「悠依もやってみなよ、レンタル彼氏」
社員食堂で呑気にオムライスを頬張っていた時に突然、隣に座る友人・香織がそう言ってきたので、思わず私はすくっていたオムライスの欠片をスプーンから皿の上に落とした。
「え?」
「ねぇあんた、話聞いてなかったでしょ。レンタル彼氏よ。今の私の癒しなんだ〜」
馬鹿みたいだ。人をお金で買うなんて。そんなの馬鹿馬鹿しい。私はすぐに脳内でかぶりをふる。
「バカみたい、って思ったでしょ」
香織が私をそっと睨んできた。さすが、同期なだけあって勘はかなり鋭いみたいだ。
「いや……だってさ。そういうのって男に飢えてる人がやるんでしょ? 私は仕事があれば生きていけるもん。おひとり様満喫してるから」
「まーたそんなこと言って。悠依は高校時代の片思い吹っ切れてないだけでしょー?」
言われて私は思わず苦い顔をする。本当に彼女はなんでも知っているのだ。それもこれも全部、私が入社してすぐ彼女に色々と語ってしまったせいではあるのだけど。
そうだった。私がここ数年恋をしていないのはきっとそれが理由。分かっている。彼をずっと忘れられていないからだと。
「自分から連絡するわけでもないしさ、同窓会もしばらくはないんでしょ? さっさと新しい恋始めちゃいなよ」
言うのなんて簡単だ。ましてレンタル彼氏なんて。それっきりの関係ってことでしょう? 限定的な恋であることを前提に熱くなんてなれない。そう思いながらも、片思いのまま何も行動しなかった人間が何を語っているんだと嘲る自分もいた。
「一夜から始められる恋だよ? 今の時代はきっと、恋愛にもコスパやタイパが求められるのよ。一夜だけ試してみたら?」
「う〜ん……」
まだどこかレンタル彼氏なんていう低俗なサービス、と疑心暗鬼な自分がいる。香織は昔から一途な方ではなく恋人と長く続くようなこともない。だけど私は高校生の頃のあの人が忘れられなくて、ずっと次に踏み出せないでいる。
いや、多分忘れられないのはあの人じゃなく、あの頃の気持ちなんだ。恋をしているという、甘酸っぱくもどかしいあの気持ちを忘れられていない。きっとそれだけ。
「サイトのリンク送るからさ。騙されたと思って、試してみなよ」
香織にグイグイ押され、そして片想いを続けていることに対する後ろめたさにも背中を押され、私はなんとなくその場で頷いた。
「まぁ、考えとくよ」
玄関のドアを開け、ただいまを言う気力もなく足を引きずるようにして家の中へ上がる。
香織には「仕事があれば生きていける」と強がって言ってしまったけど、実際は忙殺されているだけのように思えてくる。生きるのに必死になっている。生きるために死んでいくみたいだ。
ずっとこんな生活を続けるんだろうか。思いながらジャケットだけハンガーにかけ、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに深く腰を下ろしてプルトップを引き上げる。ゴクリゴクリと喉を鳴らして、「はああああ」と長いため息。最近ずっと、こんな毎日。
ソファの背もたれに背中を預け、目を閉じる。仕事に疲れ、酒に溺れた脳がふわふわと宙を泳ぐ。ふと脳裏に彼の顔が浮かんだ。昼に香織とその話題で話したからかもしれない。
彼は涼といった。名は体を表すというべきか、その字に似つかわしく涼やかで爽やかな好青年だった。
なんで好きになったの、とか聞かれてもうまく答えられない。10代の恋愛なんてそんなものだった。ちょっと顔が良くて、性格も申し分ない人をふとしたきっかけで好きになる。運命的な出会いも動機もない、ロマンチックの欠片なんて探すほうが難しいくらいだ。大人より初心で、味気なくて、甘酸っぱい。恋愛と呼ぶにも呼べない微妙な距離感。そんな恋が普通だった。
私もきっと、そんな理由で彼を好きになった。きっかけなんてなく、気づいたら目で追うばかりの日々を過ごした。誰にも気づかれたくなくて秘めた恋心。はやる鼓動だけが私の本心を知っている。自分から告白なんてとんでもなかったし、彼の眼中に自分がいないことも分かっていたからただ後ろ姿を眺めているだけだった。
彼と私は出席番号が並んでいて、年度初めの席順は決まって後ろ前で団子みたいに繋がった。教師が列ごとに配るプリントの類を彼が振り返って手渡す瞬間が大好きだった。その瞳に私が映るその一瞬がたまらなく嬉しくて胸が躍る。学年が変わるたびクラス表の自分の名前の上に彼がいるか確認して、見つけた時には心の中でガッツポーズをしたし、見つけられなかった時にはひどく落胆した。
ふとした時の私にかけられる低めの優しい声が好き。他愛もない、「今日の課題やってきた?」とか「数学って何時間目だっけ」とか、取るに足らない言葉を交わすだけでドキドキしたし、緊張したし、嬉しかった。
高校を卒業するまで自分の気持ちは何も言えなかった。言えなかったけど、それでよかった。私の高校生活を恋の色に染めてくれてありがとうと、心の中で感謝だけした。彼がいたから私は、それなりに高校生活を楽しんでいたんだろうと思う。だから、付き合ってほしいとか傲慢な願いは全てどこかに捨て去った。
はずだった。
「結局忘れられてないなんて……ダサすぎ」
天井を仰いで独りごちたとき、スマホが振動した。確認すると、香織からのメッセージだった。
『昼話してたレンタル彼氏のサイトのリンク!』
メッセージの下に共有されたリンクがのっている。
リンクの下にまたメッセージがあらわれた。
『いい加減諦めなよ、もう叶わないんだから!』
グサリ、そのメッセージに心を刺され、私は無意識に「うっ……」と呻いた。忘れられるものならとっくに忘れている。
『あんたには幸せになってほしいのよ。ただでさえ仕事に忙殺されてるんだから、次の恋に進んで幸せになんなよ』
なんだかんだ香織も私を思ってくれているのだ。応えないわけにはいかなかった。
「ありがとう。早速今日、試してみる」
親指を立てたサインのスタンプが送られてきたのを合図に私はリンクのページを開いた。
インターホンが鳴る音で、私はふと目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。大きく伸びをしてから、未だにやまないインターホンの鳴る方へふらふらと歩みを進める。
「……はあ〜い、どちらさま」
ドアを開けるとそこには、端正な顔立ちの青年が立っていた。年は私と同じくらいに見える。どこかで見覚えがあるような気がした。どこだっけ……。
「レンタル彼氏のリョウですけど。宮崎悠依さんであってる?」
「レンタル? は……え……? 何ですか?」
「ってか酒くさ……酔った勢いで頼んだパターンかよ……」
青年がわかりやすく顔を顰める中、私はまだ理解が追いついていない脳内で必死に考える。一体私は酔った勢いで何をしでかしてしまったんだろう。
「あー、とにかく中入らせてもらうんで。ここにきた以上はタダで帰るわけにはいかないから。一夜分の金はもらうからな」
「えっ、中に? な、なんですか、金って」
私は思わず動揺してしまって、酒で嗄れた声のまま声を上げる。青年はやはり不機嫌そうな顔をしてこれ見よがしなため息を吐く。言葉には出さずとも、いかにも「めんどくさい」という感情を顔面に貼り付けている。
貼り付けていながらも、青年はずかずかと部屋の中へとあがっていく。
「あ、ちょっと、なに勝手に」
「だから、俺はサイトで指名されたからきてるわけよ。どうせ酔っ払った勢いで間違ってボタンでも押したんだろうけど、俺もここまで来るのに金と時間を要してるわけ。タダで帰るわけにはいかないからさ、とりあえず上がらせてもらうって話。おーけー?」
「お、おう……う……?」
酔いが回った頭でとりあえず返答し、いやいや待て待てと思いながらも男を部屋に上がらせてしまった以上は仕方なく、私はその後を静かについていく。
彼は部屋のソファにどかっと腰を下ろすと、立ち往生している私をチラリとみてから「とりあえず座れば?」と顎で自分の隣を指した。一応この部屋の主は私なんだけどな……と思いつつ、ふわふわした頭で言われるがままに彼の隣へ腰掛ける。どこか懐かしい匂いがした。
「あのさ、そんなに俺を非常識なやつだと思うなら、自分のスマホのメールボックスでも確認してみなよ。たぶんサイトから俺を指名した履歴が残ってるはずだからさ。すぐに自分の方が非常識だったって、気づくはずだよ」
脳はショート寸前だったけど、なんとか情報を咀嚼し理解してスマホの画面を見た。ロックを解除すると最初に出てきた画面にはデカデカと「レンタル彼氏」の文字がある。そして注文履歴には自分の隣に座る青年の顔と「リョウ」の文字があった。
「ほんと……だ」
「はぁ。これで分かった? だいたいさぁ、酔ってる時にこういうサイト見るもんじゃないよ。仕事でなんか悩みでもあるわけ? ほんの出来心だったんですって泣きつくわけ? 泣いたって俺はあんたから金を取るからな。一夜で5000円。安い方っしょ。そこらへんのホストよりはよっぽど親切な商売だよ。たまーにあんたみたいに酔った勢いでとか間違えてタップしちゃってとかいう客いるけど、こっちだって仕事なんだから。世の中舐めんなってんだよ全く」
青年はやってらんねーよ、と悪態をついて膝を組んだ。細くしなやかで、長い足だ。漠然とそんなことを思う。
「安心して、お金はちゃんと払うから。私の不注意であなたをここまで来させてしまったわけだし、相応の対応はする。その分の料金も上乗せするから。だから悪いけど、帰ってもらっていい?」
私なりには誠意を込めた対応をしたつもりだ。だけど青年の顔はうんともすんとも言わず、私はどうしたらいいかわからず首を傾げてしまう。
「あのね、悠依さん」
いきなり下の名前で呼ばれ、私は少し狼狽える。
「俺もさ、仕事でやってんだよ。働いてないのに賃金をもらうことはできない。それにこんなにすぐ帰ったら、上司に怒られるんだよ。ちゃんと働けやとか、金ひったくってきたんだろとか有る事無い事言われてさ。だから悠依さん、間違って俺をリクエストしてそれを詫びるつもりなら、一晩はここに泊めてほしい」
まじまじと正面から見つめられてしまったので、私はもはや何も言えなくなった。
確かに彼の言うことには頷ける。このまま返してしまって絵も彼が咎められるだけなら、むしろ家にいてもらった方がこちらの罪悪感も少しは和らぐだろう。
「分かりました。そういうことなら」
私が承諾すると彼は口元だけで笑って「じゃあ今夜は俺が、悠依さんの彼氏ね」と甘ったるい声で言った。別にただここで一晩を過ごすだけでいいのに、彼はわざわざ「レンタル彼氏」の仕事をこなすらしい。
しかし親友に勧められ、酔った勢いでとはいえ私も一瞬、揺らいでしまった責任がある。
ところで私がこの「リョウ」を指名したのは何故だろう。適当に一覧画面をスクロールして何となく引き寄せられた顔をタップしてしまった、ところまでは覚えている。どこか懐かしかったから。……懐かしい?
「あの、リョウさん?」
「彼氏にさん付けすんのかよ」
「いや、そんなことどうでもよくて。リョウさんって、本名はなんていうの?」
リョウは明らかに怪訝な顔をした。普段は公表していないはずの本名を初日の酔っ払ったOLに尋ねられているこの状況は、たしかに彼にとっても訝しいものだろう。だけど、聞きたい。どうしても。だって君はもしかしたら。
その思いが通じたのかどうかは分からないけど、彼は逡巡の間に私の目を見返して、口を開いた。
「三崎涼、だけど」
「あぁ……」
思わずため息が溢れた。そうか。今ならはっきりと分かる。今日私が、ここに君を呼び寄せた理由。
「……好きだったの」
「え?」
彼の低くて穏やかな、だけど疑問を纏う声が耳を撫でた。
「私、君のことが好きだった」
疑いが確信に変わる。
君は間違いなく、私がかつて夢中になった人だった。
「どういう意味だ?」
「忘れてるかもしれないけど、高校の時同じクラスだった宮崎悠依」
みさきと、みやざき。同じクラスになれば必ずと言っていいほど前後の席になる名前。
彼はそこでようやく勘づいたような表情を見せて「あ……」と小さな音を漏らした。
「そう、か……。そう……え、好きって……?」
彼は私のセリフに気付き、だけど確かめるようにその言葉を繰り返す。
「そのままの意味だよ。私、高校の時からあなたのことずっと好きだった。理由とか聞かれても分からないけど、とにかく好きだったんだよ。ふふ、急にこんなこと言われても困るよね、分かってた。あの時も今も、君の目の中に私がいないこと。ごめんね、思わず言っちゃったけど、忘れてくれていいよ。こんな……こんな、冴えない大人になっちゃってさ。恥ずかしいね。君にだけは、私のこんな落魄れた姿を見られたくなかったな」
彼はただ黙って、私の独白を聞いていた。そう、あの頃夢見ていた未来とはあまりにもかけ離れている。あの頃に私は、もっとちゃんと大人になれると思っていた。
それがどうだろう。年ばかり増えたって現状に満足するだけでただ日常を浪費する自分は、自分がかつて憧れた大人の姿とは似ても似つかない。酒の味ばかり無尽蔵に知って、世間知らずなくせにある程度世を渡ってきた顔つきをして、日々に、人生に疲れてまた酒を飲んだ。ほんとうに、恥ずかしい大人になってしまった。
いつしか酔いも覚め、私はぼうっとグラスに入った氷が溶けていくのを見つめていた。カラン、と寂しい音だけが部屋の中を転がる。隣に座る彼はずっと黙ったままだった。何かを考え込んでいるような表情だった。
「ははっ」
沈黙を割ったのは涼だった。それがどこか嘲ったような笑みだったから、私は少し驚く。
「同じなんだ」
「え……」
「俺も、同じなんだ」
その弱々しいセリフと失笑で、さっきの嘲りは自分に対するものだったのだと気づく。
「あの頃はもっとちゃんとした大人になれると思ってた。……ウチ、母子家庭でさ。大学に行く費用とかなくて、仕方なく稼ぎやすい今の仕事に就いた。落ちぶれたって言うんなら俺の方がそうだよ」
「そんな……」
そういう事情があっての現状なら仕方ないよ、なんて言葉はあまりにも傲慢な気がして私は口を閉ざす。
「気を遣わなくていいよ。むし嗤ってくれ、悠依さん」
苦笑する彼の表情に少し胸を痛めながらも、その名前の呼び方なつかし。心の中で静かにつぶやく。名前呼びだけど呼び捨てほど距離を詰めてない、微妙な空気感。私たちの関係にはきっと、そういう形容しきれない不思議さがあった。毎日話すわけでもないけど、全く話さないわけでもない。今思えば初心だなあなんて少し笑えてしまうくらいだった。だけどあの日々は確かに私の中で輝いていたし、青春と呼べるものだったんだろう。
「私たち、二人揃ってちゃんと大人になれなかったね」
「ちゃんとした大人か。まあ、色々合ったけど。今思えばならなくてよかった」
彼が突然そんな不思議なことを言うので、私は首を傾げた。
「ちゃんとした大人になっていたら、悠依さんとここで会うことはなかっただろうから」
少し、変な胸騒ぎがした。恋とかいう綺麗なものじゃなくて。もっと不恰好な感情の片鱗が、胸の片隅で暴れ始める。
「……そうだね。ちゃんとした大人にならなくてよかったや」
だって分かったから。
私のこの気持ちは、きっと。
この夜に置いていくべきだと。
「好きだった」
私は先ほどと同じセリフを口にする。彼はウザがるような姿勢も見せずにただ黙って私を見つめていた。
「今日、やっと気づけたよ。私は、恋が好きだったんだ。君に恋をしているっていうその気持ちが心地よかった。君に会えて、話せて、やっと気づいた。あまりにも長い片思いとは、今日でさよならだ」
彼は少し驚いたような顔をしたけど、すぐにその目をほんの少しだけ細めた。受容、という意味だろう。
入店してからずっと出られなかった店。何が欲しいのか分からなくて、食べても飲んでもそれらの味は全然口に合わなくて、求めた味はサービス終了していて。
途方に暮れていた時、マスターが気まぐれで過去の限定メニューをもう一度提供してくれたのだ。
ああやっと、巡り会えた。大事に大事にこの時間を噛み締めよう。そう思って、いた。
だけど気づく。私が見ていたのは幻だったと。そのことに気づいた瞬間、私は君との時間を上手に味わうことができなくなってしまったのだ。
そろそろお店を出ようか。私はようやくそう思った。お会計は5000円ちょうど。長らく居座っていた割には高くもないけど、1人分の料金としては安くもない。中途半端な私の人生を嘲笑うような値段だ。
「涼くん。今日会ってくれてありがとう。こんな出会いだったけど、悪くなかった」
「俺の方こそ、ありがとう。悠依さんのおかげで、俺も前に進まなきゃって思えたよ」
きっとここが岐路になる。手前で立ち止まって、私は財布の中から5000円を取り出した。涼はそれをしっかり受け取る。
「それじゃあ、俺は帰るよ。今日はありがとう。次……は、ないか」
軽く失笑してから彼は玄関で靴を履く。
「じゃあね、涼くん。元気で」
「悠依さんも、元気で」
ばたん、私と君の道筋に線を引くみたいに、無感情に扉が閉まる。
頬に熱い何かが流れた。少しだけ、まだ自分が涙を流せる人間で合ったことに安心した。
君への恋が全部空虚な偽物だったなんて悲しい。少しくらいは、その恋も本物だったと信じたい。
「さようなら」
掠れた声で独言る。もう涙を流したら、私は前に進もう。彼に背を向けて、過去から一歩踏み出そう。
レジで会計を終えた私は、涙を拭って店をあとにした。
カランコロン、弱気な客人の背中をそっと押すように、ドア上の古びたベルが鳴る。