玄関のドアを開け、ただいまを言う気力もなく足を引きずるようにして家の中へ上がる。
 香織には「仕事があれば生きていける」と強がって言ってしまったけど、実際は忙殺されているだけのように思えてくる。生きるのに必死になっている。生きるために死んでいくみたいだ。
 ずっとこんな生活を続けるんだろうか。思いながらジャケットだけハンガーにかけ、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファに深く腰を下ろしてプルトップを引き上げる。ゴクリゴクリと喉を鳴らして、「はああああ」と長いため息。最近ずっと、こんな毎日。

 ソファの背もたれに背中を預け、目を閉じる。仕事に疲れ、酒に溺れた脳がふわふわと宙を泳ぐ。ふと脳裏に彼の顔が浮かんだ。昼に香織とその話題で話したからかもしれない。



 彼は涼といった。名は体を表すというべきか、その字に似つかわしく涼やかで爽やかな好青年だった。
 なんで好きになったの、とか聞かれてもうまく答えられない。10代の恋愛なんてそんなものだった。ちょっと顔が良くて、性格も申し分ない人をふとしたきっかけで好きになる。運命的な出会いも動機もない、ロマンチックの欠片なんて探すほうが難しいくらいだ。大人より初心で、味気なくて、甘酸っぱい。恋愛と呼ぶにも呼べない微妙な距離感。そんな恋が普通だった。
 私もきっと、そんな理由で彼を好きになった。きっかけなんてなく、気づいたら目で追うばかりの日々を過ごした。誰にも気づかれたくなくて秘めた恋心。はやる鼓動だけが私の本心を知っている。自分から告白なんてとんでもなかったし、彼の眼中に自分がいないことも分かっていたからただ後ろ姿を眺めているだけだった。

 彼と私は出席番号が並んでいて、年度初めの席順は決まって後ろ前で団子みたいに繋がった。教師が列ごとに配るプリントの類を彼が振り返って手渡す瞬間が大好きだった。その瞳に私が映るその一瞬がたまらなく嬉しくて胸が躍る。学年が変わるたびクラス表の自分の名前の上に彼がいるか確認して、見つけた時には心の中でガッツポーズをしたし、見つけられなかった時にはひどく落胆した。

 ふとした時の私にかけられる低めの優しい声が好き。他愛もない、「今日の課題やってきた?」とか「数学って何時間目だっけ」とか、取るに足らない言葉を交わすだけでドキドキしたし、緊張したし、嬉しかった。

 高校を卒業するまで自分の気持ちは何も言えなかった。言えなかったけど、それでよかった。私の高校生活を恋の色に染めてくれてありがとうと、心の中で感謝だけした。彼がいたから私は、それなりに高校生活を楽しんでいたんだろうと思う。だから、付き合ってほしいとか傲慢な願いは全てどこかに捨て去った。

 はずだった。



「結局忘れられてないなんて……ダサすぎ」

 天井を仰いで独りごちたとき、スマホが振動した。確認すると、香織からのメッセージだった。

『昼話してたレンタル彼氏のサイトのリンク!』

 メッセージの下に共有されたリンクがのっている。
 リンクの下にまたメッセージがあらわれた。

『いい加減諦めなよ、もう叶わないんだから!』

 グサリ、そのメッセージに心を刺され、私は無意識に「うっ……」と呻いた。忘れられるものならとっくに忘れている。

『あんたには幸せになってほしいのよ。ただでさえ仕事に忙殺されてるんだから、次の恋に進んで幸せになんなよ』

 なんだかんだ香織も私を思ってくれているのだ。応えないわけにはいかなかった。

「ありがとう。早速今日、試してみる」

 親指を立てたサインのスタンプが送られてきたのを合図に私はリンクのページを開いた。