茹だるような夏の夜。キンキンに冷えた近所のコンビニまで、ビールやチューハイやアイスクリームを買いに行く。プリントもボロボロになった古いTシャツに、去年セールで買った短パン、先日友達と海に行ったときに履いたビーチサンダル。
星空よりも明るく眩しい夜の街。ふと寂れたビルのガラス窓に自分が映る。
美容院に行ったの、いつだっけ?
映った自分の姿を見て、思わず髪に手を伸ばす。去年の夏は肩に付かないくらい、短かった。仕事で疲れ切った顔。化粧も汗で崩れてしまっている。
私、ボロボロだ。
きょうが私の誕生日だということも知らない会社の同僚や上司たちと、ただ今を生きるためだけに働いている。今の私は空っぽ。なんにも、ない。
「いらっしゃいませー」
外は暑いが、コンビニの中は風邪をひきそうなくらい寒く、ささっと決めていたものを手の中に寄せ集めた。スーツ姿の年配男性が、ビールや身体に悪そうな揚げ物弁当、菓子パンをカゴいっぱいに入れて会計している。私と同じように顔はくたびれて見えた。
私の将来はこんな感じかもしれない。ひとりぼっちで、ただ仕事をするだけの毎日。日課は仕事終わりのコンビニ。
私は勝手に年配男性に仲間意識を抱く。
「ありがとうございましたー」
コンビニを出るとき、浮かれた男女4人組とすれ違った。きっと、学生だろう。一昨年まで自分も学生だったはずなのに、うんと遠くの出来事みたいな気分だ。すれ違ったあとに学生たちの方を振り返る。
4人のうちのひとりに視線が行く。黒髪短髪、眼鏡をかけた色白の男の子。
幸希、元気にしてるかな。もう新しい人と、仲良く幸せにやってるのかな。
つい目で男の子を追いかけるも、そんなことはやめろと自分に言い聞かせる。彼は幸希じゃない。一馨、と声をかけてくるはずがない。
幸希は大学で知り合ったひとつ上の先輩で、幸希が卒業してひと足先に社会人になっても変わらずずっと付き合っていた。私が社会人2年目になった、つい1か月前までは。振られたわけじゃない。振ったのは私の方だ。
◇
「浮気、してるんでしょ」
夕飯後の食器を洗いながら、私はずっと胸の中にあった言葉を絞り出した。
ここ数日、幸希の様子はおかしかった。今まではスマホを勝手に見ても怒らなかったし、あんまり触らないから部屋の中で失くすことだってあった。それなのに、最近はトイレに入るときもお風呂に入るときも、眠るときも片時もスマホを離そうとしない。覗こうとすると、顔を真っ赤にして怒るくらいだ。
もう5年の付き合いになる。そんな変化に気づかないほど、私はバカじゃない。
「浮気? なんでそうなるんだよ」
アホくさ、と幸希は笑う。
「ずっとスマホばっかり見て、この間スマホ触ろうとしたら怒ったじゃん」
「そりゃ、俺にだってプライバシーくらいあるだろ」
「今まで私が勝手にスマホ見ても怒らなかった」
そう言っても、幸希はただ笑うだけだった。笑ってテレビを観て、また笑っている。
幸希も私も地方出身で一人暮らしをしながら大学に通っていた。学生の頃は親から少し仕送りしてもらい、バイトしながら生活をしていたが、貯金がしたいのでもう少し安いアパートに引っ越そうか、それとも同棲したら楽なんじゃないか、なんて考えていた。
その考えが甘かった。いや、同棲を始めて浮気が発覚するよりはマシか。
私たちの関係にドキドキなんてないし、誕生日も記念日もサプライズはない。週末は決まって幸希が私の家に泊まる。出かけたりはしない。ただ、家でのんびりゴロゴロするだけ。ご飯はだいたい私が作る。出かけても近所のスーパー。
食器を洗う手を止める。洗いかけの皿の上で、ゆっくりと泡が消えていくのを眺めた。
「じゃあ、浮気してないって証明してよ」
濡れた手をタオルで拭き、私はテレビを遮るように幸希の前に立った。幸希は目の前にどーんと立つ私の方を一切見ないで、大きく身体を逸らしてまだテレビを観ている。
「証明? どうやって?」
「そんなの、自分で考えなよ」
「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ、面倒くさい」
決定打だった。浮気していないことを証明できないのだ。私の中でなにかがぷつんと弾けた。
「別れよ」
「……なに?」
ようやく、幸希が私を見る。
「本気で言ってるのか?」
「うん」
幸希が私になにを語るのか、正直想像できなかった。浮気なんて絶対してないと言い張る? それとも、ごめんと白状する? 別れるなんて冗談だよなと慌てる? でも、幸希の言葉は私の想像の遥か上をいった。
「わかった」
「……へ?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。
「わかったよ」
幸希はあっさり別れを受け入れたのだ。私は唖然とした。幸希はそれから黙ってテレビを観て、観ていた番組が終わると「それじゃ」と出て行った。
あまりにもあっけない別れ。5年だぞ。5年も付き合って、最後はこれ? それじゃ、でおしまい?
私はしばらく、幸希が閉めたドアを見ていた。本当にこれで終わりなのか、私にもわからなかった。でも、1時間経っても、一晩経っても、1日経っても、幸希がそのドアを開けることはなかった。幸希が去った2日後、大学の頃の友達と長電話して、愚痴をぶちまけた後、私のスマホの中から幸希を抹殺した。向こうもさっさと私を消したんだ。私も消してやる、と怒りながらSNSも連絡先もみんな消してブロックした。
◇
今思えば、幸希にとって都合の良い別れだった。浮気したかしてなかったかはわからないが、別れを考えていた矢先、女からただ別れようと言われるなんて好都合だ。理由やこれまでの感謝を述べる必要もなく、簡単に別れられる。
都合が良すぎる女だったかな、と思いつつ空を見上げた。
バカだなぁ、私。
ビールもチューハイもアイスクリームも、去年幸希と私の誕生日が終わる直前にコンビニへ買いに走った。急にアイスクリームが食べたくなって、ついでにお酒も買って、飲みながら歩いて帰った。私も幸希もチョコだのいちごだの、期間限定だの、そういうアイスクリームではなく、バニラ味が好きだった。家に帰るとドロドロに溶けていて、でも、それでもやっぱりバニラアイスは美味しかった。
夏なんて、なにをしてもどこへ行っても暑くて鬱陶しいだけ。汗はかくし、化粧は崩れるし、気持ち悪い。
そう思っていても、私は夏を嫌いになれない。
家に帰る頃にはぬるくなる缶チューハイも、肌に張り付くシャツも、柔らかくなったアイスクリームも、全部私にとって恋の傷なのに、好き。まだ、好きだ。
あっ。
突然サンダルが脱げて、私は地面に鼻をこすりそうになる。思わずついた手のひらがじんじんと痛んだ。
立て。
頭の中で自分の声がする。でも、その声とは裏腹に私の身体は鉛のように重く沈む。誰かが見ているかもしれない。哀れな女が道端で転んで、笑われているかもしれない。恥ずかしい、という気持ちはもちろんあった。それでも私の身体は言うことを聞いてくれなかった。
「大丈夫ですか?」
頭上から声が降ってきた。私は身体の傷み、心の痛み、全ての傷みをぐっとボロボロの身体に押し込めて顔をあげた。
三十代後半、いや、四十代くらいだろうか。紺色のエプロンを付けた男性が、私に手を差し伸べてくれている。目尻に柔らかい皺があった。
「だ、大丈夫です」
私はすぐにひとりで立ち上がった。立ち上がって少し擦りむいた膝をさする。
「ああ、靴、壊れちゃってますね」
男性が拾い上げたサンダルは鼻緒のところが切れていた。安いビーチサンダルだった。それを履いてきた私がいけない。ちゃんとした靴なら、こんなことにはならなかった。
さあ、どうする。裸足で帰るか。
「もしよければ、うちのサンダル使ってください」
「……え?」
「そこ、僕の店なんです」
一夜、とだけ書かれた店名の横に、グラスの形をしたライトがついていた。居酒屋かなにかだろうか。しかし、店内に人は誰もいない。今は二十時。居酒屋だったら一番賑わう時間ではないだろうか。
「ちょうど店を閉めようかと思っていたところで」
人がいない店内を私がじっと見つめたせいか、男性は髪を掻きながら眉を八の字に歪め笑う。
「でも……」
「どうぞ、お客さんもいないことですし」
カウンターが4席だけの本当に小さな店だ。ドア以外は全部ガラス張りで、店内の様子は外からもよく見える。店主の男性は木造のドアを開けて、私の方を見た。
「もしよければソーダ、飲みませんか?」
また笑った。
初めて出会ったこの人を、私がよく知るはずもない。だけど、彼が笑うとなんとなく人柄がわかる気がした。優しい目元の皺のせいだろうか。
私はそのまま、彼に導かれるまま〈一夜〉へ足を踏み入れた。
「好きなところへどうぞ」
彼の言葉通り、私は一番奥の席に腰掛ける。
「はい、これ。綺麗とはとても言えないけど」
「すみません、ありがとうございます」
お礼を言って、黒色のゴムサンダルを受け取った。男性サイズで大きいが、裸足で帰るよりはずっといい。
「ああ……アイスが……」
手提げ袋に手を入れカップの外を触ると、かなり柔らかくなっていた。
「それ、使ってもいいですか?」
「……え? なににですか?」
「ソーダの上に乗せたら美味しいと思うんです。クリームソーダ的な」
クリームソーダ。そんなもの、ここしばらく食べていない。どうせ家に帰って食べるつもりだった。ここで食べたって同じか。
「じゃあ、使ってください。あと、ちゃんとお金払うんで」
「いえ、いいんですよ、気にしないでください。僕が勝手にやったことなので」
店主はそう言ってグラスに氷を入れた。カラカラン、と涼しげな音だった。それからプシュっと勢いの良い音がした。
「はい、どうぞ」
透明なグラスの中に、透明なソーダ水がたっぷりではなく、やや控えめに注がれていた。しゅわしゅわ、ぱちぱちと小さな音を立てている。大きめの氷は、アイスが下へ沈んでしまわないためだろう。
「アイスはこのくらいが食べごろですね」
店主は小さなグラスを私に差し出した。中を覗くと、満点の星空が見えた気がした。私は引き込まれるようにぐっと身を乗り出して改めて覗き込んだ。
「……これ、なんですか?」
「うちの特製シロップです。それをグラスにゆっくり注いでみてください」
言われるがまま、私は透明なソーダ水が入ったグラスにシロップを注ぎ入れる。ゆっくりと静かにグラスの中は夜に染まっていった。不思議だ。本当にグラスの中に夜が入っているように見える。小さく、でも鋭く光る星々。カウンターの上にある灯りのせいだろうか。それにしても、本当に不思議だ。
「もしよければ、お名前、教えてもらってもいいですか?」
「名前、ですか? 私の?」
店主は私の言葉に笑う。当たり前だ。私の名前以外になにがあるというのか。
「……一馨です」
「一馨さん。僕は雅司と言います」
店主――雅司さんはそう言って、間髪入れずにまた質問を投げかけてきた。
「一馨さんは、今夜一晩だけでも一緒にいたい人はいますか?」
「……え?」
なに、もしかして口説かれてる?
私は雅司さんをちらりと見た。すると、雅司さんは慌てて首を横に振る。
「いや、違うんです、変な意味はないんですよ」
顔を真っ赤にして、一生懸命に言った。
「僕、このソーダ水を出す方には必ずその質問をするんです」
「そう……なんですか」
「このソーダ水、一夜を注ぐってメニュー名なんです。シロップ入れたら、夜空みたいでしょ?」
私は大きく頷いて見せた。本当に夜空をグラスに閉じ込めたみたいだ。
「逢いたい方は誰でもいいんです。お友達でも、親兄弟姉妹でも、好きな人でも、奥さんや旦那さんでも、ペットでも。その方が今夜一晩だけでもいい、逢いたいなと想う人とめぐり逢えたらいいなという思いを込めているんです」
今夜一晩だけでもいい、逢いたい人……か。
私は心の中で雅司さんの言葉を繰り返した。誰でもいいはずなのに、私の中に浮かんだ人は幸希ただひとりだけだった。
自分で自分の気持ちに薄ら笑う。
「誰か、いらっしゃるんですね」
「実は私、きょう誕生日なんです」
「誕生日なんですか、きょう?」
言うつもりはなかった。誕生日なんです、なんて言ったら祝って欲しい人みたいに聞こえてしまうはずだ。私は恥ずかしくなって顔を手で覆った。
「ちょっと待ってください、いいものがあります」
いいもの? と顔を覗かせると、ニコニコ嬉しそうに一本の細長い花火を持ってきた。そしてそれをアイスクリームに刺す。
「夏の夜の誕生日に、ぴったりですよ」
雅司さんは店内の電気をすべて消して、ライターをつけた。私は小さな子どものように、花火に火がつく瞬間をワクワクしながら眺めていた。花火が音を立てて、小さな花を咲かせる。
「ありがとう……ございます」
見知らぬ人にここまで祝ってもらえる誕生日が来るなんて、去年の私にはこれっぽっちも想像もできなかっただろう。
「さぁ、願い事をしてください」
「願い事?」
私は笑って訊き返す。
「願い事なんて……」
叶うはずない。
そう言おうとしたが、雅司さんの楽しそうな表情を見て喉の奥へ押しやった。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫って……なんのことですか?」
私は首を傾げた。
「きっと、うまくいきますよ」
きょうが誕生日だということ以外、私は雅司さんになにも伝えていない。でも雅司さんにはきっとわかるのだろう。はっきりとなにがあったとはわからなくても、こんなボロボロな私を見ればわかるのだ。
花火がぼんやりと霞かかって見えた。視線を下へ向けると、重たいしずくが落ちる。一粒落ちたらまた一粒。どんどん止まらなくなって、手のひらで涙を拭う。
情けない。こんなところで、見ず知らずの人を目の前にして泣くなんて。
わかっているのに、涙は止まらなかった。
自分で自分の気持ちに気づかないようにしていた。この一か月、どうしようもなく悔しかった。憎らしかった。寂しかった。幸希のことが。別れても私の退屈な毎日は続いていく。忘れるように仕事をして、忘れるように毎日食事をして、テレビを観て、淡々と過ごす。だけど無理だ。忘れられるはずがない。だって、まだ好きなんだから。
「アイス、溶けちゃいますよ」
雅司さんはそう言って温かいおしぼりを出してくれた。
私はずずっと鼻をすすり「すみません」とおしぼりを受け取る。涙を拭いて、ぐちゃぐちゃに崩れた顔のまま、情けない私は火を消した。
どうかこの悲しみが、一晩でも早く過ぎ去りますように、と願って。
スラリと長いパフェスプーンでアイスクリームをすくって、口に入れる。冷たい。甘い。美味しい。今度はストローからソーダ水を飲んだ。すっきりとした甘さで、レモンの風味がする。ソーダ水は口の中で爽やかに弾けて、アイスクリームの甘さと絶妙に絡み合う。身体中に染み渡った。
「あっ! こんなところに、いた!」
店の扉が勢いよく開いたかと思うと、そこには1か月振りに見る懐かしい顔が。
「……幸希? え……なんで……?」
私はスプーンを持ったまま固まった。
幸希は額から汗を垂らし、息を切らしている。
「なんでブロック、するんだよ、電話も通じ、ないし……っ!」
生き絶え絶えに、光希は怒っていた。
「なんでって……私たち、別れたじゃん」
「あんな別れ方、あるわけないだろ! 一馨はあれでいいのか?」
それは私のセリフだ、と思いつつ、私はアイスクリームをすくって口の中に放り込む。
「なにのんきにアイス食べてんだよ……」
「だって、せっかくこんなに素敵なの作ってもらったんだから。それに、きょう唯一誕生日を祝ってくれた人だし」
私が雅司さんの方をちらっと見ると、さっと目を反らされた。そして、キッチンの奥にある扉を開けて「荷物を運ばなくちゃいけないので、ちょっと失礼しますね」と気まずそうに逃げていった。
幸希は私の隣に座ると「いい加減にしろよ」とまた怒る。
「仕事が終わってからずっと探し回って、あちこち連絡して。もしかして近所のコンビニにでも行ったのかと思ったら、こんなところで……」
平日の夜。友達もみんなそれぞれの人生を生きるのに精一杯だ。誕生日当日に、直接会って祝ってくれるような人なんていない。家族が遠い田舎からのんきに「お誕生日おめでとう」とメッセージをくれるくらいだ。
「まだ俺が浮気してるって思ってるのか?」
「もうどうでもいいよ、別れてるんだから」
なにを今更。
私はムカついてアイスを口いっぱいに放り込んだ。キーンと頭が痛くなって、思わず顔を顰める。
それを見ていた幸希が大きすぎるため息をつく。
「さっきからなんなの? 私の誕生日までぶち壊すためにわざわざ会いに来たわけ?」
こんな惨めな姿で再会したくはなかった。今の私はダサい恰好で、膝を擦りむいて、瞼を腫らしている。カッコいい女になりたかった。あんたはこんなにいい女と別れたんだぞ、と思われたかった。
「もう、お願いだからひとりにしてよ……」
また泣いてしまう前に、早く帰ってほしい。なにも言われたくないし、声も聞きたくない。
「一馨、」
私は呼ばれても幸希の方は見られなかった。手元だけ、一夜を注ぐソーダ水だけを見て、俯いた。
振り向かない私に、幸希はまた小さなため息をついて立ち上がる。これで、もう二度と逢うことはないだろう。もしどこかで偶然出会ったとしても、お互い見て見ぬ振りをするだろう。私はこれから先、付き合った時間を必死に消し去ろうとするだろう。いつか、ああこんな別れもあったわね、なんて思い出せるだろうか。
「……これ」
振り向かない私に、幸希は視界に入るよう小さな箱をソーダ水の横に置く。
「なに、これ」
意味がわからず私は箱に触れられなかった。
幸希は触れようとしない私に、やれやれという感じで箱をまた手にし蓋を開けて中を私の方へ見せた。
指輪だった。金色の細いリングの真ん中に一粒の石が付いている。キラリと光る石は、普段あまりアクセサリーをつけない私にとっては眩し過ぎて、流れ星が落ちて来たのかと思うほどだった。
ただの指輪じゃないことは、一目見てわかった。
「なに……これ……?」
私はもう一度幸希に訊ねた。
「なにって、見たらわかるだろ」
怒っているようにも、照れ隠ししているようにも見える。箱を持っていない片方の手で髪を掻いていた。
「ちょ、ちょっと、意味がわからないんだけど……」
私はもう一度小さな箱の中を覗いた。間違いない。見間違いではない。ちゃんと指輪がそこにある。
「え……だって、浮気してたんじゃないの?」
「だから! 浮気なんてしてないって言っただろ」
大声で、はっきりと言い返される。
「そんなはっきり言わなかったじゃん! なにか隠してるみたいだったし!」
「だから、隠してたのはこれだよ!」
「……へ?」
あのときと同じような、間抜けな声が出た。
「同棲……しようと思ってたんだ。でもそれを両親に言ったら、結婚しなさいって言われて、」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。親に言われたから結婚するわけ?」
私は慌てて声を荒げた。
「話は最後まで聞けよ」
私は開いた口を一度閉じて、わかったと頷いた。
「生まれも育ちも田舎で、同棲なんてはなから頭にない人たちだから、そう言われるだろうと思ってた。でも、今までだって十分同棲みたいなものだったから、同棲してなにを確かめるんだろうって思った」
確かに、大学生の頃からお互いの家に何日も泊まったりした。おそらく私の両親も、結婚前の同棲にすんなり同意はしてくれないだろう。
「それで思った。俺は同棲じゃなくて、結婚がしたいんだって」
「……やっぱりちょっと待った」
私は幸希の顔の前に手を出して、言葉を止めさせた。とたんに幸希の顔が曇る。
「俺、今めちゃいい話してるんだけど」
「うん、それはわかってる」
私は大きく頷いた。
「じゃあなに?」
「……もしかして私、今プロポーズされてる?」
幸希はびっくりするほど間抜けな顔をして、口をぽかんと開けたまま固まった。
「逆に、この状況をなんだと思ってるの?」
「……ドッキリ、とか?」
「ふざけるなよ、真面目に大事な話をしてるのに」
カラン、とソーダ水の中の氷が音を立てる。グラスの中に残ったソーダ水は、アイスクリームと溶け合って夜明けの空のように明るくなっていた。
「……じゃあ、なんでスマホ見せてくれなかったの?」
「またそれか」
仕方ないな、と幸希はスマホをポケットから取り出して私の前に差し出す。
「好きなだけ見てみろよ」
私はちらり、と画面を覗いた。だが驚いて幸希の手からスマホを奪い、じっくりと見る。画面の中にはエンゲージリングの写真がアルバムのフォルダ内に溢れかえっていた。
サプライズが苦手な幸希らしいといえばそうなのかもしれない。サプライズは苦手で、嘘もつけないほど真面目で、ちょっと不愛想なところがある。そういえば出会ったとき、私は幸希に嫌われているのかと思ったくらいだ。あとから聞いたら、気になっている素振りを見せないように頑張ったあまり、怒っているような態度を取ってしまっていたと言っていた。
私は堪えきれず、ぶーっと噴き出して笑った。
「な、なんで笑うんだよ」
「だって、嘘つくの下手すぎでしょ」
なんだよ、と幸希はスマホを私からもぎ取り、またポケットにしまって私の隣に座る。
「でもなんで、浮気してないって普通に言ってくれなかったの? それに、あんな簡単に帰っちゃって。この1か月、 家にも来なかったし」
「なんて言っていいのかわからなくて。誕生日にしようって計画してたから、バレるのも嫌だったし。一馨、一度思い込んだら突っ走るところあるし。家を出てから次の週末に連絡したけど、全然返事来なくて、電話しても繋がらなくて。家まで行ったけど、ストーカーみたいだなって思って」
「……下手くそ」
私は笑ってソーダ水を飲んだ。炭酸は少し抜けていた。
「一馨だって、勝手に疑心暗鬼になって。……俺たち、恋愛向いてないな」
向いてないかも、と思いつつも私は声にはしなかった。
「ほら」
幸希は改めて私に箱を渡してきた。
こんなにも綺麗な指輪、私がはめていいのだろうか。失くさないだろうか。壊してしまわないだろうか。受け取った手が震えた。
「ねぇ、ひとつだけ約束してくれる?」
「……なに?」
「高いものはなにもいらないよ。だからもう、下手なサプライズ考えないで」
すると幸希は笑って小さく頷いた。
指輪は私の左手の薬指にピッタリだった。念入りに慎重に、調べたのだろう。
「これ……ダイヤモンド?」
「ダイヤモンドだよ! ちょっと小さいかもしれないけど、綺麗なやつ選んできたんだからな!」
ダイヤモンドなんて初めて見た。小さくたって、きっとものすごく高かっただろう。
「お連れ様も、もしよろしければソーダ水、飲みませんか?」
いいタイミングで雅司さんが戻って来る。ほほ笑むとできる目尻の皺がより一層深い。たぶん、話を立ち聞きしていたんだろう。
「あ、じゃあ……お願いします」
「特別な一夜にふさわしい、ソーダ水ですよ」
ぱちぱちしゅわしゅわ。さわやかなソーダ水とたっぷりの一夜が幸希の前に出て来た。
「そういえば俺、まだ答え聞いてない」
一夜を注ぎながら、幸希が私の顔を覗き込む。私はあえて目を逸らして微笑んだ。
せめて、今夜だけは。ひとりぼっちの夜でいてもいいかな。
そんな贅沢な気分に浸りながら、日付が変わってから私は「いいよ」と返事をした。
完
星空よりも明るく眩しい夜の街。ふと寂れたビルのガラス窓に自分が映る。
美容院に行ったの、いつだっけ?
映った自分の姿を見て、思わず髪に手を伸ばす。去年の夏は肩に付かないくらい、短かった。仕事で疲れ切った顔。化粧も汗で崩れてしまっている。
私、ボロボロだ。
きょうが私の誕生日だということも知らない会社の同僚や上司たちと、ただ今を生きるためだけに働いている。今の私は空っぽ。なんにも、ない。
「いらっしゃいませー」
外は暑いが、コンビニの中は風邪をひきそうなくらい寒く、ささっと決めていたものを手の中に寄せ集めた。スーツ姿の年配男性が、ビールや身体に悪そうな揚げ物弁当、菓子パンをカゴいっぱいに入れて会計している。私と同じように顔はくたびれて見えた。
私の将来はこんな感じかもしれない。ひとりぼっちで、ただ仕事をするだけの毎日。日課は仕事終わりのコンビニ。
私は勝手に年配男性に仲間意識を抱く。
「ありがとうございましたー」
コンビニを出るとき、浮かれた男女4人組とすれ違った。きっと、学生だろう。一昨年まで自分も学生だったはずなのに、うんと遠くの出来事みたいな気分だ。すれ違ったあとに学生たちの方を振り返る。
4人のうちのひとりに視線が行く。黒髪短髪、眼鏡をかけた色白の男の子。
幸希、元気にしてるかな。もう新しい人と、仲良く幸せにやってるのかな。
つい目で男の子を追いかけるも、そんなことはやめろと自分に言い聞かせる。彼は幸希じゃない。一馨、と声をかけてくるはずがない。
幸希は大学で知り合ったひとつ上の先輩で、幸希が卒業してひと足先に社会人になっても変わらずずっと付き合っていた。私が社会人2年目になった、つい1か月前までは。振られたわけじゃない。振ったのは私の方だ。
◇
「浮気、してるんでしょ」
夕飯後の食器を洗いながら、私はずっと胸の中にあった言葉を絞り出した。
ここ数日、幸希の様子はおかしかった。今まではスマホを勝手に見ても怒らなかったし、あんまり触らないから部屋の中で失くすことだってあった。それなのに、最近はトイレに入るときもお風呂に入るときも、眠るときも片時もスマホを離そうとしない。覗こうとすると、顔を真っ赤にして怒るくらいだ。
もう5年の付き合いになる。そんな変化に気づかないほど、私はバカじゃない。
「浮気? なんでそうなるんだよ」
アホくさ、と幸希は笑う。
「ずっとスマホばっかり見て、この間スマホ触ろうとしたら怒ったじゃん」
「そりゃ、俺にだってプライバシーくらいあるだろ」
「今まで私が勝手にスマホ見ても怒らなかった」
そう言っても、幸希はただ笑うだけだった。笑ってテレビを観て、また笑っている。
幸希も私も地方出身で一人暮らしをしながら大学に通っていた。学生の頃は親から少し仕送りしてもらい、バイトしながら生活をしていたが、貯金がしたいのでもう少し安いアパートに引っ越そうか、それとも同棲したら楽なんじゃないか、なんて考えていた。
その考えが甘かった。いや、同棲を始めて浮気が発覚するよりはマシか。
私たちの関係にドキドキなんてないし、誕生日も記念日もサプライズはない。週末は決まって幸希が私の家に泊まる。出かけたりはしない。ただ、家でのんびりゴロゴロするだけ。ご飯はだいたい私が作る。出かけても近所のスーパー。
食器を洗う手を止める。洗いかけの皿の上で、ゆっくりと泡が消えていくのを眺めた。
「じゃあ、浮気してないって証明してよ」
濡れた手をタオルで拭き、私はテレビを遮るように幸希の前に立った。幸希は目の前にどーんと立つ私の方を一切見ないで、大きく身体を逸らしてまだテレビを観ている。
「証明? どうやって?」
「そんなの、自分で考えなよ」
「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ、面倒くさい」
決定打だった。浮気していないことを証明できないのだ。私の中でなにかがぷつんと弾けた。
「別れよ」
「……なに?」
ようやく、幸希が私を見る。
「本気で言ってるのか?」
「うん」
幸希が私になにを語るのか、正直想像できなかった。浮気なんて絶対してないと言い張る? それとも、ごめんと白状する? 別れるなんて冗談だよなと慌てる? でも、幸希の言葉は私の想像の遥か上をいった。
「わかった」
「……へ?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。
「わかったよ」
幸希はあっさり別れを受け入れたのだ。私は唖然とした。幸希はそれから黙ってテレビを観て、観ていた番組が終わると「それじゃ」と出て行った。
あまりにもあっけない別れ。5年だぞ。5年も付き合って、最後はこれ? それじゃ、でおしまい?
私はしばらく、幸希が閉めたドアを見ていた。本当にこれで終わりなのか、私にもわからなかった。でも、1時間経っても、一晩経っても、1日経っても、幸希がそのドアを開けることはなかった。幸希が去った2日後、大学の頃の友達と長電話して、愚痴をぶちまけた後、私のスマホの中から幸希を抹殺した。向こうもさっさと私を消したんだ。私も消してやる、と怒りながらSNSも連絡先もみんな消してブロックした。
◇
今思えば、幸希にとって都合の良い別れだった。浮気したかしてなかったかはわからないが、別れを考えていた矢先、女からただ別れようと言われるなんて好都合だ。理由やこれまでの感謝を述べる必要もなく、簡単に別れられる。
都合が良すぎる女だったかな、と思いつつ空を見上げた。
バカだなぁ、私。
ビールもチューハイもアイスクリームも、去年幸希と私の誕生日が終わる直前にコンビニへ買いに走った。急にアイスクリームが食べたくなって、ついでにお酒も買って、飲みながら歩いて帰った。私も幸希もチョコだのいちごだの、期間限定だの、そういうアイスクリームではなく、バニラ味が好きだった。家に帰るとドロドロに溶けていて、でも、それでもやっぱりバニラアイスは美味しかった。
夏なんて、なにをしてもどこへ行っても暑くて鬱陶しいだけ。汗はかくし、化粧は崩れるし、気持ち悪い。
そう思っていても、私は夏を嫌いになれない。
家に帰る頃にはぬるくなる缶チューハイも、肌に張り付くシャツも、柔らかくなったアイスクリームも、全部私にとって恋の傷なのに、好き。まだ、好きだ。
あっ。
突然サンダルが脱げて、私は地面に鼻をこすりそうになる。思わずついた手のひらがじんじんと痛んだ。
立て。
頭の中で自分の声がする。でも、その声とは裏腹に私の身体は鉛のように重く沈む。誰かが見ているかもしれない。哀れな女が道端で転んで、笑われているかもしれない。恥ずかしい、という気持ちはもちろんあった。それでも私の身体は言うことを聞いてくれなかった。
「大丈夫ですか?」
頭上から声が降ってきた。私は身体の傷み、心の痛み、全ての傷みをぐっとボロボロの身体に押し込めて顔をあげた。
三十代後半、いや、四十代くらいだろうか。紺色のエプロンを付けた男性が、私に手を差し伸べてくれている。目尻に柔らかい皺があった。
「だ、大丈夫です」
私はすぐにひとりで立ち上がった。立ち上がって少し擦りむいた膝をさする。
「ああ、靴、壊れちゃってますね」
男性が拾い上げたサンダルは鼻緒のところが切れていた。安いビーチサンダルだった。それを履いてきた私がいけない。ちゃんとした靴なら、こんなことにはならなかった。
さあ、どうする。裸足で帰るか。
「もしよければ、うちのサンダル使ってください」
「……え?」
「そこ、僕の店なんです」
一夜、とだけ書かれた店名の横に、グラスの形をしたライトがついていた。居酒屋かなにかだろうか。しかし、店内に人は誰もいない。今は二十時。居酒屋だったら一番賑わう時間ではないだろうか。
「ちょうど店を閉めようかと思っていたところで」
人がいない店内を私がじっと見つめたせいか、男性は髪を掻きながら眉を八の字に歪め笑う。
「でも……」
「どうぞ、お客さんもいないことですし」
カウンターが4席だけの本当に小さな店だ。ドア以外は全部ガラス張りで、店内の様子は外からもよく見える。店主の男性は木造のドアを開けて、私の方を見た。
「もしよければソーダ、飲みませんか?」
また笑った。
初めて出会ったこの人を、私がよく知るはずもない。だけど、彼が笑うとなんとなく人柄がわかる気がした。優しい目元の皺のせいだろうか。
私はそのまま、彼に導かれるまま〈一夜〉へ足を踏み入れた。
「好きなところへどうぞ」
彼の言葉通り、私は一番奥の席に腰掛ける。
「はい、これ。綺麗とはとても言えないけど」
「すみません、ありがとうございます」
お礼を言って、黒色のゴムサンダルを受け取った。男性サイズで大きいが、裸足で帰るよりはずっといい。
「ああ……アイスが……」
手提げ袋に手を入れカップの外を触ると、かなり柔らかくなっていた。
「それ、使ってもいいですか?」
「……え? なににですか?」
「ソーダの上に乗せたら美味しいと思うんです。クリームソーダ的な」
クリームソーダ。そんなもの、ここしばらく食べていない。どうせ家に帰って食べるつもりだった。ここで食べたって同じか。
「じゃあ、使ってください。あと、ちゃんとお金払うんで」
「いえ、いいんですよ、気にしないでください。僕が勝手にやったことなので」
店主はそう言ってグラスに氷を入れた。カラカラン、と涼しげな音だった。それからプシュっと勢いの良い音がした。
「はい、どうぞ」
透明なグラスの中に、透明なソーダ水がたっぷりではなく、やや控えめに注がれていた。しゅわしゅわ、ぱちぱちと小さな音を立てている。大きめの氷は、アイスが下へ沈んでしまわないためだろう。
「アイスはこのくらいが食べごろですね」
店主は小さなグラスを私に差し出した。中を覗くと、満点の星空が見えた気がした。私は引き込まれるようにぐっと身を乗り出して改めて覗き込んだ。
「……これ、なんですか?」
「うちの特製シロップです。それをグラスにゆっくり注いでみてください」
言われるがまま、私は透明なソーダ水が入ったグラスにシロップを注ぎ入れる。ゆっくりと静かにグラスの中は夜に染まっていった。不思議だ。本当にグラスの中に夜が入っているように見える。小さく、でも鋭く光る星々。カウンターの上にある灯りのせいだろうか。それにしても、本当に不思議だ。
「もしよければ、お名前、教えてもらってもいいですか?」
「名前、ですか? 私の?」
店主は私の言葉に笑う。当たり前だ。私の名前以外になにがあるというのか。
「……一馨です」
「一馨さん。僕は雅司と言います」
店主――雅司さんはそう言って、間髪入れずにまた質問を投げかけてきた。
「一馨さんは、今夜一晩だけでも一緒にいたい人はいますか?」
「……え?」
なに、もしかして口説かれてる?
私は雅司さんをちらりと見た。すると、雅司さんは慌てて首を横に振る。
「いや、違うんです、変な意味はないんですよ」
顔を真っ赤にして、一生懸命に言った。
「僕、このソーダ水を出す方には必ずその質問をするんです」
「そう……なんですか」
「このソーダ水、一夜を注ぐってメニュー名なんです。シロップ入れたら、夜空みたいでしょ?」
私は大きく頷いて見せた。本当に夜空をグラスに閉じ込めたみたいだ。
「逢いたい方は誰でもいいんです。お友達でも、親兄弟姉妹でも、好きな人でも、奥さんや旦那さんでも、ペットでも。その方が今夜一晩だけでもいい、逢いたいなと想う人とめぐり逢えたらいいなという思いを込めているんです」
今夜一晩だけでもいい、逢いたい人……か。
私は心の中で雅司さんの言葉を繰り返した。誰でもいいはずなのに、私の中に浮かんだ人は幸希ただひとりだけだった。
自分で自分の気持ちに薄ら笑う。
「誰か、いらっしゃるんですね」
「実は私、きょう誕生日なんです」
「誕生日なんですか、きょう?」
言うつもりはなかった。誕生日なんです、なんて言ったら祝って欲しい人みたいに聞こえてしまうはずだ。私は恥ずかしくなって顔を手で覆った。
「ちょっと待ってください、いいものがあります」
いいもの? と顔を覗かせると、ニコニコ嬉しそうに一本の細長い花火を持ってきた。そしてそれをアイスクリームに刺す。
「夏の夜の誕生日に、ぴったりですよ」
雅司さんは店内の電気をすべて消して、ライターをつけた。私は小さな子どものように、花火に火がつく瞬間をワクワクしながら眺めていた。花火が音を立てて、小さな花を咲かせる。
「ありがとう……ございます」
見知らぬ人にここまで祝ってもらえる誕生日が来るなんて、去年の私にはこれっぽっちも想像もできなかっただろう。
「さぁ、願い事をしてください」
「願い事?」
私は笑って訊き返す。
「願い事なんて……」
叶うはずない。
そう言おうとしたが、雅司さんの楽しそうな表情を見て喉の奥へ押しやった。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫って……なんのことですか?」
私は首を傾げた。
「きっと、うまくいきますよ」
きょうが誕生日だということ以外、私は雅司さんになにも伝えていない。でも雅司さんにはきっとわかるのだろう。はっきりとなにがあったとはわからなくても、こんなボロボロな私を見ればわかるのだ。
花火がぼんやりと霞かかって見えた。視線を下へ向けると、重たいしずくが落ちる。一粒落ちたらまた一粒。どんどん止まらなくなって、手のひらで涙を拭う。
情けない。こんなところで、見ず知らずの人を目の前にして泣くなんて。
わかっているのに、涙は止まらなかった。
自分で自分の気持ちに気づかないようにしていた。この一か月、どうしようもなく悔しかった。憎らしかった。寂しかった。幸希のことが。別れても私の退屈な毎日は続いていく。忘れるように仕事をして、忘れるように毎日食事をして、テレビを観て、淡々と過ごす。だけど無理だ。忘れられるはずがない。だって、まだ好きなんだから。
「アイス、溶けちゃいますよ」
雅司さんはそう言って温かいおしぼりを出してくれた。
私はずずっと鼻をすすり「すみません」とおしぼりを受け取る。涙を拭いて、ぐちゃぐちゃに崩れた顔のまま、情けない私は火を消した。
どうかこの悲しみが、一晩でも早く過ぎ去りますように、と願って。
スラリと長いパフェスプーンでアイスクリームをすくって、口に入れる。冷たい。甘い。美味しい。今度はストローからソーダ水を飲んだ。すっきりとした甘さで、レモンの風味がする。ソーダ水は口の中で爽やかに弾けて、アイスクリームの甘さと絶妙に絡み合う。身体中に染み渡った。
「あっ! こんなところに、いた!」
店の扉が勢いよく開いたかと思うと、そこには1か月振りに見る懐かしい顔が。
「……幸希? え……なんで……?」
私はスプーンを持ったまま固まった。
幸希は額から汗を垂らし、息を切らしている。
「なんでブロック、するんだよ、電話も通じ、ないし……っ!」
生き絶え絶えに、光希は怒っていた。
「なんでって……私たち、別れたじゃん」
「あんな別れ方、あるわけないだろ! 一馨はあれでいいのか?」
それは私のセリフだ、と思いつつ、私はアイスクリームをすくって口の中に放り込む。
「なにのんきにアイス食べてんだよ……」
「だって、せっかくこんなに素敵なの作ってもらったんだから。それに、きょう唯一誕生日を祝ってくれた人だし」
私が雅司さんの方をちらっと見ると、さっと目を反らされた。そして、キッチンの奥にある扉を開けて「荷物を運ばなくちゃいけないので、ちょっと失礼しますね」と気まずそうに逃げていった。
幸希は私の隣に座ると「いい加減にしろよ」とまた怒る。
「仕事が終わってからずっと探し回って、あちこち連絡して。もしかして近所のコンビニにでも行ったのかと思ったら、こんなところで……」
平日の夜。友達もみんなそれぞれの人生を生きるのに精一杯だ。誕生日当日に、直接会って祝ってくれるような人なんていない。家族が遠い田舎からのんきに「お誕生日おめでとう」とメッセージをくれるくらいだ。
「まだ俺が浮気してるって思ってるのか?」
「もうどうでもいいよ、別れてるんだから」
なにを今更。
私はムカついてアイスを口いっぱいに放り込んだ。キーンと頭が痛くなって、思わず顔を顰める。
それを見ていた幸希が大きすぎるため息をつく。
「さっきからなんなの? 私の誕生日までぶち壊すためにわざわざ会いに来たわけ?」
こんな惨めな姿で再会したくはなかった。今の私はダサい恰好で、膝を擦りむいて、瞼を腫らしている。カッコいい女になりたかった。あんたはこんなにいい女と別れたんだぞ、と思われたかった。
「もう、お願いだからひとりにしてよ……」
また泣いてしまう前に、早く帰ってほしい。なにも言われたくないし、声も聞きたくない。
「一馨、」
私は呼ばれても幸希の方は見られなかった。手元だけ、一夜を注ぐソーダ水だけを見て、俯いた。
振り向かない私に、幸希はまた小さなため息をついて立ち上がる。これで、もう二度と逢うことはないだろう。もしどこかで偶然出会ったとしても、お互い見て見ぬ振りをするだろう。私はこれから先、付き合った時間を必死に消し去ろうとするだろう。いつか、ああこんな別れもあったわね、なんて思い出せるだろうか。
「……これ」
振り向かない私に、幸希は視界に入るよう小さな箱をソーダ水の横に置く。
「なに、これ」
意味がわからず私は箱に触れられなかった。
幸希は触れようとしない私に、やれやれという感じで箱をまた手にし蓋を開けて中を私の方へ見せた。
指輪だった。金色の細いリングの真ん中に一粒の石が付いている。キラリと光る石は、普段あまりアクセサリーをつけない私にとっては眩し過ぎて、流れ星が落ちて来たのかと思うほどだった。
ただの指輪じゃないことは、一目見てわかった。
「なに……これ……?」
私はもう一度幸希に訊ねた。
「なにって、見たらわかるだろ」
怒っているようにも、照れ隠ししているようにも見える。箱を持っていない片方の手で髪を掻いていた。
「ちょ、ちょっと、意味がわからないんだけど……」
私はもう一度小さな箱の中を覗いた。間違いない。見間違いではない。ちゃんと指輪がそこにある。
「え……だって、浮気してたんじゃないの?」
「だから! 浮気なんてしてないって言っただろ」
大声で、はっきりと言い返される。
「そんなはっきり言わなかったじゃん! なにか隠してるみたいだったし!」
「だから、隠してたのはこれだよ!」
「……へ?」
あのときと同じような、間抜けな声が出た。
「同棲……しようと思ってたんだ。でもそれを両親に言ったら、結婚しなさいって言われて、」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。親に言われたから結婚するわけ?」
私は慌てて声を荒げた。
「話は最後まで聞けよ」
私は開いた口を一度閉じて、わかったと頷いた。
「生まれも育ちも田舎で、同棲なんてはなから頭にない人たちだから、そう言われるだろうと思ってた。でも、今までだって十分同棲みたいなものだったから、同棲してなにを確かめるんだろうって思った」
確かに、大学生の頃からお互いの家に何日も泊まったりした。おそらく私の両親も、結婚前の同棲にすんなり同意はしてくれないだろう。
「それで思った。俺は同棲じゃなくて、結婚がしたいんだって」
「……やっぱりちょっと待った」
私は幸希の顔の前に手を出して、言葉を止めさせた。とたんに幸希の顔が曇る。
「俺、今めちゃいい話してるんだけど」
「うん、それはわかってる」
私は大きく頷いた。
「じゃあなに?」
「……もしかして私、今プロポーズされてる?」
幸希はびっくりするほど間抜けな顔をして、口をぽかんと開けたまま固まった。
「逆に、この状況をなんだと思ってるの?」
「……ドッキリ、とか?」
「ふざけるなよ、真面目に大事な話をしてるのに」
カラン、とソーダ水の中の氷が音を立てる。グラスの中に残ったソーダ水は、アイスクリームと溶け合って夜明けの空のように明るくなっていた。
「……じゃあ、なんでスマホ見せてくれなかったの?」
「またそれか」
仕方ないな、と幸希はスマホをポケットから取り出して私の前に差し出す。
「好きなだけ見てみろよ」
私はちらり、と画面を覗いた。だが驚いて幸希の手からスマホを奪い、じっくりと見る。画面の中にはエンゲージリングの写真がアルバムのフォルダ内に溢れかえっていた。
サプライズが苦手な幸希らしいといえばそうなのかもしれない。サプライズは苦手で、嘘もつけないほど真面目で、ちょっと不愛想なところがある。そういえば出会ったとき、私は幸希に嫌われているのかと思ったくらいだ。あとから聞いたら、気になっている素振りを見せないように頑張ったあまり、怒っているような態度を取ってしまっていたと言っていた。
私は堪えきれず、ぶーっと噴き出して笑った。
「な、なんで笑うんだよ」
「だって、嘘つくの下手すぎでしょ」
なんだよ、と幸希はスマホを私からもぎ取り、またポケットにしまって私の隣に座る。
「でもなんで、浮気してないって普通に言ってくれなかったの? それに、あんな簡単に帰っちゃって。この1か月、 家にも来なかったし」
「なんて言っていいのかわからなくて。誕生日にしようって計画してたから、バレるのも嫌だったし。一馨、一度思い込んだら突っ走るところあるし。家を出てから次の週末に連絡したけど、全然返事来なくて、電話しても繋がらなくて。家まで行ったけど、ストーカーみたいだなって思って」
「……下手くそ」
私は笑ってソーダ水を飲んだ。炭酸は少し抜けていた。
「一馨だって、勝手に疑心暗鬼になって。……俺たち、恋愛向いてないな」
向いてないかも、と思いつつも私は声にはしなかった。
「ほら」
幸希は改めて私に箱を渡してきた。
こんなにも綺麗な指輪、私がはめていいのだろうか。失くさないだろうか。壊してしまわないだろうか。受け取った手が震えた。
「ねぇ、ひとつだけ約束してくれる?」
「……なに?」
「高いものはなにもいらないよ。だからもう、下手なサプライズ考えないで」
すると幸希は笑って小さく頷いた。
指輪は私の左手の薬指にピッタリだった。念入りに慎重に、調べたのだろう。
「これ……ダイヤモンド?」
「ダイヤモンドだよ! ちょっと小さいかもしれないけど、綺麗なやつ選んできたんだからな!」
ダイヤモンドなんて初めて見た。小さくたって、きっとものすごく高かっただろう。
「お連れ様も、もしよろしければソーダ水、飲みませんか?」
いいタイミングで雅司さんが戻って来る。ほほ笑むとできる目尻の皺がより一層深い。たぶん、話を立ち聞きしていたんだろう。
「あ、じゃあ……お願いします」
「特別な一夜にふさわしい、ソーダ水ですよ」
ぱちぱちしゅわしゅわ。さわやかなソーダ水とたっぷりの一夜が幸希の前に出て来た。
「そういえば俺、まだ答え聞いてない」
一夜を注ぎながら、幸希が私の顔を覗き込む。私はあえて目を逸らして微笑んだ。
せめて、今夜だけは。ひとりぼっちの夜でいてもいいかな。
そんな贅沢な気分に浸りながら、日付が変わってから私は「いいよ」と返事をした。
完