「どういう意味だ?」
「忘れてるかもしれないけど、高校の時同じクラスだった宮崎悠依」
みさきと、みやざき。同じクラスになれば必ずと言っていいほど前後の席になる名前。
彼はそこでようやく勘づいたような表情を見せて「あ……」と小さな音を漏らした。
「そう、か……。そう……え、好きって……?」
彼は私のセリフに気付き、だけど確かめるようにその言葉を繰り返す。
「そのままの意味だよ。私、高校の時からあなたのことずっと好きだった。理由とか聞かれても分からないけど、とにかく好きだったんだよ。ふふ、急にこんなこと言われても困るよね、分かってた。あの時も今も、君の目の中に私がいないこと。ごめんね、思わず言っちゃったけど、忘れてくれていいよ。こんな……こんな、冴えない大人になっちゃってさ。恥ずかしいね。君にだけは、私のこんな落魄れた姿を見られたくなかったな」
彼はただ黙って、私の独白を聞いていた。そう、あの頃夢見ていた未来とはあまりにもかけ離れている。あの頃に私は、もっとちゃんと大人になれると思っていた。
それがどうだろう。年ばかり増えたって現状に満足するだけでただ日常を浪費する自分は、自分がかつて憧れた大人の姿とは似ても似つかない。酒の味ばかり無尽蔵に知って、世間知らずなくせにある程度世を渡ってきた顔つきをして、日々に、人生に疲れてまた酒を飲んだ。ほんとうに、恥ずかしい大人になってしまった。
いつしか酔いも覚め、私はぼうっとグラスに入った氷が溶けていくのを見つめていた。カラン、と寂しい音だけが部屋の中を転がる。隣に座る彼はずっと黙ったままだった。何かを考え込んでいるような表情だった。
「ははっ」
沈黙を割ったのは涼だった。それがどこか嘲ったような笑みだったから、私は少し驚く。
「同じなんだ」
「え……」
「俺も、同じなんだ」
その弱々しいセリフと失笑で、さっきの嘲りは自分に対するものだったのだと気づく。
「あの頃はもっとちゃんとした大人になれると思ってた。……ウチ、母子家庭でさ。大学に行く費用とかなくて、仕方なく稼ぎやすい今の仕事に就いた。落ちぶれたって言うんなら俺の方がそうだよ」
「そんな……」
そういう事情があっての現状なら仕方ないよ、なんて言葉はあまりにも傲慢な気がして私は口を閉ざす。
「気を遣わなくていいよ。むし嗤ってくれ、悠依さん」
苦笑する彼の表情に少し胸を痛めながらも、その名前の呼び方なつかし。心の中で静かにつぶやく。名前呼びだけど呼び捨てほど距離を詰めてない、微妙な空気感。私たちの関係にはきっと、そういう形容しきれない不思議さがあった。毎日話すわけでもないけど、全く話さないわけでもない。今思えば初心だなあなんて少し笑えてしまうくらいだった。だけどあの日々は確かに私の中で輝いていたし、青春と呼べるものだったんだろう。
「私たち、二人揃ってちゃんと大人になれなかったね」
「ちゃんとした大人か。まあ、色々合ったけど。今思えばならなくてよかった」
彼が突然そんな不思議なことを言うので、私は首を傾げた。
「ちゃんとした大人になっていたら、悠依さんとここで会うことはなかっただろうから」
少し、変な胸騒ぎがした。恋とかいう綺麗なものじゃなくて。もっと不恰好な感情の片鱗が、胸の片隅で暴れ始める。
「……そうだね。ちゃんとした大人にならなくてよかったや」
だって分かったから。
私のこの気持ちは、きっと。
この夜に置いていくべきだと。
「好きだった」
私は先ほどと同じセリフを口にする。彼はウザがるような姿勢も見せずにただ黙って私を見つめていた。
「今日、やっと気づけたよ。私は、恋が好きだったんだ。君に恋をしているっていうその気持ちが心地よかった。君に会えて、話せて、やっと気づいた。あまりにも長い片思いとは、今日でさよならだ」
彼は少し驚いたような顔をしたけど、すぐにその目をほんの少しだけ細めた。受容、という意味だろう。
入店してからずっと出られなかった店。何が欲しいのか分からなくて、食べても飲んでもそれらの味は全然口に合わなくて、求めた味はサービス終了していて。
途方に暮れていた時、マスターが気まぐれで過去の限定メニューをもう一度提供してくれたのだ。
ああやっと、巡り会えた。大事に大事にこの時間を噛み締めよう。そう思って、いた。
だけど気づく。私が見ていたのは幻だったと。そのことに気づいた瞬間、私は君との時間を上手に味わうことができなくなってしまったのだ。
そろそろお店を出ようか。私はようやくそう思った。お会計は5000円ちょうど。長らく居座っていた割には高くもないけど、1人分の料金としては安くもない。中途半端な私の人生を嘲笑うような値段だ。
「涼くん。今日会ってくれてありがとう。こんな出会いだったけど、悪くなかった」
「俺の方こそ、ありがとう。悠依さんのおかげで、俺も前に進まなきゃって思えたよ」
きっとここが岐路になる。手前で立ち止まって、私は財布の中から5000円を取り出した。涼はそれをしっかり受け取る。
「それじゃあ、俺は帰るよ。今日はありがとう。次……は、ないか」
軽く失笑してから彼は玄関で靴を履く。
「じゃあね、涼くん。元気で」
「悠依さんも、元気で」
ばたん、私と君の道筋に線を引くみたいに、無感情に扉が閉まる。
頬に熱い何かが流れた。少しだけ、まだ自分が涙を流せる人間で合ったことに安心した。
君への恋が全部空虚な偽物だったなんて悲しい。少しくらいは、その恋も本物だったと信じたい。
「さようなら」
掠れた声で独言る。もう涙を流したら、私は前に進もう。彼に背を向けて、過去から一歩踏み出そう。
レジで会計を終えた私は、涙を拭って店をあとにした。
カランコロン、弱気な客人の背中をそっと押すように、ドア上の古びたベルが鳴る。
「忘れてるかもしれないけど、高校の時同じクラスだった宮崎悠依」
みさきと、みやざき。同じクラスになれば必ずと言っていいほど前後の席になる名前。
彼はそこでようやく勘づいたような表情を見せて「あ……」と小さな音を漏らした。
「そう、か……。そう……え、好きって……?」
彼は私のセリフに気付き、だけど確かめるようにその言葉を繰り返す。
「そのままの意味だよ。私、高校の時からあなたのことずっと好きだった。理由とか聞かれても分からないけど、とにかく好きだったんだよ。ふふ、急にこんなこと言われても困るよね、分かってた。あの時も今も、君の目の中に私がいないこと。ごめんね、思わず言っちゃったけど、忘れてくれていいよ。こんな……こんな、冴えない大人になっちゃってさ。恥ずかしいね。君にだけは、私のこんな落魄れた姿を見られたくなかったな」
彼はただ黙って、私の独白を聞いていた。そう、あの頃夢見ていた未来とはあまりにもかけ離れている。あの頃に私は、もっとちゃんと大人になれると思っていた。
それがどうだろう。年ばかり増えたって現状に満足するだけでただ日常を浪費する自分は、自分がかつて憧れた大人の姿とは似ても似つかない。酒の味ばかり無尽蔵に知って、世間知らずなくせにある程度世を渡ってきた顔つきをして、日々に、人生に疲れてまた酒を飲んだ。ほんとうに、恥ずかしい大人になってしまった。
いつしか酔いも覚め、私はぼうっとグラスに入った氷が溶けていくのを見つめていた。カラン、と寂しい音だけが部屋の中を転がる。隣に座る彼はずっと黙ったままだった。何かを考え込んでいるような表情だった。
「ははっ」
沈黙を割ったのは涼だった。それがどこか嘲ったような笑みだったから、私は少し驚く。
「同じなんだ」
「え……」
「俺も、同じなんだ」
その弱々しいセリフと失笑で、さっきの嘲りは自分に対するものだったのだと気づく。
「あの頃はもっとちゃんとした大人になれると思ってた。……ウチ、母子家庭でさ。大学に行く費用とかなくて、仕方なく稼ぎやすい今の仕事に就いた。落ちぶれたって言うんなら俺の方がそうだよ」
「そんな……」
そういう事情があっての現状なら仕方ないよ、なんて言葉はあまりにも傲慢な気がして私は口を閉ざす。
「気を遣わなくていいよ。むし嗤ってくれ、悠依さん」
苦笑する彼の表情に少し胸を痛めながらも、その名前の呼び方なつかし。心の中で静かにつぶやく。名前呼びだけど呼び捨てほど距離を詰めてない、微妙な空気感。私たちの関係にはきっと、そういう形容しきれない不思議さがあった。毎日話すわけでもないけど、全く話さないわけでもない。今思えば初心だなあなんて少し笑えてしまうくらいだった。だけどあの日々は確かに私の中で輝いていたし、青春と呼べるものだったんだろう。
「私たち、二人揃ってちゃんと大人になれなかったね」
「ちゃんとした大人か。まあ、色々合ったけど。今思えばならなくてよかった」
彼が突然そんな不思議なことを言うので、私は首を傾げた。
「ちゃんとした大人になっていたら、悠依さんとここで会うことはなかっただろうから」
少し、変な胸騒ぎがした。恋とかいう綺麗なものじゃなくて。もっと不恰好な感情の片鱗が、胸の片隅で暴れ始める。
「……そうだね。ちゃんとした大人にならなくてよかったや」
だって分かったから。
私のこの気持ちは、きっと。
この夜に置いていくべきだと。
「好きだった」
私は先ほどと同じセリフを口にする。彼はウザがるような姿勢も見せずにただ黙って私を見つめていた。
「今日、やっと気づけたよ。私は、恋が好きだったんだ。君に恋をしているっていうその気持ちが心地よかった。君に会えて、話せて、やっと気づいた。あまりにも長い片思いとは、今日でさよならだ」
彼は少し驚いたような顔をしたけど、すぐにその目をほんの少しだけ細めた。受容、という意味だろう。
入店してからずっと出られなかった店。何が欲しいのか分からなくて、食べても飲んでもそれらの味は全然口に合わなくて、求めた味はサービス終了していて。
途方に暮れていた時、マスターが気まぐれで過去の限定メニューをもう一度提供してくれたのだ。
ああやっと、巡り会えた。大事に大事にこの時間を噛み締めよう。そう思って、いた。
だけど気づく。私が見ていたのは幻だったと。そのことに気づいた瞬間、私は君との時間を上手に味わうことができなくなってしまったのだ。
そろそろお店を出ようか。私はようやくそう思った。お会計は5000円ちょうど。長らく居座っていた割には高くもないけど、1人分の料金としては安くもない。中途半端な私の人生を嘲笑うような値段だ。
「涼くん。今日会ってくれてありがとう。こんな出会いだったけど、悪くなかった」
「俺の方こそ、ありがとう。悠依さんのおかげで、俺も前に進まなきゃって思えたよ」
きっとここが岐路になる。手前で立ち止まって、私は財布の中から5000円を取り出した。涼はそれをしっかり受け取る。
「それじゃあ、俺は帰るよ。今日はありがとう。次……は、ないか」
軽く失笑してから彼は玄関で靴を履く。
「じゃあね、涼くん。元気で」
「悠依さんも、元気で」
ばたん、私と君の道筋に線を引くみたいに、無感情に扉が閉まる。
頬に熱い何かが流れた。少しだけ、まだ自分が涙を流せる人間で合ったことに安心した。
君への恋が全部空虚な偽物だったなんて悲しい。少しくらいは、その恋も本物だったと信じたい。
「さようなら」
掠れた声で独言る。もう涙を流したら、私は前に進もう。彼に背を向けて、過去から一歩踏み出そう。
レジで会計を終えた私は、涙を拭って店をあとにした。
カランコロン、弱気な客人の背中をそっと押すように、ドア上の古びたベルが鳴る。