あかりがこの世を去って一年、ちょうど命日の墓参りの帰り。
 一匹の、猫に出会ったーー。

          *

「次に生まれ変わるとしたら、雪春はどんな生きものになりたい?」
 あかりが僕にそう問いかけてきたのは、ある昼下がりのこと。
 病室に見舞いにやってきていた僕は、脈絡のない質問に面食らって手にしていたりんごを落としそうになった。来る途中、商店街の青果店で買った青森県産のりんごだ。あかりの好物は、その真っ赤なりんごだった。
「それはつまり、来世の話?」
 ベッド脇のパイプ椅子に座る僕の問いかけに、ベッド上で上半身を起こしているあかりは、目を細めて「そう」と呟くように返事をした。
 病室は個室で、僕とあかり以外に人はいなかった。
「随分後ろ向きな話だね」
 僕は質問には答えずに彼女を見つめた。
「もう、そんな目で見ないの。勘違いしてない? これは前向きな話題だよ?」
 あかりはそう言うと、柔らかく微笑んで見せた。
 生きることよりも、死の先を見据えることのほうが前向きーー。
 僕は、残りわずかな時間しか生きられない彼女に静かに視線を送り続けた。
 幼い頃から心臓に重篤な問題を抱えている彼女は、僕よりもずっと気楽に、自分の行末をとらえているように見えた。
 僕はそのまま黙って、果物ナイフでリンゴの皮を剥いた。
 やがで、皮を剥き終えたりんごを八等分にして平皿に盛りつけると、あかりはつけていた酸素吸入の経鼻チューブを外して、りんごを一切れ手に持った。
「あっ」
「いいの、食べるときくらい、好きにさせて」
 そう言って、あかりは一口りんごを齧る。
「おいしい」
「しっかり噛んで、ゆっくり飲み込んで」
「もう、わかってるよ」
 心臓の機能が徐々に低下していく難病。
 心臓は肺から取り入れた酸素を、血液に乗せて全身に運ぶポンプの役割を果たしている。
 その力が弱まれば、筋肉、臓器、そのすべての機能に悪影響が出る。
 出会った頃よりも小さく細くなったあかり。
 けれど肉体の衰弱は、さほど彼女の精神に影響を及ぼしていないように、僕には思えた。
 あかりはもう一口りんごを齧ると、
「わたしは猫、絶対に」
 そう、弾むような声で言った。
 僕は黙って彼女を見た。
 あかりと目が合った。
「なんでって、顔してるね」
「……うん」
 そのとおり。僕は尋ねた。
「なんで?」
 あかりは屈託なく笑った。
「だって、猫は可愛くて自由だから」
 ーー自由に世界を歩き回って、たくさんの人に可愛いがってもらうの。
 そう、彼女は言った。
 あかりは孤児だった。
 天涯孤独の彼女は、生まれた頃から孤児院で生活し、物心がつく前から入退院を繰り返してきた。
 僕と彼女が出会ったのは彼女が死ぬ一年前、ちょうど僕らが二十歳になったばかりの頃。
 生活費を稼ぐために不眠不休でバイトに勤しんでいた僕は、過労から風邪を拗らせ肺炎まで病態を悪化させてしまった。
 救急車で搬送された先の総合病院で、療養中に出会ったのがあかりだった。
 僕は、院内の中庭でベンチに座り、物憂げに空を眺めていた彼女に、一目惚れしてしまったのだった。

          *

 山沿いの霊園を出る頃には、もうかなり陽が傾き始めていた。
 左右を桜並木で囲まれた階段を降り、国道脇の歩道に足を踏み入れると、一面に散った桜の花びらの中で、なにかと目が合った。
 舞い散る桜吹雪と、敷き詰められた無数の花びらによって、その生きものは騙し絵のように景色に溶け込んでいた。
 二つの黒い瞳。
 白い猫だ。
 柔らかそうな毛並みの雑種の白猫は、僕を見上げてか細い声でニャアと鳴いた。
 僕は瞬時にめまいを覚えた。
 猫はまるで僕を待ち構えていたように、逃げずにその場に座り込んでいた。
「……あかり?」
 呟いて、自分の馬鹿さ加減を呪いたくなる。
 そんなわけないじゃないか。
 死んだ人間が、猫に生まれ変わって目の前に現れる、そんな馬鹿なことが……。
 すると、猫は静かに四本足で立ち上がり、僕の足元へ歩み寄ってきた。
 またニャアと鳴き、僕の履いている靴に頬擦りをしてくる猫。
 その顔を見てハッとする。
 気持ちよさそうに目を細めた猫の顔は、あかりの笑った顔そっくりに見えた。
 僕は膝をついて、足元にまとわりつく猫の頭をなでる。
 猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
 片手だけでなく、両手を使って猫の背や頭に触れ愛でる。
 柔らかい毛並みに、淡い温もり。
 気づくと、僕はその猫を抱き上げていた。
「……本当に君なのかい? あかり……」
 立ち上がりながら問いかけたところで、猫は人語を話すわけもない。
 ただ力を抜いて、僕の腕の中で甘える猫は、懐かしい場所に戻ってきたかのように、とてもリラックスしているような様子だった。
 不意に、あかりが読んでいた小説のことを思い出す。
 あれはあかりが死ぬ三日前。
 やはり見舞いに病室を訪れたときのことだった。

          *

「今度はどんな本を読んでるの?」
 病室のドアを開け中に入ると、あかりはいつものようにベッドの上で体を起こして読書をしている最中だった。あかりは病室で過ごす多くの時間を、本を読むことに費やしていた。
 彼女は文庫本に視線を落としたまま、
「さて、なんの本でしょう?」
 どこかおかしそうに僕に尋ねてきた。
「ヒントをくれないとわからないよ」
 本にはブックカバーがかけられていた。
 あかりは文庫本から視線を僕に移す。
 そして、
「お勉強してるの」
 言いながら、ブックカバーを上にずらす。カバーが本から完全に外れないように慎重に手で動かしていく。やがて、ずれたカバーが隠していた表紙が顔を覗かせた。
「……吾輩は、猫である」
 僕は、思わずその表紙に書かれているタイトルを声に出してしまった。
 あかりは嬉しそうに目を細める。
 彼女の中では、猫に生まれ変わることがもはや決定事項と化していた。
 僕はどこかやりきれない気持ちになり、ぶっきらぼうにベッド脇のパイプ椅子に腰かける。
「……あっ、雪春不機嫌だ」
「別に……」
 病人の前で取るような態度ではなかったけれど、あかりの様子を見ていると自然と感情が表に出てしまった。
 僕は、あかりに死んだ後のことよりも、生きている今を考えて欲しかった。
 近いうちにあかりに死が訪れることが運命だったとしても、僕はあかりが死んでからのことなんて考えたくもなかった。
 それよりもまだ、「死にたくない」と泣いて縋りついてくれるほうが、生身のあかりと向き合えているような気がしてならなかった。
 あかりは病人として、あまりに達観し過ぎていた。
 そんな僕の内面を察したのか、あかりは困ったように苦笑した。
「……もう、雪春は弱虫だなあ」
 そう言って、あかりは優しく頭を撫でてくる。
 握れば折れてしまいそうなほど、細い手首。
 出会った頃よりも頬がこけ、白い肌はところどころカサついているのがわかった。
 あかりはその名のとおり、僕にとって闇を照らす灯火だった。
 幼い頃から、両親は僕に無関心だった。口下手なせいもあってか、周囲に友人と呼べる存在も作れず、ただなにかを変えたくて、高校を卒業するとわけもわからずに家を飛び出した。
 自分がなにものなのか、迷いながら生きていく中で、偶然あかりと出会った。
 あの日、病院の中庭で、春の暖かな日差しを浴びながら空を見上げるあかりは、儚く美しく、どこか気高く僕の目に映った。
 病魔に蝕まれていく肉体と反して、あかりの心の在り方は、いつだって僕に光をくれた。
 あかりの言うとおり、僕は弱虫だった。泣いて縋りつきたいのは、僕のほうだった。

「雪春」
 
 と、あかりが僕を呼ぶ。
「雪春は出会った頃から変わらないね。いつも自信なさげで、でも自分の感情を抑えられなくて、突飛な行動をしたり、態度に出したりするんだから」
「……………」
 確かに、あかりの言うとおりだった。
 がむしゃらに家を飛び出したあのときのように、僕は初めてあかりを目にしたとき、自分の感情を抑えきれずに、ろくな言葉も浮かばないのに彼女に話しかけてしまっていた。
「初めて声をかけてくれたときのこと、今もはっきり覚えてるよ。『君もここの入院患者ですか?』って、当たり前じゃない、わたしたち二人とも同じ病衣を着てたんだから」
「……そうだね」
 僕はあのとき、本当にあかりの姿に我を忘れていた。
 後先考えずに声をかけたのは、今声をかけなければ、すぐにでもあかりが消えてしまいそうな気がしたから。
 あかりは、僕がした間抜けな質問に答えたときのように、クスクスとおかしそうに笑った。
「雪春、わたしね」
「……うん」
「親も知らず、学校にも行けずに、病院で過ごすことがほとんどの毎日で、いつも独りだった」
 あかりの手はまだ優しく、僕の頭を撫でていた。
「あなたと出会うまで、誰もわたしに愛情をくれなかった。あなたは、わたしに愛をくれた最初で最後の人」
 その言葉に、思わず目頭が熱くなる。
 僕は必死で、涙を堪えた。
 あかりは続ける。
「わたしにはさ、あなたの愛だけで十分だよ。他の人からの愛なんていらない。でもさ、やっぱり心残りはあるんだよね……」
 あかりの手が、僕の頭から離れる。
 今度は冷たく細い指が、僕の両手を包み込む。
「……心残りって?」
 僕は訊いた。
 あかりはどこか恥ずかしそうに微笑む。
「……ほら、わたしって小さい時に親から捨てられて、物心ついてからは病気になって、誰からもちゃんと可愛がられた記憶がないんだよね。施設の先生は代わりばんこで面倒見てくれたけど、疎まれてときのほうが多かったと思う」
「……………」
「あと、やっぱり病院生活が長くてさ、こんな管や機械に繋がれてばっかりだったし……」
 あかりは自分の腕についた点滴や、鼻の酸素チューブを気にする素振りを見せた。
「だから、たくさんの人たちに甘やかされて、今までわたしに冷たくしてきた人たちを見返したいの。それと、自由に世界を走り回ってみたいの。猫になれば、きっとその心残り……夢が叶うんじゃないかって」
 ーーそう、思うの。
 あかりの声が、水面に落ちる水滴のように、僕の体の奥深くで波紋を広げる。
 僕は自分を恥じた。
 あかりの夢は、確かに今はもう叶わない。
 他の誰よりも、あかり自身がそのことを知っていた。
 だから来世なのか。
 だから、猫なのかーー。

「雪春」

 もう一度、あかりが僕の名前を呼ぶ。
 僕は、無意識にあかりの両手を自分の両手で包み返していた。
 さっきよりも少しだけ、あかりの手に温もりが宿っている気がした。
 あかりは、穏やかに言った。
「愛してる」
「……………」
 僕も、できるだけ気持ちを落ち着かせて、応えた。
「僕だって、愛してる」
 僕らはそのまま見つめ合い、キスをした。
 あかりは僕だけの愛でいいと言ってくれた。
 そのことがたまらなく誇らしくもあり、たまらなくせつなくもあった。
 あかりの容体は、その晩急変した。
 二日間、意識のない状態が続き、三日目の朝に眠るように息を引き取った。
 あかりと言葉を交わしたのは、このときが最期だったーー。

          *

 太陽は完全に地平へと沈んでしまった。
 運転する軽自動車の窓には、街灯の薄明かりが反射している。
 僕は、猫と一緒に、自分が住む街に帰ってきた。
 猫は助手席にちょこんと体を伏せ、気持ちよさそうに目を閉じている。
 住んでいるアパートにたどり着くまで、猫はぐっすりと眠りについたままだった。
 僕の住むアパートの駐車場には、墓参りに行った霊園と同じように数本の桜の木が植えられていた。
 車を停め、猫を抱き上げて車外に出ると、舞い散る桜の花びらからささやかな歓迎を受けた。
 まだ肌寒い春の風から腕の中で眠る猫を守るようにして、僕は二階建てのアパートの階段を登る。
 玄関に着き、猫を抱えたまま鍵を開けて中に入ると、猫は突然顔を上げ、しげしげと周囲を見回し始めた。
「……ここが、僕の家」
 玄関から順番に灯りをつけていく。体重でフローリングの床がわずかに軋む。細い廊下には申し訳程度にキッチンがあり、その先にはリビング兼ダイニングの六畳一間の部屋がある。
 猫を床に下ろし、ベランダにつながる窓を開けると、室内に柔らかい夜風が舞い込んできた。
 猫はまだ興味深そうに部屋の中を見回している。

『ーーここが雪春の部屋なんだ』

 そんな、あかりの声が聞こえた気がした。
 無造作にベッドの枕元に放ってある目覚まし時計を見やると、時刻は午後七時を過ぎていた。
「……君、お腹空いただろ?」
 まだ猫をあかりと呼ぶには抵抗感があった。猫があかりだという完全な確証があるわけでもないし、偶然の一致を僕の頭が都合のよいストーリーに仕立ててしまっている可能性もある。
 それでも、猫を家に連れて帰ってきたのは、猫があかりの生まれ変わりだという奇跡を、心のどこかで信じて望んでいる自分がいるからだった。
 猫を部屋に残したまま、キッチンに立つ。
 レンジで冷凍のトマトパスタを解凍し、コンロで湯を沸かしてコーヒーを淹れた。猫にはツナ缶を用意した。
 料理を持って部屋に戻ると、猫は食卓にしている背の低い丸テーブルの上に登っていた。
 そこで、前足を一冊の本に向かって繰り出している。
「ああ、その本は……」
 吾輩は猫である。
 あかりの遺品の一冊だった。シンプルな柄のブックカバーは一度も外さずにつけたままにしてある。中身を読もうと何度か試みたけれど、ダメだった。
 僕は料理をテーブルに置くと、猫を抱きかかえて床に下ろした。そのまま猫の目の前に、ツナ缶の中身を載せた平皿を置いてやる。
 猫は一度きょとんと僕の顔を見上げると、黙ってツナを食べ始めた。
 一瞬、またりんごを切ってあげればよかったかな、と思うものの、猫がりんごを食せるものなのか、僕は知らなかった。
 傍でツナにむしゃぶりつく猫を片目に見ながら、トマトパスタを食べる。
 静かな夜だった。
 食事が終わると、僕はシャワーを浴びた。
 部屋着に着替えて猫のもとに戻ると、猫はまたしても丸テーブルの上に登り、吾輩は猫であるに興味を示していた。
 ふと、あかりはこの本を読み終えていなかったのではないかと思う。
 続きが気になるから読ませろ、ということなのだろうか?
 僕が本を手に取ると、猫はテーブルを降り、足元に擦り寄ってきた。
 試しに手にした小説の一節を朗読してみるも、猫はまるで興味を示さない。
 自分に呆れた気持ちになり、僕は床に座り込んで猫を膝の上に乗せた。
 猫はニャアと機嫌良さげに鳴いて、体の動きを止める。
 猫に触れた皮膚を通して、生物の愛おしい温もりが伝わってくる。
 僕の膝の上で丸まった、小さな命。
 ふと、笑ったあかりの顔が脳裏に過ぎる。
「君は……本当にあかりなのかい?」
 問いかけてみるものの、猫は言葉を返さない。
 当然だった。それでも僕は溢れてくる言葉を吐き出し続ける。
「……僕のところに帰ってきてくれたんだったら、嬉しい。どうかな? 猫の体は」
「……………」
 猫はなにも応えない。
 僕は猫を抱えたまま、部屋の明かりを消し、一緒にベッドに入った。
 僕が横たわると、猫は僕の胸元にそっとその身を寄せてきた。
 やはり、猫はどうしようもなく温かで、愛おしかった。
 目をつぶると、まるでそこに、あかりがいるような気配がした。
 言いようのない幸福感とせつなさに包まれた僕のもとに、静かに睡魔が訪れる。
 気づくと、僕は夢を見ていた。

          *
 
 それは、四度目にあかりと会ったとき。
 場所は、初めてあかりと出会ったあの病院の中庭だった。
 穏やかな日差しが射す中庭のベンチに座った僕らは、とりとめもなく言葉を交わしていた。
「雪春くんは……」
 そう、あのときはまだ、あかりは僕のことを君付けで呼んでいた。
「わたしの病気のこと、知ってるの?」
「……えっ?」
 不意をついた質問に、僕はすぐには返答できなかった。
 彼女の病気がなんであるのか、このとき僕は知らなかった。
 ただ、あまりに白く細く、儚いその体つきから、状態がよくないことだけは察することができた。
「重い病気なの?」
 無遠慮と思いつつも、僕は彼女に尋ねた。
 あかりはにっこりと笑い、
「うん。このままだと、あまり長く生きられないらしいんだ」
 そう言った。
 深刻さを感じさせないあっけらかんとした物言いに、僕は面食らった。
「雪春くん、こんなわたしでいいの? 君にはなにもしてあげられないと思うよ? わたしはただ消えていくだけだから」
「そんな……」
 あかりは、僕の気持ちに気づいていた。
 僕は彼女の洞察力に驚くと同時に、少しだけ腹立たしい気持ちになった。
「そんなこと、言わないでよ」
 自然と出た言葉には、反抗心が宿った。
「僕は、君に惹かれてる。うまく説明はできないけど、君は今まで会った誰よりも綺麗だ」
 自分でもびっくりするくらい甘い言葉が出た。
 顔が熱くなるのがわかる。隣に座る彼女と目を合わせることができなかった。
 ……引かれてしまったかもしれない。
 彼女からなかなか言葉が返ってこなかったので、僕は恐る恐る、彼女の顔に視線を向けた。
 彼女のほっぺたは、淡い桜色に染まっていた。
「……そ」
「そ?」
「そんなこと言われたの、初めて……」
「……僕も」
 こんなことを言ったのは、初めてだった。
 人は、なぜ舞い散るひとひらの花びらを美しく思うのだろう?
 闇を照らす一筋の星灯りだったり、すぐに溶けてなくってしまう雪のかけらだったり。
 儚くも消えてしまう運命の中で、確かにそこに存在しようとするものには、光が宿る。
 外見のことを言っているのではない。あかりの存在は、ただただ美しかった。彼女の中に灯る光を、僕は少しでも長くそばで見続けたいと、そう願っていた。
「……よかったら、僕と付き合ってください」
 僕は、彼女と過ごした時間を夢に見た。
 少し恥ずかしそうに笑って頷くあかりに、手を伸ばして触れようとしたところで、その夢は終わった。


          *

 ベッドの上で目を覚ますと、一匹分の温もりが欠けていることに気がついた。
 慌てて身を起こす。
 うまく働かない頭を叩いて、まだ暗い室内に灯りをつけ必死に猫の姿を探す。玄関も、トイレも、浴室も、クローゼットの中も……。
 けれど、あの猫はどこにもいない。
 リビングに戻りふとベランダに通じる窓を見ると、昨日開けておいた隙間、その網戸の部分がわずかに横にズレていた。
 僕は呆然として窓に近づく。
 きっと、この隙間からベランダに出て、そのまま猫はどこかに行ってしまったんだろう。
 実際にベランダに出て外を眺めて見るものの、駐車場にも猫の姿は見当たらない。
 遠くの空が白んで、夜が明けるところだった。
 呆然とした心地のまま室内に戻ると、足先になにかが当たった。
 吾輩は猫である、だった。
 ブックカバーが半分ほど外れていて、裏地が見えていた。
 そこには、なにか文章が書かれていた。
 僕は本を拾い上げ、ブックカバーを剥ぎ取る。その裏地を広げて見た。
 あかりの筆跡で、びっしりと文字が書かれていた。

『ーー雪春へ』

 手が、震えた。
 喉が締めつけられるように軋むのがわかる。
 それは、あかりが僕に遺したーー遺書だった。

『雪春へ。
 あなたがこの仕掛けに気づくのがいつになるかはわかりませんが、ここにあなたへの最期の感謝を綴ります。
 雪春、出逢ってくれてありがとう。
 愛してくれてありがとう。
 あなたは、わたしが死んだことで悲しみに暮れているのではないでしょうか?
 悲しんでくれるのはとてもありがたいし、嬉しいことだけれど、いつまでも悲しみに染まってしまうのはやめてくださいね。
 雪春、わたしね、来世ではきっと、絶対、猫になってると思う。
 今から想像してるんだけど、わたしはキュートで愛嬌のある白猫になってると思うの。
 白猫になったわたしは、たくさんの人に可愛がられていつも誰かにお世話されてる。
 人間時代にはあなた以外からもらえなかった愛情をいろんな人から注がれて、きっと偉そうにふんぞり返っていると思う。
 そして、いろんなところを旅するの。
 波が寄せては返す浜辺を歩いたり、桜並み木の街中を歩いたり、今から想像するとすっごくわくわくする!
 そんなわけで、雪春、わたしは来世で猫としての生涯をまっとうするので、そんなに悲しみに暮れないでいてね。
 わたしは、人間としてのわたしの生涯をまっとうしました。
 雪春、猫になっていろんな人から愛情を受けるって書いたけど、恋人としての愛情は、今世でも来世でもあなた一人で充分だよ。
 あなたはこれから先も人間としての生涯をまっとうしてください。
 人間としての生涯を送る上で、あなたはわたしとは違う誰かと恋に落ちて、結ばれて、子どもを産んだりするのも、悪くないんじゃないかな?
 正直、今後あなたと結ばれる誰かのことを考えると、嫉妬もしちゃうけど、家族を築いているあなたのもとに猫として拾われるのも悪くないかな、って思います。
 あ、でもその前に。
 人としてのわたしにはいくつか心残りがあって、そのうちの一つを、猫になったばかりの頃に叶えにいくかもしれません。
 雪春、わたしたち、わたしが入院してたせいで、一度も一緒に寝たことがなかったね。
 猫になったら、あなたの布団に潜り込みに行けたらいいなあ、って思います。
 まあ、猫のわたしはやってみたいことがいろいろあり過ぎて、一晩だけの添い寝になると思うけど。
 全身であなたの温もりを感じてみたい。
 だからもし、あなたに近寄る猫がいたのなら、優しく頭を撫でて抱きしめて、家まで連れて帰ってね。
 じゃあ雪春、来世でも、そのまた次の来世でも。
 愛してる。
 
                 あかりより』

 あかりの遺書を読んだ僕は、無我夢中で外に駆け出した。
「あかり……あかりっ……!」
 アパートの階段を駆け下り、駐車場で辺りを見回す。
 猫はどこにもいない。
 道路にも、住宅の影にも、どこにも……!
 そのとき、突然風が吹いて、夜明けの世界に桜の花びらが散った。
 僕は空を見上げる。
 明けようとしている茜色の空はどこまでも果てしなく、自由が広がっていた。
 あかりはやっと夢を叶えたんだ。
 彼女は猫になった。
 あかりの優しさが、想いが、僕の全身を満たしていく。
 あかり、お礼を言いたいのは僕のほうだ。
 悲しいけど、寂しいけど、少しだけ嬉しい。
 僕と出逢ってくれて、ありがとう。