いつもと同じ夢の中から、いつもと違う午後を報せるアラーム音が鳴った。怠かった身体がやっと眼を覚ました。昨日の風邪が疑わしいくらい嘘みたいに治っている。
 「……はぁ。出かける準備しないと」
 ベッドに手を付き、まだ覚醒しない身体を起こす。青いカーテンの隙間から見える外には灰色の空が広がり、糸のような雨がザアザアと音をたてながら隙間なく降り続いていた。 
 まだ降ってたんだ、と独り言ちる。それから部屋を見渡せば窓際に置かれた真っ白なキャンバス、筆と花が突っ込まれた汚い花瓶、一昨日に使用したまま放置された珈琲カップが机に二つ、床には脱ぎ散らかした幾つもの抜け殻。ベッドの隣には余った枕が一つと金木犀の香りがまだ残っている。
 「先にお風呂入ろ」
 汗まみれのインナーを脱ぎ捨て、落ちている服の上に重ねるとそのまま洗面所へと直行した。
 私ってなにがしたいんだろう、とシャワーを頭から浴びながらふと思う。
 最近結婚した元美大の先輩からは求めてもいない励ましのメールを貰った。夢を捨てて幸せ選んだ人から『上手く行かなくたって大丈夫だよ』って、何て返せば良いんですか?
  温かいお湯と冷めた溜息が身体を伝って流れていく。それを追いかけると排水溝に私のじゃない髪の毛が挟まっていた。
 「……掃除しないとな」
 ドライヤーをどこに仕舞ったか忘れて、至る所を探している間にお昼の三時が過ぎようとしていた。
 髪を梳かし軽く化粧を済ませる。遅い昼食もそこそこに取り、クローゼットから「これでいいや」とフレンチレトロなツーピースドレスを手に取る。姿見の前で変な所は無いかと確認している時に左手の薬指に嵌めていた指輪に気づき、それを外してから行ってきますを言い置き鍵をかけ部屋を出た。
 水溜まりを跳んだり避けたり傘で狭くなった道ですれ違う通行人に配慮しながら歩き、やっとのことで駅まで辿り着いた。
 間に合って良かったと胸をなでおろしていると目の前を見知った人が通り過ぎて行った。
 ……………………あの人。

 「お姉さん可愛いね。もしかして一人?俺と一緒にお茶しない?」
 「今しがた二人になった所です。紬花(つむぎ)さん」
 
 ナンパのフリをした藤宮紬花《ふじみや》が黒の紳士的でシンプルな傘を肩に掛けながら、後ろから顔を覗かせた。
 
 「えー。何で分かったの。つまんない」
 「当たり前じゃん、声でばればれだよ」
 「それなら「お待たせ。待った?」の方が良かったかも」

 本人はふざけて格好つけたつもりだろうけど、彼女の小顔で、均整の取れた顔立ちの美形女子に言われたら同性の私でも少し来るものがある。
 いつでも会話の主役になりそう子とまさか同じ廿日高校の卒業生だったとは知らなかった。
 本人に話したら怒られたけれど本当にアイドルとか読者モデルとか女優とか、芸能界の道に進んだ方が彼女に合っていたと思う。

 「ちょっと!ぼーっとしないで何か言って。恥ずかしいじゃん」
 「ごめんごめん。また惚れかけちゃった」
 「っ!いつもそうやって私を揶揄(からか)うんだから。ほら行くよ」
 
 あ、照れてる。
 頬を紅潮させた紬花の姿は先程とは違い、可愛らしい少女に私の目には映った。これは異性にも同性にも好かれて可笑しくないな。
 袖を摘まみ優しく引っ張る紬花に私は「はーい」と小学生のように手を上げ返事をした。