世の恋人たちは、どうやって想いを通わせたんだろう。
 ひとりきりで噴水の音を聴きながら、ぼんやりと思う。
 だれかを好きになって、告白して、付き合う。
 それだけだ。
 自問自答する。
 それだけのはずなのに、なんで私は、それがうまくできないんだろう。
 私って、そんなに魅力がないのだろうか。
 誠実に愛してきた。
 まっすぐ、想いも伝えてきたつもりだった。
 それなのに……どうして。
『好きなひとができたんだ』
 彼らしい誠実な言葉で、告げられた。それが余計に、私の胸を刺し貫いた。
 彼の好きなひとになりたい。
 どうしてあの子?
 あの子と私はなにが違う?
 私のほうがずっと、あなたを知ってるのに。私のほうがずっと、ずっとあなたを愛してきたのに。
 想いと比例するように涙が込み上げてきたとき、聞き覚えのある声が広場に響いた。
「――(あい)っ!」
 大好きな声に、ハッとして振り向く。
 もしかして、彼が戻ってきてくれた?
 崖から突き落とされたばかりなのに、淡い期待がふくらむ。
「りひ…………暁人(あきと)
 立っていたのは、私の大好きなひと――理人(りひと)ではなく、その弟の暁人だった。
 感情が顔に出ていたのか、暁人は一瞬、私の表情を見て悲しげな顔をした。
 私は慌てて目元を拭い、笑みを作った。
「どうしたの?」
 暁人は肩を弾ませて、額にはうっすらと汗を滲ませていた。走ってきたらしい。
「どうしたのじゃねぇよ。兄貴から連絡が来て、広場に愛のこと残してきたって言うから……」
 どきっとした。
「あー……ごめんごめん。心配かけたよね。大丈夫だよ」
 わざと明るい声を出して、私はおどける。夜のしじまに私の空元気な声が虚しく響いた。
 暁人は険しい顔のまま、私に歩み寄る。
「……さて、帰ろっか! 明日も仕事あるし」
 暁人がそばまで来ると同時に立ち上がる。今は顔を見られたくない。
 歩き出そうとする私の手を、暁人が取った。
「待って」
「なに?」
「……大丈夫か? 聞いたんだろ。兄貴と……川嶋(かわしま)のこと」
 一瞬、凍りついたように動けなくなった。
「……まあねー。付き合い始めたんだってね、ふたり。私、ぜんぜん知らなかったよ。まさか川嶋さんが理人のこと好きだったなんて」
 ははっと笑う。けれど笑っているのは声だけで、顔はぜんぜん笑えない。暁人も真面目な顔をしたまま、私を見ていた。
 気まずい空気が流れた。
「……あ、でもべつに私、大丈夫だから。そんなに心配しないでよ。理人が私を見てないことくらい、昔から分かってたことだし」
 幼なじみである私たちは、小学校からずっと一緒だった。
 理人は私と暁人よりもひとつ歳上で、暁人と私は同い歳。暁人とはクラスも一緒になることが多くて、私たちはいつも三人でいた。
 私は幼い頃からずっと理人のことが好きで、理人を追いかけて高校も大学も、就職も決めた。
 それがきっと、彼には重かったのだろうと思う。
 真面目できりっとした顔つきをした理人は、一見すると近寄り難い。だが、笑うと優しげに垂れる目尻だったり、ちょっと抜けたところがあるおかげで強面がほどよく中和され、よくモテていた。
 それに比べて、なにもかもふつうの域を出ない私。理人に追いつくために必死に背伸びをしてきたのに、結局、べつのひとに取られてしまった。
 ぽん、と頭の上に手が乗った。
「今さら、俺にまで強がる必要ないだろ」
 優しい声と、呆れたようなため息。
 最初は優しかった手は、次第にわしゃわしゃと豪快に髪をかき混ぜ始めた。暁人はいつも、落ち込んでいる私を励ますときはこうする。
 素直に優しくするのは柄じゃないって恥ずかしがってるんだよ、と以前理人は笑って言っていたけれど。本当に、そんな感じだ。
 いつもなら怒って振り払うところだけど、今日ばかりはそういう気分にはなれなかった。
 髪がぐちゃぐちゃになったのをいいことに、私は我慢していた涙腺をゆるめた。
 じわじわと視界が不明瞭になっていく。
 ほのかな街灯の下、私は暁人に抱き締められながら、しゃくりあげた。

 ***

「……そうだ。バスケしない?」
「は?」
 しばらくして落ち着きを取り戻した私に、唐突に暁人が言った。
「昔そこでよくしたじゃん! 三人でバスケ」
 暁人は言いながら、噴水の先にあるバスケットゴールへ目を向ける。
 たしかにしていたが、ここで遊んでいたのなんて、もう十年くらい前のことだ。それに、
「私はふたりがしてるのをほとんど見てただけだよ」
「いいじゃん、やろ? 身体動かすと気分転換になるしさ!」
「でも、ボールないじゃん」
「あるある。あそこ」
 暁人が指をさす。その指の先へ目を向けると、たしかにバスケットボールが転がっていた。だれかが遊んだまま、置いていったのだろう。
「な?」
「…………しょうがないなぁ」
 ダン、ダンッとボールの弾む音が響く。
 暁人はスーツのジャケットを脱いで、シャツの袖をまくる。暁人はスポーツになると、負けずぎらいが発動する。
「ワンオンワンな」
 暁人は元バスケ部である。
「えっ、ガチなの?」
「もちろん。あ、やるならなんかかける?」
 そうだなぁ。勝ったほうが、ひとつ言うことを聞くとか。
 暁人は子どものような無邪気な顔をして、私を見つめる。
「やだよ、私ぜったい負けるもん」
「じゃあハンデやるよ。俺はシュート入ったら一点でいい。お前は三点。俺からカットできたら五点。どう?」
「……それならまぁ、分かった」
 勝ったらなにを頼もうかな。なんて考えながら、私も腕まくりを始める。やるなら勝ちたい。
 バスケットボールを持つ私たちはスーツを着ていて、もうあの頃のような子供ではない。けれど、こうしてボールの弾む音を聞いていると、あの頃に戻った気になる。
 途中から楽しくなってきて、私は暁人から隙をついてボールを奪うと、ゴールに向かって大きくジャンプをした。
 私の手から離れたボールは大きく弧を描いて、吸い込まれるようにゴールに入った。落ちたボールを拾いながら、暁人が笑う。
「そうそう! 愛って、シュートだけは上手かったよな。ドリブルは下手くそなくせに」
「違うよ、暁人がカットするのが上手すぎるだけ! すぐ私のボール横取りするんだから」
 暁人は昔から、カットが上手かった。一方で理人はいつも私に手加減して、本気を出さない。
 まったく、対照的なふたりだ。
「そういうゲームでしょうよ、お嬢さん」
 暁人が駆け出す。風を切るようにドリブルをしながら、ゴール下へ。流れるようにボールを持ち上げ、ゴールへ投げる。
 落ちてきたボールをキャッチして、私はもう一度飛んだ。
「わっ……」
 着地した直後、バランスを崩して転びかけた。よろける私を、咄嗟に暁人が支えてくれる。
「あ……ご、ごめん」
「ん……」
 慌てて離れようとするが、暁人は私に回した手に力を入れたまま、離そうとしない。
「……暁人?」
「…………」
「ごめん、離して」
 胸を押すけれど、暁人は黙り込んだまま、私を抱き締める。
「……理人のどこがいいの?」
「……え」
「俺じゃダメ?」
「あき……!」
 不意に、息ができなくなった。キスをされている、と自覚したのは、暁人の唇が離れていってからだった。
「ちょっ……暁人! いきなりなにすんの」
「いきなりじゃないだろ。俺の気持ち、気付いてるよな?」
 どきりとして、目が泳ぐ。
「…………それは」
 口ごもる。
 暁人の言うとおり、本当は気付いていた。でも、気付いてないふりをしていた。だって私は、暁人の気持ちにはこたえることができないから。
「お前、いつも俺と理人を似てるって言うじゃん。だったら、俺だっていいだろ?」
「暁人」
「お願い」
 暁人の声は、どこか懇願するような響きを持っていた。切なくて、心臓を手で鷲掴みにされたような苦しさが、波のように押し寄せてくる。
「私は……」
 私の言葉を遮るように、暁人が再び私にキスをしてくる。
「愛、好きだ」
 暁人の想いが、私に降り注ぐ。暁人の想いに頷けないまま、でも拒むこともできない。暁人の眼差しは、理人の眼差しにとてもよく似ていた。
「……俺の勝ち。で、いいよな?」
「…………」
 私は暁人を、受け入れた。

 ***

 翌朝目覚めた私を襲ったのは、倦怠感よりも罪悪感だった。
 理人と暁人は似ている。
 顔も、声も、仕草も、双子のように。
 けれど、決定的に違った。
 ほんのちょっとしたことが、ぜんぶ違うのだ。それに気付かなければ、私は今頃幸せだったのだろうに。
「……なに、泣きそうな顔してんの」
 ふっと声がした。
 となりで寝ていたはずの暁人が、目を開けてこちらを見ていた。じぶんの格好を思い出して、慌ててシーツにくるまる。
「……ごめん。私、すごく無神経なこと」
 呟く私を見て、暁人は苦笑を漏らす。
「愛はほんと、真面目だな」
「…………」
「そんな顔しないでよ。誘ったのは俺。愛の弱った心につけこんだのは俺だよ。愛はまっすぐだから、ずるでもしなきゃ俺を見てくれないと思ったんだ」
 そう、暁人は苦い顔をして呟く。
「こういうところだよなぁ。俺と兄貴が違うのって」
「……そんなこと」
 暁人が手を握ってくる。控えめに、だけどどこか縋るように。
「なぁ、俺にしない?」
「…………」
「愛が眠れない夜だけでもいい。都合良く呼び出してくれてかまわない。俺を利用していいから、だから……」
 暁人の熱い視線を見つめる。暁人は私の視線に押し負けたように俯いた。そんな暁人に、私はわずかに苦笑する。
 私たちは、似ている。
 お互い、届かないものに手を伸ばして、もがいているのだ。溺れそうで、苦しくて苦しくて、陸に上がりたいのに上がれずにやっぱりもがいている。
 ……たったひとことなのに。
『好き』って、そう言ってもらうだけのことなのに、恋ってなんでこんなに難しいんだろう。
『――ごめん』
 不意に、昨晩のできごとが蘇る。
 珍しく理人のほうから連絡が来て、私は急いで待ち合わせ場所に向かった。噴水があるあの広場だ。
 そこで理人に、恋人ができたと告げられた。同期で二つ下の、短大卒の可愛い女の子だ。名前は、川嶋彩子(あやこ)
 私と違って、大人しくて、ひっそりと笑う子。
 だから、今までのようには会えないのだそうだ。彼女を大事にしたいから。
 どうして? とか、私の気持ち知ってるくせに、とか、なんであの子なの、とか。
 いろいろ言いたいことはあったけれど、理人の眼差しを見た瞬間、そんな感情はすべてどこかへ霧散してしまった。
 理人の眼差しを見たとき、はっきりと分かった。理人は私を見ない。この先、どれだけ想い続けようと、想いを伝えようと、縋ろうと、ぜったいに。
「愛」
 暁人が私を呼ぶ。顔を上げる。
「俺を選んでよ。ぜったい泣かせないし、幸せにする。愛が望むこと、なんでもしてやる」
「暁人……」
 暁人は、私なんかよりずっと真面目だ。だからきっと、宣言どおり私を愛してくれるし、私が望むことも望むものもくれるだろう。
 この手をとったら、理人を忘れられるだろうか。
 同じ顔、同じ声、同じ仕草のこのひとに身を任せたら。
 私は手をぎゅっと握り締めた。私のすべきことは、今目の前にある。この手を取ればいい。前を向くにはそれしかない。
 頭では分かっているのに、どうしても、頷くことができない。
 だって、私はまだ……。
「……ごめん」
 暁人ではダメだ。いや、理人以外では、きっとどんなひとでもダメなのだ。
 私は理人が好き。拒まれても、想いはまだこの胸にある。この気持ちが消えない限り、私は前に進むことはできない。ここに、とどまることしか。
「……そっか。うん、ま、だよな」
 暁人は微笑む。わずかに苦笑していた。
「あの、暁人――……」
「さて、そろそろ用意しよう。今日、愛も仕事だろ?」
「……うん」
 暁人はベッドから抜け出すと、支度を始める。
 私も支度をしなきゃいけないのに、なかなかベッドから出ることができずに、暁人の動きをじっと目で追っていた。
 その姿を見て、思った。
 幼なじみだったはずなのに、私は暁人について知らないことばかりであった。肌の熱さや、においや、そのほかにもたくさん。
 同じように、理人もきっと、私のことをなにも知らないのだろう。
 いくら一緒にいても、内緒にしていたことも、わざわざ言わなかったことも、たくさんある。
 たとえば、私がどんなふうに理人を愛していたかとか、理人の恋人に対して、どう思っていたのかとか――。
 ……なんて。
 こんなときでさえ理人を思い出してしまうじぶんに嫌気がさす。
 もし私が暁人を好きでいたら、きっとすごく幸せだったんだろうな。
 身勝手にもそんなことを思った。
 支度を終えた暁人が、ふっと私を見た。
「じゃあ、俺行くわ」
「……あ、うん、」
 またね、と言おうとして口を噤む。俯くと、白いシーツが目に入った。
 次があるか分からない。そういうことを、私たちはしてしまった。
「……しばらく、会わないほうがいいかな、俺たち」
 私の胸中を汲んだように、暁人が言った。
 私は呆然と暁人を見つめ返す。
 今さら、暁人の顔を見て、ようやくことの大きさを自覚した。私は、暁人になんてことをしてしまったのだろう。暁人の気持ちを利用して、ひどく残酷なことをしてしまった。
「暁人……ごめん、私……」
 暁人が苦笑する。
「そんな顔すんなよ。今生の別れでもあるまいし。仕事では顔も合わすんだからさ」
「でも」
「俺は、嬉しかったよ。ほんの一時でも、愛と一緒にいられて。だから、後悔はないから」
「……ありがとう、暁人」
 暁人は目を細めて、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「またな」
 ふり返って笑った暁人の顔が、残像のようにいつまでも、私の心にこびりついていた。