男性と付き合ったほうがいい。ぼくみたいな、覚悟ができない男じゃなくて、きみの人生を背負えるような男性を選ぶべきだ」
「海外から戻ってきたら結婚すればいいじゃん。何も、今すぐ結婚しなくたっていいじゃん」
「その約束は重いよ。きみと付き合ったまま海外に行くことはできない。それはきみを期待させるだろうし、ぼくにとっては重荷になる」
「わたしが……いないほうがいいってこと?」
 アキヒロは答えなかった。でも、それが本音なのだ。わたしと今すぐ結婚する気はなくて、きっとこれからも結婚するイメージが湧かないのだ。だから、アキヒロにとってわたしは重荷で、このタイミングで手放したい存在なのだ。もうアキヒロの心の中のわたしは、とても小さなものになってしまったのだ。
 涙の雫が落ちる。アキヒロはそっとわたしの肩を抱いた。
「ミズキのことは今も好きだよ。でも結婚することはできない。だからここでお別れしよう。それがきっときみのためになる」
 その言い方はずるい。わたしのためになるのではなく、アキヒロがそうしたいだけだ。わたしのためになるかどうかは、実際に別れてみないとわからないはずだ。
「どうしても、わたしと別れなきゃいけないの?」
「そのほうがきみにとってもいいはずだよ。いつ帰ってくるかもわからないぼくを待ち続けるよりも、新しい人を見つけるほうがいい。ぼくは海外から帰ってきたとしても、きみと結婚するかどうかわからないんだから」
「いやだよ、わたしはアキヒロと別れたくない。結婚なんてしなくてもいいから、そばにいてよ」
 わたしがアキヒロの腕を掴むと、アキヒロは眉尻を下げてわたしを見た。どうしたらわかっってくれるのだろうか。アキヒロも、わたしと同じことを考えていた。ただ、その中身は全く逆方向だ。お互いの主張が相入れることはなく、折衷案も存在しない。
「なあ、ミズキ、わかってくれよ」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの? もっと早く言ってくれてたら、全然違う方法だってあったかもしれないじゃん」
 つい責めるような口調になってしまう。アキヒロはぐっと何かを堪えるような仕草を見せた。
「それは……ごめん、言い出せなくて」
「こんな大事なこと、どうして黙ってたの? 最初からわたしと別れるつもりだったの?」
 アキヒロは答えなかった。わたしのほうを見ようとはせず、肩を抱いてくれていた腕も外されてしまった。それが答えだ。
 やめて。これ以上、わたしを失望させないで。アキヒロが異動の話を聞いた瞬間から、わたしとは別れるつもりだったなんて、思わせないで。
 わたしの涙は止まることなく流れて、何度拭っても溢れてきた。でも今は泣いている場合じゃない。悲しむのは、辛い結論が出た時でよい。わたしたちはまだ、終わっていない。
「ねえアキヒロ、どうしても遠距離恋愛じゃだめなの? 今でもわたしのことが好きなら、遠距離恋愛だっていいじゃない?」
 遠距離恋愛の末に結婚した、という話は枚挙にいとまがないはずだ。わたしたちだってその中に入ることができる可能性はある。というか、わたしは遠距離恋愛を乗り越えてアキヒロと結婚する自信がある。わたしはそれくらい、アキヒロを愛している。
 けれど、アキヒロは違った。わたしの問いに、首を横に振ったのだ。
「だめだよ、ミズキ。ぼくはいつ帰ってこられるかもわからないんだ。ぼくが海外に行っている間、きみをずっと待たせ続けることになる。もしその間に別れてしまったら、きみの時間を無駄にすることになるんだよ」
 あまりにも後ろ向きな発言にむっとして、わたしは言い返した。
「別れること前提で話さないでよ。うまくいくかもしれないじゃん」
「国をまたぐ遠距離恋愛なんて、うまくいくはずがない。ぼくには自信がないよ」
「やってみなくちゃわからないでしょ。ねえアキヒロ、考え直してよ」
「ミズキ、ぼくもたくさん考えたんだ。でも、別れるのがいちばんきみのためになるんだよ。このままぼくと付き合い続けたって、いいことなんて何もないんだ」
 アキヒロは本当に別れることがわたしのためになると思っているようだった。わたしが婚期を逃さないように、と思ってくれているのが伝わってくる。でもそれは適当な理由づけで、アキヒロはわたしのことを邪魔だと思っているのだ。このタイミングでわたしと完全に関係を切ってしまって、新天地で新たな関係を構築したいのだ。
 そう考えると、わたしは自分がなんて馬鹿なことをしているのかと思えてきた。わたしがこうやってアキヒロに食い下がり続けても、アキヒロにとっては迷惑なだけだ。アキヒロのことを思うのなら、さっさと諦めてあげるべきだ。それがアキヒロの望みだ。わたしがどれだけ騒いでも、抵抗しても、アキヒロの決断を覆すことなんてできやしないのだから。
 アキヒロが無言のままわたしの肩を抱いてくれる。それはただ泣いているわたしを慰めるためだけのもので、そこに愛があるのかどうかは、きっと訊いてはいけない。ないと言われてしまえば、わたしは立ち直れないから。
「わかった。別れよう、アキヒロ」
 わたしが涙を拭いながら言うと、アキヒロは顔を輝かせた。これが全てだ。アキヒロはもう、わたしのことなんて見ていないのだ。別れを拒んでも、何もよいことはない。
「ただ、お願いがあるの」
「なんだい?」
「一回でいいから抱いて。それで、わたしもアキヒロとの関係を終わらせる」
 虚しい願いだった。そんなことでわたしの寂しさが埋まるはずがないのに。これくらいしかアキヒロを感じられる手段が見つからなかった。
 アキヒロは優しく微笑んだ。たった一度のセックスでわたしと別れることができて、喜んでいるのだろうか。
「いいよ。しよう」
「今でもいい?」
「いいよ」
 そう言って、アキヒロはわたしの唇を奪った。いつもの通り、わたしの心を包み込むような優しいキスだった。


 翌朝早く、わたしはアキヒロの部屋を出ていった。
 少しでも話してしまえば決心が揺らぐかもしれないと思い、わたしはあえてアキヒロが起きるよりも前に行動した。できるだけ物音を立てないようにして、アキヒロを起こさないようにした。アキヒロの寝息のリズムが崩れるたびに、わたしはどきりとして手を止めた。
 結局、わたしがアキヒロの部屋を出るまで、アキヒロが起きることはなかった。いや、起きていたのかもしれないけれど、声をかけられることはなかった。もし起きていたのだとしたら、アキヒロにとってわたしはその程度の女だったということだ。
 でも実際に、その程度の女なのだろう。アキヒロは最後の夜まで優しかった。でも、そこに寂しさは感じられなかった。寂しいのはわたしだけだったのだ。それがわたしの辛さに拍車をかけていた。わたしだけが、この関係に終止符を打てずにいる。
 朝が早いからか、外の空気は澄んでいて、ひんやりとしていた。わたしはその空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐いた。これでアキヒロへの想いが一気に吹き飛んでいけばいいのに。
 ねえ、アキヒロ。
 きっと、あなたより素敵な人を見つけてやるから。あなたが帰ってきた時に、わたしを捨てたことを後悔するくらい、いい女になってやるんだから。
 わたしはそう心に誓って、泣いた。涙が枯れるのは、いつになるだろうか。