それは、僕が高校二年の年の正月のことだった。
 正月三が日を、家のコタツにもぐってぬくぬくと過ごしていると、乃蒼からスマホに着信があった。
 ビックリしてみかんを剥いていた手が止まる。お互いに、家の場所は知っていたし、連絡先を交換していたが、電話がかかってきたのは初めてだったから。何があったのかと少し身構えた。

『これから会える?』と開口一番彼女はそう言った。
「なんで?」

 乃蒼の声は少し弾んでいて、だから告白だろうか、などと僕はひそかにうぬぼれた。

『用件は会ってからでもいい?』
「別に……いいけど」

 呼び出されたのは繁華街にある喫茶店で、僕が店に着くと乃蒼はすでに席について待っていた。
 落ち着いた雰囲気の店内で、店内の雰囲気に合ったクラシック音楽が流れていた。

「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いや、どうせ暇だったし別にいいけど。で、用件って?」
「私ね、受賞したの」
「は?」

 耳に馴染みのない単語が出てきて、なんのことか一瞬わからなかった。「ごゆっくりどうぞ」と女性の店員が注文していたコーヒーを置いて去っていった。

「受賞ってまさか、去年応募したキャラクター文芸の賞の話? ……熱ッ!」

 コーヒーが思いの外熱くて、舌を火傷しそうになった。

「驚きすぎだよ」

 乃蒼がハンカチを差し出してくる。それで胸元にこぼれたコーヒーを拭いた。

「マジかー! 何賞?」
「青春部門の大賞」
「賞金は?」
「二十万円」
「スゲー!」

 嘘だろ、と思った。二十万もあったら小説が山ほど買えるなと思った。高校生の金銭感覚では、それ以上のことは想像できなかった。

「おめでとう。じゃあ、そのうち本が出るのか?」
「まだ公式に発表されていないから確定じゃないけれど、たぶんそうなるのかな?」

 それは、そこそこ大手の出版社が開催していたキャラクター文芸の小説賞で、僕と乃蒼とで一作品ずつ応募していた。僕はファンタジー部門に応募していて二次選考で落選していたが、乃蒼は最終選考まで残っていた。
 それにしてもまさか大賞だなんて。同級生が本を出すのかと思うと、自分のことでもないのに羽根でも生えたみたいに心がふわふわとして落ち着かなかった。

「それで、用事ってこれだけ?」

 とりあえず、告白云々の空気じゃないのはわかった。少しだけ落胆した。

「ほら、立夏のお父さんって現役の小説家でしょ? それで」
「ああ」

 その言葉でなんとなく察した。
 初めての書籍化作業なので、不安な点がたくさんある。そこで僕に、ベストセラー作家である野崎周吾から、書籍化作業で注意すべき点について、いろいろ聞き出してほしいとそういう話だった。

「でもさ。僕あんまり親父と話さないんだよね」
「え、そうなの? もったいないなあ。身近に生き字引がいるというのに」
「よく言われるよ。でもなあ……」
「そこをなんとか」
「しょうがねーな」

 編集さんとのやり取り。改稿から校正にかけて注意すべき点。情報の扱い方(守秘義務について)など、父から聞き出したことをまとめてメモにしたものを乃蒼に渡した。
「持つべきものは友だね」と彼女は喜んでくれた。まんざらでもない気分だった。
 乃蒼の受賞作品は、SF要素をじゃっかん含んだ恋愛小説だった。
 恋人を交通事故で亡くした男子高校生が主人公。彼女を失って傷心している彼の下に、死んだはずの恋人からある日手紙が届く。その手紙は彼女がまだ生きていた過去から届いていて、主人公は彼女が事故に遭わないよう、歴史を変えるべく手紙の中で彼女にアドバイスをしていく。そういう内容の作品だ。
 書籍のタイトルは『レター・ガール』
 受賞から八ヵ月後となる晩夏に書籍は出版され、初版は六千部。
 しかし、発売当初から売り上げは好調――とはとてもいかず、数字は諸説あるが三千冊程度の売り上げに留まったと言われている。
 当然重版もかからず、乃蒼と出版社との関係はそこで切れた。
 これらの事情もあって、彼女は『一発屋』という不名誉な称号を得るに至る。
 と、それでも話題になっていたらまだ報われていたが、実際はほとんど話題にすらならなかった。
 何が悪かったかはわからない。
 作品の内容が良かったことは、応募前に下読みをした僕自身が一番良くわかっている。 
 宣伝広告、口コミ、作家の知名度、それらを込みにした話題性。条件は多岐にわたるのだろうが、作品が良いだけではたぶんダメで、そこにはタイミングとか運とかどうにもならないものもたぶんからんでいて。ヒット作を出すことの難しさを、僕も、乃蒼も、身をもって体感することとなったのだ。
 乃蒼の実力はこんなものじゃない。自分を突き動かしている感情が憧れでも恋心でもなんでもいい。哘乃蒼というこの女流作家を、もう一度スターダムへと押し上げたかった。

「悔しくないの?」と部室で訊いたことがある。失礼だろうか、とは思いながらも。
「何が?」と彼女はあっけらかんと答えたのだった。
「せっかく出版した本が、売れなかったこと」

 某匿名掲示板には、受賞作なのに売れなかったタイトルとの書き込みがされていた。うまいけれども中途半端とも。何も知らないくせに。お前らに乃蒼の何がわかると僕は憤っていた。

「本が売れる売れないなんて、私の問題じゃないもの」

 悔しくないのか。それは僕には理解できない感情だった。

「でもさ、小説家としてステップアップするチャンスだったわけでしょ? それをみすみす逃したわけだし。それに……」

 それに……なんだろう? 彼女のことを思って口にしたはずの言葉なのに、後から考えるとそれはまるで自分本位な言い分だった。
 乃蒼のことが心配だから出版した本が売れないと悔しい。乃蒼の実力を知っているからもっと大きな舞台で輝いてくれたら嬉しい。それはまるで、自分を主人公にした自己満足な綺麗事みたいだった。

「……立夏は優しいね」

 乃蒼は少し寂しそうに僕を見て言った。

「優しいっていうか……なんていうか……」
「心配かけてごめんね? でも大丈夫だよ」
「乃蒼はさ。どうして小説家になろうと思ったの?」

 創作に向かうエネルギーの出どころが、どこか僕と違う気がしたのだ。もしかしたらそれが、僕と乃蒼との差なんじゃないのかと。

「話してもいいけど、ちょっと重いかもよ。それでも良かったら」
「うん。是非聞かせて」

 そういうことなら、と居ずまいを正して、乃蒼は話す体勢になった。記憶の糸を手繰るみたいに天井を見上げた。

「私ね、小学校低学年のとき、急性骨髄性白血病(きゅうせいこつずいせいはっけつびょう)を患っていたの」

 いたずらした過去を告白するみたいに、微笑を湛えて彼女は言った。あまりにもあっけらかんとした声で言うものだから、僕は表情を作るのを忘れる。

「最初はちょっと喉がいがらっぽいなって感じだったんだけど……そのうち熱が出て、咳も止まらなくなって……それで病院に行ったら即入院」
「入院って……そんなひどかったの?」
「うん。そのときは、もういつ死んでもおかしくないくらいにね」と彼女は笑った。

 まるで他人事みたいに彼女は自分のことを話した。僕はそれがいたたまれなくて、膝の上に置いた拳を強く握った。
 白血病を発症して入院したのは、小学校二年生の春だった。そこから化学療法による治療が始まって、まるっと一年間学校に行けなかったらしい。最初のうちは、母親が泊まりに来てくれたり、友だちが見舞いに来てくれたりしていたが、入院期間が長引くにつれて病室に足を運んでくれる人はいなくなった。
 しょうがないことだ。小学生がそこまで気遣いできるはずがない。母親にしてもそうで、家のことをしなくてはならないのだから。

「それがわかっていても、やはり寂しかったの」

 それまでの穏やかな声から一転。寂寥感の滲んだ声音になった。むしろこちらが彼女の本心だろう。
 ようやく学校に慣れ始めた時期に一年間も入院生活を強いられたのだ。その気持ちは察してあまりある。

「そんなとき、お母さんが小説を買ってきてくれたの。いわゆる、児童文学って奴かな。それまで……というか小学生なんだから当然かもしれないけれど、まったく本を読んだことがない私にとってそれは衝撃だった。登場人物たちに感情移入して、笑ったり、感動したり、時には憤ったりしていたの。そうしているうちに、寂しさとか治療の辛さを全部忘れることができた」

 髪の毛、全然なかったんだよ? と抗がん剤治療の副作用の話を笑ってしてみせた。

「そうして、ようやく白血病が治って退院してからかな。私が小説を書き始めたのは。私が書く物語で、誰かの人生を変えたいと思ったの」

 そこまでを聞き終えて、僕は小さく息を吸って吐いた。
 道理で、乃蒼が書く物語には力があるわけだ。
 キャリアが長いとか、創作に向き合う姿勢が違うとか、要因はいろいろあるんだろうけれど、親の七光りを信じて、あるいは、嫌いな父のことを見返してやろうと、醜い感情に突き動かされて小説を書き始めた僕とは、根本から違うんだ。
 強迫観念にとらわれるように創作を続ける僕と、ただ純粋に楽しんでいる彼女と。
 道理で羨ましいわけだ。
 道理で適わないわけだ。
 この日僕は思った。世界を変えていく物語を紡ぐのは、やはり僕じゃない。森の中に芽吹いた、小さな木の芽に光を当てるのが僕の役割なのだと。
 気がつけば、こう口走っていた。
 僕が君の作品をプロデュースすると。
 僕がプロデュースをした乃蒼の小説がブレイクすれば、天国にいる父を見返せる。そういった、浅ましい考えがなかったとは言い切れない。それでも、彼女のために自分のために、それが一番良いと思ったんだ。