薄暗い空間は、深海のようにひっそりとしていた。水槽の中にはさまざまな種類の魚が、自由を見せつけるように悠々と泳いでいる。突然、ぬっと白いものが視界に入ってきた。と、思ったら、それは巨大なエイだった。驚いているわたしを嘲るように、すいすいと目の前を横切っていく。

「でっかいなぁ」

 隣にいる奏真が、感心したようにつぶやいた。わたしはそうだね、とあいまいにうなずくだけで、目を合わせることはしなかった。

 夏休み最終日。訪れた水族館は、ささやくような人の声に満ちていた。手を繋いで歩く恋人、仲睦まじい家族連れ、仲よしグループ。わたしたちはどこにも属さない。恋人だけど、恋人じゃない。だから、手も繋がない。空から落ちる雨粒のように、ぽつりぽつりと会話をするだけ。

「すげーな、この写真」

 訪れた水族館では、海の生き物の写真展が開催されていた。壁にかけられたさまざまな生き物の写真は、今にも動き出しそうだ。大きなウミガメ、ジンベエザメ、かわいらしいイルカやペンギン。名前も知らない小さな魚まで、生き生きと写っている。

「すごいな、迫力あるなぁ」
「ほんとだ、どうやって撮ったんだろ……」

 わたしはぼんやりとイルカの写真を眺めた。水色に染まった海中で、悠々と泳ぐイルカ。すごく、のびのびしている。

「こういうの見ると、撮りたくなってくるんだよなぁ。ちくしょ、カメラ持ってくればよかった」
「今日は何も撮るものないでしょ」
「そんなことないよ」
「なに?」
「雫」

 突然、真剣な声色で名前を呼ばれた。わたしは怯えを隠すように、「え?」と引きつった笑いを浮かべた。

「雫の写真が撮りたい」
「な、なに言ってんの」
「だって、彼女だし」

 手持ち無沙汰なふたりの手が、触れるか触れないかくらいの距離で揺れている。わたしは無意識に重心を片足に移して、奏真から距離を取った。

「……もっと奏真が上達したらね」
「ちぇっ、厳しいなー」

 奏真が不満そうに口を尖らせる。作り笑いでごまかして、わたしは逃げるように歩き出した。

 奏真と付き合い始めて、約一ヶ月。相変わらず手も繋がない。キスもできない。それに、少しずつ広がっていく、この違和感。

 奏真って、こんな感じだったっけ? こんな、積極的なタイプだったっけ? わたしの知っている奏真って、もっと子供で、キスとか、歯の浮くような台詞を言うような子じゃなかったのに。奏真を知れば知るほど、どんどん距離が開いていくような気がする。

 水族館から出ると、ぎらぎらと激しい太陽が鋭い光を浴びせてきた。ああ、眩しいな。忘れていた暑さがじんわりと肌を汗ばませる。喉が乾いて、呼吸がしづらい。

「……ねぇ、奏真」

 わたしは動かしていた足をぴたりととめ、振り向いた。奏真はいつもと変わらない顔で首を傾げた。小さい時から知っている、わたしの幼なじみ。わたしの、こいびと。

「奏真は、何であんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「……『恋人になる?』って」

 奏真の表情が固まった。いつもの楽しげな笑みが消え、大きな瞳はまばたき一つしない。わたしたちだけ、時間がとまったみたい。恋人たちが、隣を流れるように歩いていく。わたしと奏真は、立ちどまったまま。

 奏真はちょっと悲しそうな、諦めたような顔をした。それから何でもないって言うように、いつもみたいな能天気な笑顔を張りつけた。

「雫と一緒にいたら、楽しいだろうなって」
「……楽しい?」
「付き合っちゃえば、気兼ねなく一緒にいられるし。それに、写真も教えてもらえるだろうしさ。いいことづくし」
「な、なにそれ。下心ある!」

 奏真はへへっと照れたように頭を掻いた。

「正直言うとさ、おれも『すき』とか『付き合う』って、よく分かってないんだよね。雫もそうじゃない?」
「それは……」

 見事に言いあてられて、言葉に詰まった。言い訳なんてできない。奏真はやっぱりな、と、少し残念そうに笑った。

「いいよ、難しく考えなくて。おれはただ、雫と一緒にいるのが楽しいんだ。だから一緒にいる。今はそれでいいよ」
「……ほんとに?」
「うん。雫がいやなら別だけど……」
「そんなことない。そんなことは、ないの……」

 わたしは何か言おうとしたけれど、言葉が見つからずにまた黙った。奏真のことはいやじゃ、ない。ただ、どんどん変わっていく日常に、関係に、順応できないだけ。奏真はわたしの背中を軽く叩いて歩き出した。

「すずしいとこ行こうぜ。外にいたら、熱中症になりそう」
「うん……」

 わたしは重たい足を動かして、奏真の隣を歩いた。太陽にあたためられたコンクリートは熱を孕んで、足元からわたしをじりじりと焦がしていく。まるで責められているみたい。

 奏真が今言ったことは、本心なのかな。本当にこのままでいいって思ってるのかな。奏真の優しさに甘えっぱなしの自分がいやになる。

 すきって、何だろう。付き合うって、何なんだろう。未熟なわたしは、今日も答えが出ないままだ。



 夏休みはあっという間に過ぎていった。修理に出していたカメラが戻ってきても、わたしはまだシャッターを押せずにいる。どこにも行けない。踏み出せない。いつまで経っても、わたしは子供のまま。

 りせは、何をしているんだろう。以前もらった金平糖を口に含むたび、彼女のことが気になった。最近全然会っていない。連絡も取っていないし、部屋をノックしても出てこない。

 新学期、始業式。
 再会は、思いがけない場所でやってきた。

 夏休み明けの教室は、新学期が始まった絶望感と、再会の喜びが入り混じっていた。日焼けをしたクラスメイトたちが、夏休みの思い出を語り合っている、例年の風景。自分の席に座って、近くの友だちとしゃべっていた時。突然、教室の空気が変わった。

 教室の後ろ側の扉から、ひとりの女の子が入ってきた。栗色の長い髪。耳にあけたピアス。それはもう、地球に隕石が落ちたってくらいの衝撃だった。教室は、一つの社会だ。閉鎖的で、排他的な、一つの世界。その世界に、突然異邦人が現れたのだ。しかも、とびきりかわいい女の子が。

 その女の子は、周囲の視線なんて気にも留めず、なんなら髪を掻き上げたりもして、堂々と教室に入ってきた。きょろきょろと周囲を見渡して、わたしを見つける。その端正な顔が、途端に年相応のものに変わった。

「雫!」
「り、りせ!」

 わたしはびっくりして席から立ち上がった。その瞬間、クラスメイトの目が一斉にわたしに向けられた。「あれ、誰?」「雨宮さんの知り合い?」みんなのひそひそ声が鼓膜に響く。りせはわたしに駆け寄ってにっこりした。

「おはよ。よかった、雫がいて」
「どうしたの、いきなり!」
「また留年するのもいやだからさ。雫もいるし、来てもいいかなぁって思ったの。ところで、わたしの席どこ?」

 わたしは戸惑いながらも、廊下側の一番後ろの席を指差した。「なーんだ、雫の近くがよかったぁ」りせは残念そうに唇を尖らせながら、自分の席へと向かっていく。長い髪が香水のにおいを振り撒きながら揺れている。登校してきた奏真と挨拶を交わして笑うりせを見ていたら、心の隅が疼くのを感じた。

 ずっと、りせが学校に来ればいいなと思っていた。そしたら、毎日楽しいだろうなって。

 ――制服が、きらいなの。

 そう言っていたのに、どうしていきなり学校に来たんだろう。学生が学校に来る。そんな、至極普通のことが、とても奇妙に感じる。嵐が来る前のような、妙な静けさに心がざわつく。

 何かが、変わってしまったような。
 そんな、予感、が。

 わたしの杞憂を嘲笑うかのように、日常は異常なくらい通常運行だった。りせは、まるで最初からそこにいたように、あっという間にクラスに溶け込んだ。二回目の一年生だからか、今まで授業を受けていないとは思えないほど優秀だし、アイドルみたいな容姿はみんなを引きつけるには十分で、わたしの交友関係をあっという間に追い越してしまった。

 りせは、太陽みたいな女の子だ。誰とでも気さくに話せて、すぐに仲よくなれる。だけど、なぜだろう。その完璧なまでの笑顔が逆に不自然で、ぎこちない。

「……りせ、むりしてない?」

 教室の片隅でそっと尋ねても、りせは「何が?」ととぼけた笑みを浮かべるだけだ。

「今まで学校ってきらいだったけど、雫と一緒なら楽しめるかなって思ったの。奏真もいるしね」
「……それなら、いいんだけど」

 わたしはそれ以上聞く勇気を持てなかった。一歩。あと一歩、踏み込んだら、何かが変わったのかもしれない。彼女の孤独に、気づいてあげられたのかもしれない。だけどわたしは、りせに拒否されるのがこわくて、一歩も動けなかったのだ。

 皮肉なことに、りせが学校に来るようになった途端、今までのように部屋で会うことがなくなった。りせは朝が弱いことを理由に一緒に登校することはなかったし、バイトを言い訳に一緒に帰宅することもなかった。別に、避けられているわけじゃないと思う。その証拠にお弁当は一緒に食べるし、他のどんな子といる時だって、りせはわたしに話しかけてくれる。

 例えるならそう、水槽の中にいる無数の魚のうち、一匹がどこかに行ってしまったような。些細な、でも、大きな変化だ。違和感と、不安と、正体不明の焦燥が、わたしの心を絶えず揺らし続けた。


 
 りせが学校に来るようになって、一週間ほど経った日。

 放課後、図書館に本を返し終わったわたしは、いつもより少しだけ遅く校舎を出た。

 九月とはいえ、太陽はまだまだ夏の顔をしている。半袖シャツが眩しい教室から一歩出ると、部活動をしている生徒たちの声が、波のように押し寄せてくる。こんなに暑いのに、よくやるなぁ。帰宅部のわたしは、照りつける太陽から逃れることに精一杯だ。早く部屋に帰ってクーラーにあたろう。そう思っていたのに、体育館のそばにいた人影に気づき、衝動的に方向転換をしてしまった。

「柊さん?」

 柊さんはわたしに気がつくと、くわえていたタバコを口から離した。

「雫ちゃん? 久しぶり」
「どうしたんですか? 何でうちの高校に?」
「顧問のバスケ部の練習試合。おれはただの付き添いなんだけど、煙草吸いたくなってさぼり中」

 見つかっちゃったな、と大して困ってない様子で笑って、再び煙草を口にくわえる。木漏れ日が夏の名残のように降ってきて、地面をまだら模様にしている。校庭に不釣り合いな白い煙が、空中をたゆたう。

 そういえば、こうしてふたりきりで話すのは初めてだ。聞きたいことはたくさんあるのに、いざ話そうとすると言葉が出てこない。わたしの戸惑いを察したのか、不自然な空白を埋めるように、柊さんが口を開いた。

「元気? りせとは相変わらず仲いいの?」
「はい、もちろん。……最近、りせは学校に来るようになったんです」
「へぇ、そうなの?」
「知らなかったんですか?」
「今知った。そうか、ようやく不良娘も更生したか」

 なんだか他人事みたいな台詞だと思った。伏し目がちなその様子は、どこか距離を感じさせる。若葉が、さぁ、とそっけない音を立てている。わたしの心を、揺らしていく。体育館から聞こえるバスケ部のかけ声が、どんどん遠ざかっていくように感じた。わたしの立っている場所が、日常からどんどん離れていくようで、急に、こわくなった。

「……りせと何かあったの?」
「何かって?」

 柊さんは素知らぬ顔で尋ねる。わたしと、目を合わせないまま。その横顔を見ていたら、なんだかやけに冷静になった。今までりせに対して抱いていた違和感。薄々勘づいていたその正体を、突きとめたような気持ちになった。

 ああ、やっぱり、原因はこの人だ。りせが学校に来たのも、悲しみを隠して笑っているのも、全部、この人のせいなんだ。

「りせを泣かせたら、わたし、柊さんのこと許さない」

 自分でも驚くくらい、はっきりと言い放った。まるでナイフを彼に突き刺したみたいだ。柊さんも驚いたようで、それまで伏せていた顔をこちらに向けた。いつも余裕な柊さんの仮面が、少しだけ剥がれた。

 だけどほころびはすぐに戻って、一秒後には嘲るような笑みが張りついていた。

「……恋人みたいな台詞。りせのこと、すきなの」
「えっ」

 思いがけないことを言われて、心臓が喉まで跳ね上がった。

「そ、そりゃ、友だちだし」
「奏真とりせ、どっちがすき?」

 絶句した。わたしは捕らえられた魚みたいにぽかんと口を開けた、まぬけな顔で柊さんを見つめた。柊さんはおもしろそうに喉で笑って、それから眉を下げた。

「いじわるしてごめんな。雫ちゃんがいれば、りせは安心だよ。……これからも、守ってやって、あいつのこと」
「……そ、そんなの、ずるい!」

 わたしは慌てて叫んだ。

「りせが一番必要としてるのはわたしじゃなくて、柊さんなのに。どうしてそういうこと言うんですか。どうして、どっちかを選んであげないの。小咲さんとりせ、どっちのことがすきなの?」

 背を向けた柊さんの表情は見えない。少し黙ったあと、柊さんは「すきの種類が違うんだよ」とつぶやいて歩き出した。

「わたし、柊さんのこといい人だと思います。でもやっぱり許せない。絶対、許してあげないから!」
 柊さんはちょっとだけ振り返ると、困ったように微笑んだ。そのまま何も言わずに右手を上げて、わたしの前から去ってしまった。



 ひとりになった途端、急に夏の暑さがぶり返してきた。部活動中の生徒の声が、テレビのボリュームを上げたように大きくなる。消えていった背中が、瞳に焼きついて消えない。わたしはぐっと唇を噛み締めて、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 たった三コール。まるで鳴ることが分かっていたかのように、奏真はすぐに電話に出てくれた。

『雫? どうしたの』
「ねぇ、まだ学校にいる?」
『いるいる。後ろ向いて』

 振り返ったら、スマートフォンを耳にあてた奏真が、遠くの方から歩いてくるところだった。わたしは通話を終了して、奏真に駆け寄った。

「今から少し時間ある?」
「え? あるけど」
「行きたいところがあるの。ついてきてくれる?」

 それは本当に衝動だった。きょとんとしている奏真の手を取って、帰り道とはまったく別方向へ進んでいく。

 わたしたちがたどり着いたのは、隣町にあるファミレスだった。

「ここがりせのバイト先?」
「うん、たぶん……」

「ハッピーベア」の看板を確認して、わたしはファミレスの扉を押した。店内は適度に混んでいた。きょろきょろ周囲を見渡してみる。りせの姿を確認する前に、大学生くらいのお姉さんに「いらっしゃいませ」と声をかけられた。

「二名様ですね。お席にご案内します」

 わたしたちは窓際の席に案内された。ここからだと、奥の方がよく見えない。奏真はメニューを広げながら、「何食おっかな、おなかすいてきた」と呑気なことを言っている。

「ハンバーグうまそう。でも、パスタもいいなぁ。雫はどれ食べる?」
「何でもいいよ。それより、りせ探して」
「でも、とりあえずなんか頼もうぜ。デザートも食っていい?」
「こんな暑いのによく食べられるね……」

 特に運動をしているわけでもないのに、なぜそんなにおなかがすくのだろう。男子高校生の食欲にあきれていると、水を運んできたウェイトレスが、わたしたちを見て声を上げた。

「えっ、雫? それに奏真も!」
「りせ!」
「びっくりした、どうしたの? 何でこんなとこにいるの?」

 ウェイトレス姿のりせは、全然知らない女の子みたいに見えた。さっきまで、わたしと同じ制服を着ていたのに。

「りせがバイトしてるの、見にきたんだよ。な、雫」
「う、うん」
「やだ! 恥ずかしいなぁ。来るなら先に言ってよね」
「蓮城ー」

 話し込んでいるわたしたちの元に、男の店員さんが近づいてきた。りせは「あ、店長」と背筋を伸ばした。

「どしたの、友だち?」
「そうです、すいません」
「めずらしいな、知り合いが来るなんて。早く上がってもいいぞ」
「いえ、いいです! 大丈夫!」
「そう? ならいいけど」

 店長と呼ばれた男の人は、わたしたちに向かってにっこりと笑いかけ、ひらひらと手を振って去っていった。りせは申し訳なさそうに両手を合わせると、

「ごめんね。今日はあと二時間くらいで終わるから、ゆっくりしてって」

 それから忙しそうに別のテーブルへと向かっていった。

「なんか、元気そうだな」
「そうだね……」

 せわしなく歩き回るりせの姿は、一点の曇りもないように感じた。とびきりの接客スマイルだって、他のどの店員さんよりもきらきらしている。

「奏真も、最近のりせ、変だなって思ってた?」
「まあ、ちょっとな」

 奏真はりせから目を離さずに答えた。

「おれは雫ほどりせのこと知ってるわけじゃないけどさ。天体観測した時となんか違うっていうか、むりしてるっていうか……」
「……そう、だよね」

 普段は鈍感な奏真も、こういうことには妙に鋭い。衝動的にここまで来てしまったのは、りせのことを少しでも知りたかったからだ。わたしが知らないりせ。柊さんが知っているりせ。流れ星に祈るだけじゃ叶わない。自ら行動していかなきゃ。

 わたしたちは少し早い夕食を食べながら、りせを待つことにした。りせはいつもと変わりなく、元気な様子で働いていた。時折男性のお客さんに声をかけられて困った顔をしていたけれど、いたって元気。いたって普通。悲しみなんてかけらも見せない。その、健気な仮面に、いつも騙されてきた気がする。あの、柊さんの様子。そして学校でのりせ。ふたりの間に何かあったのは明らかだ。だけど、わたしは何も聞けない。それはわたしが、ただの、友だちだから。

「ごめん、おまたせ!」

 午後七時半。制服に着替えたりせを加え、わたしたちは帰路に着いた。まだ暑いとはいえ、日が沈む時間は確実に早くなっている。ついこの間まで赤色に染まっていたはずの空には、今は星すら瞬いている。

「ごめんね、いきなり来て。ウェイトレス姿、似合ってたよ」
「ほんとほんと。おれもバイトしたくなったよ」

 奏真とふたりで褒めると、りせは照れくさそうに「やだ、もぉ!」と笑った。

「本当にびっくりしたんだから。誰もわたしのバイト姿見たことないのに」
「そういえば、うちの学校バイト禁止だろ? 許可取ってんの?」
「そんなわけないでしょ。ばれたら停学」

 りせは学生カバンをぶんぶんと振り回しながら、酔っ払いみたいに道の真ん中を歩いた。眩しい白の半袖シャツ。チェックのスカートが、ふわりと風に広がる。同じ制服を着ていても、りせはきらきらしている。だけどその後ろ姿は、やっぱりなんだかさみしげで、こんなに笑っているのに、どこか切なくなる。

「わたし、もう永くないから」

 空を見上げながら、宣言するように、りせが言った。

「学校に来たのもね、ほんのちょっとなの。ほんのちょっと、気を紛らわせたかっただけなの。もうちょっとしたら、目標の額に届くから。そしたら、バイトも辞めるつもり」
 言葉の意味がよく分からず、わたしと奏真は顔を見合わせた。永くないって、どういう意味だろう。声に出さず問いかけてみるけれど、奏真も首を傾げるだけだ。

「何かほしいものでもあるのか?」
「お金じゃ買えないものがほしいの」

 矛盾している台詞を、りせは言う。ますますわけが分からなくなった。表情すら、髪に隠れて分からない。

「りせは、自立してるな」

 何も言えないわたしの隣で、奏真がぽつりとつぶやいた。

「おれなんか全然だめだ。ほんとはさ、親にちゃんと塾に行きなさいって言われてるんだ。いい大学入って、いい会社に就職しなさいって。だから、カメラも反対されてるんだよ」
「えっ、そうだったの……」

 突然の告白に、わたしはびっくりした。そんなの、全然知らなかった。奏真は「実はね」と困ったように頬を掻いた。

「だからさ、もっと上達して、コンテストとかで入賞したら認めてくれるかなって思ってるんだけど……。なかなかうまくいかないな。上達しないし、金ばっかかかるし」
「そんなの、知らなかった……」
「言ったら、心配かけると思って」

 奏真は何でもない、という風に笑うけれど、わたしにとっては地球がひっくり返りそうなくらい衝撃的だった。そんなに真剣に、写真のことを考えていたんだ。思えば、最初からそうだった。カメラを買うために勉強を頑張っていること、ちゃんと知っていたのに。わたしは自分がカメラと関わりたくないあまり、その真剣さに向き合おうとしなかった。それに、奏真は、何でも話してくれると思っていた。なのに、わたしの知らない奏真がいる。そんなあたりまえのことすら、忘れかけていた。

 りせはううん、と首を振った。

「えらいのは奏真の方だよ。ちゃんと目標があって努力してるもん」
「りせだってそうだろ?」
「わたしは、違うの。逃げるための努力をしてるの」
「逃げる……?」

 わたしは急に不安になってりせを見た。りせはわたしに目線を移すと、いたずらっぽく笑った。

「逃げる時は全力ダッシュしなきゃね」

 わたしは笑い飛ばすことも、真剣に聞き返すこともできなかった。奏真は「何だよ、それ」とふしぎそうに首を傾げた。りせは何でもないように笑って、それ以上何も言うことはなかった。

 奏真と別れてふたりきりになると、ぷつりと不自然に会話が途切れた。いつもなら気にならない沈黙が、鋭い針のようにちくりちくりと肌に刺さった。どうしてだろう、いつもと何も変わらないのに。なんとなく、りせの雰囲気が硬い気がする。聞きたいことはたくさんあるのに、核心を突いてしまうのがこわい。わたしの少し前を歩くりせの後ろ姿が、どことなく拒絶しているみたいに見える。りせは今、どんな顔をしているのだろう。何を考えているのだろう。

「……今日、柊さんに会ったよ」

 苦し紛れにそんなことを言ってみる。りせは振り向かずに、「どこで?」と尋ねた。

「体育館裏。バスケ部の練習試合なんだって」
「そう」
「柊さんと……」

 何かあったの。

 そう尋ねようとして、口をつぐんだ。何かあったことは明確だし、わたしが聞いていいことじゃないと思った。

 ああ、こうして距離が開いていくのはいやだ。助ける手は持っていないし、お節介だと思われたくもない。何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのか分からない。こういうところが、自分のだめな部分なんだ。人生の経験値が低いんだ、きっと。

「さっき、本当にびっくりしたんだよ!」

 作ったように明るい声で、りせが叫んだ。

「奏真とふたりで来るなんて。教室じゃあんまり話してなかったから。……やっぱり仲よしなんだね」
「そんなこと、ないよ」

 わたしはぎこちなく口角を上げた。どうしていきなりそんなことを言うのか、意図が読めない。りせは「……いいなぁ」と、小さな声でつぶやいた。

「雫は今、幸せ?」
「え?」
「死んでもいいくらいの幸せ、感じたことある?」
「……たぶん、ない」
「恋人がいるのに?」

 肩越しに、りせが振り向いた。その瞳はぞっとするくらい冷たくて、軽蔑の色が浮かんでいた。わたしはちょっとこわくなって、歩調をゆるめた。

「……何が言いたいの」
「別に。奏真がちょっと、かわいそうだなって思っただけ」
「かわいそう……?」
「でも、そんなものなのかもね。『きらいじゃない』って、ずるい感情だよね。そんなの、繋ぎとめておきたくなっちゃうもん」

 りせはごまかすようにうーんと大きく伸びをした。りせが何を言いたいのか分からない。けれど、もしかして、もしかしなくても、怒っているのかもしれない。何で? どうして? 動揺と混乱で何も言えずにいると、りせはさらに話を続けた。

「今日、どうしてふたりで来たの? 放課後デート?」
「やだ、何言って……」
「仲のよさでも見せつけにきたの? ……大して、すきでもないくせに」

 りせが体をこちらに向けた。わたしはびっくりして立ちどまった。

 りせは、笑っていた。穏やかで、無邪気な、いつもの笑みだ。今まで意識していなかったけれど、笑った顔、小咲さんにそっくり。だけど、大きく見開かれた二つの瞳は、遠くから見ても分かるくらい、からからに乾いていた。

「……雫は柊くんのこと、あんまりよく思ってないでしょう。最低な男だと思ってるでしょ。でもね、雫だって同じだからね。自分に与えられた愛に本気で応えてない。奏真は優しいから何も言わないだけだよ。あんまり本気に見えないかもしれないけどね、まわりから見たら、ああ、本当に雫のこと大事にしてるなぁって分かるよ。特別扱いされてるよ、雫は。ほしくても手に入らない人間から見ると、簡単に人の好意を手に入れてもてあましてるのを見るのって、すごく気分が悪いよ」

 乾いていたはずの瞳から、急に、蛇口を捻ったように一気に涙が流れ出した。

「わたしがふたりのこと、何とも思ってなかったと思う? 素直に祝福してたと思う? わたし、ずっと雫のことがうらやましかった。誰とでも卒なく付き合えて、何の努力もしてないのにあっさり誰かの一番になれて、器用に生きてる。雫は『そんなことない』って言うと思うけど、わたしにはそう見えるの!」

 わたしは石になる呪いにかかったように、指先一つ動かすことができなかった。りせの言葉を、意味のある言語として受けとめることができない。だって、分からないんだもん。今、目の前にいるのが、わたしの知っている「りせ」だなんて。信じられないんだもん、そんなの。

 りせはぐっと唇を噛み締めると、逃げるように背を向けて走り出した。引き留めることもできず、わたしは呆然とその場に立ち尽くしていた。りせの背中が小さくなっていくのを、ただ、見送ることしかできなかった。



 その夜は、悔しさと悲しさがぐちゃぐちゃになって、声を上げて泣きじゃくった。泣かないと言ったりせが、あんな風に泣くなんて思わなかった。それに、どうしてあんなことを言ったのかも分からない。わたしのことを、「うらやましい」だなんて。そんなの、わたしの台詞なのに。あれほどの美貌を持っているくせに、どうしてそんなことを言うの。友だちだってすぐにできるくせに。恋だって愛だって、十分するくらい知っているくせに。

 りせはいつもわたしのはるか先を歩いている。わたしができないことを平然とやってのける、そんなりせを、いつもうらやましいと思っていた。だから近づいてみたかった。そのために奏真を利用した。だけどわたしは大人になれない。本当の愛を知らないから。永遠に距離は縮まらない。りせが学校に来るようになって、一緒にいる時間は増えたのに、どうしてだろう、心の距離は反比例していった。

 明るくて、大人っぽくて、絶対に泣かない強い女の子。それがわたしの知っている「蓮城りせ」だ。だから、あんな風に泣き叫ぶ女の子を、わたしは知らない。りせのことを知りたいと願ったくせに、結局、何一つ本当の姿なんて分かっていなかったんだ。

 そんなことをぐるぐる、ぐるぐると考えながら眠りについたら、案の定、翌朝は頭がひどく痛んで、起き上がることすらできなかった。それでもなんとか昼過ぎにはベッドから下りて、のろのろと制服に着替えたのは、きっと、りせに対する意地なのだろう。目が真っ赤に腫れていても、うまく声が出なくても、りせから逃げたと思われたくなかった。



 四限目が終わった休み時間。教室に足を踏み入れたわたしは、すぐにその違和感に気がついた。視線を右から左へ動かして、ぐるりと教室内を見渡してみる。輝きが一つ、足りない。

 りせの席を見ると、夏休み前と同じ状態になっていた。カバンがかかっていないのだ。りせ、来てないのかな。あれからどうしたんだろう。やっぱり、わたしのせいなのかな。悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。席に着くのをためらっていると、いつの間にか奏真が目の前に来ていた。

「雫、大丈夫か?」
「うん、平気……頭、ちょっと重たいけど」
「あのあと、りせと何かあった?」

 その質問に、はっとした。奏真は神妙な面持ちでわたしを見ていた。どうして、こういうことには鋭いんだろう。

 ――奏真が、かわいそうだなって。

 やだ、何でこんな時に、昨日の言葉を思い出すの。わたしは「何でもない」と首を振った。

「りせ、今日来てないの?」
「それが……」

 奏真は言いづらそうに目を逸らした。

「いや、今朝、職員室で見てさ。……あいつ、退学するかもしれない」
「……はっ?」

 隕石が落ちたくらいの衝撃だった。わたしは奏真の言葉の意味を、すぐに噛み砕くことができなかった。

 退学? りせが? どうして?

「な、何で? 何言ってんの? 昨日まで普通に来てたじゃん」
「だから、たまたま今朝職員室で聞いたんだよ。りせが先生と話してるの。聞き間違いかもしれないけど……」

 奏真は困ったように頭を掻いた。そうだ、奏真だって同じだ。りせの真意はりせにしか分からない。昨日まで普通に学校に来て、普通にバイトをして、それで、いきなり今日退学だなんて。

 ――わたしの、せい?  

「待てよ、雫!」

 教室を飛び出そうとしたわたしの手を、奏真が強い力でつかんだ。

「おれも行くよ。りせのところだろ」
「う、うん……!」

 うなずいたら、自分の声が震えていることに気がついた。永くない、とつぶやいた、りせの言葉が頭から離れない。何だろう、何が起こっているのかまったく分からないのに、悪い予感がとまらない。りせはどこにいるの? 何を考えているの? これから、どうするつもりなの? 全部、りせに聞かなくちゃ。 

「一色!」

 今度こそ走り出そうとしたら、また邪魔が入った。振り返ると、いつも奏真と一緒にいる男の子たちが、にやにやとこっちを見ている。

「なぁ、お前ら付き合ってんの?」
「はっ?」

 わたしははっとして、繋いでいる、ようにも見える奏真の手を振り払った。

「な、何、いきなり」
「昨日、一緒に歩いてるの見たってこいつが言うんだよ」
「ばか、お前も見ただろ!」

 昨日って、ファミレスに行った時のこと? りせに会いにいっただけだし、別にデートしていたわけじゃないのに。近くにいた女の子たちも、「なになに?」とおもしろがって集まってきた。わたしはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。

「で、どうなの? 一色」
「あー、実は……」
「違うの!」

 奏真の言葉をさえぎるように、慌てて叫んだ。

「奏真とはただの幼なじみだから! 付き合うとか、絶対にないから!」
「そうなの?」
「そうだよ。今日だってたまたま用事があるだけだから! ほら、行こう」

 みんなの視線から逃げるように、わたしは奏真の手を引っ張って教室から出た。付き合ってるってだけで冷やかされるとか、好奇の目で見られるなんて、恥ずかしさでどうにかなりそう。

 昇降口にたどり着いたところで、突然、奏真が繋いでいた手を振り払った。

「……奏真?」

 振り向いたら、奏真はいつになく真面目な表情をしていた。いつも明るいその瞳は暗くくすんで、責めるようにわたしを見ている。肌に触れる空気が、ぴりぴりと痛い。

「前から思ってたけど、さ。雫って、何でおれと付き合ったの?」
「……え?」
「そんなにおれと付き合ってるって言うの恥ずかしい?」
「ちが、そういうことじゃ……今はそんなことより、りせが」
「そんなこと? 大事なことだと思うけど」

 廊下を歩いている他の生徒たちの視線が気になった。まわりからは、ただの雑談をしているように見られているのか、わたしたちを気に留める人は誰もいない。

「確かにおれ、雫と一緒にいられるだけでいいって言ったよ。ゆっくりでいいとも言った。でも、雫はいつもりせ、りせって。りせのことばっかじゃん。付き合ってることも公言しなくて、手も繋がなくて、ただ一緒に出かけるだけって、それ、恋人って言えるの? おれって雫にとって何なの?」

 わたしは何も言えなかった。悲しげに伏せられた瞳が、泣いているようにも見えた。そこで初めて、奏真が怒っているのではなく、傷ついているということに気づいた。

「はっきり言わないと、やっぱり伝わらないのかな。……おれ、雫がすきだ。雫の撮る写真だけじゃない。雫っていう女の子が、すきだったんだよ……」

 まるで彗星みたいに、奏真の声が消えていく。心が、冬の日ように震えた。何か言わなきゃいけないのに、頭が雪のように真っ白になって、何も考えられなかった。混乱しているわたしの心に気づいたのか、奏真は下手くそな笑みを浮かべて、目を逸らした。

「ごめん。やっぱり、ひとりで行って」

 立ちすくむわたしを置き去りに、奏真は早足に立ち去ってしまった。

 急いでいたにもかかわらず、わたしはしばらくその場を動けなかった。

 知らなかった。奏真がそんなこと思っていたなんて、分からなかった。だって奏真はいつだって、笑っていてくれたから。何もできないわたしを、笑って許してくれたから。奏真が傷ついていないわけないのに。

 ああ、りせが言っていたのは、こういうことだったのね。わたし、柊さんにあんなことを言ったくせに、柊さんと同じことをしていたんだ。奏真の気持ちを知りながら、まっすぐ向き合ってあげられなかった。自己嫌悪が波のように襲いかかる。心が重い。でも、いつまでもこんなところで立ちどまっているわけにもいかなくて、重くなった足をなんとか動かして、わたしはりせの元へと急いだ。



「フラワーガーデン」に着く頃には、髪はぼさぼさ、肌は汗でぐちゃぐちゃになっていた。嵐が吹き荒れているような心境とは違って、庭は実に穏やかだ。花壇に咲く色鮮やかな花は、わたしの焦りを嘲笑うみたいにそよそよと風に揺られている。乱れた息を整えるより早く、コンコン、と離れをノックした。返事はない。扉に耳をあててみるけれど、やっぱり人の気配はない。スマートフォンを取り出して、りせに電話をかけてみた。でもやっぱり無機質なコール音が何度も繰り返されるだけで、わたしとりせを繋いではくれない。

 もしかしたら、寝ているだけかもしれない。それか、バイトに行っているのかも。そうだったらどんなにいいか。りせが学校に来ないのなんて、元々はそっちが普通だったじゃない。学校に来ていないことが「あたりまえ」だったんだから。それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。もう二度と、りせに会えないような。姿の見えない不安が、心を掻き乱していく。

 その時、後ろでバタバタと物音がした。振り向くと、アパートの一階から、戸惑った様子の智恵理さんが出てくるところだった。慌てたように車道に飛び出て、きょろきょろと首を振っている。わたしは咄嗟に彼女に駆け寄った。

「智恵理さん、どうしたんですか?」

 いつもばっちりセットしてある長い髪が、山姥みたいにぼさぼさになっている。智恵理さんは血相を変えてわたしを見ると、蜘蛛の糸を見つけたように目を見開いた。

「ねぇ、三尋木(みひろぎ)病院までの行き方分かる?」
「え? あの、はい」
「歩いて行けると思う? 遠い?」
「歩くと結構かかりますけど……どうしたんですか?」
「さっき小咲の会社から連絡があって、あの子、倒れて病院に運ばれたらしいの。タクシー呼んだんだけど、なかなか来なくて」
「えっ」

 倒れた? 小咲さんが?

 わたしは全身の血がぐぅーっと逆流していくのを感じた。そういえば、最近ずっと体調が悪かったっけ。どうしてこんなに次から次へといろんなことが起こるのだろう。今日は最低最悪の厄日だ。

「自転車ならたぶん十五分くらいです。わたしの自転車、貸しましょうか?」
「わ、わたし自転車乗れないもん……」
「じゃあわたしがこぎますから、後ろ乗ってください!」

 わたしは停めていた自転車の鍵を外してサドルにまたがった。

「で、でも、わたし重いわよ? いいの?」
「いいから! 緊急事態なんだからつかまって!」

 智恵理さんはためらいながらも後部座席に座り、わたしの体に腕をまわした。わたしはぐっとペダルを踏み込んで、勢いよく自転車を発進させた。ぎゃっと智恵理さんが潰れたカエルのような声を出した。

「やだ、やっぱりこわい、もっと静かにこいで!」
「急いでるんでしょ! 耐えてください」
「は、はい」

 ああ、もうすべてにいらいらする。早くりせに会いたいのに。でも小咲さんも心配だし奏真との関係はぐちゃぐちゃだし、考えることが多すぎる。乱雑な思考を振り払うように、わたしは全速力で自転車をこいだ。



 病院に着くと、病室にはすでに小咲さんの名前が記されていた。智恵理さんが看護師さんから簡単な事情を聞き、廊下で待っていたわたしに伝えてくれた。

「軽い脳震盪だって。大したことないから、明日には退院できるそうよ」
「よかった……」

 わたしはほっと胸を撫で下ろした。智恵理さんはめずらしく申し訳なさそうに眉を下げた。

「ありがとね、わざわざ連れてきてもらって。あの子、小さい頃からいろんな病気で入退院を繰り返してて。今回は大したことなさそうだけど……」
「いえ、いいんです。わたしも小咲さんにはお世話になってるし……」
「それで、ついでに悪いんだけど、もう一つお願いしてもいいかしら」
「何ですか?」

 尋ねると、智恵理さんはちょっと気まずそうに目を逸らした。

「りせに連絡してくれない? わたし、あの子の連絡先知らないのよ」

 智恵理さんからりせの名が出たことに、びっくりした。ふたりはすごく仲が悪そうに見えたから。普段はいがみ合っていても、やっぱり親子なのかもしれない。わたしはもちろんうなずいて、スマートフォンを取り出した。

 りせにもう一度電話をしたけれど、やっぱり彼女の声は聞けなかった。ひとまずメッセージを送って、わたしは智恵理さんと一緒に病室に入った。

 白いベッドの上で、小咲さんは穏やかに眠っていた。りせの面倒を見ていたのは小咲さんだって、前に聞いたことがある。小咲さんはいつも明るくて、優しくて。だから、こんなに弱っていたなんて知らなかった。しばらく小咲さんを見つめていたら、ゆっくりと、目蓋が開かれた。

「小咲!」

 智恵理さんが名前を呼ぶ。小咲さんは智恵理さんを見て、それからゆっくりとわたしに視線を移した。

「おかーさん、雫ちゃんも……」
「よかった、目覚めて。あんた、もう大丈夫なの? どっか痛くない?」
「大げさよ。大丈夫、ちょっと転んだだけだから。雫ちゃんも来てくれたの?」
「は、はい」
「雫ちゃんがわたしをここまで連れてきてくれたの。あ、先生呼んでくるわね」

 智恵理さんはわたしを残して、慌ただしく病室を出ていった。

「ごめんね、雫ちゃんにまで心配かけて」
「いえ……むり、しないでください」

 小咲さんは「ありがとう」と微笑むと、まわりを見渡すように頭を浮かせた。

「……りせは、いない?」
「さっき電話したんですけど、出なくて。でも、メッセージは送ってます。気づいたら、きっとすぐに来ると思います」
「そっか」

 小咲さんは残念そうな、ほっとしたような、複雑な表情を浮かべて頭を下ろした。

「最近、りせに会ってる? あの子、元気?」
「それが……昨日まで学校に来てたんですけど、今日は来てなくて。部屋をノックしても出てこないし……」
「そう……」
「りせと、何かあったんですか?」

 おそるおそる尋ねたら、小咲さんは何かを思い出すように、窓の外に顔を向けた。それから後悔するように、右腕を目蓋の上に乗せた。

「わたし、あの子にひどいこと言っちゃったの。あんなこと言うつもりなかったのに。りせのこと、傷つけちゃった。たったひとりの妹なのに」
「……りせは、小咲さんのことだいすきだって言ってました。自慢のお姉ちゃんだって」
「今は、どう思ってるかな……」

 わたしはそれ以上、かける言葉が見つからなかった。ふたりの間に何が起こったのか、聞く権利すら、わたしは持たない。だけど、聞かなくても分かる。柊さんのことだろうなと、直感的に理解した。

 だからこそ、わたしは何も言えなかった。わたしはただのりせの友だちで、完全なる部外者だった。どれだけりせと関わっても、どれだけ心配をしても、結局これは、彼女たちの問題なんだ。だからわたしは、そこに踏み込む権利を持たない。ずっと、感じていたことだった。

 しばらくすると、智恵理さんがお医者さんと一緒に病室に戻ってきた。お医者さんは、「しばらく安静にすること。むりはしないこと」というアドバイスだけして、せわしなくどこかへ行ってしまった。

 スマートフォンを確認すると、先ほど送ったメッセージに既読がついていた。やっぱり、来づらいのかな。今、どこにいるんだろう。まったく見当がつかない。それはきっと、わたしがりせのことをあまりにも知らないから。りせのことを知りたいと、流れ星に願ったはずなのに。何にも、前に進めていない。あんまり長居するのも申し訳ないし、そろそろこの場を去ろう。そう考えて帰ろうとした時、柊さんが病室に入ってきた。

「大丈夫か? 小咲」
「柊くん、来てくれたの」

 小咲さんの顔が、花が咲くようにほころんだ。柊さんは智恵理さんに軽く会釈してからわたしに気づいて、ちょっと驚いたような顔をした。

「雫ちゃんも来てくれたのか?」
「そうなの。お母さんを病院に連れてきてくれたんだって。お母さん、自転車も乗れないし、方向音痴だから」
「し、しかたないでしょ。タクシーが来なかったんだから」

 智恵理さんが少し恥ずかしそうに顔を背ける。柊さんは「ありがとな」とわたしの頭を優しく撫でた。

「それで、何ともないのか?」
「うん。ごめんね、心配かけて。仕事は?」
「仕事なんてしてる場合じゃないだろ。……いいんだよ、そんなの」

 小咲さんが弱く手を伸ばす。柊さんは一ミリのためらいもなく、その手をそっと包んだ。

 わたしはなんだか、ぎゅうっと心臓をつかまれたような気分になって目を逸らした。りせが来なくてよかったのかもしれない。ふたりのこんなやりとりを見たら、きっとまた傷ついてしまう。

「そういえば、りせは?」

 智恵理さんが、思い出したようにわたしに問いかけた。わたしは力なく首を振った。

「連絡はしたんですけど、返事がなくて……」
「まったく、あの子ったら。実の姉が倒れたっていうのに、冷たい子」
「りせもいろいろ忙しいのよ。分かってあげて、お母さん」
「でもぉ……」
「もう、ちゃんと仲よくしてよね。わたしももうすぐいなくなるんだから……」
「えっ?」

 さらりと重大なことを言われた気がして、わたしは思わず声を上げた。

「……いなくなるって、どういうことですか?」

 その場にいる全員に向けて、問いかける。柊さんはわたしの方を見ようとしない。知られたくないことを聞かれたように、うつむいたままだ。

「報告、遅れちゃったね」

 小咲さんは照れたように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、心が、いやにざわついた。まるで、りせの心がわたしにリンクしたみたいだった。その先にある台詞が、分かってしまった。

 小咲さんは、柊さんの手を繋いだまま、幸せそうに目を細めた。

「わたしたち、来月結婚するの」

 ――ガタン。

 病室の入り口から物音がして、はっと振り向いた。曇りガラスに、人影が映っている。シルエットだけで、それが誰であるかすぐに分かった。

「……りせ?」

 わたしが名前を呼ぶと、人影が逃げるように消えていった。

「待って!」

 考えるより先に体が動いた。ぽかんとしている智恵理さんたちを置き去りに病室を出て、早足でりせを追いかけた。病院から出ると、自転車に乗ったりせの後ろ姿が見えた。わたしは慌てて駐輪場に向かい、自分の自転車に飛び乗った。

 りせの向かう場所なんて一つしかない。帰りたくなくても、他に行き場がないことを、わたしは知ってる。赤信号に阻まれながらも、なんとかたどり着いたのは、どこでもない、りせのお城だった。

 離れの前には、りせの自転車が乗り捨てられていた。わたしは自転車から降りて、ゆっくりと、離れの扉を開けた。

 部屋の中には、いつも映し出されていたはずの星空は浮かんでいなかった。まだ外は明るいのに、本当に深海の中みたい。部屋に一歩踏み入れたら、まったく別の世界に入ったような気がした。

 りせ、と名前を呼ぼうとしたわたしは、さざ波のようなすすり泣きに気づいて口をつぐんだ。目を凝らすと、岩礁に倒れ込む人魚のように、ベッドに寄りかかるりせが見えた。声が漏れないように、布団に顔を埋めている。肩が、凍えるように震えていた。

 わたしはそっと靴を脱いで、りせに一歩、近づいた。

「……知ってたんだね」

 りせは何も答えなかった。うなずくことも、首を振ることもしなかった。それが肯定だということも、ちゃんと、分かった。わたしは床に膝をついて、りせを背中から抱き締めた。

「う、う、うぇぇぇぇ……」

 何かの弦が切れたように、泣き声が一層大きくなった。まるで迷子になった子供のようだ。抱き締めたりせの体はとても細くて、このまま消えてなくなってしまうんじゃないかと思うほど脆かった。

 強く強く、抱き締めなければ。
 きっと、りせは消えてしまう。

「な、納得しようとしたの。いつかこうなることは分かってたし、覚悟は、してたの。だから、ち、ちゃんと受け入れようって」
「……うん」
「でも、もうむり。ずっと我慢してきたの。ふたりがデートしてるのも、三人で一緒にいる時も。全部、全部我慢してたの」
「うん」
「ほんとは、ほんとはね、ふたりが一緒にいるのを見るのもいやだった。死んじゃいたくなった。バイトをしてたのだって、この家から離れるためだった。だからせめてお金が貯まるまではここにいようって、頑張ろうって思ってたの……思ってたのに! 何であんなことしたの? どうしてネックレスなんてくれたの? 最後の思い出にしようと思ったから? だから旅行に連れていったの? おめでとうって言うと思った? 言うわけないじゃん! 結局キスするしやることはやるし意味分かんない! 何でわたしに優しくするの? 一番じゃないのに! 一番にしてくれないくせに! 選んでくれないなら、あんな優しさいらなかった! 思い出なんて作ってほしくなかった!」

 りせは床に転がっていたCDをつかんで、思い切り壁に投げつけた。「コペルニクス」のCDが、次々と粉々に砕けていく。ふたりの思い出が、壊れていく。

「これからずっと近くで幸せを見続けなきゃいけないなんて、想像しただけで吐き気がする! 式なんてしてほしくない! 一緒に暮らしてほしくない! 指輪、なんて、してほしくないよ……!」

 りせの叫びが、狭い部屋に反響する。暴れまわる小さな体は、まるで言うことを聞かない馬のよう。離さないように、離れないようにぎゅっと押さえつけていたら、りせの苦しみが、肌を通じて伝わってきた。涙がぽろぽろとこぼれてきた。苦しい。つらい。絶対に泣かないと言ったりせが、こんなに泣いている。泣いたら、みじめになるでしょ。そう言って笑っていたのに。こんなにも、苦しんでいる。

 叫びが終わると、りせの肩は激しい上下を繰り返した。まるで運動をしたあとのように息が荒い。りせがゆっくりと振り向いたので、わたしは思わず、抱き締めていた腕の力をゆるめた。

 泣きじゃくったりせの顔は、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。美しかった長い髪は頬に張りついてぼさぼさになっている。チャームポイントの大きな瞳はうさぎみたいに真っ赤だ。白い頬は、涙で濡れていない部分なんてどこにもない。ぼろぼろに傷ついた女の子が、そこにいた。

「ねぇ、雫」

 りせの手が、縋るようにわたしの両肩をつかんだ。ぐっと近づいたりせの顔は、おそろしいくらい真っ白だった。大きな瞳に、動揺しているわたしが映っていた。

「わたしはどうしたらいいの? どうしたら幸せになれるの? これからずっと、ふたりの幸せを祝わなくちゃいけないの? おめでとうなんて言いたくない。こんな風に家族になんてなりたくない。きょうだいなんて、なりたくないの。……そんなのいらない。そんな形で、ずっと一緒にいたくない。そんな風になるくらいなら、もう、死んじゃいたい」
「りせ……」
「生きてるのがつらいの、苦しいの。わたしの方がすきって言うくせに。何で? 何でこうなっちゃうの? わたしのことだって大事にしてほしいよ。わたしの幸せ奪わないでよ、こんな思いを抱えて生きていくくらいならもう死んじゃいたい。……ねぇ、雫。わたしはどうしたらいいの? 教えてよ、しず……」

 りせの言葉が、不自然にとまった。ううん、違う。

 わたしが、言葉を、奪ったんだ。

 気づいたらわたしは、悲痛な叫びをとめるように、りせの唇を塞いでいた。やわらかい、マシュマロみたいな感触が、わたしの唇に伝わる。ゆっくりと口を離したら、熱い吐息が混じり合った。

「……もう、いいよ」

 ないしょ話をするように、そっと、ささやいた。

「いい子でいるのは、もうやめよう」

 りせは何をされたのか分からないように、大きな瞳を見開いていた。つい今し方までの叫びは、かけらすら出てこない。まるで、言葉を失った人魚みたい。

 わたしはまっすぐにりせを見つめた。初めて出会った時から、たぶんずっと分かっていた。満月の夜、逢引をしているあなたを見かけた。桜の下であなたに出会った。その笑顔に、その美しさに、ずっとあこがれていた。ずっと、惹かれていた。

 悲しみの海に沈むあなたを救ってあげたい。痛みも苦しみも全部取り去って、もう一度笑顔を見せてほしい。

「逃げよう。一緒に。りせのこと、誰も知らない場所に行こう」
「……逃げて、どうするの?」

 生まれたての雛のように、弱々しい声でりせが尋ねた。決まってるでしょ、とわたしは弱く微笑んだ。

「呪いを解きにいくの」

 あなたのことがすきだから。