六月の街に降り出した雨、絵画に興味が無かったわたしにもあの日は雨風を凌げる場所が必要だった。
 美術館に飾られている絵画にはどれキャンバスに絵具がぐちゃぐちゃに塗りつぶされてるとしか思えなかった。
 この絵の感想を教えてくれと問われても、なんか凄いとしか答えられない。わたしは感性の程度が乏しい人間なのだと中学生になって初めて実感した。
 そんな才能しか許されない芸術の世界に一歩足を踏み入れた”原因”がわたしがとある人に”恋”をしたからだった。
 館内の絵画を横目に知り顔を作りながら歩いて行く。
 外ではようやく雨脚が衰えて小降りになり始めてきた。そろそろ帰れるかな。
 あの人を見つけたのはそんな時だった。
 意味ありげに伸ばされた艶のある黒髪を耳にかけ直す仕草が妙に色っぽい。見えない糸でつるされているような背筋からは女性のような艶々した白い襟首が露わになっている。眼鏡をかけたその瞳には絵画とは違う、どこか遠くを見据えているような、そんな眩しさがあった。
 
 「星だ」

 言葉に出せばしっくりくるなと感性の乏しい私でも分かりやすい比喩表現だと自賛するのも束の間。気付いた時にはもう遅かった。
 あ。と急いで口元を隠してもあの人の耳に私の声は届いてしまい、こちらの存在を認識すると彼はにっこりと人懐っこい笑顔で返す。そしてまた絵画に視線を移した。
 綺麗な顔だ。

 「似合うね。その言葉」

 その儚くて氷砂糖のように透明な声が私の鼓膜を震わせて心の中へと溶けていった。
 私に向けられた言葉では無いのに何故だか心臓が高鳴って息苦しくなる。

 「そこからだと観づらくない?良ければお隣どうぞ」
 「えっと……では」

 急いで酸素を取り入れようと、深く深呼吸をすると油絵具の匂いよりも先に季節外れの金木犀の香りが私の中に入り余計に右隣にいる彼の事を意識させらる。 
 初めて軟骨にピアス穴を空けたときくらいに、心臓がどんどん膨らんで肋骨を突き破るんじゃないかと思うほどドキドキしはじめた。

 「(なぎ)
 「……え?…………………わたし?」
 「ん?ああ。この絵を観た”私”の感想」
 
 一瞬、私の名前を呼ばれたのかと勘違いし、羞恥を覚え火照った頬をバレないように自分のつま先に目を向け真っ赤の耳を髪を下ろし隠した。
 自俯いたままのわたしに彼は続けてくれた。
 フィンセント・ファン・ゴッホの1888年の作品でタイトルは「ローヌ川の星月夜」。ゴッホがアルルに滞在中に夜のローヌ川の堤防の風景に魅せられて描いたものだと。
 別々の方角の夜空と地上を一つにまとめて描いているため、ローヌ川東岸地点から見える構図とは異なる形で北斗七星が描かれている。
 濃いブルーがキャンバスを覆い、ガス灯は濃いオレンジ色に輝いてなんとも好対照な色の長く明るい影を水面に差している。星々は宝石のように煌めいて、寄り添って歩くカップルが穏やかな雰囲気にまとまっていると。

 「この絵を描く前に、彼は”夜の表現”に興味を抱いていた。弟や友人に対して星空を描きたい旨について語り9月には妹への手紙で”今絶対に描きたいのは星空だ。夜は昼よりずっと色彩豊かだよ”と送った。でもその後にーー」
 
 不思議だった。彼の説明を聞くほど顔が上へ向き、いつの間にか目の前に広がる夜空に目が離せなかった。
 突然の大雨で真っ黒な宇宙に飛ばされた私は彼の眩しい言葉に案内され絵画の引力に引き寄せられた。
 そんな気がした。
 
 「ごめん。つまんないよね」
 「そんなこと無い。もっと聞きたい」 

 噓やお世辞では無いし彼の傍にいたいだけの口実なんかでも勿論無い。
 それは本心からのお願いだった。
 彼は博識だった。お互い名前も知らない赤の他人なのに、美術鑑賞を邪魔し合える関係でもなければ絵画の解説を依頼する権利も引き受ける義理も無い。
 それなのに「これは?」「こっちは?」と尋ねると彼は事前に用意された文章を授業で教師に指名され、一人立たされ音読するかのように淡々と解説してくれた。
 
 「……私の話。面白い?」
 
 うむ。面白いかと問われたら正直に言って微妙ではあった。
 話し方は教師のそれと変わらないし内容も美術の教科書みたいでどこか味気ない。好きな人からしたら楽しいだろうし嫌いな人からしたら眠くなる話だろうなとは思っていた。
 知らない専門用語や会話の流れについて行けない時も多々あったし「へー」とか「ふーん」しか浮かばず沈黙してしまう時間も暫しあった。
 楽しいと言えば噓つきになってしまうが。
 
 「つまんなくは、無い」

 わたしがそう答えると人懐っこい笑顔で「そっか」と返してくれた。だからわたしも「うん」と頷いた。
 雨音はいつの間にか消えていた。