すべての不安を押し殺すように、その日も早々とベッドに潜った。目を閉じても唇を噛み締めても、瞳の奥から溢れ出る涙はとまらない。どうして、だろう。りせの方がずっとつらいのに、りせよりもわたしが泣くなんて。

 泣き虫なわたしを諭すように、夢の中におじいちゃんが出てきた。夢の中で、わたしは十歳くらいに戻っていた。写真がうまく撮れなくて泣いているわたしの頭を、おじいちゃんは優しく撫でてくれた。ほら、ごらん。風景はなくなるわけじゃない。だから焦らなくてもいいんだよ。そう言って夕焼けを指差して、きれいだろう、とつぶやいた。結局、自分の目で見る風景に敵うものはないんだ。その時自分が思ったこと、感じたことは、写真には写らない。

 じゃあなぜ写真を撮るの?

 幼いわたしは問いかけた。おじいちゃんはそっと微笑んだ。

 それはね――



 突然、体が激しく左右に揺さぶられた。はっとして目を開けると、隣で寝ていたはずのりせが、寝ているわたしの肩を揺すっている。

「りせ? おはよう……」

 わたしはうーんと唸りながら起き上がった。視界と思考がはっきりしてきたら、りせの表情に気づいてぎょっとした。

「どうしたの?」

 りせは、泣いてはいないものの、今にも不安と戸惑いに押し潰されそうな顔をしていた。ただでさえ白い肌はさらに色を失って、幽霊なんじゃないかと思うくらい。りせはスマートフォンを手に持って、カタカタと何かを打ち込むと、ずいっとわたしに画面を見せた。

『声が出ないの』

 わたしははっとしてりせを見た。りせは口をぱくぱくさせて、必死で何かを伝えようとしていた。だけど、まるで魔女に奪われてしまったみたいに、そのきれいな声が聞こえてくることはなかった。



 ひとまず、おばあちゃんのすすめで近くの病院に行くことにした。お医者さんからは「心因性」という診断を下され、精神安定剤を処方された。

「大丈夫。すぐよくなるわ」

 家に戻ったわたしたちに、おばあちゃんはそっと笑いかけた。

「とりあえず、何も気にしなくていいからゆっくりしなさい。心を回復させるには、休養が一番だから」

 りせは申し訳なさそうに頭を下げ、じっとうつむいた。わたしは言葉をかけることができなかった。こんな状況になっても、りせの目から涙が流れることはない。結局、彼女が泣いたのはあの夜だけ。わたしの方が、また泣きそうだ。

 ちょっと休むね、とわたしに伝え、りせは寝室に戻っていった。うん、とうなずいてから、テーブルの上にりせのスマートフォンがあることに気がついた。渡そうと手に取ったら、ちょうど、ロックがかかっていなかった。いけないと思いつつも、わたしはそっとその画面をのぞき込んでしまった。

 通話履歴に、柊さんの名前があった。時刻は明け方の三時半。やっぱりな、とわたしは思った。結局、りせの心はいつだって彼次第。そんなの、分かっていたことじゃないか。 

 ふたりで何を話したのかな。ひどいこと、言われたのかな。終わった、のかな、全部。ふたりの恋はふたりだけのものだから、どれだけわたしが想像を巡らせても絶対に分からない。わたしはりせのスマートフォンを元の場所に戻した。

 心因性、とお医者さんは言ったけど。わたしはこれこそが、魔女の呪いなんじゃないかと思った。まるで人魚姫みたい。いつか、りせに言った言葉を思い出す。「叶わない恋をしてるのが?」あの時、りせはそう言って悲しそうに笑った。あの時、気づいてあげればよかった。りせは、恋が叶わないってことを予期していたんだ。だから、あんなことを言ったんだ。

 だからこそ、わたしはここで、呪いを解いてあげなくちゃいけないの。



「食べられる分だけ食べたらいいからね」

 夕方。ようやく起きてきたりせに、おばあちゃんは優しく言った。りせはぎこちなく微笑んで、箸を持ってみたけれど、なかなか口は開かない。テレビの音がやけにうるさく耳に響く。りせを元気づけようと話題を探してみたけれど、明るい話なんてあるはずがない。

 重たい空気を破ったのは、おばあちゃんだった。

「実はね、わたしもりせさんと同じようなことがあったのよ」
「えっ?」
「わたしの場合、歩けなくなったんだけどね」

 それまでうつむいていたりせがぱっと顔を上げた。おばあちゃんはふふ、と上品に笑った。

「わたしね、学生の頃演劇部に所属していて、卒業してから少しだけ劇団に入っていたの。ある時、顔にひどい怪我をしてね。もう跡はないんだけど。それが原因で、舞台に立つのがこわくなったの。お客さん全員に笑われているような気がして……。普段は普通に歩けるんだけど、舞台に立つと一歩も動けなくなってしまって。お医者さんには『心因性』って言われたわ」
「それ……どうやって治ったの?」
「おじいちゃんがわたしを撮ってくれたの。練習中のわたしや、普段のわたしを。それを見たら、『ああ、頑張ろう』って思えたのよ。そしたら、また演技ができるようになったの」
「えっ、おじいちゃんって、風景しか撮らないんじゃ……」
「そうね、確かに風景を撮ることが多かったけどね……よかったら、見る?」

 わたしとりせは顔を見合わせ、同時にうなずいた。

 食事中にお行儀が悪いわね、と言いながら、おばあちゃんは席を立つと、やがて一冊のアルバムを持って戻ってきた。わたしたちは食べるのを一時中断し、そのアルバムを開くことにした。

 そこには、若き日のおばあちゃんがたくさん写っていた。舞台に立つ時の凛々しい表情、台本を読み込む懸命な横顔、親しい人にだけ見せるやわらかい笑顔。この写真を見ただけで、おばあちゃんがどんな気持ちでいたのか分かる。おじいちゃんがどれほどおばあちゃんを大事に思っていたのか、伝わってくる。風景しか撮らない人だと思っていたけれど、それは間違いだったんだ。おじいちゃんが、ただひとり、写真におさめていた人。それが、おばあちゃんだったんだ。

「……愛が、伝わってくるね」

 ぽつりと、つぶやいた。りせはじっと写真を見たままうなずいた。

 夢の中でおじいちゃんが伝えようとしたことが、なんとなく分かったような気がした。その時感じたこと、思ったことは、自分にしか分からない。写真には決して写らない。だけどこうして、何十年も経った時、写真を見たらよみがえる。その時自分が思ったこと。感じたこと。伝えたかったこと。そしてそれは、きっと誰かにも伝わるんだ。

「時間だったり、愛だったり、どれが薬になるかなんて分からないけどね、今がずっと続くなんてあるわけがないの。どんな時だって支えてくれる人はいる。大切なのは、逃げ出さないことよ」

 おばあちゃんの言葉を噛み締めるように、りせはぐっと唇を噛んだ。おばあちゃんは「さ、ご飯の続きにしましょう」と席に戻り、夕ご飯を再開した。わたしはりせの隣で、若き日のおばあちゃんを穴があくほど見つめ続けた。どれもこれも、ため息が出るほど美しい。それは、容姿だけじゃない。おじいちゃんが本当に撮りたかったもの。それこそが、おばあちゃんなんだ。そう、伝わってくるような写真だ。「愛している」なんて言葉はいらない。何万回の「愛している」よりも、どんな言葉よりも、たった一枚の写真だけで愛が伝わってくる。わたしはりせの横顔をそっと見た。りせはすぐわたしの視線に気づいて、どうしたの、というように首を傾げた。わたしはううん、と首を振った。

 わたしが、今一番したいこと。すべきこと。

 ――わたしは、りせの笑顔が見たい。



 それから一日経っても、二日経っても、りせの声が戻ることはなかった。どこかに外出することもなく、一日中縁側に座ってぼんやりと空を見上げる。わたしはそんな彼女の隣で、ただひたすら、呪いを解く手段を考えていた。

 そして三日目の昼、スマートフォンを見たら、お母さんから留守番電話が入っていた。学校から連絡がかかってきて、体調はどうだ、というものだった。限界が近いな、とひしひし感じた。

 若いわたしたちは、すべてを捨てることなんてできない。学校だったり、家族だったり、いろんなものが足かせになる。お金もない。仕事もない。ちょっと反抗してみても、結局元の場所に戻るだけ。だったら、せめてもう少しだけ、年齢に抗わせてほしい。

 その日の深夜、朝方の四時をまわった時間。

「りせ……起きて」

 肩を揺すったら、りせはもぞもぞと寝返りをうち、不機嫌そうに目を開けた。上半身を起こし、眠たそうに目をこする。ごめんね、起こして。そう言うと、りせは混乱したようにわたしを見つめた。

「わたし、撮りたいものがあるの」

 今、胸の中で燃えている炎を消さないよう、早口で言った。わたしは警戒心を解くように、そっと微笑んで手を差し出した。

「ついてきてくれる?」

 りせはちょっと戸惑ったように眉を下げたけれど、弱い力でわたしの手をつかんだ。



 夜明け前の街並みは、昼間とはまったく違う顔をしていて、全然知らない世界に迷い込んだみたいだった。しん、と黙り込んだ青柳。足音の響かない石畳。川のせせらぎすら、わたしたちを不安に陥れる罠のように鼓膜を揺らして、少しおそろしい。いつもは美しく感じる月さえも、初めて見る怪物に思えた。

 はるか昔に、おじいちゃんとこんな風に歩いたことがある。その日は月すらも雲に隠れていて、心もとない電灯の光だけが頼りだった。怯えるわたしの手を、おじいちゃんは大丈夫、というように固く握ってくれた。

 あれから何年も経った今、わたしは、真綿のようにやわらかいりせの手を握って、カメラを首から下げながら、同じ道をたどっている。違うのは、りせは一切怯える様子を見せていないということだ。どこに行くの、なんて疑問を一ミリも抱いていないかのように、ただじっと、無表情で、わたしの横を歩いている。

 三十分ほど暗闇を歩いてたどり着いたのは、海だった。そこは、普段わたしたちが持つイメージと違い、どこまでも広がる黒々とした、得体の知れない魔物の住処のように思えた。じゃれるように寄せては返す波も、わたしたちを呑み込もうと、ぬぅっと手を伸ばしているようで、ひどく不気味だった。

 あたりまえだけれど、まわりには人っ子ひとりいない。幼い頃から知っている場所なのに、こうして暗闇に包まれると、まるで世界の果てに来たような気分になる。生と、死。その境目に立っているような不安定さ。世界でふたりきりになったような、どうしようもないさみしさが、体中を揺らしてくる。

 繋いでいた手が離れた。りせが、ふらふらと吸い寄せられるように波打ち際まで歩いていく。黒い波が誘うように足元に伸びて、そぅっと引いていくのを、他人事のように見下ろしていた。わたしはなんだかその様子がひどく幻想的に思えて、背筋がぞっとするのを感じた。彼女の不安定な心が、ゆらゆら揺れる海面にシンクロして、このままりせが、海の藻屑になってしまうような気がした。

 ――海の藻屑になる時を待っているの。

 ずいぶん前に聞いた言葉が、警報のように鳴り出した。ああ、それ以上、先に行ってはだめ。

「……りせ!」

 懇願するように名前を呼んだ。りせは幽霊のように振り向いて、しっとりと微笑んだ。その微笑みを見て、心の隅に抱いていた疑惑が、確信に変わった。わたしは首からカメラを下げたまま、りせに近づいた。

 白いワンピースを着た華奢な体を、海に落とすように押し込んだ。軽い体はいとも簡単に傾いた。りせはきゃっと短い悲鳴を上げ、波の上に尻もちをついた。

「……声、出るじゃん」

 自分のものとは思えないくらい低い声が出たことに、驚いた。初めて言葉を交わした夜、しゃがみ込むのはわたしの方で、りせは、見下ろす側だった。今、わたしは嘲るようにりせを見下ろし、弱い雛鳥を保護するみたいに手を差し伸べている。りせは、思考停止したようにわたしを見上げていたけれど、やがて、何かを諦めたように、うっすらと微笑んだ。

「……いつから気づいてたの?」

 久しぶりに聞くりせの声は、風に揺れる風鈴のように、どこまでも凛と、澄んでいた。

 わたしの手を取ることなく、りせは自分の力で立ち上がった。白いワンピースは、海水と砂でどろどろに汚れていた。

「おばあちゃんの写真を見た時くらいから。……なんとなく、そう思ったの」
「そう」
「……どうして、嘘ついたの?」
「ふふっ」
「笑ってないで答えてよ」

 わたしはどうしてこんな状況で笑っているのか、りせが何を考えているのかまったく分からず、戸惑っていた。りせはいつだってそうだ。泣きたい時でも笑ったり、怒っているのに許したり。本当のりせが見えたのは、あの、逃げ出した夜だけ。あの日だけ。

「だって、永遠なんてないんだもん」

 りせは背中の後ろで手を組んで、真っ黒な海を眺めた。

「柊くんとの幸せな時間が終わっちゃったみたいに、今、こうして雫といる時間も、いつか終わっちゃうんだもん」
「そんなこと……」

 ないよ、と言おうとして、言えなかった。ずっとこのままでいられると思えるほど、わたしたちは楽観的でも幼くもなかった。

「わたしが病気になったら、ずーっと緒にいてくれるかなって! そんな、ばかなこと考えたの。……ずるいでしょ、わたし」

 足先を海水に浸しながら、自虐的につぶやく。月明りに照らされた白い肌が、ぞっとするくらい美しく輝いている。塩っぽい海風が、栗色の長い髪をもてあそぶように揺らして、彼女の存在を、ますます幻想的なものにしていた。

 りせは、ガラスの人形だった。きらきら輝いているけど宝石ではない。美しさも強さも全部まやかし。少しの衝撃ですぐにヒビが入って粉々に砕ける、危うさを持っていた。その証拠にほら、大きな瞳からはもう、今にも涙が溢れそうだ。

「わたし、柊くんと電話したの。柊くんすごく心配してくれてた。大丈夫か、むりするな、だって。びっくりするくらい、何にも変わらないの。優しいし、大切に思ってくれてるの。でも、でもね、きっともう何もできないって分かったの。もうキスもしてくれない。抱き締めてくれない。お泊りも、デートも、旅行も、できなくなっちゃったの。……雫だって、いつか何もしてくれなくなる。今はいいかもしれないけど、このまま学校に行かなかったら怪しまれるだろうし、雫は絶対に帰らなきゃいけない。でも、そうなったらわたし、またひとりになっちゃう。また置いていかれる。いつか突き放される。分かってるの、全部。もう、見捨てられるのはいやなの」
「……見捨てないよ」
「そんなの信じられない!」
「信じてよ」

 自分に誓いを立てるように、強く言った。りせは反論するようにわたしを睨んだ。堪えられなくなったように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「わたし、りせに伝えたいことがあるの。だから、ここへ来たの」

 ここに来てから、ずっと考えていた。ずっと悩んでいた。伝えるべきか、やめておくか。この気持ちが何なのかも、まだはっきりとは分かっていない。

 でも、それでも。
 伝えなきゃ、いけない。

「わたしもね、呪いにかかってたの。写真が撮れない呪いに。でもね、それはもう、とっくの昔に解けてたの。おじいちゃんが死んでから、撮りたいものになかなか出会えなかった。どんなにきれいな景色を見ても、撮りたいって思えなかった。だけど、りせに出会って、わたしは変われた。わたしが『撮りたい』って思うのは――りせ、あなたなの!」

 りせが、驚いたように目を見開いた。わたしは気持ちを落ち着かせるように深呼吸した。今まで誰にも言わなかった言葉。みんなこうして、頭の中で何回も反復しながら、自分の想いを伝えているんだ。 

 奏真といても、分からなかったこの気持ち。

 今なら、ちゃんと伝えられる。

「わたし、りせがすき」

 雲に覆われていた月が顔を出して、りせの透明な肌を照らした。

「りせのことが、世界で一番すき。わたしが今抱き締めたいって思うのはりせ。手を繋ぎたいって思うのはりせ。幸せになってほしいって、大切だって、笑ってほしいって思うはりせなの。友情だって愛情だって、どっちだっていいの。今わたしが『だいすき』って思えるのはりせなの!」

 愛情が、悔しさが、涙となってぽろぽろこぼれた。

「だからもう強がらないで。嘘つかないで。そんなんじゃ呪いなんて解けない。わたしのこと、柊さんよりもすきになって! わたし、りせにすきになってもらえるように頑張るから。あんな男、最低だったって笑えるくらい、柊さんよりもりせのこと、大切に、するから……!」

 崩れ落ちそうになったわたしの体を、りせが思い切り抱き締めた。

 わたしたちは波打ち際にしゃがみ込んで、声を上げて泣いた。苦しかった。さみしかった。どれだけ体温を分け与えても、体は冷たくなるばかりで、このままふたりで死んでしまいそうな気さえした。ああ、その方がいいかもしれない。どちらの想いも実らないのなら、いっそ、安楽死を。

 愛は、理不尽だ。ずっと一緒にいられないのなら、永遠に続かないのなら、この恋に意味はあるの。あなたをすきになった意味はあったの。一時の楽しさなんて、そんな儚いもののために、すきになったわけじゃない。わたしたちは永遠を手に入れたかったのだ。すきな人との未来が、ほしかったのだ。

 誰もいない浜辺で、こんな風に抱き合って泣いている。こんな日すらきっといつか、忘れてしまうかもしれない。りせをすきだというこの感情も、いつか消えてなくなるのかも。でも、この冷えた体を抱き締め合ったこの瞬間を、いつまでも覚えていたい。この記憶だけは、永遠に胸に抱いていたい。そう、強く願った。



 涙も声も枯れ果てるくらい泣いた頃。水平線の彼方から、ゆっくりと朝日が昇ってきた。黒ずんでいた海が、どんどん光を帯びていく。

 わたしたちは、ふと我に返ったように体を離し、ぼんやりと海を眺めた。新しい一日の始まりだ。こんなに太陽ってきれいだったっけ。白い光が海面をきらきらと輝かせて、まるで星をばらまいたよう。その美しい光景に、目を、心を、奪われた。

「……世界って、こんなにきれいなんだね」

 ひとりごとのように、りせがつぶやいた。わたしは声もなくうなずいた。すべてを洗い流
してくれるような青と、希望の光。昔、おじいちゃんと見た光景と同じ。

 その光景を見た瞬間、わたしは、心にたまったぐちゃぐちゃの想いが、すーっと浄化されていくような気がした。恋が叶わない痛みとか、想いが伝わらないさみしさ、とか。悔しさも情けなさも辛さも、すべてが透明になって、朝日の中に溶けていくようだった。

 世界は今、生まれた。

 わたしたちもきっと、昨日までのわたしたちじゃない。波音は海の呼吸音のように、ふたりの鼓膜を優しく揺らす。新しい一日を祝福するように、かもめが鳴き声を上げた。

 わたしは手に持っていたカメラをそっと構えた。ファインダー越しにりせをのぞく。栗色の髪。白い肌。涙に濡れた、潤んだ瞳。そのすべてが、朝日を浴びて神々しいくらいに輝いている。空と海の青色が、りせを包むように広がって、まるで、美しい絵画のよう。

 りせが、ゆっくりと振り向いた。逆光で、どんな顔をしているのかよく見えない。ただただ、とても、美しい。わたしは思わず、首に下げていたカメラを構えた。

 その瞬間、わたしは三年ぶりにシャッターを押した。軽快な音と指の感触が、遠い過去と重なって伝わった。ああ、これだ。これなんだ、わたしのやりたかったことは。おじいちゃんがどこかで微笑む気配がした。シャッターを押したわたしを見て、満足そうに消えていく。

 わたしたちは、手を繋いで海から離れた。優しい波の音が、どこまでもわたしたちを追いかけてきた。



 おばあちゃんの家に帰ったあと、わたしたちはここに来て初めて遊びに出かけた。ペリーロードを散策したあと、駅前のロープウェイに乗って寝姿山のてっぺんへ行った。ソフトクリームを食べながら、下田市内を一望して、すごいねって笑い合った。たくさんの花に囲まれながら、どこまでも続く広大な海を眺める。わたしの、一番大切な女の子と。なんだかデートみたいだなと思った。この日のことを、一生、忘れたくないと思った。

 そう思えるってことは、やっぱりこれは恋なんだろう。結ばれることはないけれど、でも、ふしぎと悲しくはない。友情の、延長にあるもの。きっとそれが愛だから。他の人に認められなくても、わたしはやっぱりこの子がすき。この子に、幸せになってほしい。

 その日の夕方、わたしたちはおばあちゃんの家を出ることにした。

「お世話になりました」

 玄関先で見送るおばあちゃんに、りせは深く頭を下げた。おばあちゃんは嬉しそうに笑った。

「またいつでもいらっしゃい。困ったことがあったら、りせさんだけでも来ていいからね」
「はい」

 顔を上げたりせは、ちょっぴり恥ずかしそうにはにかんでいる。わたしはよいしょ、と重たいリュックを背負い直した。

「おばあちゃん、元気でね」
「しーちゃんも。お母さんによろしくね」

 わたしたちは大きく手を振って、おばあちゃんの家をあとにした。曲がり角を曲がるまで、おばあちゃんはいつまでも手を振り続けていた。



 逆再生のように、東京へと戻る電車に乗った。相変わらず電車の中は人が少なくて静かだ。窓を流れていく風景を眺めながら、わたしたちは、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
「きれいだったね、海」

 りせが、静かにつぶやいた。わたしもひとりごとのように、うん、とうなずいた。

「おばあちゃんの料理も、おいしかったし」
「雫の写真、素敵だったよ。もちろん、おじいちゃんの写真も」
「ありがとう。……わたしも、大切なものを思い出せた気がする。今は、撮りたいものがたくさんあるの。もっとシャッターを押したいって、そう思う」

 カバンの中にあるカメラにそっと触れた。今まで撮れなかった分まで、これからりせをたくさん撮っていきたい。笑った顔も、怒った顔も、泣いている顔もだいすきだから。この愛しさを、写真におさめていきたい。

「そうだ。奏真ともう一回話し合ってみたら?」
「えっ! な、な、何でいきなり」
「雫が学校休んでることだって、きっと心配してるよ。あんないいやつ、なかなかいないよ。連絡くらいしてあげてよね」
「……分かったよ」

 わたしはしかたなく、スマートフォンをポケットから取り出した。何と言おう。何を伝えたらいいんだろう。悩んだ末、おばあちゃんの家から今日帰るとメッセージを送った。会ったら、また元のふたりに戻れるだろうか。何を話そうか。そう考えて、すぐにやめた。悩んだってしかたないか。きっと伝えるべき言葉は、自然と出てくる。

 何度か電車を乗り換えているうちに、あっという間に太陽が西に傾いてきた。会話のネタも尽きてきて、疲れがどっと肩にのしかかる。うつらうつらと頭を揺らしていると、雫、とりせに名前を呼ばれた。りせはわたしの手をぎゅっと握って、嬉しそうな、泣き出しそうな、どちらか分からない顔を向けた。

「……わたし、雫に会えてよかった」

 その声は、微かに震えていた。

「雫はわたしの、一番大切な人だよ」
「……うん、わたしも」

 わたしは、熱くなる胸を感じながら、りせのやわらかい手を握り返した。

 恋人にはなれないけれど、きっとわたし自身も、そんな関係は望んでない。恋人じゃない。だけど、ただの友だちでもない。もっと大事で、大切な関係。  

 初めて会った時から分かっていた。その神秘的な雰囲気に惹かれていた。彼女のことを知りたいと思った。知れば知るほどすきになって、もっと一緒にいたいと思った。女の子同士なのに変なのかもしれないけど、運命だって思ったの。

 目を閉じたら、目蓋の裏に、いろんな思い出が浮かんできた。桜の木の上から、りせが降ってきたあの夜。ふたりで歩いた商店街。流れ星をまっすぐに見つめていた、あの日。プールで泳いだ日も、カラオケで歌を叫んだ日も、全部、大切な思い出だ。

 家に着いたら、何をしよう。小咲さんはもう退院したのだろうか。りせはちゃんと、柊さんと向き合えるだろうか。心配事はたくさんあるけれど、あとから考えることにしよう。きっと、何があってももう大丈夫。どんなにりせが傷ついても、わたしがそばにいて支えてあげるんだから。

 意識がどんどん薄れていく。呼吸が深いものに変わっていく。まどろみのなかで、りせの手がそっと離れていくのを感じた。



 ゆっくりと電車がとまった。終点を告げるアナウンスで、わたしはぼんやりと目を開けた。まわりの乗客がまばらに席を立ち、ひとり、またひとりと電車を降りていく。窓の外はもうずいぶん暗い。電車に揺られているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。目をこすりながら隣を見ると、そこにいたはずの女の子は、幻のように消えていた。

「りせ……?」

 名前を呼んでも返事はない。まるで最初から存在しなかったみたいに、隣の席はからっぽだった。わたしはふらふらとおぼつかない足取りで電車を降りた。駅のホームにりせはいない。まわりを見渡しても、りせが降りてくる気配はない。電車のドアが音を立てて閉まった。

 地面から一センチ浮いているような、ふわふわとした感覚があった。まだ夢の中にいるみたい。状況が飲み込めないまま改札を出たら、人混みの中に見知った顔があった。

 奏真はわたしに気づくと、ちょっと遠慮がちに右手を上げた。

「……奏真」

 わたしは夢見心地で奏真に近寄った。最後に会ってからそう日は経っていないのに、なんだか前より背が伸びた気がした。こんな短期間で伸びるわけないのに、そう思えるくらい、大きく見えた。

「りせが……」

 それ以上、言葉が出てこなかった。声の代わりに涙が出て、つぅーっと静かに頬を伝った。

 どうしてだろう。何が起こったか、まだ全然理解していないのに。どうしてこんなに涙が出てくるんだろう。繋いだ手のぬくもりはまだ残っているのに。奏真は、何も言わなくても全部分かっているように、うん、と小さくうなずいた。

「……おかえり」

 その声は、あたたかいスープのように優しくて、何も知らないはずなのに、すべてを受け入れてくれたようだった。わたしはもう、涙をとめることができなくなった。

 両手で顔を覆いながら、うん、と何度もうなずいた。涙が堰を切ったように流れ流れて、喉の奥が焼けたように苦しくなった。どうして、と考えることすら、もう意味を成さない。そんなことはもう分かっていた。わたしはもう、りせのことを理解していた。

 行ってしまったのだ。嘘つきな人魚は、全部、捨てることを決めたのだ。海の藻屑になる時を待ってるの。その言葉通り、彼女はわたしの愛すら捨てて、ひとりになることを決めたのだ。

 行くあてなんてないくせに。生きる方法なんて分からないくせに。一体、どこへ行こうと言うの。それともどこかに、わたしの知らない頼りがあるの。結ばれない恋の痛みを、誰よりも知っているあなた。だからこそ、あなたは姿を消したのね。わたしに、同じ想いをさせないために。

 えんえんと泣くわたしの体を、奏真は優しく抱き締めた。何にも知らないくせに、何でも分かっているふりをして。「ごめん」も「ありがとう」も言うことができない。こんなわたしを許してほしい。

 わたしの愛を、優しさを、りせは受けとめてくれた。ありがとうと微笑んでくれた。だけどやっぱり柊さんからもらったネックレスはまだつけたままだったし、彼への想いもまだ捨てきれなかったのだ。人はそう簡単に強くはなれない。そう簡単に断ち切れない。だって、りせと柊さんが過ごした時間は、わたしとふたりで過ごした日々よりずっと長い。だからこそきっと、すべてを捨てることにしたのだ。家も、家族も、そして、わたしも。

 りせ。
 りせ。

 わたしの愛しい女の子。

 あなたはわたしの一番の人だよ。きっとりせも、わたしを特別に思ってくれたよね。そう、信じていいんだよね。すぐには会えないかもしれないけれど、落ち着いたらまた、わたしと会ってくれるかな。最高の笑顔を向けてくれるかな。そしたらわたしは今度こそ、本当の一番になりたいな。カメラに残ったあなたの笑顔を、ずっと見つめ続けているから。あなたが本当に幸せになるまで、ずっと待っているから。

 嘘つきで、強がりで、美しい。月明りが似合うあなた。人魚のように儚いあなた。恋に生きたあなたの姿を、わたしは絶対忘れない。

 涙で濡れた目蓋の裏に、無数の星が浮かび上がった。涙の雫、なのだろうか。りせと一緒に見たあの日の星空が、きらきら、きらきら輝いている。涙を流せば流すほど、その輝きは強くなって、わたしの心を照らし続けた。