あの日を境に、千歳狐はやたら怯えることはなくなった。
毎日大人しく部屋で過ごしている。俺は毎日朝飯が終わってから一時間ほどあいつに言葉を教えている。
地頭はいいようなので、三日も経てば簡単な挨拶や俺の名前は直ぐに覚えた。相変わらずあいつは無口だし表情も乏しいけれど、今では簡単な意思疎通はできるようになった。
教科書代わりに社の文殿から持ってきた桃太郎を朗読するそいつの横顔を見ながら、頬杖をついた。
「なぁ、そういえばお前名前とかないん」
そいつは不思議そうな顔で俺を見た。
名前の意味がわからないらしい。
「名前やナマエ。ほら……俺、信乃。お前は?」
自分を指さし信乃と名乗って、そいつを指さし首を傾げる。身振り手振りで何となく察しがついたのか、そいつは小さく首を振った。
「いいえ」
「いいえって……名前ないってことか?」
こくんと頷く。
「空狐、ない」
「あー、なんか親元で修行するんやっけ。ほな修行期間明けるまでは名前ないんか」
もう一度頷く。
「信田妻の里は生まれた時から名前つけるんや。ここで過ごすならないと不便やぞ」
視線を絵本に落としたそいつ。何かを考えるように黙り込む。
落ち込ませてしまったんだろうか、とすこしどきりとした。
「なまえ……信乃、ください」
「は? お前俺とおんなじ名前がいいん?」
今度は小さく首を振った。
俺はうん?と首を捻る。