「桜なんてさ、どこが良いんだろうね」
 綺麗じゃないですか。そんな単純な言葉をあたしがすぐに返せなかったのは、夜桜を見上げる俊希(としき)くんの横顔に見惚れてしまったからだ。
 バイト先の居酒屋から最寄りの駅に向かう緑道。  
 三月の終わり、色が変わり始めた二十二時過ぎ。外灯が照らす桜の木々を通る間だけ、街の喧騒が少し収まる。
 途端に、俊希くんと二人きりだという事実が浮き彫りになってあたしの鼓動がうるさく脈打つ。
 俊希くんは、この春から高校ニ年生のあたしより四つ年上で、大学三年生になる。俊希くんとは、バイトが終わる時間が同じ日は最寄りの駅まで一緒に帰るようになっていた。
 俊希くんは着替えるのが遅いから、先に帰ってしまわないようにその時だけはあたしもゆっくりと着替えることにしている。
 今日もまた、カーテンを隔てて向こう側にいる俊希くんの音に聞き耳を立てながらタイミングを合わせてカーテンを開けた。
 俊希くんと目が合い、お疲れさま、お疲れ様です、を互いに言い合いながら一緒に店を出たのだ。

「桜嫌いなんですか?」
「嫌いってわけじゃないんだけどさ……」

 あたしも俊希くんに倣い桜を見上げながら、続きを待った。

「すぐに散るから儚くて素敵。みたいな風潮があんまり好きじゃないんだよね」
「ありますね。そういう風潮」
「一瞬の輝きが美しいみたいなさ。それより一年中咲いてる名前もわかんない木の方が素敵だと俺は思うんだよ」

 そう言いながら桜を見上げる俊希くんの顔が、愛おしい人を観る表情に見えたのはどうしてだろうかとあたしは思う。
 けれど、それをどう聞いていいのかわからずに、ただ黙って一緒に見上げていた。
 どんな気持ちでいようと、何を想おうと、二人で桜を見上げている今この瞬間が、嬉しくてしかたがなかった。

「そうですね」

 見上げた桜を綺麗だと思いながらも、俊希くんの言うこともわかるような気がしていた。そんな気になっていただけなのかもしれないけれど。
 止めた足を再び動かした俊希くんに、何も言わずついていく。
 等間隔に置かれた外灯。その内の一つが消えていて、その下を通る度、あの夜のことを思い出す。

 十二月の中頃。特別に寒い夜。あの日も外灯が消えていた。マフラーで覆った口元だけが自分の息で暖かかった。
 今思えば、俊希くんの様子がいつもと違っていて、でもその時は気付かなかった。前後の会話はあやふやだった。
 記憶に残っているのは、おもむろに立ち止まり振り返った俊希くんの顔が少し寂し気だったこと。頬に手を当てられたこと。その手がやけに冷たかったこと。 
 何も言わず、マフラーをずらして、俊希くんがゆっくりとキスをしてきた。触れるだけの優しいキス。すぐには理解できないほどの柔らかな行為に、どんな反応を示したのか、あたしは自分でも覚えていない。
 俊希くんは何も言わず、そのまま駅へと歩きだした。理由は聞けなかった。顔が火照っていて、おそらく赤く染まったであろう頬を、マフラーで急いで隠した。その後はぽつりぽつりと何気ない話をして別れた。
 次の日には、何もなかったようにいつもの俊希くんに戻っていて、やりようのない気持ちだけがぷかぷかと浮いていた。


絢音(あやね)ちゃん」

 不意に名前を呼ばれて、心だけがあの日の夜に戻っていたことに気がついた。いつの間にか、緑道を抜ける最後の外灯の下まで来ていた。

「今度の土曜日って何か予定ある?」
「ないです」
「良かった。大学のサークルのメンバーで花見するんだけど絢音ちゃんも来ないかな?」
「えっ、あたし、いいんですか?」
「もちろん。みんな絢音ちゃんに会いたがってるんだよ」

 俊希くんが所属しているのは演劇サークルで、あたしは何度か俊希くん達の演劇を観に行ったことがあった。
 終わった後、俊希くんに連れられて楽屋まで入れてもらっていたので、演劇サークルの人達とは知らない仲ではなかった。とはいえ、簡単な感想とお礼を述べて、雑談もそこそこにいつも帰ってしまうから、深い仲という程でもない。

「嫌だったら無理しなくていいからね」

 断る理由も特に見当たらず、あたしは俊希くんの誘いを受けることにした。
 
 先日の大雨の影響で桜は満開を待たず、すでに散っている木もあった。
 それでも土曜の昼間ということもあってか、花見スポットとして地元で愛されている雛野川公園にはそこかしこでシートやテントを用意して思い思いに楽しんでいる姿が見受けられた。
 集まったのは十人程度だったが、その中に初めて見る人はいなかった。
 演劇サークルのメンバーは、花見というよりもこの集まり、もしくはお酒目当てがほとんどらしく、桜の見栄えを重要視したとはおよそ思えない場所に陣取り、各々持ってきたシートを広げたり、小さな椅子を置いたり、ファーストフード店で買ってきたポテトやチキンやお菓子を並べていた。
 あたしが何かを手伝おうとすると、絢音ちゃんは座ってて、とお客様扱いされてしまって、その気遣いがほんの少しだけもどかしかった。
 クーラーボックスから、お酒の缶を取り出して、乾杯の準備をする。あたしにだけジュースが手渡され、自分の分も準備してくれていたのが嬉しかった。
 アルコールが入ると、あたしを気遣ってくれていたメンバーも徐々に打ち解け、あたしはあたしで、アルコールこそ入っていないが、この楽し気な雰囲気に酔っていた。
 時折り拭く強い風に、花びらがひらひらと舞っていて、その時ばかりは皆が首を上げながらその様子に見入っていた。

「おつかれさまー」

 落ちていく無数の花びらのように、一瞬で人を惹きつける特別感を纏った女性がこちらに向かって手を挙げた。

凛花(りんか)さん来てくれたんですね」

 俊希くんが自分の隣の場所を空けながら招き入れる。

「ちょっと寄っただけ。すぐ帰るよ」

 隣に腰掛ける凛花さんと呼ばれた女性の長いアッシュの髪があたしの鼻先を掠めた。シャンプーの匂いがふわりとして、無意識にもう一度その空気を吸い込んでしまう。

「この子が絢音ちゃん?」

 初めまして、と挨拶をしようと居住まいを正すより先に、俊希くんが説明を始めた。あたしは口を挟む隙を見つけられずただ黙って凛花さんと俊希くんを交互に見ていた。

「かわいいー」

 そう言って、凛花さんはこちらの頭をくしゃくしゃと撫でる。

「ちょっと、凛花さん。いきなりダメですって」
 
 俊希くんが慌てて止めに入る。

「ごめんごめん。つい」
「凛花さん、その可愛い子見ると頭くしゃくしゃする癖やめた方がいいっすよ」

 あたしは、何故か悪い気はしていなかったが、それよりも俊希くんに可愛いと言ってもらえたことが嬉しくて、つい俯いてしまう。

「ほらー嫌がってるじゃないですか」

「あーごめんね」

 凛花さんに悪気はなさそうで、本当に申し訳なさそうに謝ってくる。

「あの、全然、嫌じゃないです。大丈夫です」

「ぎゃー、かわいい。もっとよしよししたげるね」

 そう言って再びくしゃくしゃにされる髪の毛。見た目とは裏腹に人懐っこい性格の凛花さんに戸惑いつつも、可愛がってもらえたことが心地よかった。
 それからは凛花さんが中心となって、花見はさらに熱を帯びていった。

「おい俊希、酒が足らんぞ」

 凛花さんの声に、俊希くんがクーラーボックスから取り出したストロング缶を手渡す。

「すぐ帰るんじゃなかったんですか?」

 俊希くんはそう言いながらも嬉しそうだった。

「こんな可愛い子が居て、すぐ帰るとか失礼だろ」

 凛花さんがあたしの肩に手を廻す。

「ほんとにこいつはダメなやつだよ。ね? 絢音ちゃん」
「うるさいですよ。絡むのやめてあげてください」

 バイト先では、俊希くんはいつも皆の中心で頼られている姿しか見ていないからか、後輩としての俊希くんの立ち振る舞いがあたしには新鮮だった。

「あのすみません、あたしお手洗いに……」
 あたしが言うと、一人じゃ危ないから、と凛花さんもついてきてくれた。

 公園の端にあるトイレまで、二人で少し歩いた。
「絢音ちゃん、大丈夫? 楽しくなかったら無理しないでいつでも帰っていいからね」

 凛花さんが真面目な顔でこちらを覗く。先ほどまでのお調子者然としていた表情はそこにはなく、皆のペースに合わせていただけだったようだ。

「そんなことないです。とっても楽しいです」
「そう? なら良かった。私も絢音ちゃんが居てくれてとっても楽しいよ」

 無理矢理に可愛がってくれていたのは、自分が打ち解けられるように、という凛花さんなりの気遣いだったのだと気付く。会ったばかりだというのに、あたしはすでに凛花さんの優しさに惹かれていた。

 用を済ませてトイレを出ると、「ちょっと歩かない?」と来た方とは別の方に凛花さんが歩き出した。

「絢音ちゃんは桜好き?」

 質問に思わず桜の方を見上げると陽が傾き始めていて、オレンジ色の夕陽がピンクの花と重なり合っていた。

「好きです」
「そう。桜って可哀想だと思わない?」
「どうしてですか?」
「桜の木ってね、この時期しか咲かないでしょ?」
「そうですね」
「咲いた花にはみんな綺麗だとかなんとか言って持てはやすくせに、散ってしまったら見向きもしない」

 凛花さんが話しながら立ち止まった。その場で屈んで、落ちた桜の花びらを愛でるように撫でた。

「桜の木は一年中立っているのに、花の咲かない季節になると、まるで存在していないみたいに扱われるの」

 立ち上がってあたしの方を向き直り、再び歩き出す。

「寂しいでしょ? 私は一瞬しか愛されないなんて絶対に嫌。一瞬の輝きなんていらない。ちやほやなんてされたくない。私はずっと愛されたいの。桜なんかより一年中咲いてるような木になりたい」

 凛花さんの顔をただ見ていた。あたしには凛花さんの真意がわからなかった。どうして自分にそんな話をしたのか、凛花さんに何があったのか、何も知らない。
 それでもあたしの心が痛んだのは、気付いてしまったからだ。

── それより一年中咲いてる名前もわかんない木の方が素敵だと俺は思うんだよ。

 俊希くんが言っていた名前も知らない木はきっとこの人のことだ。あたしの中で何かがつながる。

「変なこと聞いてもいいですか?」
「どうしたの?」
「俊希くんとお付き合いされていますか?」

 凛花さんが突然、笑い出した。手を胸の前で大きく振る。

「ないない。俊希はただの可愛い後輩だよ」
「本当ですか?」
「去年の終わり頃にね、俊希に告白されたんだよ。でも私は断った。私にはずっと好きな人がいるからね。だから、これからもただの先輩と後輩だよ」

 去年の終わり。十二月。
 切れた外灯の下、無言のキス。
 あたしの中で全てが繋がってしまった。

「あの、すみません。あたし帰ります。ごめんなさい」

 それだけを言い残しその場を走り去った。

 一人、桜の木を見上げる。誰に見られるわけでもなく、あふれ出る涙を拭う必要もなかった。
 俊希くんにとって自分はあの夜、届かなかった凛花さんの代わりに立てられた代役だったのだ。
 あたしが俊希くんに憧れたのと同じように、俊希くんもまた凛花さんに憧れていたというだけの話。

 ひらひらと落ちる花びらは綺麗で、落ちた先のコンクリートに貼り付いた花びらはもう汚れていた。
 涙を拭って、もう一度桜を見上げる。外灯が照らしたピンクの花びら。
 偽りでも、誰かの代わりでも、あの夜、一瞬だけ愛された自分はまるで桜みたいだ。一年中咲く花にはなれなかった。
 本当に綺麗だ。あたしは心からそう思った。桜は綺麗で美しくて哀しい。
 そんな桜が好きで嫌いだ。