「藤井先輩って、好きな人とかいるんですか」
平日の昼休みのことだった。
職場の近くの大衆食堂で注文を待っていると、テーブルを囲んでいた後輩が僕に尋ねてきた。
「お前なあ。それ、今聞くことじゃないだろ。洋介も困ってる」
随分な質問だ。僕が返事に困っていると、彼女の隣に座っていた同期の三上が、ため息をつきながら後輩を嗜めた。
「だって、気になるんだもん!」
「だからって、訊き方ってものがあるだろ」
三上に後輩のぶりっ子は通じない。先に来た料理を食べながら、三上は後輩を軽くあしらっていた。
因みに目の前のこの二人、二つ離れた幼馴染で、今度結婚式を挙げる予定だ。
相変わらず仲の良い二人の喧嘩を眺めながら、僕は少しぬるくなったお茶をすすり、静かに口を開いた。
「――昔、一人だけいたよ」
◇
「吉川るりさんが、転校することになりました」
それは僕がまだ、小学生だった頃のこと。
クラスメイトの一人が、突然転校することになった。
吉川るり。
彼女はまさに、夏の太陽のような人だった。
いつも元気で、はきはきとよく喋る。彼女は昼休みは男に混じって過ごすようなそんな人で、ドッチボールでは必ず最後まで残っていた。
得意なことは縄跳びと木登り。
それだけならただの快活な少女だろうが、おまけに成績まで良かった。
平均より高い背に、勝ち気な瞳。声は明るく高いのに、自信たっぷりな物言いは、力強さを感じさせた。
上級生の男子と喧嘩して勝ったとか、真偽不明の噂も流れていたせいで一部の男子に恐れられてもいたけれど、女子からは慕われていた。
悠々自適・マイペース。
でも、何事にも率先して取り組む姿勢は、先生からの評価も高かった。
向かう所敵なし――彼女はいわば、無敵の人だった。
対して、当時の僕を言い表すなら「陰」。
彼女と僕は、対極的な立場にあった。
僕から見て、彼女はまるでコーラみたいな人だった。
外を走り回って、健康的に日焼けしてたから、ってワケじゃない。
子どもの頃、暑い夏の日に、キンキンに冷えた炭酸水を一気飲みする。その時の、喉の奥をピリピリとヒリつかせせながら、冷たいものが一気に駆け抜けていくあの感覚。
ウォータースライダーのスプラッシュみたいな、一瞬で世界を変えてしまう、言葉にできない強烈な爽快感を、当時の僕は彼女に感じていた。
そんな彼女だったが、好きなタイプの話はどこか乙女じみていた。
「るりちゃんは、誰が好きなの?」
彼女を慕う女子が、暇つぶしにくるくると鉛筆を回す彼女に尋ねる。
いつだって余裕綽々。
人生なんてイージーゲーム。大人びた雰囲気をまとう彼女は、少し目を伏せて言った。
「月を私にくれる人、かな」
「え? 『お月様とって』ってこと?」
周囲の女の子たちの問いに、彼女はふふっと笑うだけだった。
「星が好きなの?」
「え?」
それから数日後、教室で本を読んでいると、突然吉川さんが僕に声をかけてきた。
「この間、私たちの話聞いてたよね」
「……き、聞こえたから」
本当に、僕は聞くつもりなんてなかった。
でも、盗み聞きするつもりはなくても、あんな大声で話されたら、どうしても耳に入ってしまうというものだろう。
「……月の土地なら、お金を出せば買えるけど」
月の土地の権利、1エーカー2700円也。
昔から天体に興味があった僕は、勿論この事実を知っていた。
「うん。でもきっと、今このクラスに月を買える人なんていないよ」
彼女の言葉は最もだった。
そりゃそうだ。
確かに月の土地の権利はかえるが、これは大人に限っての話で――子どもが買うには、他に親の許可がいる。
つまり彼女の条件を揃えるには、親に「お願い」しなきゃいけないわけで。
それは小学生男子からしたら、なかなか高いハードルだった。
しかも2700円もするのだ。
そんな大金、子どもがぽんと出せるものじゃない。
僕が黙ると、彼女はどこか遠い目をしてにこっと笑った。
「今日は何読んでるの?」
吉川さんは僕の後ろにまわりこんで、読んでいた本を覗き込んできた。
その時僕が開いていたのは、天の川についてのページだった。
七夕伝説。
織姫と彦星の恋物語。
吉川さんはその内容を見て、少しだけ不機嫌そうな表情をした。
いつも笑顔のはずな彼女が、こんな表情をするのも珍しい。
「ひどいよね、この話。親が無理矢理引き離すなんてさ」
「え?」
「織姫と彦星。可哀想だよ」
吉川さんはまるで、架空の出来事に本当に怒っているみたいだった。
ただ――。
「いや、あれは――」
僕はつい、思ったことを口に出してしまった。
「いい大人なのに、仕事しなかったから駄目だったんだと思う」
僕の解釈では、あの二人の話は悲劇ではなかった。
二人はもう大人だったわけだし、恋にかまけて仕事を放棄さえしてなければ、親だって二人を引き離すことなく、ハッピーエンドを迎えられたはずだ。
つまり、この『悲劇』は因果応報。自業自得というわけだ。
僕の解釈を聞いた吉川さんは、一度硬直して、それから少し遅れて「ぶっ」と吹き出すと、声を上げて笑い出した。
「あ……あははははっ!」
彼女はいつも冷静さを兼ね備えた人だった。だから彼女が声を上げて心の底から笑う姿を見たのは、僕はそれが初めてだった。
「そっか……そうだよね」
あーおかしい。
彼女は、目に浮かべた涙を拭いながら言った。
「……ありがとう。よーすけくん」
何かが吹っ切れたような、それは、そんな顔だった。
どうしてかはわからない。
ただ僕は彼女のその表情を見て、きゅうと胸が締め付けられた。
それからというもの、僕は前よりももっと、彼女を目で追うようになった。
僕のクラスは別に仲が悪いってわけじゃなかったし、僕が多少暗くったって、仲間はずれにする男子はいなかったけれど――ただ、僕みたいな影を生きる人間は、女子との関わりとなるとかなり薄くて、結果、僕と吉川さんが話すことは殆どなかった。
――でも。
「み、みんなで、流れ星を見に行きませんか……!」
彼女が転校することを知ったとき、みんなに最初に呼びかけたのは僕だった。
「流れ星?」
教団の上に立ち、震える声で僕は言った。
普段影のように過ごしていた僕の突然の提案に、みんなが目を丸くして僕を見ていた。
「流れ星? 見られるの?」
「おすすめの場所はすでに調べてて。ここかここがいいと思うんだけど――」
僕は昨日の夜、一生懸命自由帳にまとめたプランをみんなに見せた。
下手なりに、頑張って絵だって描いたのだ。
色鉛筆で色も塗ったし、これでみんながノッてくれなかったら、僕はいろんな意味で恥ずかしい存在になってしまう。
静まり返った教室。
失敗したのかと、僕がノートを広げたままぎゅっと目をつぶると、男子の中心である秀が、立ち上がって手を挙げた。
「いいじゃん! さんせー! みんなで流れ星見よう!」
彼に続いて、他のみんなも手を挙げる。
「私も! るりちゃん転校しちゃうなら、最後にみんなで思い出作りたい!」
クラスメイトの声はどんどんと大きくなって、僕の提案は、やがて先生や保護者を巻き込む事態になった。
『4年1組の流れ星の観測会について』
この件について、子どもが夜に出歩くなんて、と心配する親は勿論居た。
今思えばもっともな話なのだけれど、当時は吉川さんが転校することもあって、そういう親は「友情を壊す悪い大人」みたいな認識を、当時の僕たちは共有していたように思う。
ある意味子どもらしい、少し傲慢な昔話だ。
だって僕が用意した観測会の場所に行くには車が必要で、親なしでは達成できない目標だったんだから。
吉川さんの親は車を出すのが難しくて、彼女は僕のお母さんの車に乗ることになった。
「今日は宜しくお願いします」
彼女は礼儀正しく、僕のお母さんに頭を下げた。
「るりちゃんは陽介といっしょに、後ろに乗ってくれる?」
「はい。ありがとうございます」
彼女は小学生にして、大人に対する処世術を身に着けていた。
一方僕は、彼女を乗せるのに小さな軽自動車では見栄えが悪い気がしてそわそわした。
父さんの車だったら、もっと大きくて彼女にも自慢ができたのに――。
僕は、気を利かせてくれなかった父さんを内心少し恨んだ。
母さんはそんな僕の態度に気づいたのか、吉川さんにはバレないようにミラー越しに僕に目配せしてにやっと笑い、道中とんでもない言葉を彼女に投げかけた。
「星なら、陽介に聞いてやって。ほら、なんていうの? この子オタクっていうか、昔からそういうの大好きだから」
「母さんっ!」
そりゃあ、好きは好きだけど!
彼女のような人に、僕の話なんて振らないでほしい。
暗い車の中で僕が一人頬を染めていると、隣に座っていた吉川さんが落ち着いた声で言った。
「はい。知っています」
彼女は彼女の言葉を聞いて硬直していた僕の方をちらりと見て、にこっと綺麗に笑った。
その瞬間、僕はまるで、時が止まったかのような感覚を覚えた。
勢いよく下を向く。
どうしよう。耳まで熱くなって、顔が上げられない――。このまま、彼女と二人で過ごすなんて間が持たない!
だが、心配は束の間。
観測会の会場である山の上につくと、僕の母さんの車の周りには、わらわらと先発組が集まってきた。
「よーすけ! こっちで一緒に見ようぜ!」
「るりちゃん、私たちと一緒に見よ!」
僕たちに、それぞれ手が差し出される。
彼らに導かれるまま、僕たちは分かれて夜空を見上げた。
街灯の少ないその場所からは、いつもより星がよく見えた。
満天の星空。
いつもはとっくにベッドの中にいる時間のはずなのに、興奮で冴えた目で、僕たちはその瞬間を待っていた。
――沢山の星が降ってくる、美しいその瞬間を。
「あ! 今――」
誰かが、空を指差して声を上げた。
すぐあとに、別の声が重なる。
「流れ星! 流れ星だ!」
「また流れた! 早くお願い事しなきゃ!」
子どもたちの、明るい声が木霊する。
小さな指は空を指し、巻き込まれた大人たちは僕たちを見て、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
「今――」
僕が、そう言おうとした時だった。
誰かに腕を掴まれて、僕は勢いよく後ろを振り返った。
そこにいたのは。
「よ、吉川さん?」
何故か僕の手を掴んだ彼女は、周囲をキョロキョロと見渡して、右手の人差し指を口元に当てて言った。
「しっ。静かにして」
僕が彼女の命令に従って大人しく口を噤むと、彼女は満足気に微笑んでから、僕の手を強く引いた。
まるで、夢でも見ているかのようだった。
二人きりの逃避行。
クラスメイトと、僕の発案で流れ星を観測する。
それだけでも影に隠れてばかりの僕の人生にとってはビッグイベントだっていうのに、女の子とふたりきりでみんなの輪から抜け出すなんて――それは、つまらない僕の人生の中で、初めてスポットライトが当たった瞬間だった。
足の速い彼女に合わせて、精一杯僕は走る。
「わっ」
彼女に手を引かれて、僕は地面に膝をついた。
少しだけしめった草を踏むと、夜の静寂に、青い臭いと土の匂いが広がったような気がした。
「ほら。よーすけくんも、横になりなよ」
まるで王様みたいだった。
彼女は自分の部屋のソファに座れと言わんばかりに、自分の隣の地面を叩いた。
「星が綺麗に見えるよ」
僕は彼女に言われるまま原っぱに横になって、彼女といっしょに空を見上げた。
流星を見るのに、そこは特等席だった。
あの日の僕が、少し疑問に思うほど。
もしかして、彼女は前からこの場所を知っていたんだろうか? 今日のために、前もって調べていたんじゃ――?
もちろん僕だってわかってる。そんなはず、あるわけない。
もしそんな特別な場所なら、彼女が僕を連れてきてくれるはずがないんだから。
ただ、あの日のあの一瞬、その全てが、まるで映画のワンシーンのようで。不格好な僕はただ、この世界の主人公みたいな彼女の横で、空を見上げることしかできなかった。
星が降る、空を見上げる。
その美しさに心が躍る瞬間だけは、きっと僕と彼女は同じ気持ちを抱くのだろう。
僕が黙っていると、彼女がぽつりぽつりと話を始めた。
「私ね、昔――家族で流れ星を見たことがあるんだ。お祖母ちゃんの家の近くでね、テントを張って、キャンプして。みんなで流れ星を見たの。でも、今はそこ、イノシシが出るようになって駄目になっちゃった」
「イノシシ……?」
「うん。環境の変化、っていうか。イノシシが山から下りてきて――それでそれからは、キャンプも星空鑑賞もだめになっちゃって」
彼女はそう言うと、夜空に手を伸ばした。
僕には何故か、彼女が月を掴もうとしているかのように見えた。
「分かってるんだ。危ないからやめなさいとか、大人がそう言うのには理由があって、私のこと、心配してるってことくらい。でもさ、『駄目だ』って言われた時に、私は思っちゃうんだ。私は、誰かの引いたレールの上しか、歩けない立場なんだなあって」
「『レール』?」
僕が聞き返すと、彼女が小さく息を吐いた。
「よーすけくんは……ほんと、少し変わってるよね」
「そ、そうかな……?」
僕は、彼女の言葉に驚くことしか出来なかった。
僕ほど平々凡々な人間もいないだろう。変わっているのは彼女の方だ。
「……今日は、とびきり星が綺麗だね」
そう言う彼女の横顔は、僕にはとびきり綺麗に見えた。
「今日のこと、ありがとう。最後に、みんなと思い出が作れて嬉しかった」
「僕は……ただ、みんなと流れ星が見たくて」
「うん。そうだね」
彼女はそう言うと、静かに立ち上がった。
「じゃあ、みんなのところに戻ろうか」
彼女はもう、僕とは手を繋がなかった。
「もう! どこ行ってたの! るりちゃん!」
「ちょっとトイレ」
「えー! なら、私も一緒に行ったのに!」
みんなの輪に戻るとすぐ、みんなが僕たちに気がついた。
いつも吉川さんと一緒にいる女の子が、彼女の腕に抱きついて唇を尖らせる。
僕がその光景をぼんやり眺めていると、秀が僕の肩を叩いた。
「よーすけ。お前、何かお願いした?」
「お願いしたけど、3回は無理だった」
「やっぱ無理だよな? あれ。速すぎるって」
秀が苦笑いすると、お調子者の翔太が誇らしげに言った。
「まあ俺は、『俺ルール』使ったからいけたけど」
「反則だろ、それ」
「うっせ」
馬鹿みたいなやりとりと、笑い声が夜に響く。
吉川さんは帰り、違う車に乗って帰ることになり、夏休みがあける頃、彼女は先生の言葉通りに転校していった。
転校の理由は、両親の離婚によるものだったらしい。
僕はその事実を知ってようやく、彼女が僕に時折見せた、どこか子どもらしくない表情の理由が理解できた気がした。
そういえばあの夜、彼女が僕のお母さんの車に乗ったのは、彼女自身の意思によるものだったらしい。
その事実を、僕は彼女が転校してから知った。
そして初恋は幕を閉じ、僕はあの日から、忘れられない、恋を抱えて生きている。
◇
「え!? じゃあそれから、その人とは、なんとも!?」
届いた料理を食べながら僕の話を聞いていた後輩は、目を瞬かせて僕に尋ねた。
「まあ、そうなるね」
「じゃあ先輩は告白すらしなかったのに、未だにその人のこと引きずっているんですか!?」
「うん。あの……心を抉る言葉は、もう少し控えてもらえると助かる……かな?」
これ以上心の傷を抉らないでほしい。
職場に近い、人の多い場所で、年下の女の子に大声で過去の恋愛を暴露されるのに耐えられるほど、僕は鋼の心を持ってはいないのだ。
「でも、勿体ないですよ! 先輩面倒見いいし、真面目だし、評判わるくないのに!」
「ありがとう」
「それにザ・公務員って感じだし! 彼氏より旦那にしたいタイプだって思うんですよ!」
「それ、どういう評価なんだ……」
彼氏にするには地味だが、安定志向で旦那向き。
褒められているのかけなされているのか。僕は後輩の言葉に頭を抑えた。
「つまり先輩は、今のままだと勿体ないってことです!」
「……うん。一応心配してくれてるってことで受け取っておくよ」
まあなんだかんだ、この後輩はいい人間なのだ。
子どもだったみんなが大人になって、心の内を隠すことを学んでしまったことを思えば、目の前の彼女は子どもだったあの頃の自分たちがそっくりそのまま大人になったようで、見ていて少し安心できた。
年月は人を変える。
でも、どんな大人の中にだって、遠い日の子どもの頃の感情がずっとあってもいいのだと――彼女を見ていると、肯定できるような気がした。
「そのへんにしとけ。ほら、食べたんなら戻るぞ」
黙々と食べていた三上は、今日も大盛りの丼ぶりを軽く平らげていた。少食の後輩ももう食べおわっている。遅いのは僕だけだ。
「待って。僕も一緒に行く」
僕は慌ててご飯をかっこむと、荷物を持って立ち上がった。
「――洋介」
僕が店を出ると、三上が僕に向かってコーラを投げた。
先に出て自販機で買ってくれていたらしい。
「こいつが悪かったな。それでも飲んでから戻れ」
「……ありがと」
僕は手にすっぽり収まる、冷たい炭酸の入った缶を眺めた。
「……珍しく、あいつに心配された」
職場に戻る前に、僕は近くのベンチに座ってコーラを飲むことにした。
三上は口数こそ少ないが、常に冷静で周りを見ている。
その瞳が僕には、どこか彼女に似ているように思えた。
僕という人間が、成長する中で周囲から存在が希薄になっても、三上はいつも、僕という存在を「認識」してくれているように思えた。
幼い頃の友人たち――秀も翔太もいいやつだった。
僕たちの中学は持ち上がりで、当時は小学生で受験するやつなんてほとんど居なかった。
でも、みんな中学になると、他の小学生とも話すようになって、僕は新しい彼らの輪に入ることが、少しずつ苦手になっていった。
そして僕は少しずつ、みんなの輪から外れていった。
三上は、そんな僕に手を差し伸べてくれた。
僕と三上は高校と大学が同じだ。きっかけについてよく覚えていないけれど、三上とは一年の時クラスが隣で、三上が忘れ物をして教科書を借りに来たとき、教室にいなかった「友人」の代わりに教科書を貸したのが、多分始まりだったように思う。
おかげで、特に明るいわけでも運動もできるわけでもなかった僕が、何故か彼の「友だち」つながりでそういう人たちとも話すようになり、僕は少しばかりの社会性を手に入れた。
結局、陰キャだとか陽キャだとか、そうやってレッテルを貼っているのは自分自身で、たぶん本当に芯がある人間はそんな枠を飛び越えて、「自分が好きだからここにいる」、みたいな、友達も自分の居場所でさえも、自分で選べるものなんだろう。
そして僕は今も昔も、そういうものを「眩しい」と思う側の人間だった。
僕はなんだか胸が苦しくなって、缶の蓋に指をかけた。
プシュッという音がして、次の瞬間、中身が勢いよくこぼれ始める。
「わっ。あ、あっ!」
スーツにコーラがかかりそうになって、僕は慌てて声を上げて立ち上がった。
しゅわしゅわした泡で手が濡れて、それを落とすために軽く手を振る。
「くそ。あいつが投げたせいだ!」
僕は思わず叫んでいた。
怒りを口に出すと、炭酸の泡が吹き出したあとに収まるみたいに、僕は自分の心の中の波のような感情が、少しずつ凪いでいくのを感じた。
「あーー……残り、飲み干すか……」
僕はひとり呟くと、少しだけ炭酸の抜けたコーラを一気に飲み干した。
喉を通り抜けるあの激しさが少しだけおさまって、代わりにいつもより、口の中に甘さが残っているような気がした。
それは、まるで自分の中の「彼女」の存在のように。
「……」
僕は、缶を握る手に力を込めた。
そうだ。
あの頃の僕は、僕たちは、どうしようもなく子どもだった。
流れ星の力を借りて、告白もできないくらい、それは言葉にするには、まばゆく遠い感情だった。
わかっている。
本当は、忘れるべき恋なのだろう。
でもこの世界はあまりにも、あの日を思い出すものに溢れていた。
道を歩けばそこら中にある自販機の中の缶の中に、僕の初恋は存在している。
忘れようとするたびに、溢れてこぼれて、簡単に僕の心を掻き乱す。
もう戻れないあの日々の、あの一瞬に。僕と彼女は、確かに手を繋いだのだ。
空から星の降る、あの特別な夜に。
「……仕事、戻らなきゃ」
最後の一滴まで飲み干した僕は、缶を近くのゴミ箱に捨てると、職場に戻ることにした。
あの夜から――順当に普通の生活を続けた僕は、大学を卒業して、地元の役所を受けて無事合格した。
代わり映えのない毎日。
僕の日常は、今日も当たり前に過ぎていく。
「次の方、どうぞ」
窓口に映し出される番号を変えて僕が言えば、椅子に座っていた女性が立ち上がった。
どうやら転入者らしい。いつものように差し出された書類を確認していた僕は、名前の欄を見て目を瞬かせた。
「……え? 吉川……るり……さん?」
僕は思わず、顔を上げて彼女を見た。
「なん、で……」
あの頃とは少し違う。
どこか気が抜けてしまったようにも見える炭酸は、昔よりどこか甘い、大人な雰囲気を宿していた。
「だって、どうしても会いたかったから」
「……」
「流れ星が叶えてくれないなら、私が会いに行けばいい。そうでしょ?」
その瞳を見たときに、僕は無意識に胸を押さえていた。
ああ、やっぱり彼女のせいだ。
喉の奥がひりつくこのかんじ。
忘れたいのに忘れられなかったあの日の感情は、いつだってこの心のなかにある。
あの日の彼女があまりに眩しかったから。
あの夜二人で見上げた星空が、あまりにも綺麗だったから。
あの日からずっと、忘れられない、恋を抱えて生きてきた。
ああ、どうしよう。
もうとっくに大人だっていうのに、どうしたって視界が霞む。
どこからか降ってきた雨が、濡らしちゃいけない書類に書かれた文字を滲ませる。
雨漏りだ。
あの日封じ込めたはずの感情が、心の中に開いた穴を通って、溢れてこぼれて止まらない。
「吉川さん」
「はい」
「……月の土地、今度、贈ってもいいですか?」
僕は震える声で彼女に尋ねた。
子どもだったあの日、彼女に言えなかった言葉を。
大人になれば親の許可なんていらない。
月の土地は、一人でも買えるのだ。
だって僕たちはもう、あの日のような子どもではないんだから。
子どもの時間はもう終わり。
それでもずっと、あの日から変わらない感情がここにある。
僕の問いに、彼女は目を瞬かせてから、あの日々と似た温かなお日様のような笑顔を浮かべて、元気よく頷いた。
「うん。勿論。よーすけくん」
平日の昼休みのことだった。
職場の近くの大衆食堂で注文を待っていると、テーブルを囲んでいた後輩が僕に尋ねてきた。
「お前なあ。それ、今聞くことじゃないだろ。洋介も困ってる」
随分な質問だ。僕が返事に困っていると、彼女の隣に座っていた同期の三上が、ため息をつきながら後輩を嗜めた。
「だって、気になるんだもん!」
「だからって、訊き方ってものがあるだろ」
三上に後輩のぶりっ子は通じない。先に来た料理を食べながら、三上は後輩を軽くあしらっていた。
因みに目の前のこの二人、二つ離れた幼馴染で、今度結婚式を挙げる予定だ。
相変わらず仲の良い二人の喧嘩を眺めながら、僕は少しぬるくなったお茶をすすり、静かに口を開いた。
「――昔、一人だけいたよ」
◇
「吉川るりさんが、転校することになりました」
それは僕がまだ、小学生だった頃のこと。
クラスメイトの一人が、突然転校することになった。
吉川るり。
彼女はまさに、夏の太陽のような人だった。
いつも元気で、はきはきとよく喋る。彼女は昼休みは男に混じって過ごすようなそんな人で、ドッチボールでは必ず最後まで残っていた。
得意なことは縄跳びと木登り。
それだけならただの快活な少女だろうが、おまけに成績まで良かった。
平均より高い背に、勝ち気な瞳。声は明るく高いのに、自信たっぷりな物言いは、力強さを感じさせた。
上級生の男子と喧嘩して勝ったとか、真偽不明の噂も流れていたせいで一部の男子に恐れられてもいたけれど、女子からは慕われていた。
悠々自適・マイペース。
でも、何事にも率先して取り組む姿勢は、先生からの評価も高かった。
向かう所敵なし――彼女はいわば、無敵の人だった。
対して、当時の僕を言い表すなら「陰」。
彼女と僕は、対極的な立場にあった。
僕から見て、彼女はまるでコーラみたいな人だった。
外を走り回って、健康的に日焼けしてたから、ってワケじゃない。
子どもの頃、暑い夏の日に、キンキンに冷えた炭酸水を一気飲みする。その時の、喉の奥をピリピリとヒリつかせせながら、冷たいものが一気に駆け抜けていくあの感覚。
ウォータースライダーのスプラッシュみたいな、一瞬で世界を変えてしまう、言葉にできない強烈な爽快感を、当時の僕は彼女に感じていた。
そんな彼女だったが、好きなタイプの話はどこか乙女じみていた。
「るりちゃんは、誰が好きなの?」
彼女を慕う女子が、暇つぶしにくるくると鉛筆を回す彼女に尋ねる。
いつだって余裕綽々。
人生なんてイージーゲーム。大人びた雰囲気をまとう彼女は、少し目を伏せて言った。
「月を私にくれる人、かな」
「え? 『お月様とって』ってこと?」
周囲の女の子たちの問いに、彼女はふふっと笑うだけだった。
「星が好きなの?」
「え?」
それから数日後、教室で本を読んでいると、突然吉川さんが僕に声をかけてきた。
「この間、私たちの話聞いてたよね」
「……き、聞こえたから」
本当に、僕は聞くつもりなんてなかった。
でも、盗み聞きするつもりはなくても、あんな大声で話されたら、どうしても耳に入ってしまうというものだろう。
「……月の土地なら、お金を出せば買えるけど」
月の土地の権利、1エーカー2700円也。
昔から天体に興味があった僕は、勿論この事実を知っていた。
「うん。でもきっと、今このクラスに月を買える人なんていないよ」
彼女の言葉は最もだった。
そりゃそうだ。
確かに月の土地の権利はかえるが、これは大人に限っての話で――子どもが買うには、他に親の許可がいる。
つまり彼女の条件を揃えるには、親に「お願い」しなきゃいけないわけで。
それは小学生男子からしたら、なかなか高いハードルだった。
しかも2700円もするのだ。
そんな大金、子どもがぽんと出せるものじゃない。
僕が黙ると、彼女はどこか遠い目をしてにこっと笑った。
「今日は何読んでるの?」
吉川さんは僕の後ろにまわりこんで、読んでいた本を覗き込んできた。
その時僕が開いていたのは、天の川についてのページだった。
七夕伝説。
織姫と彦星の恋物語。
吉川さんはその内容を見て、少しだけ不機嫌そうな表情をした。
いつも笑顔のはずな彼女が、こんな表情をするのも珍しい。
「ひどいよね、この話。親が無理矢理引き離すなんてさ」
「え?」
「織姫と彦星。可哀想だよ」
吉川さんはまるで、架空の出来事に本当に怒っているみたいだった。
ただ――。
「いや、あれは――」
僕はつい、思ったことを口に出してしまった。
「いい大人なのに、仕事しなかったから駄目だったんだと思う」
僕の解釈では、あの二人の話は悲劇ではなかった。
二人はもう大人だったわけだし、恋にかまけて仕事を放棄さえしてなければ、親だって二人を引き離すことなく、ハッピーエンドを迎えられたはずだ。
つまり、この『悲劇』は因果応報。自業自得というわけだ。
僕の解釈を聞いた吉川さんは、一度硬直して、それから少し遅れて「ぶっ」と吹き出すと、声を上げて笑い出した。
「あ……あははははっ!」
彼女はいつも冷静さを兼ね備えた人だった。だから彼女が声を上げて心の底から笑う姿を見たのは、僕はそれが初めてだった。
「そっか……そうだよね」
あーおかしい。
彼女は、目に浮かべた涙を拭いながら言った。
「……ありがとう。よーすけくん」
何かが吹っ切れたような、それは、そんな顔だった。
どうしてかはわからない。
ただ僕は彼女のその表情を見て、きゅうと胸が締め付けられた。
それからというもの、僕は前よりももっと、彼女を目で追うようになった。
僕のクラスは別に仲が悪いってわけじゃなかったし、僕が多少暗くったって、仲間はずれにする男子はいなかったけれど――ただ、僕みたいな影を生きる人間は、女子との関わりとなるとかなり薄くて、結果、僕と吉川さんが話すことは殆どなかった。
――でも。
「み、みんなで、流れ星を見に行きませんか……!」
彼女が転校することを知ったとき、みんなに最初に呼びかけたのは僕だった。
「流れ星?」
教団の上に立ち、震える声で僕は言った。
普段影のように過ごしていた僕の突然の提案に、みんなが目を丸くして僕を見ていた。
「流れ星? 見られるの?」
「おすすめの場所はすでに調べてて。ここかここがいいと思うんだけど――」
僕は昨日の夜、一生懸命自由帳にまとめたプランをみんなに見せた。
下手なりに、頑張って絵だって描いたのだ。
色鉛筆で色も塗ったし、これでみんながノッてくれなかったら、僕はいろんな意味で恥ずかしい存在になってしまう。
静まり返った教室。
失敗したのかと、僕がノートを広げたままぎゅっと目をつぶると、男子の中心である秀が、立ち上がって手を挙げた。
「いいじゃん! さんせー! みんなで流れ星見よう!」
彼に続いて、他のみんなも手を挙げる。
「私も! るりちゃん転校しちゃうなら、最後にみんなで思い出作りたい!」
クラスメイトの声はどんどんと大きくなって、僕の提案は、やがて先生や保護者を巻き込む事態になった。
『4年1組の流れ星の観測会について』
この件について、子どもが夜に出歩くなんて、と心配する親は勿論居た。
今思えばもっともな話なのだけれど、当時は吉川さんが転校することもあって、そういう親は「友情を壊す悪い大人」みたいな認識を、当時の僕たちは共有していたように思う。
ある意味子どもらしい、少し傲慢な昔話だ。
だって僕が用意した観測会の場所に行くには車が必要で、親なしでは達成できない目標だったんだから。
吉川さんの親は車を出すのが難しくて、彼女は僕のお母さんの車に乗ることになった。
「今日は宜しくお願いします」
彼女は礼儀正しく、僕のお母さんに頭を下げた。
「るりちゃんは陽介といっしょに、後ろに乗ってくれる?」
「はい。ありがとうございます」
彼女は小学生にして、大人に対する処世術を身に着けていた。
一方僕は、彼女を乗せるのに小さな軽自動車では見栄えが悪い気がしてそわそわした。
父さんの車だったら、もっと大きくて彼女にも自慢ができたのに――。
僕は、気を利かせてくれなかった父さんを内心少し恨んだ。
母さんはそんな僕の態度に気づいたのか、吉川さんにはバレないようにミラー越しに僕に目配せしてにやっと笑い、道中とんでもない言葉を彼女に投げかけた。
「星なら、陽介に聞いてやって。ほら、なんていうの? この子オタクっていうか、昔からそういうの大好きだから」
「母さんっ!」
そりゃあ、好きは好きだけど!
彼女のような人に、僕の話なんて振らないでほしい。
暗い車の中で僕が一人頬を染めていると、隣に座っていた吉川さんが落ち着いた声で言った。
「はい。知っています」
彼女は彼女の言葉を聞いて硬直していた僕の方をちらりと見て、にこっと綺麗に笑った。
その瞬間、僕はまるで、時が止まったかのような感覚を覚えた。
勢いよく下を向く。
どうしよう。耳まで熱くなって、顔が上げられない――。このまま、彼女と二人で過ごすなんて間が持たない!
だが、心配は束の間。
観測会の会場である山の上につくと、僕の母さんの車の周りには、わらわらと先発組が集まってきた。
「よーすけ! こっちで一緒に見ようぜ!」
「るりちゃん、私たちと一緒に見よ!」
僕たちに、それぞれ手が差し出される。
彼らに導かれるまま、僕たちは分かれて夜空を見上げた。
街灯の少ないその場所からは、いつもより星がよく見えた。
満天の星空。
いつもはとっくにベッドの中にいる時間のはずなのに、興奮で冴えた目で、僕たちはその瞬間を待っていた。
――沢山の星が降ってくる、美しいその瞬間を。
「あ! 今――」
誰かが、空を指差して声を上げた。
すぐあとに、別の声が重なる。
「流れ星! 流れ星だ!」
「また流れた! 早くお願い事しなきゃ!」
子どもたちの、明るい声が木霊する。
小さな指は空を指し、巻き込まれた大人たちは僕たちを見て、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
「今――」
僕が、そう言おうとした時だった。
誰かに腕を掴まれて、僕は勢いよく後ろを振り返った。
そこにいたのは。
「よ、吉川さん?」
何故か僕の手を掴んだ彼女は、周囲をキョロキョロと見渡して、右手の人差し指を口元に当てて言った。
「しっ。静かにして」
僕が彼女の命令に従って大人しく口を噤むと、彼女は満足気に微笑んでから、僕の手を強く引いた。
まるで、夢でも見ているかのようだった。
二人きりの逃避行。
クラスメイトと、僕の発案で流れ星を観測する。
それだけでも影に隠れてばかりの僕の人生にとってはビッグイベントだっていうのに、女の子とふたりきりでみんなの輪から抜け出すなんて――それは、つまらない僕の人生の中で、初めてスポットライトが当たった瞬間だった。
足の速い彼女に合わせて、精一杯僕は走る。
「わっ」
彼女に手を引かれて、僕は地面に膝をついた。
少しだけしめった草を踏むと、夜の静寂に、青い臭いと土の匂いが広がったような気がした。
「ほら。よーすけくんも、横になりなよ」
まるで王様みたいだった。
彼女は自分の部屋のソファに座れと言わんばかりに、自分の隣の地面を叩いた。
「星が綺麗に見えるよ」
僕は彼女に言われるまま原っぱに横になって、彼女といっしょに空を見上げた。
流星を見るのに、そこは特等席だった。
あの日の僕が、少し疑問に思うほど。
もしかして、彼女は前からこの場所を知っていたんだろうか? 今日のために、前もって調べていたんじゃ――?
もちろん僕だってわかってる。そんなはず、あるわけない。
もしそんな特別な場所なら、彼女が僕を連れてきてくれるはずがないんだから。
ただ、あの日のあの一瞬、その全てが、まるで映画のワンシーンのようで。不格好な僕はただ、この世界の主人公みたいな彼女の横で、空を見上げることしかできなかった。
星が降る、空を見上げる。
その美しさに心が躍る瞬間だけは、きっと僕と彼女は同じ気持ちを抱くのだろう。
僕が黙っていると、彼女がぽつりぽつりと話を始めた。
「私ね、昔――家族で流れ星を見たことがあるんだ。お祖母ちゃんの家の近くでね、テントを張って、キャンプして。みんなで流れ星を見たの。でも、今はそこ、イノシシが出るようになって駄目になっちゃった」
「イノシシ……?」
「うん。環境の変化、っていうか。イノシシが山から下りてきて――それでそれからは、キャンプも星空鑑賞もだめになっちゃって」
彼女はそう言うと、夜空に手を伸ばした。
僕には何故か、彼女が月を掴もうとしているかのように見えた。
「分かってるんだ。危ないからやめなさいとか、大人がそう言うのには理由があって、私のこと、心配してるってことくらい。でもさ、『駄目だ』って言われた時に、私は思っちゃうんだ。私は、誰かの引いたレールの上しか、歩けない立場なんだなあって」
「『レール』?」
僕が聞き返すと、彼女が小さく息を吐いた。
「よーすけくんは……ほんと、少し変わってるよね」
「そ、そうかな……?」
僕は、彼女の言葉に驚くことしか出来なかった。
僕ほど平々凡々な人間もいないだろう。変わっているのは彼女の方だ。
「……今日は、とびきり星が綺麗だね」
そう言う彼女の横顔は、僕にはとびきり綺麗に見えた。
「今日のこと、ありがとう。最後に、みんなと思い出が作れて嬉しかった」
「僕は……ただ、みんなと流れ星が見たくて」
「うん。そうだね」
彼女はそう言うと、静かに立ち上がった。
「じゃあ、みんなのところに戻ろうか」
彼女はもう、僕とは手を繋がなかった。
「もう! どこ行ってたの! るりちゃん!」
「ちょっとトイレ」
「えー! なら、私も一緒に行ったのに!」
みんなの輪に戻るとすぐ、みんなが僕たちに気がついた。
いつも吉川さんと一緒にいる女の子が、彼女の腕に抱きついて唇を尖らせる。
僕がその光景をぼんやり眺めていると、秀が僕の肩を叩いた。
「よーすけ。お前、何かお願いした?」
「お願いしたけど、3回は無理だった」
「やっぱ無理だよな? あれ。速すぎるって」
秀が苦笑いすると、お調子者の翔太が誇らしげに言った。
「まあ俺は、『俺ルール』使ったからいけたけど」
「反則だろ、それ」
「うっせ」
馬鹿みたいなやりとりと、笑い声が夜に響く。
吉川さんは帰り、違う車に乗って帰ることになり、夏休みがあける頃、彼女は先生の言葉通りに転校していった。
転校の理由は、両親の離婚によるものだったらしい。
僕はその事実を知ってようやく、彼女が僕に時折見せた、どこか子どもらしくない表情の理由が理解できた気がした。
そういえばあの夜、彼女が僕のお母さんの車に乗ったのは、彼女自身の意思によるものだったらしい。
その事実を、僕は彼女が転校してから知った。
そして初恋は幕を閉じ、僕はあの日から、忘れられない、恋を抱えて生きている。
◇
「え!? じゃあそれから、その人とは、なんとも!?」
届いた料理を食べながら僕の話を聞いていた後輩は、目を瞬かせて僕に尋ねた。
「まあ、そうなるね」
「じゃあ先輩は告白すらしなかったのに、未だにその人のこと引きずっているんですか!?」
「うん。あの……心を抉る言葉は、もう少し控えてもらえると助かる……かな?」
これ以上心の傷を抉らないでほしい。
職場に近い、人の多い場所で、年下の女の子に大声で過去の恋愛を暴露されるのに耐えられるほど、僕は鋼の心を持ってはいないのだ。
「でも、勿体ないですよ! 先輩面倒見いいし、真面目だし、評判わるくないのに!」
「ありがとう」
「それにザ・公務員って感じだし! 彼氏より旦那にしたいタイプだって思うんですよ!」
「それ、どういう評価なんだ……」
彼氏にするには地味だが、安定志向で旦那向き。
褒められているのかけなされているのか。僕は後輩の言葉に頭を抑えた。
「つまり先輩は、今のままだと勿体ないってことです!」
「……うん。一応心配してくれてるってことで受け取っておくよ」
まあなんだかんだ、この後輩はいい人間なのだ。
子どもだったみんなが大人になって、心の内を隠すことを学んでしまったことを思えば、目の前の彼女は子どもだったあの頃の自分たちがそっくりそのまま大人になったようで、見ていて少し安心できた。
年月は人を変える。
でも、どんな大人の中にだって、遠い日の子どもの頃の感情がずっとあってもいいのだと――彼女を見ていると、肯定できるような気がした。
「そのへんにしとけ。ほら、食べたんなら戻るぞ」
黙々と食べていた三上は、今日も大盛りの丼ぶりを軽く平らげていた。少食の後輩ももう食べおわっている。遅いのは僕だけだ。
「待って。僕も一緒に行く」
僕は慌ててご飯をかっこむと、荷物を持って立ち上がった。
「――洋介」
僕が店を出ると、三上が僕に向かってコーラを投げた。
先に出て自販機で買ってくれていたらしい。
「こいつが悪かったな。それでも飲んでから戻れ」
「……ありがと」
僕は手にすっぽり収まる、冷たい炭酸の入った缶を眺めた。
「……珍しく、あいつに心配された」
職場に戻る前に、僕は近くのベンチに座ってコーラを飲むことにした。
三上は口数こそ少ないが、常に冷静で周りを見ている。
その瞳が僕には、どこか彼女に似ているように思えた。
僕という人間が、成長する中で周囲から存在が希薄になっても、三上はいつも、僕という存在を「認識」してくれているように思えた。
幼い頃の友人たち――秀も翔太もいいやつだった。
僕たちの中学は持ち上がりで、当時は小学生で受験するやつなんてほとんど居なかった。
でも、みんな中学になると、他の小学生とも話すようになって、僕は新しい彼らの輪に入ることが、少しずつ苦手になっていった。
そして僕は少しずつ、みんなの輪から外れていった。
三上は、そんな僕に手を差し伸べてくれた。
僕と三上は高校と大学が同じだ。きっかけについてよく覚えていないけれど、三上とは一年の時クラスが隣で、三上が忘れ物をして教科書を借りに来たとき、教室にいなかった「友人」の代わりに教科書を貸したのが、多分始まりだったように思う。
おかげで、特に明るいわけでも運動もできるわけでもなかった僕が、何故か彼の「友だち」つながりでそういう人たちとも話すようになり、僕は少しばかりの社会性を手に入れた。
結局、陰キャだとか陽キャだとか、そうやってレッテルを貼っているのは自分自身で、たぶん本当に芯がある人間はそんな枠を飛び越えて、「自分が好きだからここにいる」、みたいな、友達も自分の居場所でさえも、自分で選べるものなんだろう。
そして僕は今も昔も、そういうものを「眩しい」と思う側の人間だった。
僕はなんだか胸が苦しくなって、缶の蓋に指をかけた。
プシュッという音がして、次の瞬間、中身が勢いよくこぼれ始める。
「わっ。あ、あっ!」
スーツにコーラがかかりそうになって、僕は慌てて声を上げて立ち上がった。
しゅわしゅわした泡で手が濡れて、それを落とすために軽く手を振る。
「くそ。あいつが投げたせいだ!」
僕は思わず叫んでいた。
怒りを口に出すと、炭酸の泡が吹き出したあとに収まるみたいに、僕は自分の心の中の波のような感情が、少しずつ凪いでいくのを感じた。
「あーー……残り、飲み干すか……」
僕はひとり呟くと、少しだけ炭酸の抜けたコーラを一気に飲み干した。
喉を通り抜けるあの激しさが少しだけおさまって、代わりにいつもより、口の中に甘さが残っているような気がした。
それは、まるで自分の中の「彼女」の存在のように。
「……」
僕は、缶を握る手に力を込めた。
そうだ。
あの頃の僕は、僕たちは、どうしようもなく子どもだった。
流れ星の力を借りて、告白もできないくらい、それは言葉にするには、まばゆく遠い感情だった。
わかっている。
本当は、忘れるべき恋なのだろう。
でもこの世界はあまりにも、あの日を思い出すものに溢れていた。
道を歩けばそこら中にある自販機の中の缶の中に、僕の初恋は存在している。
忘れようとするたびに、溢れてこぼれて、簡単に僕の心を掻き乱す。
もう戻れないあの日々の、あの一瞬に。僕と彼女は、確かに手を繋いだのだ。
空から星の降る、あの特別な夜に。
「……仕事、戻らなきゃ」
最後の一滴まで飲み干した僕は、缶を近くのゴミ箱に捨てると、職場に戻ることにした。
あの夜から――順当に普通の生活を続けた僕は、大学を卒業して、地元の役所を受けて無事合格した。
代わり映えのない毎日。
僕の日常は、今日も当たり前に過ぎていく。
「次の方、どうぞ」
窓口に映し出される番号を変えて僕が言えば、椅子に座っていた女性が立ち上がった。
どうやら転入者らしい。いつものように差し出された書類を確認していた僕は、名前の欄を見て目を瞬かせた。
「……え? 吉川……るり……さん?」
僕は思わず、顔を上げて彼女を見た。
「なん、で……」
あの頃とは少し違う。
どこか気が抜けてしまったようにも見える炭酸は、昔よりどこか甘い、大人な雰囲気を宿していた。
「だって、どうしても会いたかったから」
「……」
「流れ星が叶えてくれないなら、私が会いに行けばいい。そうでしょ?」
その瞳を見たときに、僕は無意識に胸を押さえていた。
ああ、やっぱり彼女のせいだ。
喉の奥がひりつくこのかんじ。
忘れたいのに忘れられなかったあの日の感情は、いつだってこの心のなかにある。
あの日の彼女があまりに眩しかったから。
あの夜二人で見上げた星空が、あまりにも綺麗だったから。
あの日からずっと、忘れられない、恋を抱えて生きてきた。
ああ、どうしよう。
もうとっくに大人だっていうのに、どうしたって視界が霞む。
どこからか降ってきた雨が、濡らしちゃいけない書類に書かれた文字を滲ませる。
雨漏りだ。
あの日封じ込めたはずの感情が、心の中に開いた穴を通って、溢れてこぼれて止まらない。
「吉川さん」
「はい」
「……月の土地、今度、贈ってもいいですか?」
僕は震える声で彼女に尋ねた。
子どもだったあの日、彼女に言えなかった言葉を。
大人になれば親の許可なんていらない。
月の土地は、一人でも買えるのだ。
だって僕たちはもう、あの日のような子どもではないんだから。
子どもの時間はもう終わり。
それでもずっと、あの日から変わらない感情がここにある。
僕の問いに、彼女は目を瞬かせてから、あの日々と似た温かなお日様のような笑顔を浮かべて、元気よく頷いた。
「うん。勿論。よーすけくん」