蝉の鳴く声が重なり合って、窓の外でこだましている。部屋の中にいても分かるほど強い直射日光。熱気でぼやける庭の景色。コップから滴り落ちる透明な水滴と、低く唸る扇風機の音。不規則なシャープペンシルの音が、二つ。
そのうち一つがゆっくりと速度を落とし、やがて空気の中に消えていった。
「もうむり。ギブ」
わたしはシャープペンシルを手から離し、匙を投げるように机に突っ伏した。小一時間座りっぱなしのせいで腰が痛い。もうこのまま眠ってしまおうか。頬が冷たくて気持ちがいいし、課題が終わる気配もないし。落ちそうになる目蓋を阻んだのは、聞き慣れた声だった。
「どこ?」
わたしはちょっとだけ頭を上げて、無造作に広げたテキストを指差した。
「ここ。全然分かんない」
反対側からでは見づらかったのか、奏真はわたしの隣に移動して、まじまじと数式をのぞき込んだ。数センチの距離に奏真の横顔がある。ああ、意外とまつげ長いんだなぁ。近くにいすぎて気づかなかったけど、よく見るとかわいい顔立ちをしている。そういえば、昔から近所のおばちゃんたちに人気あったもんなぁ。
「……そしたら、こう。……なぁ、聞いてる?」
「え?」
はっと我に返ると、奏真がじろっと目を細めてこっちを見ている。ノートにはびっしり解説が書き込まれていた。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「せっかく教えてやったのに。じゃあ、もう一回な」
これはXに3を代入して……と、普段からは想像もできないほどすらすらと問題を解いていく。わたしはなんとか理解しようと、真剣に耳を傾けた。言われた通りの順序でシャープペンシルを動かす。
「……できた」
「だろ?」
「すごい、すごいね奏真。こっちも教えて」
「ん、こっちはこう。この式を展開すると、こうなる」
「じゃあ、これ」
「うーん、これは……」
次々と問題を解いていく奏真の手がぴたりととまった。じろりと不審そうな目でわたしを見る。
「もしかして、全部おれにやらそうとしてない?」
わたしは唇を尖らせて、奏真から目を逸らした。奏真はしかたないなぁーと息を吐いて、大きく伸びをした。
「ちょっと休憩する?」
「する!」
わたしは大きくうなずいて、久々に手に入れた自由を大きく吸い込んだ。ずるずると扇風機の前まで這っていき、あああああーっと無意味に声を出してみる。ゆらゆら揺らいだぶさいくな声が反響する。見慣れた部屋。いつものわたしの部屋。違うのは、奏真がいることだけ。
天体観測から二週間後。夏休みに突入したわたしたちは、気が遠くなるほどの課題を一つ一つ片づけていく作業を進めていた。高校生の男女が部屋でふたりきり。この前までならちょっと抵抗した。でも今は何もおかしくない。
わたしたちは、付き合っている。
「そうだ、こないだの写真現像したんだ。データで送ろうとも思ったんだけど、せっかくなら、と思ってさ」
すっかり休憩モードに切り替わった奏真が、カバンから封筒を取り出した。さっきまでノートが広げられていた机の上に、溢れんばかりの写真が並べられた。
「わぁ、すごい……!」
視界を埋め尽くした数々の写真を見て、疲れはどこかに吹っ飛んでしまった。まるで現実世界を閉じ込めたような仕上がりだ。透き通るような風景も、りせの笑顔も、すべてが生き生きと写っている。木々の揺れる音や川の流れる音、笑い声まで聞こえてきそうだ。わたしはそのうちの一枚を手に取った。夜空に浮かぶ無数の星がきらきらと輝いている。
「きれいに撮れてるね。星空撮るのって難しいんだよ」
「雫に教えてもらったおかげだよ。ほら、りせと雫もたくさん撮ったよ」
「ほんとだ」
示された先にある写真を見て、自然と笑みがこぼれた。ふたりでポーズを決めている写真。いつ撮られたか分からないような、何気なくおしゃべりしている写真。日常の一コマ一コマが、鮮明に、生き生きと切り取られている。
ふと、机の上にある一枚の写真が目に留まった。壊れものに触れるようにそっと、その写真を手に取る。薄暗闇の中、肩を並べて星を眺める柊さんとりせの姿。きっと見知らぬ誰かがこの写真を見たら、間違いなく勘違いするだろう。
「こうして見ると、ほんとにカップルみたいだよなぁ」
「うん……」
奏真の声が、右耳から左耳へと抜けていく。一枚一枚確認するように、ふたりが写っている写真を目で追っていく。わたしとの写真ももちろん楽しそうだけれど、その笑顔とは違う。もっと幸せで、もっと楽しくて、もっと繊細。幸せの先にある何かを悟ったような、そんな微笑みだ。
りせの笑顔はすきだ。太陽のように、ぱっとまわりが明るくなる。りせが楽しいとわたしも自然に笑ってしまう。だけどこの写真に写っているのは、どれもこれも、危うい儚さを持った笑みばかりだ。
どうしてそんな顔をするの。涙の理由は分かる。悲しいから人は泣くんだ。だけど、この笑顔の理由はなんだろう。何がそんなに悲しいんだろう。
「そういえば、奏真が全然写ってないね」
「あー、おれはずっと撮る側だったから」
数十枚もある中で、奏真が写っている写真は一枚もない。奏真は大して気にしていないようだけれど、なんだか申し訳なくなった。
「奏真も撮ってあげればよかったね。ごめん」
「いいんだよ。写るのより、撮る方がすきだし」
「そっか」
あ、わたしと同じだ。共通点を見つけて、心の中でそっと笑った。
わたしも昔から、写真を撮られるより撮る方がすきだった。自分の顔立ちがすきじゃないから、自分の姿を見るのがいやだった。この世にはわたしよりもきれいな人がいる。きれいな風景がある。だから、わたしはきれいなものを撮りたかった。ほら、きれいでしょ。そう自信を持って言えるものを撮りたかった。
「なぁ、今度ふたりでどっか行こうぜ」
「どっかって?」
「水族館とか、プールとか。映画とかもいいよな」
「でも、どこも写真撮れないじゃん。何しに行くの?」
「何言ってんだよ。そりゃ、写真も撮りたいけどさ。おれたち付き合ってるんだろ?」
「……うん、まぁ、たぶん」
「だったら、デートしようって話。せっかくの夏休みだしさ」
デート。なじみのない単語に、わたしは目をぱちくりさせた。頭の中で咄嗟に辞書をめくる。デート。親しい男女がふたりで出かけること。ああ、そうか。デート、デートね。
奏真は何枚かの写真を手に取って、「やっぱきれいに撮れるよなー」と早速話題を変えている。その楽しげな横顔が、なんだか余裕の表情にも見える。
「……デートって何するの?」
「ふたりで出かける」
「それ、付き合う前からしてたよね」
「うん。まぁ、そーいうこともあるよな」
「じゃあ、別に今までと変わんないじゃん」
「変わるだろ。付き合ってるんだし」
奏真がようやく顔を上げた。大きな二つの目に、まぬけな顔のわたしが映っている。
扇風機の音が、ごおおおと強まった気がした。蝉の鳴き声が警告音のように大きくなって、耳の奥をつんざいていく。
あ、なんだか。
吐息、が、交わりそう。
「……奏真って、今まで付き合ったことあるの?」
「あるよ。中学の時」
「えっ」
「初めて付き合ったのは小五だけど」
「えっ、えっ」
「何だよ、その反応。絶対失礼なこと考えてるだろ」
奏真は机に置いてあったコップを手に取り、ぐいっと麦茶を喉に流し込んだ。絶え間なく襲いかかる衝撃的な事実。放心状態になりながら、わたしもつられてコップを手に取る。溶けかけの氷が喉に引っかかって、むせ返りそうになった。
「告白したの? されたの?」
「うーん、したことはないな。告白されて、まぁいっかなって」
「それって、そんなにすきでもなかったけど、とりあえず付き合ってみたってこと?」
「まぁ、そうだな」
「それってどうなの? 向こうは奏真のことが本当にすきだったんでしょ?」
そこまで言って、はっとした。奏真に向けたはずの言葉は、見事に自分に跳ね返ってきた。投げたナイフが心にぐさぐさと刺さって、罪悪感という痛みが広がる。わたしだって似たようなもんだ。別に告白されたわけじゃない、と、思うけど。……あれ、じゃあ何で付き合ってるだろ、わたしたち。
奏真はうーんと考え込むように腕を組んだ。
「付き合ってすきになるかもしれないかなと思って。ただの友だちのままでは分かんない、その人のいいところが見つかるかもしれないじゃん。気遣いができるとか、優しいとか。愛情ってやつが見えやすくなるっていうか……うまく言えないけどさ」
「……そんなもん?」
「どうだろ。考え方は人それぞれだと思うけど。若いうちにいろんな経験しとけって、ねーちゃんが言ってた」
「お姉さん、結構年離れてたよね。何歳だっけ」
「今年で二十八。大人になったら、軽々しく恋愛なんてできないんだからって言ってた。学生のうちにしかできないことをたくさんしなさいって。遊びも勉強も」
わたしはまったく新しい数式を教えられたような気持ちになった。そういう考え方もあるのか。思ったより奏真の考えがしっかりしていたことにびっくりした。今まで子供だと思っていたけど、奏真の方がずっと大人だ。それなのにわたしは、自分のエゴで奏真を利用している。ずるい、情けない。恥ずかしい。
何も言えずに目線を落としたら、柊さんとりせの写真が目に入った。一枚、二枚、三枚……数え切れないくらいの、ふたりの笑顔。
奏真の言いたいことは分かるよ。分かるけど。わたしは両手を強く握り締めた。じゃあ柊さんは? りせのことどう思っているの? りせを受け入れて、そのあとは? 小咲さんのこと、どう考えてるの?
――いつか、りせを突き放すの?
「雫」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げた。奏真の顔がものすごく近くにあった。っていうか、近すぎて顔全体が見えない。真剣な瞳に吸い込まれそうになる。なに、何なのこれ。
「ちょ、ちょっと!」
わたしは咄嗟に奏真を突き放した。どんっ、と鈍い音がして、「いたっ」と奏真が声を上げた。どうやらクローゼットに頭をぶつけたらしい。
わたしはベッドに逃げ込み、怯えた猫のように布団にくるまった。
「な、な、何すんの!」
「いや、恋人っぽいこと、してみようかなって思って」
奏真が頭を押さえながら立ち上がった。一歩一歩、距離が縮まる。奏真の手がベッドに沈み込んで、スプリングがぎしっと軋んだ。
「だめ?」
「いや、だめっていうか……」
わたしは言葉を濁し、逃げるように目を逸らした。どうしよう、よく知っているはずなのに。昔から知ってる男の子なのに。なんだか知らない男の人に見える。
奏真の顔が近づいてきた。心臓がばくばくとうるさい。どうしよう、付き合ってるし、彼氏なんだし、受け入れるべきなのかな。付き合っているのに何もしない方が変なのかな。だったら、いや、でも――
「……ごめんっ!」
わたしは奏真の肩に両手をついて、弱い力で押し返した。
「やっぱ、まだむり……」
緊張で声が震えた。室温が二度くらい下がったみたいだ。奏真はベッドから離れ、すとんと床に座り込んだ。
「いいよ。おれもいきなりごめん」
おそるおそる顔を上げると、奏真はちょっと申し訳なさそうに笑っていた。わたしはほっと息を吐いた。ああ、よかった。いつもの奏真だ。
「せっかく付き合ったんだから、特別なことしたいなって。でも、さすがに早かったよな。おれたち、恋人ってより友だちって感じだし」
「う、うん」
わたしはどぎまぎしながらうなずいた。被っていた布団から出て、奏真の隣に腰を下ろす。奏真の手が、優しくわたしの頭に触れた。子供をあやすように、ぽんぽん、と軽く叩く。
「おれは単純に雫といるのが楽しいし、すきだからさ。とりあえず、今度出かけてみない? 写真も、アドバイスくれると嬉しい」
「うん……ありがと」
なぜだか瞳が潤むのを感じて、うつむいた。自分の情けなさが悔しくて、きゅっと唇を噛む。
何でだろう。奏真のことはきらいじゃないのに。わたしたち、付き合ってるのに。どうして何もできないんだろう。
蝉の声が騒々しさを増した気がした。コップの中の氷が、臆病なわたしを嘲笑うように、からん、と音を立てて溶けていった。
結局課題は予定の三分の一しか終わらず、恋人らしいこともしないまま、わたしたちは解散した。
夜。お風呂上がり。火照った体を冷ますためベランダに出ると、大きな満月が、空にあいた穴のように浮かんでいた。うさぎが餅をついているとか、大きな蟹だとか諸説あるけど、濁ったわたしの瞳にはただの幾何学模様にしか見えない。
はぁーっとありったけの息を心から吐き出す。だめだ、胸に鉛が詰め込まれたみたいだ。自分の幼さに腹が立つ。
恋人ができたら、りせの気持ちが少しは分かると思っていた。だけど結局何も変わらない。早く大人になりたいのに。少しでもりせに近づきたいのに。どうしてこんなにうまくいかないんだろう。わたしはいつも、溺れる鳥のようにもがくことしかできない。
ふと、庭の隅っこにある離れが目に入った。相変わらず明かりはついていない。そういえば、天体観測の日からりせを見かけていないな。こんなに近くにいるのに、わたしたちの距離は相変わらずだ。わたしもりせも、積極的に「会おう」と声をかけるタイプじゃないから、仲よくなっても会う頻度は変わらないのだ。
りせは元気だろうか。こんなに近くにいるんだから、会いにいってみようかな。そんな思いつきで、わたしは離れを訪ねることにした。
庭に出ると、生ぬるい風が全身に絡みついてきた。あれほど艶やかに花を咲かせていた桜は、もうすっかり青葉になっている。時が少しずつ進んでいる証拠だ。
わたしはちょっと緊張しながら、離れの扉を軽くノックしてみた。しん、と沈黙が帰ってくる。やっぱり今夜はいないのだろうか。諦めて帰ろうとしたら、扉の向こうで物音がした。そのまましばらく待っていると、警戒するようにじわじわと扉が開いた。
現れたりせの顔を見て、ぎょっとした。かわいらしい二つの目は、暗闇でも分かるほど赤く充血している。クマもひどいし、髪もぼさぼさ。いつものりせとは別人みたい。
「ど、どうしたの?」
「拗ねてるの」
りせはぶっきらぼうに答えると、ふいっと背中を向けて部屋の中に戻っていく。わたしは慌ててりせに続いて扉を閉めた。薄暗い部屋の中、相変わらず明かりは淡いキャンドルだけだ。りせはふらふらとベッドに近寄ると、そのまま倒れるように沈み込んだ。
「寝てた?」
「さっき起きたとこ」
声色が冷たい。これは相当機嫌が悪いな。わたしはおそるおそる、持ってきた写真をりせに差し出した。
「これ、奏真から」
「……何それ」
「こないだの写真。現像してくれたの」
「あっ! ありがと!」
ガバッと勢いよく跳ね起きて、わたしの手から奪うように写真を受け取る。りせはぴょんっとベッドから飛び跳ね、テーブルの上に写真を広げた。
「わーっ、すごい! 全部きれいに撮れてる」
「奏真に感謝しなきゃね」
「ほんとだね。あっ、でもこのわたしぶさいく。これはいらない」
「十分かわいいよ。ほら、これとか。柊さんもいっぱい写ってる」
柊さんの姿を見つけた瞬間、りせはぱっと顔を輝かせたけれど、すぐにむすっと頬を膨らませた。
「こんな男、もー知らない。きらい!」
「え?」
予想外の反応に、わたしはぽかんと口を開けた。りせはぽいっと写真をテーブルの上に放り投げ、勢いよく立ち上がった。
「カラオケ行こ」
「い、今から?」
「うん。行こう!」
りせは目の端をつりあげたまま、強引にわたしの腕を引っ張った。
「世の中くそくらえだ――!」
狭いカラオケルームに、りせの声がぐわんぐわんと響き渡った。彼女には似合わないロックを、荒々しい声で歌いまくる。マイクがハウリングするのもおかまいなし。もう歌っているのか叫んでいるのか分からない。なんだか、いつになく荒れてるなぁ……。髪の毛を振り乱してシャウトするりせの横で、わたしはおとなしくジュースをすすった。
「雫も歌って!」
「へ?」
「いいから、歌うの!」
りせは強引にもう一本のマイクをわたしに手渡した。
「わたし、この曲知らない……」
「じゃあ知ってる曲入れて! ほら!」
今度はデンモクをぐいっと押しつけてくる。これは歌わないと気がおさまりそうにないな。わたしはしかたなくデンモクを操作し、適当に知っている曲を入れた。
狭い密室で、ふたりの声が重なる。画面に映る文字を追いながら、ぎゃんぎゃんとぶさいくな声で歌う。肩を組んで左右に揺れて、さみしさを紛らわせるように叫んで、怒鳴って、その繰り返し。タイムリミットが迫る頃には、息も絶え絶えになっていた。
「……柊くん、旅行してるの」
テーブルに突っ伏しながら、りせがかすれた声でつぶやいた。
「小咲さんと?」
わたしはがらがら声で尋ねた。りせは何も答えない。否定しないのが、肯定の合図だ。
「こんなこと思う権利なんてないし、当然のことなんだけどね、やっぱりいやだよ……」
長い髪が机にだらりと垂れ下がっている。いつになく弱々しい彼女を見たら、わたしは黙るしかなかった。りせは頭を起こすと、弱さを振り払うように息を吐いた。
「ごめん。雫に愚痴ってもしかたないのに」
「ううん……」
わたしは首を振りながら、自分のボキャブラリーと経験値のなさに肩を落とした。
りせのこういう感情、嫉妬、っていうのかな。すきな人が別の女の人と一緒にいたら、いやになるものなの? 悲しくて、辛くて、さみしくなるものなの? もし奏真がりせとふたりで出かけたら、わたしは悲しい? さみしくて涙が出ちゃう? ……今のわたしには分からない。
「……りせは、柊さん以外の人をすきになったこと、ある?」
「え? そうだなぁ……小六の時、一週間だけ付き合った人ならいる。サッカー部の和哉くん」
りせはへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。
「でも今思うと、それは本当の恋心じゃなかったなって。幼すぎたから、好意を愛情だと錯覚してたのよ。柊くんとは全然違うもん」
「付き合うって何するの? どんな感じ?」
「うーん……和哉くんとは特に何もしてないけど、普通はキスとか、デートとかかな。あと……」
りせの艶めいた唇がわたしの耳元に近づいてくる。吐息の隙間からささやかれた単語に、耳の奥がぞくっとした。
「えっ、えっ?」
「恋人なら、するでしょ」
りせはきょとんと首を傾げる。からかっている様子はない。あくまで普通のことを述べました、って感じだ。
「ほ、他には?」
「まだ聞きたいの? やらしーい」
「そうじゃなくて、そういうこと以外で!」
にやりといじわるく笑うりせの前で、わたしは大きく両手を振った。りせはつまらなさそうに唇を尖らせる。わたしははぁーっと大きく息を吐いて、ジュースの入ったグラスを両手で包み込んだ。
「……付き合うって、よく分からないの。手を繋ぎたいとか、キスしたいとか思わないし。どこかに出かけるのだって、友だちでいる時と何が違うの? わたしはまだ、全然分かんないや」
「なに、奏真と付き合ったの?」
「……えっ!」
「あ、そうなんだ」
「な、な、何で?」
「仲よさそうだったから。恋人同士って感じでもないけどねー」
りせはけらけらとおかしそうにおなかを抱えた。言い訳する間も与えてはくれない。彼女には嘘は通用しない。わたしは観念してうなずいた。
「きらいじゃ、ないんだけど……」
「分かるよ。恋愛の『すき』とは、また違うんだよね」
わたしは驚いてりせを見た。りせはすべてを包み込むように、優しく目を細めた。
「どうして付き合うことになったのかは分からないけど、雫が思うようにしたらいいんじゃない? どんな関係になっても、きっとふたりは大丈夫だよ。奏真、いいやつだもん」
ああ、どうして何も言わなくてもほしい言葉をくれるの。わたしはりせに何も言ってあげられないのに。溢れそうになる涙を、隠すようにうつむいた。
「うん。ありがと」
かろうじて声を絞り出す。ちょっとかすれて不自然になってしまった。りせはそっとわたしに体を寄せ、小さくつぶやいた。
「……わたしだって、ほんとは……」
わたしは耳をすませたけれど、その続きが聞こえることはなかった。
「だめだ、暗くなる! 歌おう!」
りせは突然立ち上がると、ものすごいスピードで曲を入れた。再びマイクを持って、ぴょんぴょん跳ねながら激しいロックを歌い始める。髪を振り乱しながら、全力で愛を叫ぶ。その無邪気な瞳。強い意志。きれいな声で歌うりせに、わたしは呼吸を奪われた。
ああ、きらきらしてるな。
笑ってる顔も泣きそうな顔も尊いな。りせはいろんな表情を持っている。どれもこれも眩しいくらい輝いていて、美しい。
すきって何だろう。わたしにはまだ分からない。人を愛するって何だろう。わたしにはまだ理解できない。
でも、一つ。たった一つだけ、確かに思ったことがある。
――わたし、この子を撮りたいな。
カラオケから出て、コンビニで買ったアイスを食べながら帰路に着いた。夜風が汗を乾かすように全身を撫でて気持ちがいい。わたしたちは酔っぱらいのように歌いながら、ふらふらと夜道を歩いていった。
アパートが見えたところで、普段はからっぽの駐車場に、車が停まっていることに気がついた。中から二つの人影が出てくる。わたしたちは顔を見合わせ、小走りで車に近づいた。
「柊くん、お姉ちゃん!」
「……あ、りせ」
小咲さんは弱く微笑むと、気分が悪そうにうつむいて口を押さえた。柊さんが支えるように腰に手を添える。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大したことないんだけどね。ちょっと、体調悪くて帰ってきたんだ……」
小咲さんは申し訳なさそうに柊さんを見上げた。
「ごめんね、せっかくの旅行だったのに」
「そんなの気にすんなよ。ほら、歩けるか?」
柊さんはゆっくり小咲さんを玄関まで誘導し、「りせ、鍵開けて」と家の鍵をりせに渡した。りせはぎこちなく玄関を開け、真っ暗な部屋に明かりを灯した。
「ちーちゃんは?」
「日付が変わるまでには戻ってくると思うけど……。今日デートなんだって」
デート。子供がふたりいるのに、デート、とは。わたしは三人の後ろでぎょっと飛び上がった。なんというか、見た目通りの人だ。
ふたりが小咲さんをベッドに連れていく間、わたしはそわそわと玄関で待っているしかなかった。十分ほどして、ふたりが玄関に戻ってきた。
「小咲さん、大丈夫ですか?」
尋ねると、柊さんは返事に困ったように頭を掻いた。
「最近ずっとあんな感じだからなぁ」
「だから、天体観測も来れなかったの?」
りせの顔が険しくなった。自分を責めるように強く、両手を握ったのが分かった。柊さんは安心させるように、りせの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「まぁ、あんま心配すんなよ。そうだ、ちょっとこっち来て」
柊さんは思い出したように車に向かった。わたしとりせは戸惑いながら、柊さんについていく。柊さんは車の後部座席から大きな袋を取り出すと、わたしに「はい」と差し出した。
「これ、雫ちゃんにお土産」
「えっ、いいんですか?」
袋の中をのぞくと、そこには甘夏ゼリーの箱が入っていた。
「うん。奏真にもあげといて」
「ありがとうございます」
「わ、わたしには?」
りせがぎこちなく柊さんに尋ねる。柊さんはふしぎそうに首を傾げた。
「え? ないよ」
「ええ――っ!」
「うそうそ、これ」
柊さんは苦笑しながら、小さな紙袋をりせに渡した。りせがそわそわしながら中身を取り出す。それは、星の形をしたキーホルダーだった。
「……かわいい!」
「三百円な」
柊さんがいじわるく言う。しかしりせの耳にはもう届いていないようだった。
「わーい、わーい!」
無邪気な子供のようにぴょんぴょん飛び上がって、最大限の喜びを表現している。柊さんは大げさだなぁ、と目を細めた。
わたしは、その眼差しがとてもとても優しいことに気づいた。他の人に向けるものとは違う、愛しそうな瞳。嘘つきなこの人の、素直な心が表れているようだった。
柊さんはわたしの目線に気づくと、愛しさを振り払うように、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
「じゃーな、おやすみ」
「おやすみ、柊くん!」
「おやすみなさい」
開け放たれた窓から挨拶を交わすと、微笑みを置き去りに、車はどんどん遠ざかっていく。曲がり角で消えて見えなくなるまで、わたしたちは柊さんを見送った。
車のエンジン音が消えると、波が引いたあとの浜辺のように、すーっと静けさが満ちてきた。
「……都合いいでしょ、わたし」
キーホルダーを胸に抱きながら、りせが静かにつぶやいた。風で乱れる髪を押さえながら、わたしはりせの方を見た。さっきまでの無邪気な笑みとは違う。静かで、物悲しい、大人っぽい微笑みがそこにはあった。
「些細なことで悲しくなったり、喜んだりするの。これが、恋」
「……お似合いだよ、ふたりは」
心の底から、そう思った。
「すごく、きらきらしてる。お互い大切なのが伝わってくるの。お似合い、なのに……」
「いいの。わたし、今すっごく楽しいの。ちょっとでも会えたら幸せで、小さなプレゼントでも嬉しいの。柊くんのことが、すごく、すごく大切なの……」
手の中のキーホルダーを、大切そうに見つめる。たった三百円のお土産も、百カラットの宝石に変わる。世界のすべてが色づいて、どうしようもなく、愛しく、なる。
「……どうしたの?」
りせが、驚いたように目を見開いた。
「何で泣いてるの?」
彼女の言葉で、わたしは初めて自分が泣いていることに気がついた。
「どっか痛い? 風邪でもひいた?」
りせがおろおろしながらわたしの背中をさする。わたしは首を振りながら、何度も何度も手の甲で涙を拭った。
違うの、りせ。そうじゃないの。
こんなに彼を想っているのに。こんなに大切にしているのに。それは彼も同じはずなのに。
だからこそ、柊さんが憎らしくなった。どうしてふたりは結ばれないの。どうしてりせを選ばないの。こんなに、こんなにすきなのに。涙はやまない雨のように、頬を伝ってとまらない。
恋人なのにキスすらできないわたしと奏真。恋人じゃないのに、愛し合っているりせと柊さん。
付き合うって何。恋人って何。人を愛するって、どういうこと。
恋人の定義を、教えてほしいよ。
翌朝。わたしはめずらしく早起きをして、引き出しの奥に閉まってあった、古いカメラを取り出した。年季が入っているせいで、シャッター部分がうまく動かない。気合いを入れるように深呼吸し、よし、とつぶやいた。直射日光にやられないよう帽子を被り、外に一歩、踏み出す。
「あ、おはよー雫ちゃん」
庭に出たわたしは、名前を呼ばれてぎょっとした。じりじりと焼けるような太陽の下、花壇に水を遣っている女性が、ひとり。わたしは慌てて小咲さんに駆け寄った。
「おはようございます。もう大丈夫なんですか?」
「ごめんね、心配かけちゃって。寝たらよくなったの。あっ、柊くんからお土産受け取った?」
「はい。ありがとうございました」
「よかったぁ。ちゃんと渡してくれたか不安だったんだ」
小咲さんは額の汗を拭いながら、ほっとしたように微笑んだ。昨日よりずいぶん顔色がいい。どうやら、本当に体調は回復したようだ。
「今からお出かけ? もしかして、デート?」
「ち、違います!」
「ふふ、冗談。気をつけてね」
わたしはぺこりと一礼して、小走りでその場を離れた。
わたしが向かったのは、カメラ修理のお店だった。年季の入ったわたしのカメラは、長年封印していたせいでところどころ調子が悪くなっている。今まで、そのことに気づきながらも目を逸らしてきたのだ。だけど、いつまでも立ちどまったままではいけない。そう思い始めたのはたぶん、未熟な自分に気づいたから。
カメラを修理に出し終えたわたしは、ちょうどお昼時ということもあり、適当なカフェで昼食を取ることにした。
サンドイッチとアイスティーを購入し、スマートフォンをいじりながら窓際の席に腰かけた。夏休みというだけあって、まわりはおしゃれをした女の子たちでいっぱいだ。制服を脱ぎ捨てたカップルばかりがやたらと目につく。誰もかれも、こんなに暑いというのに手を繋いだり、ぴったりと体を寄せ合ったりと、見ているだけで暑くなっちゃう。
そうか、普通の恋人ってあんな感じなんだ。目一杯のおしゃれをして、ふたりで出かけて、手を繋いで、幸せそうに笑い合う。わたしと奏真と、全然違う。手すら繫げないわたしたちは、まるで恋人ごっこをしているみたい。昨日だって、何にも、できなかった。
アイスティーの水面に、冴えない女の子が映っている。ちょっと眼鏡を外してみたからって、おしゃれ女子とはほど遠い。スカートって足がスースーして苦手だ。今日着てるレースのシャツだって、りせの方が数倍似合う。りせはいつだって、道行くどんな女の子よりもおしゃれで、どんなアイドルよりもかわいい。
どうして同じ人間なのに、こうも違うんだろう。わたしは時折、りせがひどくうらやましくなる。かわいくて、恋をしていて、きらきらしているりせが。
外を見たわたしは、人混みの中に見慣れた影が紛れ込んでいることに気がついた。どんなに遠くても分かる。色白で、目が大きくて、栗色の髪を一つにまとめた、きれいな女の子――りせが、歩いている。
ああやっぱり、りせのかわいさって別格だ。夜の闇にぽっかりと浮かぶ月のように、どこにいても目立つ。そして彼女のそばにいるのは、小咲さんの恋人である柊さんだった。
柊さんの後ろを子犬のようについていくりせ。その表情は、まるで溶けたアイスみたい。全身から幸せが溢れているのが、こっちにも伝わってくる。
わたしはぼんやりと、ふたりが消えた方向を眺め続けた。柊さんがどんな顔をしていたかは分からない。だけど、なんだか、他のどの恋人より仲睦まじげで、絵になっていたから。ほんの一瞬だったけど、まるで映画のワンシーンみたいにきらめいていたから、見入ってしまったのだ。
お似合いって、こういうことを言うんだなぁ。わたしはサンドイッチを両手でつかみ、思い切り口に放り込んだ。ああ、今日もりせが眩しい。りせと柊さんって、本当に――
……あれ?
わたしはかじりかけのサンドイッチをお皿の上に置いた。りせのことばかり考えて忘れていたけれど、柊さんは、小咲さんの恋人なんだよね。小咲さんは、このことを知っているのだろうか。いや、知っているわけないか。知ったらきっと、あんな穏やかに笑えないだろう。
――もし、知ってしまったら?
起こりうる未来を考えたら、急に心がひやっとした。
りせのことばかり考えていた。わたしはりせの友だち、だから。りせの喜びや悲しみを多く知っているから、りせが幸せになればいいと願っていた。それに、きっとりせの恋を否定したら、りせはわたしの元から離れてしまう。そんな気がしたから。だけど、りせの幸せは小咲さんの不幸なんだ。
……これって、よく考えたら、いや、よく考えなくても「浮気」ってやつだよね。何で今まで深く考えなかったんだろう。柊さんは、浮気している。恋人の妹と。それって、すごくすごく悪いことじゃないか。
今だって、小咲さんは体調を崩している。今朝だって笑っていたけれど、顔色は決していいとは言えなかった。それなのに柊さんとりせは、のうのうとデートを楽しんでいる。
あ、れ?
わたし、りせのこと、応援していいのかな。
小咲さんの笑顔がよみがえった。優しくて、穏やかで、素敵な女の人。食べかけのサンドイッチには、もう手をつける気になれなかった。
何をするわけでもなくカフェで時間を潰し、夏服やら生活雑貨やらを買っていたら、家に帰る頃には夕方になっていた。こんなに長時間ひとりで出かけたのは久しぶりだ。外の暑さに反比例するように、ショッピングモールはクーラーがききすぎていて肌寒かった。
かわいい服を選んでいる時も、雑貨を見ている時も、わたしの頭の中は小咲さんでいっぱいだった。並んで歩くりせと柊さんの、楽しそうな表情がちらつく。幸せは、すべての不幸の上に成り立っている。そのワンフレーズが、カビみたいにこびりついて離れない。
帰宅して、荷物を整理したわたしは、道すがら購入したプリンを片手に再び部屋を出た。一階に行き、チャイムを鳴らす。はぁい、という高い声とともに、すぐに玄関の扉が開いた。
「あれ、雫ちゃん。おかえりなさい」
小咲さんが出てきてくれたことに、ほっとした。智恵理さんはどうも苦手だ。わたしは軽く頭を下げ、手に持っていたプリンを差し出した。
「あの、お土産ありがとうございました。これ、お見舞い」
「えっ、いいの? 気遣わなくていいのに、ごめんね」
小咲さんは眉を下げながらも、わたしのプリンを受け取ってくれた。今朝に比べて、ずいぶん顔色がよくなっている。
「高校生に心配されるなんて情けないな。ありがとう」
小咲さんの屈託のない笑みを見た途端、ぎゅうっと胸が締めつけられた。お礼を言われる資格なんてないのに。だって、わたしは秘密にしている。りせと柊さんのこと、ないしょにしている。りせの幸せを願っている。今こうしている間にも、りせと柊さんは――そう考えたら、小咲さんの顔がまともに見られない。
――小咲さんが、このことを知ったら。
「あの……」
言葉にしようとしたら、声が震えた。動揺を抑えるように、両手をぎゅっと握り締める。小咲さんのためにも、知らせた方がいいんじゃないの。間違っているのはりせの方なんだから、小咲さんのことを考えるべきじゃないの。そうだ、それが世間一般的には正しいんだ。だったら、言った方が……。
「どうしたの?」
小咲さんがふしぎそうに顔をのぞき込んでくる。わたしは肩を震わせ、慌てて首を左右に振った。
「いえ、あの……いつもりせに仲よくしてもらってるんで、そのお礼も兼ねてるんです」
「やだ、お礼を言うのはこっちの方よ。雫ちゃんに会ってから、なんか楽しそうだもん、あの子」
雫ちゃん、しっかりしてるね。小咲さんが感心したように言うので、わたしはもう引きつり笑いを浮かべるしかなかった。
「今日はりせと一緒じゃないのね。夕飯誘ったんだけど返事が来なくて。どこ行っちゃったんだろう、あの子」
「あ、えっと……たぶんバイト、だと思います」
「そう。ならしかたないか。あ、ちょっと待ってて」
小咲さんは何かを思いついたように、パタパタと部屋の奥に消えていった。
ひとり残されたわたしは、緊張の糸がぷつんと切れたのを感じて、長く息を吐いた。危なかった。勢いで言ってしまうところだった。言うべきだったのかもしれない。だけど、言わなくてよかったという気もする。結局、わたしは「他人」なんだ。わたしが何を言ったって、信じてもらえないかもしれない。小咲さんの心をむだに傷つけてしまうだけかもしれない。軽率な行動をとってしまうところだった。わたしは額に滲んだ汗を拭った。
小咲さんを待つ間、わたしはかかとを伸ばしたり、地面につけたりを繰り返した。無意味に周囲を見渡してみる。白い天井。整列された靴。虹色の傘。
ふと、玄関に飾られた数枚の写真が目に留まった。これは、若い頃の智恵理さんだろうか。今とあまり容姿が変わっていない。隣にいる男の人は、亡くなったという旦那さんかな。ふたりが腕を組んで幸せそうに写っている。別の写真には小さな女の子が写っていた。きっと小咲さんだろう。楽しそうにピアノを弾いている。
そして一番奥の写真立てには、小咲さんと柊さんが写っていた。ベンチで寄り添い、仲睦まじく肩を寄せ合っている写真だ。とてもお似合いで、とても幸せそうで、とても、自然。
わたしはなぜか、自分がものすごくいけないことをしているような感覚に襲われた。知らなくていいことを知ってしまったような、見てはいけないものを見てしまったような後悔が、波のように押し寄せてきた。
「ごめんね、お待たせ!」
小咲さんが玄関へと戻ってきたので、わたしははっと顔を上げた。
「これ、あまっちゃったからよかったら食べて」
「えっ?」
そう言って差し出されたのは、大きな紙袋だった。中をのぞくと、タッパーが三つくらい入っている。
「余計なお世話かもしれないけど、ひとり暮らしだと栄養偏っちゃうでしょ。体壊さないように……って、わたしが言えることじゃないけど……」
「い、いえ。ありがとうございます。いただきます!」
「おいしいか分からないけどね」
小咲さんは自信なさげに頬を掻いた。
「わたし、あんまり料理得意じゃないから。柊くんの方が何倍もおいしくできるんだけど」
「そうなんですか……」
わたしはバーベキューの時のことを思い出した。確かに、あの時の柊さんは手際がよかった。前に食べたハンバーグもおいしかったし。きっと何事も卒なくこなすタイプなんだろう。
小咲さんが、ふっと微笑みを薄めた。何かを伝えたいような、そうでないような。愛しさのような、哀れみのような。わたしを見ているけれど、その瞳にはわたしなんて映っていないような、そんな顔だった。
「りせのこと、これからもよろしくね。あの子がつらい時は、そばにいてあげてね」
わたしはなぜだかその言葉が、上辺だけのものではなく、遠くない未来を予期しているように思えた。いつか、確実にりせが辛くなる。そのことを知っているような笑みだった。
わたしは黙ってうなずいた。うなずくことしかできなかった。紙袋を胸に抱き、逃げるようにその場をあとにした。
筑前煮と、ほうれん草の胡麻和え、それにサラダ。それが、わたしの夕飯になった。料理は苦手だと言っていたけれど、筑前煮は味が染み込んでいてとてもおいしい。優しさがじんわりと広がって、心が落ち着く。本当は、りせに食べてもらいたかったんだろうな。体調が悪いのに、一生懸命りせのためを思って作ったんだろう。りせが、今誰といるかも知らずに。
シャワーを浴びたら、夏の暑さと相まって体が火照った。昼間はあれほどうるさく鳴いていた蝉たちも、夜になるとかくれんぼをするように息を潜めている。ベランダに出ると、ぬるい夜風が全身を撫でていった。空には三日月と、薄灰色の雲。そして心もとない星の光。
手の中のスマートフォンが陽気な音を立てた。見ると、奏真からメッセージが届いている。
『魚ってすき?』
いきなり何を聞いてくるのだろう。付き合い始めてから、こういう内容が増えた気がする。世の中の恋人たちって、こういう中身のないやりとりをするのかな。わたしはちょっと面倒に思いながら返信をした。
『すきだよ。マグロのお刺身とか』
『食べる方じゃなくて、見る方な!』
……なんだ、そっちか。日本語って難しい。
『今度、水族館行こうぜ。魚の写真展もやってるらしいよ』
魚のスタンプとともに、デートのお誘い。友だちとしてじゃない、恋人として出かけようと言っているのだ、奏真は。
彼女なら思い切り喜んで、すぐに返事をしなければならないだろう。だけど、わたしの指はなかなか動いてくれない。今、どこかに出かけたいとか、そんなことを考える気分じゃない。数秒悩んだ末、わたしはスマートフォンをパジャマのポケットにしまった。
ベランダの柵に寄りかかりながら、目をつぶって耳をすませた。葉の揺れる音。鈴虫の鳴き声。遠くを走る車の音。長くて短い夏の気配が、五感を揺さぶる。夏の音の合間に、微かに混ざって、歌が聞こえてきた。わたしはそっと目を開けた。
やっぱり、帰ってきた。
「りせ!」
庭を歩いている少女に向かって、大声で叫んだ。りせはぼんやりと顔を上げ、安心したように微笑んだ。わたしはいてもたってもいられなくなって、サンダルを履いて庭へと飛び出した。
「……どうしたの?」
息を切らしているわたしを見て、りせはおかしそうに首を傾げた。月明かりの下で見る彼女は、やっぱりいつかと同じように美しかった。彼女には夜が似合うと、そう、思った。
「歌が、聞こえたから」
荒い呼吸の隙間で、途切れ途切れに答えた。りせはくすっとおかしそうに笑った。そのあどけない笑顔に、ほっとした。なんだか、泣いているような気がしたから。
そのまま、わたしは流れるようにりせの部屋に転がり込んだ。部屋に入るやいなや、りせはカバンをベッドに放り投げ、疲れを吐き出すように床に座り込んだ。
「ずいぶん遅かったんだね」
わたしは向かい側に腰かけて、探るように言った。
「うん。出かけてたから」
「……柊さんと?」
「そう!」
りせはえへへ、と照れたように顔をふやけさせた。
「今日はね、久しぶりにデートしたんだぁ。すっごく楽しかった」
「……小咲さん、体調崩してたのに?」
言ってから、しまった、と思った。いやな言い方をしてしまった。おそるおそるりせの顔色をうかがう。キャンドルの光に照らされたりせの顔から、表情が消えた。さっきまでの笑顔は死んで、代わりに、顔の筋肉がぴんと強張っていた。だけど、それも一瞬のこと。
「……軽蔑した?」
ちょっとさみしそうな、悲しそうな、傷ついた微笑みだった。わたしは慌てて両手を振った。
「ごめん、そういうつもりじゃないの」
「いいよ、分かってるから」
りせは立ち上がると、着ていたシャツを唐突に脱ぎ始めた。白い肌と、ピンク色の下着が露わになる。わたしは慌てて顔を背けた。
妙な沈黙が流れた。空気が肩にのしかかって重たい。クーラーがまだきいていないのか、汗がじんわりと額に滲む。わたしはためらいながら、もう一度りせの方を見た。さっきまで着ていた服は床に落ち、代わりにラフなシャツに着替えていた。その背中がとても小さくて、さみしそうで、何か言わなければ、という衝動に駆られた。
「わ、わたしはりせの味方だよ」
「ほんとにぃ?」
りせは肩越しに振り返ると、疑うようににやりと笑った。シャツのボタンを留め終えて、脱力したようにベッドに倒れ込む。わたしは立ち上がって、そっとベッドに腰かけた。りせは大きな目を見開いたまま、じっと天井の星を見ていた。
「嘘じゃないの。嘘じゃないけど……」
「うん」
りせは静かにうなずく。わたしは戸惑いながら、言葉を続けた。
「小咲さんに言われたの。『りせのこと、よろしくね』って。すごくりせのことを大事にしてる。いい人だなって、思うの……」
「……お姉ちゃん、すごく優しいの。優しくて面倒見がよくて、かわいくて……わたしの命の恩人なんだ」
「恩人?」
「うん。わたし、本当は生まれてくるはずじゃなかったの」
「……どういう意味?」
「わたしとお姉ちゃんね、半分しか血が繋がってないの。お姉ちゃんのお父さんは、お姉ちゃんが生まれてすぐ死んじゃったんだって。それが、このアパートの管理人。だからちーちゃんが代わりに管理人になったの。ちーちゃん、あんな感じだけどさ、頑張ってお姉ちゃんを育てたんだよ。そこはえらいと思うんだ。苦労もしただろうし」
りせは笑うでもなく、泣くでもなく、淡々と事実を語っていった。
「で、旅行先で知り合った男とワンナイトして、ついうっかりできちゃったのがわたし。名前も知らないらしいよ、ありえないよね。だからもうやだ、おろすって駄々こねたらしいの。それをね、お姉ちゃんがとめたんだって。きょうだいがほしいから、産んでって。りせって名前も、お姉ちゃんがつけてくれたの。お姉ちゃんがいなかったら、わたしは生まれてきてないの」
「そうだったんだ……」
わたしは初めて聞かされる事実に、ただ相槌をうつことしかできなかった。知らなかった、何も。わたしが知っていいことじゃないけれど、こういう時思い知らされる。わたしはりせのことを何も知らない。
「なのにわたし、最低だよね……」
りせは自虐的にそう言うと、逃げるように両腕で瞳を隠した。ああ、りせは本当に小咲さんのことがすきなんだ。自分の命を救ってくれた、たったひとりの姉。それなのに――
「そんなにすき? 柊さんのこと」
「……すき、なんてもんじゃないの」
細い喉から絞り出された声は、強い意志を持っていた。
「愛してるの。……他のどんなものを捨ててもいいって思えるくらい」
「傷ついても、いいの?」
「覚悟してるから。これまでも、これからも、ずっと」
「……りせは泣かないね」
「泣かないよ。泣いたらみじめになるでしょ」
りせは勢いをつけて上半身を起こした。その瞳に涙は浮かんでいない。強がるようにわたしに笑いかける。いつもの、りせだ。
その笑顔を見た瞬間、わたしは無性にりせを抱き締めたくなった。触れようと伸ばした手は、直前のところで臆病に負けて届かない。今触れてしまったら、りせの精一杯の強がりが壊れてしまうような気がした。
「あっ、また泣いてる!」
りせが、ぎょっとしたように声を上げた。
「もぉー、何で泣くの」
「……りせの代わりに泣いてるの!」
わたしはうつむいて、声を上げないように唇を噛んだ。
りせのために何もできない、自分の無力さがやるせなかった。自分の幼さが悔しくて、奏真にも顔向けできない。りせのことも、小咲さんのこともすきだ。何が正解か分からない。全員が幸せになる方法なんてないのかもしれない。だけど、だからこそ、幸せになってほしいと思う。柊さんを責めるのは簡単だけれど、きっとりせはそれを望まない。望まないから、行き場のないこの悔しさが、涙となって溢れ出るんだ。
りせは何も言わず、そっとわたしを抱き締めた。わたしができなかったことを、りせはいとも簡単にやってのけるのだ。りせの体はとても細くて、強い力で抱き返したら、ぽきんと折れてしまうくらい弱々しかった。
早く、大人になりたいな。りせの悲しみも苦しみも、すべて受けとめられるくらいの存在になりたい。りせに頼られたい。りせの、力になりたい。
壊れないようにそっと、りせの背中に腕をまわした。りせは安心させるように、わたしの背中を優しく叩き続けた。
この時、わたしは知らなかった。名前のない関係の脆さも、小咲さんの言葉の意味も。そして、これから来る別れも。
そのうち一つがゆっくりと速度を落とし、やがて空気の中に消えていった。
「もうむり。ギブ」
わたしはシャープペンシルを手から離し、匙を投げるように机に突っ伏した。小一時間座りっぱなしのせいで腰が痛い。もうこのまま眠ってしまおうか。頬が冷たくて気持ちがいいし、課題が終わる気配もないし。落ちそうになる目蓋を阻んだのは、聞き慣れた声だった。
「どこ?」
わたしはちょっとだけ頭を上げて、無造作に広げたテキストを指差した。
「ここ。全然分かんない」
反対側からでは見づらかったのか、奏真はわたしの隣に移動して、まじまじと数式をのぞき込んだ。数センチの距離に奏真の横顔がある。ああ、意外とまつげ長いんだなぁ。近くにいすぎて気づかなかったけど、よく見るとかわいい顔立ちをしている。そういえば、昔から近所のおばちゃんたちに人気あったもんなぁ。
「……そしたら、こう。……なぁ、聞いてる?」
「え?」
はっと我に返ると、奏真がじろっと目を細めてこっちを見ている。ノートにはびっしり解説が書き込まれていた。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「せっかく教えてやったのに。じゃあ、もう一回な」
これはXに3を代入して……と、普段からは想像もできないほどすらすらと問題を解いていく。わたしはなんとか理解しようと、真剣に耳を傾けた。言われた通りの順序でシャープペンシルを動かす。
「……できた」
「だろ?」
「すごい、すごいね奏真。こっちも教えて」
「ん、こっちはこう。この式を展開すると、こうなる」
「じゃあ、これ」
「うーん、これは……」
次々と問題を解いていく奏真の手がぴたりととまった。じろりと不審そうな目でわたしを見る。
「もしかして、全部おれにやらそうとしてない?」
わたしは唇を尖らせて、奏真から目を逸らした。奏真はしかたないなぁーと息を吐いて、大きく伸びをした。
「ちょっと休憩する?」
「する!」
わたしは大きくうなずいて、久々に手に入れた自由を大きく吸い込んだ。ずるずると扇風機の前まで這っていき、あああああーっと無意味に声を出してみる。ゆらゆら揺らいだぶさいくな声が反響する。見慣れた部屋。いつものわたしの部屋。違うのは、奏真がいることだけ。
天体観測から二週間後。夏休みに突入したわたしたちは、気が遠くなるほどの課題を一つ一つ片づけていく作業を進めていた。高校生の男女が部屋でふたりきり。この前までならちょっと抵抗した。でも今は何もおかしくない。
わたしたちは、付き合っている。
「そうだ、こないだの写真現像したんだ。データで送ろうとも思ったんだけど、せっかくなら、と思ってさ」
すっかり休憩モードに切り替わった奏真が、カバンから封筒を取り出した。さっきまでノートが広げられていた机の上に、溢れんばかりの写真が並べられた。
「わぁ、すごい……!」
視界を埋め尽くした数々の写真を見て、疲れはどこかに吹っ飛んでしまった。まるで現実世界を閉じ込めたような仕上がりだ。透き通るような風景も、りせの笑顔も、すべてが生き生きと写っている。木々の揺れる音や川の流れる音、笑い声まで聞こえてきそうだ。わたしはそのうちの一枚を手に取った。夜空に浮かぶ無数の星がきらきらと輝いている。
「きれいに撮れてるね。星空撮るのって難しいんだよ」
「雫に教えてもらったおかげだよ。ほら、りせと雫もたくさん撮ったよ」
「ほんとだ」
示された先にある写真を見て、自然と笑みがこぼれた。ふたりでポーズを決めている写真。いつ撮られたか分からないような、何気なくおしゃべりしている写真。日常の一コマ一コマが、鮮明に、生き生きと切り取られている。
ふと、机の上にある一枚の写真が目に留まった。壊れものに触れるようにそっと、その写真を手に取る。薄暗闇の中、肩を並べて星を眺める柊さんとりせの姿。きっと見知らぬ誰かがこの写真を見たら、間違いなく勘違いするだろう。
「こうして見ると、ほんとにカップルみたいだよなぁ」
「うん……」
奏真の声が、右耳から左耳へと抜けていく。一枚一枚確認するように、ふたりが写っている写真を目で追っていく。わたしとの写真ももちろん楽しそうだけれど、その笑顔とは違う。もっと幸せで、もっと楽しくて、もっと繊細。幸せの先にある何かを悟ったような、そんな微笑みだ。
りせの笑顔はすきだ。太陽のように、ぱっとまわりが明るくなる。りせが楽しいとわたしも自然に笑ってしまう。だけどこの写真に写っているのは、どれもこれも、危うい儚さを持った笑みばかりだ。
どうしてそんな顔をするの。涙の理由は分かる。悲しいから人は泣くんだ。だけど、この笑顔の理由はなんだろう。何がそんなに悲しいんだろう。
「そういえば、奏真が全然写ってないね」
「あー、おれはずっと撮る側だったから」
数十枚もある中で、奏真が写っている写真は一枚もない。奏真は大して気にしていないようだけれど、なんだか申し訳なくなった。
「奏真も撮ってあげればよかったね。ごめん」
「いいんだよ。写るのより、撮る方がすきだし」
「そっか」
あ、わたしと同じだ。共通点を見つけて、心の中でそっと笑った。
わたしも昔から、写真を撮られるより撮る方がすきだった。自分の顔立ちがすきじゃないから、自分の姿を見るのがいやだった。この世にはわたしよりもきれいな人がいる。きれいな風景がある。だから、わたしはきれいなものを撮りたかった。ほら、きれいでしょ。そう自信を持って言えるものを撮りたかった。
「なぁ、今度ふたりでどっか行こうぜ」
「どっかって?」
「水族館とか、プールとか。映画とかもいいよな」
「でも、どこも写真撮れないじゃん。何しに行くの?」
「何言ってんだよ。そりゃ、写真も撮りたいけどさ。おれたち付き合ってるんだろ?」
「……うん、まぁ、たぶん」
「だったら、デートしようって話。せっかくの夏休みだしさ」
デート。なじみのない単語に、わたしは目をぱちくりさせた。頭の中で咄嗟に辞書をめくる。デート。親しい男女がふたりで出かけること。ああ、そうか。デート、デートね。
奏真は何枚かの写真を手に取って、「やっぱきれいに撮れるよなー」と早速話題を変えている。その楽しげな横顔が、なんだか余裕の表情にも見える。
「……デートって何するの?」
「ふたりで出かける」
「それ、付き合う前からしてたよね」
「うん。まぁ、そーいうこともあるよな」
「じゃあ、別に今までと変わんないじゃん」
「変わるだろ。付き合ってるんだし」
奏真がようやく顔を上げた。大きな二つの目に、まぬけな顔のわたしが映っている。
扇風機の音が、ごおおおと強まった気がした。蝉の鳴き声が警告音のように大きくなって、耳の奥をつんざいていく。
あ、なんだか。
吐息、が、交わりそう。
「……奏真って、今まで付き合ったことあるの?」
「あるよ。中学の時」
「えっ」
「初めて付き合ったのは小五だけど」
「えっ、えっ」
「何だよ、その反応。絶対失礼なこと考えてるだろ」
奏真は机に置いてあったコップを手に取り、ぐいっと麦茶を喉に流し込んだ。絶え間なく襲いかかる衝撃的な事実。放心状態になりながら、わたしもつられてコップを手に取る。溶けかけの氷が喉に引っかかって、むせ返りそうになった。
「告白したの? されたの?」
「うーん、したことはないな。告白されて、まぁいっかなって」
「それって、そんなにすきでもなかったけど、とりあえず付き合ってみたってこと?」
「まぁ、そうだな」
「それってどうなの? 向こうは奏真のことが本当にすきだったんでしょ?」
そこまで言って、はっとした。奏真に向けたはずの言葉は、見事に自分に跳ね返ってきた。投げたナイフが心にぐさぐさと刺さって、罪悪感という痛みが広がる。わたしだって似たようなもんだ。別に告白されたわけじゃない、と、思うけど。……あれ、じゃあ何で付き合ってるだろ、わたしたち。
奏真はうーんと考え込むように腕を組んだ。
「付き合ってすきになるかもしれないかなと思って。ただの友だちのままでは分かんない、その人のいいところが見つかるかもしれないじゃん。気遣いができるとか、優しいとか。愛情ってやつが見えやすくなるっていうか……うまく言えないけどさ」
「……そんなもん?」
「どうだろ。考え方は人それぞれだと思うけど。若いうちにいろんな経験しとけって、ねーちゃんが言ってた」
「お姉さん、結構年離れてたよね。何歳だっけ」
「今年で二十八。大人になったら、軽々しく恋愛なんてできないんだからって言ってた。学生のうちにしかできないことをたくさんしなさいって。遊びも勉強も」
わたしはまったく新しい数式を教えられたような気持ちになった。そういう考え方もあるのか。思ったより奏真の考えがしっかりしていたことにびっくりした。今まで子供だと思っていたけど、奏真の方がずっと大人だ。それなのにわたしは、自分のエゴで奏真を利用している。ずるい、情けない。恥ずかしい。
何も言えずに目線を落としたら、柊さんとりせの写真が目に入った。一枚、二枚、三枚……数え切れないくらいの、ふたりの笑顔。
奏真の言いたいことは分かるよ。分かるけど。わたしは両手を強く握り締めた。じゃあ柊さんは? りせのことどう思っているの? りせを受け入れて、そのあとは? 小咲さんのこと、どう考えてるの?
――いつか、りせを突き放すの?
「雫」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げた。奏真の顔がものすごく近くにあった。っていうか、近すぎて顔全体が見えない。真剣な瞳に吸い込まれそうになる。なに、何なのこれ。
「ちょ、ちょっと!」
わたしは咄嗟に奏真を突き放した。どんっ、と鈍い音がして、「いたっ」と奏真が声を上げた。どうやらクローゼットに頭をぶつけたらしい。
わたしはベッドに逃げ込み、怯えた猫のように布団にくるまった。
「な、な、何すんの!」
「いや、恋人っぽいこと、してみようかなって思って」
奏真が頭を押さえながら立ち上がった。一歩一歩、距離が縮まる。奏真の手がベッドに沈み込んで、スプリングがぎしっと軋んだ。
「だめ?」
「いや、だめっていうか……」
わたしは言葉を濁し、逃げるように目を逸らした。どうしよう、よく知っているはずなのに。昔から知ってる男の子なのに。なんだか知らない男の人に見える。
奏真の顔が近づいてきた。心臓がばくばくとうるさい。どうしよう、付き合ってるし、彼氏なんだし、受け入れるべきなのかな。付き合っているのに何もしない方が変なのかな。だったら、いや、でも――
「……ごめんっ!」
わたしは奏真の肩に両手をついて、弱い力で押し返した。
「やっぱ、まだむり……」
緊張で声が震えた。室温が二度くらい下がったみたいだ。奏真はベッドから離れ、すとんと床に座り込んだ。
「いいよ。おれもいきなりごめん」
おそるおそる顔を上げると、奏真はちょっと申し訳なさそうに笑っていた。わたしはほっと息を吐いた。ああ、よかった。いつもの奏真だ。
「せっかく付き合ったんだから、特別なことしたいなって。でも、さすがに早かったよな。おれたち、恋人ってより友だちって感じだし」
「う、うん」
わたしはどぎまぎしながらうなずいた。被っていた布団から出て、奏真の隣に腰を下ろす。奏真の手が、優しくわたしの頭に触れた。子供をあやすように、ぽんぽん、と軽く叩く。
「おれは単純に雫といるのが楽しいし、すきだからさ。とりあえず、今度出かけてみない? 写真も、アドバイスくれると嬉しい」
「うん……ありがと」
なぜだか瞳が潤むのを感じて、うつむいた。自分の情けなさが悔しくて、きゅっと唇を噛む。
何でだろう。奏真のことはきらいじゃないのに。わたしたち、付き合ってるのに。どうして何もできないんだろう。
蝉の声が騒々しさを増した気がした。コップの中の氷が、臆病なわたしを嘲笑うように、からん、と音を立てて溶けていった。
結局課題は予定の三分の一しか終わらず、恋人らしいこともしないまま、わたしたちは解散した。
夜。お風呂上がり。火照った体を冷ますためベランダに出ると、大きな満月が、空にあいた穴のように浮かんでいた。うさぎが餅をついているとか、大きな蟹だとか諸説あるけど、濁ったわたしの瞳にはただの幾何学模様にしか見えない。
はぁーっとありったけの息を心から吐き出す。だめだ、胸に鉛が詰め込まれたみたいだ。自分の幼さに腹が立つ。
恋人ができたら、りせの気持ちが少しは分かると思っていた。だけど結局何も変わらない。早く大人になりたいのに。少しでもりせに近づきたいのに。どうしてこんなにうまくいかないんだろう。わたしはいつも、溺れる鳥のようにもがくことしかできない。
ふと、庭の隅っこにある離れが目に入った。相変わらず明かりはついていない。そういえば、天体観測の日からりせを見かけていないな。こんなに近くにいるのに、わたしたちの距離は相変わらずだ。わたしもりせも、積極的に「会おう」と声をかけるタイプじゃないから、仲よくなっても会う頻度は変わらないのだ。
りせは元気だろうか。こんなに近くにいるんだから、会いにいってみようかな。そんな思いつきで、わたしは離れを訪ねることにした。
庭に出ると、生ぬるい風が全身に絡みついてきた。あれほど艶やかに花を咲かせていた桜は、もうすっかり青葉になっている。時が少しずつ進んでいる証拠だ。
わたしはちょっと緊張しながら、離れの扉を軽くノックしてみた。しん、と沈黙が帰ってくる。やっぱり今夜はいないのだろうか。諦めて帰ろうとしたら、扉の向こうで物音がした。そのまましばらく待っていると、警戒するようにじわじわと扉が開いた。
現れたりせの顔を見て、ぎょっとした。かわいらしい二つの目は、暗闇でも分かるほど赤く充血している。クマもひどいし、髪もぼさぼさ。いつものりせとは別人みたい。
「ど、どうしたの?」
「拗ねてるの」
りせはぶっきらぼうに答えると、ふいっと背中を向けて部屋の中に戻っていく。わたしは慌ててりせに続いて扉を閉めた。薄暗い部屋の中、相変わらず明かりは淡いキャンドルだけだ。りせはふらふらとベッドに近寄ると、そのまま倒れるように沈み込んだ。
「寝てた?」
「さっき起きたとこ」
声色が冷たい。これは相当機嫌が悪いな。わたしはおそるおそる、持ってきた写真をりせに差し出した。
「これ、奏真から」
「……何それ」
「こないだの写真。現像してくれたの」
「あっ! ありがと!」
ガバッと勢いよく跳ね起きて、わたしの手から奪うように写真を受け取る。りせはぴょんっとベッドから飛び跳ね、テーブルの上に写真を広げた。
「わーっ、すごい! 全部きれいに撮れてる」
「奏真に感謝しなきゃね」
「ほんとだね。あっ、でもこのわたしぶさいく。これはいらない」
「十分かわいいよ。ほら、これとか。柊さんもいっぱい写ってる」
柊さんの姿を見つけた瞬間、りせはぱっと顔を輝かせたけれど、すぐにむすっと頬を膨らませた。
「こんな男、もー知らない。きらい!」
「え?」
予想外の反応に、わたしはぽかんと口を開けた。りせはぽいっと写真をテーブルの上に放り投げ、勢いよく立ち上がった。
「カラオケ行こ」
「い、今から?」
「うん。行こう!」
りせは目の端をつりあげたまま、強引にわたしの腕を引っ張った。
「世の中くそくらえだ――!」
狭いカラオケルームに、りせの声がぐわんぐわんと響き渡った。彼女には似合わないロックを、荒々しい声で歌いまくる。マイクがハウリングするのもおかまいなし。もう歌っているのか叫んでいるのか分からない。なんだか、いつになく荒れてるなぁ……。髪の毛を振り乱してシャウトするりせの横で、わたしはおとなしくジュースをすすった。
「雫も歌って!」
「へ?」
「いいから、歌うの!」
りせは強引にもう一本のマイクをわたしに手渡した。
「わたし、この曲知らない……」
「じゃあ知ってる曲入れて! ほら!」
今度はデンモクをぐいっと押しつけてくる。これは歌わないと気がおさまりそうにないな。わたしはしかたなくデンモクを操作し、適当に知っている曲を入れた。
狭い密室で、ふたりの声が重なる。画面に映る文字を追いながら、ぎゃんぎゃんとぶさいくな声で歌う。肩を組んで左右に揺れて、さみしさを紛らわせるように叫んで、怒鳴って、その繰り返し。タイムリミットが迫る頃には、息も絶え絶えになっていた。
「……柊くん、旅行してるの」
テーブルに突っ伏しながら、りせがかすれた声でつぶやいた。
「小咲さんと?」
わたしはがらがら声で尋ねた。りせは何も答えない。否定しないのが、肯定の合図だ。
「こんなこと思う権利なんてないし、当然のことなんだけどね、やっぱりいやだよ……」
長い髪が机にだらりと垂れ下がっている。いつになく弱々しい彼女を見たら、わたしは黙るしかなかった。りせは頭を起こすと、弱さを振り払うように息を吐いた。
「ごめん。雫に愚痴ってもしかたないのに」
「ううん……」
わたしは首を振りながら、自分のボキャブラリーと経験値のなさに肩を落とした。
りせのこういう感情、嫉妬、っていうのかな。すきな人が別の女の人と一緒にいたら、いやになるものなの? 悲しくて、辛くて、さみしくなるものなの? もし奏真がりせとふたりで出かけたら、わたしは悲しい? さみしくて涙が出ちゃう? ……今のわたしには分からない。
「……りせは、柊さん以外の人をすきになったこと、ある?」
「え? そうだなぁ……小六の時、一週間だけ付き合った人ならいる。サッカー部の和哉くん」
りせはへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。
「でも今思うと、それは本当の恋心じゃなかったなって。幼すぎたから、好意を愛情だと錯覚してたのよ。柊くんとは全然違うもん」
「付き合うって何するの? どんな感じ?」
「うーん……和哉くんとは特に何もしてないけど、普通はキスとか、デートとかかな。あと……」
りせの艶めいた唇がわたしの耳元に近づいてくる。吐息の隙間からささやかれた単語に、耳の奥がぞくっとした。
「えっ、えっ?」
「恋人なら、するでしょ」
りせはきょとんと首を傾げる。からかっている様子はない。あくまで普通のことを述べました、って感じだ。
「ほ、他には?」
「まだ聞きたいの? やらしーい」
「そうじゃなくて、そういうこと以外で!」
にやりといじわるく笑うりせの前で、わたしは大きく両手を振った。りせはつまらなさそうに唇を尖らせる。わたしははぁーっと大きく息を吐いて、ジュースの入ったグラスを両手で包み込んだ。
「……付き合うって、よく分からないの。手を繋ぎたいとか、キスしたいとか思わないし。どこかに出かけるのだって、友だちでいる時と何が違うの? わたしはまだ、全然分かんないや」
「なに、奏真と付き合ったの?」
「……えっ!」
「あ、そうなんだ」
「な、な、何で?」
「仲よさそうだったから。恋人同士って感じでもないけどねー」
りせはけらけらとおかしそうにおなかを抱えた。言い訳する間も与えてはくれない。彼女には嘘は通用しない。わたしは観念してうなずいた。
「きらいじゃ、ないんだけど……」
「分かるよ。恋愛の『すき』とは、また違うんだよね」
わたしは驚いてりせを見た。りせはすべてを包み込むように、優しく目を細めた。
「どうして付き合うことになったのかは分からないけど、雫が思うようにしたらいいんじゃない? どんな関係になっても、きっとふたりは大丈夫だよ。奏真、いいやつだもん」
ああ、どうして何も言わなくてもほしい言葉をくれるの。わたしはりせに何も言ってあげられないのに。溢れそうになる涙を、隠すようにうつむいた。
「うん。ありがと」
かろうじて声を絞り出す。ちょっとかすれて不自然になってしまった。りせはそっとわたしに体を寄せ、小さくつぶやいた。
「……わたしだって、ほんとは……」
わたしは耳をすませたけれど、その続きが聞こえることはなかった。
「だめだ、暗くなる! 歌おう!」
りせは突然立ち上がると、ものすごいスピードで曲を入れた。再びマイクを持って、ぴょんぴょん跳ねながら激しいロックを歌い始める。髪を振り乱しながら、全力で愛を叫ぶ。その無邪気な瞳。強い意志。きれいな声で歌うりせに、わたしは呼吸を奪われた。
ああ、きらきらしてるな。
笑ってる顔も泣きそうな顔も尊いな。りせはいろんな表情を持っている。どれもこれも眩しいくらい輝いていて、美しい。
すきって何だろう。わたしにはまだ分からない。人を愛するって何だろう。わたしにはまだ理解できない。
でも、一つ。たった一つだけ、確かに思ったことがある。
――わたし、この子を撮りたいな。
カラオケから出て、コンビニで買ったアイスを食べながら帰路に着いた。夜風が汗を乾かすように全身を撫でて気持ちがいい。わたしたちは酔っぱらいのように歌いながら、ふらふらと夜道を歩いていった。
アパートが見えたところで、普段はからっぽの駐車場に、車が停まっていることに気がついた。中から二つの人影が出てくる。わたしたちは顔を見合わせ、小走りで車に近づいた。
「柊くん、お姉ちゃん!」
「……あ、りせ」
小咲さんは弱く微笑むと、気分が悪そうにうつむいて口を押さえた。柊さんが支えるように腰に手を添える。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大したことないんだけどね。ちょっと、体調悪くて帰ってきたんだ……」
小咲さんは申し訳なさそうに柊さんを見上げた。
「ごめんね、せっかくの旅行だったのに」
「そんなの気にすんなよ。ほら、歩けるか?」
柊さんはゆっくり小咲さんを玄関まで誘導し、「りせ、鍵開けて」と家の鍵をりせに渡した。りせはぎこちなく玄関を開け、真っ暗な部屋に明かりを灯した。
「ちーちゃんは?」
「日付が変わるまでには戻ってくると思うけど……。今日デートなんだって」
デート。子供がふたりいるのに、デート、とは。わたしは三人の後ろでぎょっと飛び上がった。なんというか、見た目通りの人だ。
ふたりが小咲さんをベッドに連れていく間、わたしはそわそわと玄関で待っているしかなかった。十分ほどして、ふたりが玄関に戻ってきた。
「小咲さん、大丈夫ですか?」
尋ねると、柊さんは返事に困ったように頭を掻いた。
「最近ずっとあんな感じだからなぁ」
「だから、天体観測も来れなかったの?」
りせの顔が険しくなった。自分を責めるように強く、両手を握ったのが分かった。柊さんは安心させるように、りせの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「まぁ、あんま心配すんなよ。そうだ、ちょっとこっち来て」
柊さんは思い出したように車に向かった。わたしとりせは戸惑いながら、柊さんについていく。柊さんは車の後部座席から大きな袋を取り出すと、わたしに「はい」と差し出した。
「これ、雫ちゃんにお土産」
「えっ、いいんですか?」
袋の中をのぞくと、そこには甘夏ゼリーの箱が入っていた。
「うん。奏真にもあげといて」
「ありがとうございます」
「わ、わたしには?」
りせがぎこちなく柊さんに尋ねる。柊さんはふしぎそうに首を傾げた。
「え? ないよ」
「ええ――っ!」
「うそうそ、これ」
柊さんは苦笑しながら、小さな紙袋をりせに渡した。りせがそわそわしながら中身を取り出す。それは、星の形をしたキーホルダーだった。
「……かわいい!」
「三百円な」
柊さんがいじわるく言う。しかしりせの耳にはもう届いていないようだった。
「わーい、わーい!」
無邪気な子供のようにぴょんぴょん飛び上がって、最大限の喜びを表現している。柊さんは大げさだなぁ、と目を細めた。
わたしは、その眼差しがとてもとても優しいことに気づいた。他の人に向けるものとは違う、愛しそうな瞳。嘘つきなこの人の、素直な心が表れているようだった。
柊さんはわたしの目線に気づくと、愛しさを振り払うように、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
「じゃーな、おやすみ」
「おやすみ、柊くん!」
「おやすみなさい」
開け放たれた窓から挨拶を交わすと、微笑みを置き去りに、車はどんどん遠ざかっていく。曲がり角で消えて見えなくなるまで、わたしたちは柊さんを見送った。
車のエンジン音が消えると、波が引いたあとの浜辺のように、すーっと静けさが満ちてきた。
「……都合いいでしょ、わたし」
キーホルダーを胸に抱きながら、りせが静かにつぶやいた。風で乱れる髪を押さえながら、わたしはりせの方を見た。さっきまでの無邪気な笑みとは違う。静かで、物悲しい、大人っぽい微笑みがそこにはあった。
「些細なことで悲しくなったり、喜んだりするの。これが、恋」
「……お似合いだよ、ふたりは」
心の底から、そう思った。
「すごく、きらきらしてる。お互い大切なのが伝わってくるの。お似合い、なのに……」
「いいの。わたし、今すっごく楽しいの。ちょっとでも会えたら幸せで、小さなプレゼントでも嬉しいの。柊くんのことが、すごく、すごく大切なの……」
手の中のキーホルダーを、大切そうに見つめる。たった三百円のお土産も、百カラットの宝石に変わる。世界のすべてが色づいて、どうしようもなく、愛しく、なる。
「……どうしたの?」
りせが、驚いたように目を見開いた。
「何で泣いてるの?」
彼女の言葉で、わたしは初めて自分が泣いていることに気がついた。
「どっか痛い? 風邪でもひいた?」
りせがおろおろしながらわたしの背中をさする。わたしは首を振りながら、何度も何度も手の甲で涙を拭った。
違うの、りせ。そうじゃないの。
こんなに彼を想っているのに。こんなに大切にしているのに。それは彼も同じはずなのに。
だからこそ、柊さんが憎らしくなった。どうしてふたりは結ばれないの。どうしてりせを選ばないの。こんなに、こんなにすきなのに。涙はやまない雨のように、頬を伝ってとまらない。
恋人なのにキスすらできないわたしと奏真。恋人じゃないのに、愛し合っているりせと柊さん。
付き合うって何。恋人って何。人を愛するって、どういうこと。
恋人の定義を、教えてほしいよ。
翌朝。わたしはめずらしく早起きをして、引き出しの奥に閉まってあった、古いカメラを取り出した。年季が入っているせいで、シャッター部分がうまく動かない。気合いを入れるように深呼吸し、よし、とつぶやいた。直射日光にやられないよう帽子を被り、外に一歩、踏み出す。
「あ、おはよー雫ちゃん」
庭に出たわたしは、名前を呼ばれてぎょっとした。じりじりと焼けるような太陽の下、花壇に水を遣っている女性が、ひとり。わたしは慌てて小咲さんに駆け寄った。
「おはようございます。もう大丈夫なんですか?」
「ごめんね、心配かけちゃって。寝たらよくなったの。あっ、柊くんからお土産受け取った?」
「はい。ありがとうございました」
「よかったぁ。ちゃんと渡してくれたか不安だったんだ」
小咲さんは額の汗を拭いながら、ほっとしたように微笑んだ。昨日よりずいぶん顔色がいい。どうやら、本当に体調は回復したようだ。
「今からお出かけ? もしかして、デート?」
「ち、違います!」
「ふふ、冗談。気をつけてね」
わたしはぺこりと一礼して、小走りでその場を離れた。
わたしが向かったのは、カメラ修理のお店だった。年季の入ったわたしのカメラは、長年封印していたせいでところどころ調子が悪くなっている。今まで、そのことに気づきながらも目を逸らしてきたのだ。だけど、いつまでも立ちどまったままではいけない。そう思い始めたのはたぶん、未熟な自分に気づいたから。
カメラを修理に出し終えたわたしは、ちょうどお昼時ということもあり、適当なカフェで昼食を取ることにした。
サンドイッチとアイスティーを購入し、スマートフォンをいじりながら窓際の席に腰かけた。夏休みというだけあって、まわりはおしゃれをした女の子たちでいっぱいだ。制服を脱ぎ捨てたカップルばかりがやたらと目につく。誰もかれも、こんなに暑いというのに手を繋いだり、ぴったりと体を寄せ合ったりと、見ているだけで暑くなっちゃう。
そうか、普通の恋人ってあんな感じなんだ。目一杯のおしゃれをして、ふたりで出かけて、手を繋いで、幸せそうに笑い合う。わたしと奏真と、全然違う。手すら繫げないわたしたちは、まるで恋人ごっこをしているみたい。昨日だって、何にも、できなかった。
アイスティーの水面に、冴えない女の子が映っている。ちょっと眼鏡を外してみたからって、おしゃれ女子とはほど遠い。スカートって足がスースーして苦手だ。今日着てるレースのシャツだって、りせの方が数倍似合う。りせはいつだって、道行くどんな女の子よりもおしゃれで、どんなアイドルよりもかわいい。
どうして同じ人間なのに、こうも違うんだろう。わたしは時折、りせがひどくうらやましくなる。かわいくて、恋をしていて、きらきらしているりせが。
外を見たわたしは、人混みの中に見慣れた影が紛れ込んでいることに気がついた。どんなに遠くても分かる。色白で、目が大きくて、栗色の髪を一つにまとめた、きれいな女の子――りせが、歩いている。
ああやっぱり、りせのかわいさって別格だ。夜の闇にぽっかりと浮かぶ月のように、どこにいても目立つ。そして彼女のそばにいるのは、小咲さんの恋人である柊さんだった。
柊さんの後ろを子犬のようについていくりせ。その表情は、まるで溶けたアイスみたい。全身から幸せが溢れているのが、こっちにも伝わってくる。
わたしはぼんやりと、ふたりが消えた方向を眺め続けた。柊さんがどんな顔をしていたかは分からない。だけど、なんだか、他のどの恋人より仲睦まじげで、絵になっていたから。ほんの一瞬だったけど、まるで映画のワンシーンみたいにきらめいていたから、見入ってしまったのだ。
お似合いって、こういうことを言うんだなぁ。わたしはサンドイッチを両手でつかみ、思い切り口に放り込んだ。ああ、今日もりせが眩しい。りせと柊さんって、本当に――
……あれ?
わたしはかじりかけのサンドイッチをお皿の上に置いた。りせのことばかり考えて忘れていたけれど、柊さんは、小咲さんの恋人なんだよね。小咲さんは、このことを知っているのだろうか。いや、知っているわけないか。知ったらきっと、あんな穏やかに笑えないだろう。
――もし、知ってしまったら?
起こりうる未来を考えたら、急に心がひやっとした。
りせのことばかり考えていた。わたしはりせの友だち、だから。りせの喜びや悲しみを多く知っているから、りせが幸せになればいいと願っていた。それに、きっとりせの恋を否定したら、りせはわたしの元から離れてしまう。そんな気がしたから。だけど、りせの幸せは小咲さんの不幸なんだ。
……これって、よく考えたら、いや、よく考えなくても「浮気」ってやつだよね。何で今まで深く考えなかったんだろう。柊さんは、浮気している。恋人の妹と。それって、すごくすごく悪いことじゃないか。
今だって、小咲さんは体調を崩している。今朝だって笑っていたけれど、顔色は決していいとは言えなかった。それなのに柊さんとりせは、のうのうとデートを楽しんでいる。
あ、れ?
わたし、りせのこと、応援していいのかな。
小咲さんの笑顔がよみがえった。優しくて、穏やかで、素敵な女の人。食べかけのサンドイッチには、もう手をつける気になれなかった。
何をするわけでもなくカフェで時間を潰し、夏服やら生活雑貨やらを買っていたら、家に帰る頃には夕方になっていた。こんなに長時間ひとりで出かけたのは久しぶりだ。外の暑さに反比例するように、ショッピングモールはクーラーがききすぎていて肌寒かった。
かわいい服を選んでいる時も、雑貨を見ている時も、わたしの頭の中は小咲さんでいっぱいだった。並んで歩くりせと柊さんの、楽しそうな表情がちらつく。幸せは、すべての不幸の上に成り立っている。そのワンフレーズが、カビみたいにこびりついて離れない。
帰宅して、荷物を整理したわたしは、道すがら購入したプリンを片手に再び部屋を出た。一階に行き、チャイムを鳴らす。はぁい、という高い声とともに、すぐに玄関の扉が開いた。
「あれ、雫ちゃん。おかえりなさい」
小咲さんが出てきてくれたことに、ほっとした。智恵理さんはどうも苦手だ。わたしは軽く頭を下げ、手に持っていたプリンを差し出した。
「あの、お土産ありがとうございました。これ、お見舞い」
「えっ、いいの? 気遣わなくていいのに、ごめんね」
小咲さんは眉を下げながらも、わたしのプリンを受け取ってくれた。今朝に比べて、ずいぶん顔色がよくなっている。
「高校生に心配されるなんて情けないな。ありがとう」
小咲さんの屈託のない笑みを見た途端、ぎゅうっと胸が締めつけられた。お礼を言われる資格なんてないのに。だって、わたしは秘密にしている。りせと柊さんのこと、ないしょにしている。りせの幸せを願っている。今こうしている間にも、りせと柊さんは――そう考えたら、小咲さんの顔がまともに見られない。
――小咲さんが、このことを知ったら。
「あの……」
言葉にしようとしたら、声が震えた。動揺を抑えるように、両手をぎゅっと握り締める。小咲さんのためにも、知らせた方がいいんじゃないの。間違っているのはりせの方なんだから、小咲さんのことを考えるべきじゃないの。そうだ、それが世間一般的には正しいんだ。だったら、言った方が……。
「どうしたの?」
小咲さんがふしぎそうに顔をのぞき込んでくる。わたしは肩を震わせ、慌てて首を左右に振った。
「いえ、あの……いつもりせに仲よくしてもらってるんで、そのお礼も兼ねてるんです」
「やだ、お礼を言うのはこっちの方よ。雫ちゃんに会ってから、なんか楽しそうだもん、あの子」
雫ちゃん、しっかりしてるね。小咲さんが感心したように言うので、わたしはもう引きつり笑いを浮かべるしかなかった。
「今日はりせと一緒じゃないのね。夕飯誘ったんだけど返事が来なくて。どこ行っちゃったんだろう、あの子」
「あ、えっと……たぶんバイト、だと思います」
「そう。ならしかたないか。あ、ちょっと待ってて」
小咲さんは何かを思いついたように、パタパタと部屋の奥に消えていった。
ひとり残されたわたしは、緊張の糸がぷつんと切れたのを感じて、長く息を吐いた。危なかった。勢いで言ってしまうところだった。言うべきだったのかもしれない。だけど、言わなくてよかったという気もする。結局、わたしは「他人」なんだ。わたしが何を言ったって、信じてもらえないかもしれない。小咲さんの心をむだに傷つけてしまうだけかもしれない。軽率な行動をとってしまうところだった。わたしは額に滲んだ汗を拭った。
小咲さんを待つ間、わたしはかかとを伸ばしたり、地面につけたりを繰り返した。無意味に周囲を見渡してみる。白い天井。整列された靴。虹色の傘。
ふと、玄関に飾られた数枚の写真が目に留まった。これは、若い頃の智恵理さんだろうか。今とあまり容姿が変わっていない。隣にいる男の人は、亡くなったという旦那さんかな。ふたりが腕を組んで幸せそうに写っている。別の写真には小さな女の子が写っていた。きっと小咲さんだろう。楽しそうにピアノを弾いている。
そして一番奥の写真立てには、小咲さんと柊さんが写っていた。ベンチで寄り添い、仲睦まじく肩を寄せ合っている写真だ。とてもお似合いで、とても幸せそうで、とても、自然。
わたしはなぜか、自分がものすごくいけないことをしているような感覚に襲われた。知らなくていいことを知ってしまったような、見てはいけないものを見てしまったような後悔が、波のように押し寄せてきた。
「ごめんね、お待たせ!」
小咲さんが玄関へと戻ってきたので、わたしははっと顔を上げた。
「これ、あまっちゃったからよかったら食べて」
「えっ?」
そう言って差し出されたのは、大きな紙袋だった。中をのぞくと、タッパーが三つくらい入っている。
「余計なお世話かもしれないけど、ひとり暮らしだと栄養偏っちゃうでしょ。体壊さないように……って、わたしが言えることじゃないけど……」
「い、いえ。ありがとうございます。いただきます!」
「おいしいか分からないけどね」
小咲さんは自信なさげに頬を掻いた。
「わたし、あんまり料理得意じゃないから。柊くんの方が何倍もおいしくできるんだけど」
「そうなんですか……」
わたしはバーベキューの時のことを思い出した。確かに、あの時の柊さんは手際がよかった。前に食べたハンバーグもおいしかったし。きっと何事も卒なくこなすタイプなんだろう。
小咲さんが、ふっと微笑みを薄めた。何かを伝えたいような、そうでないような。愛しさのような、哀れみのような。わたしを見ているけれど、その瞳にはわたしなんて映っていないような、そんな顔だった。
「りせのこと、これからもよろしくね。あの子がつらい時は、そばにいてあげてね」
わたしはなぜだかその言葉が、上辺だけのものではなく、遠くない未来を予期しているように思えた。いつか、確実にりせが辛くなる。そのことを知っているような笑みだった。
わたしは黙ってうなずいた。うなずくことしかできなかった。紙袋を胸に抱き、逃げるようにその場をあとにした。
筑前煮と、ほうれん草の胡麻和え、それにサラダ。それが、わたしの夕飯になった。料理は苦手だと言っていたけれど、筑前煮は味が染み込んでいてとてもおいしい。優しさがじんわりと広がって、心が落ち着く。本当は、りせに食べてもらいたかったんだろうな。体調が悪いのに、一生懸命りせのためを思って作ったんだろう。りせが、今誰といるかも知らずに。
シャワーを浴びたら、夏の暑さと相まって体が火照った。昼間はあれほどうるさく鳴いていた蝉たちも、夜になるとかくれんぼをするように息を潜めている。ベランダに出ると、ぬるい夜風が全身を撫でていった。空には三日月と、薄灰色の雲。そして心もとない星の光。
手の中のスマートフォンが陽気な音を立てた。見ると、奏真からメッセージが届いている。
『魚ってすき?』
いきなり何を聞いてくるのだろう。付き合い始めてから、こういう内容が増えた気がする。世の中の恋人たちって、こういう中身のないやりとりをするのかな。わたしはちょっと面倒に思いながら返信をした。
『すきだよ。マグロのお刺身とか』
『食べる方じゃなくて、見る方な!』
……なんだ、そっちか。日本語って難しい。
『今度、水族館行こうぜ。魚の写真展もやってるらしいよ』
魚のスタンプとともに、デートのお誘い。友だちとしてじゃない、恋人として出かけようと言っているのだ、奏真は。
彼女なら思い切り喜んで、すぐに返事をしなければならないだろう。だけど、わたしの指はなかなか動いてくれない。今、どこかに出かけたいとか、そんなことを考える気分じゃない。数秒悩んだ末、わたしはスマートフォンをパジャマのポケットにしまった。
ベランダの柵に寄りかかりながら、目をつぶって耳をすませた。葉の揺れる音。鈴虫の鳴き声。遠くを走る車の音。長くて短い夏の気配が、五感を揺さぶる。夏の音の合間に、微かに混ざって、歌が聞こえてきた。わたしはそっと目を開けた。
やっぱり、帰ってきた。
「りせ!」
庭を歩いている少女に向かって、大声で叫んだ。りせはぼんやりと顔を上げ、安心したように微笑んだ。わたしはいてもたってもいられなくなって、サンダルを履いて庭へと飛び出した。
「……どうしたの?」
息を切らしているわたしを見て、りせはおかしそうに首を傾げた。月明かりの下で見る彼女は、やっぱりいつかと同じように美しかった。彼女には夜が似合うと、そう、思った。
「歌が、聞こえたから」
荒い呼吸の隙間で、途切れ途切れに答えた。りせはくすっとおかしそうに笑った。そのあどけない笑顔に、ほっとした。なんだか、泣いているような気がしたから。
そのまま、わたしは流れるようにりせの部屋に転がり込んだ。部屋に入るやいなや、りせはカバンをベッドに放り投げ、疲れを吐き出すように床に座り込んだ。
「ずいぶん遅かったんだね」
わたしは向かい側に腰かけて、探るように言った。
「うん。出かけてたから」
「……柊さんと?」
「そう!」
りせはえへへ、と照れたように顔をふやけさせた。
「今日はね、久しぶりにデートしたんだぁ。すっごく楽しかった」
「……小咲さん、体調崩してたのに?」
言ってから、しまった、と思った。いやな言い方をしてしまった。おそるおそるりせの顔色をうかがう。キャンドルの光に照らされたりせの顔から、表情が消えた。さっきまでの笑顔は死んで、代わりに、顔の筋肉がぴんと強張っていた。だけど、それも一瞬のこと。
「……軽蔑した?」
ちょっとさみしそうな、悲しそうな、傷ついた微笑みだった。わたしは慌てて両手を振った。
「ごめん、そういうつもりじゃないの」
「いいよ、分かってるから」
りせは立ち上がると、着ていたシャツを唐突に脱ぎ始めた。白い肌と、ピンク色の下着が露わになる。わたしは慌てて顔を背けた。
妙な沈黙が流れた。空気が肩にのしかかって重たい。クーラーがまだきいていないのか、汗がじんわりと額に滲む。わたしはためらいながら、もう一度りせの方を見た。さっきまで着ていた服は床に落ち、代わりにラフなシャツに着替えていた。その背中がとても小さくて、さみしそうで、何か言わなければ、という衝動に駆られた。
「わ、わたしはりせの味方だよ」
「ほんとにぃ?」
りせは肩越しに振り返ると、疑うようににやりと笑った。シャツのボタンを留め終えて、脱力したようにベッドに倒れ込む。わたしは立ち上がって、そっとベッドに腰かけた。りせは大きな目を見開いたまま、じっと天井の星を見ていた。
「嘘じゃないの。嘘じゃないけど……」
「うん」
りせは静かにうなずく。わたしは戸惑いながら、言葉を続けた。
「小咲さんに言われたの。『りせのこと、よろしくね』って。すごくりせのことを大事にしてる。いい人だなって、思うの……」
「……お姉ちゃん、すごく優しいの。優しくて面倒見がよくて、かわいくて……わたしの命の恩人なんだ」
「恩人?」
「うん。わたし、本当は生まれてくるはずじゃなかったの」
「……どういう意味?」
「わたしとお姉ちゃんね、半分しか血が繋がってないの。お姉ちゃんのお父さんは、お姉ちゃんが生まれてすぐ死んじゃったんだって。それが、このアパートの管理人。だからちーちゃんが代わりに管理人になったの。ちーちゃん、あんな感じだけどさ、頑張ってお姉ちゃんを育てたんだよ。そこはえらいと思うんだ。苦労もしただろうし」
りせは笑うでもなく、泣くでもなく、淡々と事実を語っていった。
「で、旅行先で知り合った男とワンナイトして、ついうっかりできちゃったのがわたし。名前も知らないらしいよ、ありえないよね。だからもうやだ、おろすって駄々こねたらしいの。それをね、お姉ちゃんがとめたんだって。きょうだいがほしいから、産んでって。りせって名前も、お姉ちゃんがつけてくれたの。お姉ちゃんがいなかったら、わたしは生まれてきてないの」
「そうだったんだ……」
わたしは初めて聞かされる事実に、ただ相槌をうつことしかできなかった。知らなかった、何も。わたしが知っていいことじゃないけれど、こういう時思い知らされる。わたしはりせのことを何も知らない。
「なのにわたし、最低だよね……」
りせは自虐的にそう言うと、逃げるように両腕で瞳を隠した。ああ、りせは本当に小咲さんのことがすきなんだ。自分の命を救ってくれた、たったひとりの姉。それなのに――
「そんなにすき? 柊さんのこと」
「……すき、なんてもんじゃないの」
細い喉から絞り出された声は、強い意志を持っていた。
「愛してるの。……他のどんなものを捨ててもいいって思えるくらい」
「傷ついても、いいの?」
「覚悟してるから。これまでも、これからも、ずっと」
「……りせは泣かないね」
「泣かないよ。泣いたらみじめになるでしょ」
りせは勢いをつけて上半身を起こした。その瞳に涙は浮かんでいない。強がるようにわたしに笑いかける。いつもの、りせだ。
その笑顔を見た瞬間、わたしは無性にりせを抱き締めたくなった。触れようと伸ばした手は、直前のところで臆病に負けて届かない。今触れてしまったら、りせの精一杯の強がりが壊れてしまうような気がした。
「あっ、また泣いてる!」
りせが、ぎょっとしたように声を上げた。
「もぉー、何で泣くの」
「……りせの代わりに泣いてるの!」
わたしはうつむいて、声を上げないように唇を噛んだ。
りせのために何もできない、自分の無力さがやるせなかった。自分の幼さが悔しくて、奏真にも顔向けできない。りせのことも、小咲さんのこともすきだ。何が正解か分からない。全員が幸せになる方法なんてないのかもしれない。だけど、だからこそ、幸せになってほしいと思う。柊さんを責めるのは簡単だけれど、きっとりせはそれを望まない。望まないから、行き場のないこの悔しさが、涙となって溢れ出るんだ。
りせは何も言わず、そっとわたしを抱き締めた。わたしができなかったことを、りせはいとも簡単にやってのけるのだ。りせの体はとても細くて、強い力で抱き返したら、ぽきんと折れてしまうくらい弱々しかった。
早く、大人になりたいな。りせの悲しみも苦しみも、すべて受けとめられるくらいの存在になりたい。りせに頼られたい。りせの、力になりたい。
壊れないようにそっと、りせの背中に腕をまわした。りせは安心させるように、わたしの背中を優しく叩き続けた。
この時、わたしは知らなかった。名前のない関係の脆さも、小咲さんの言葉の意味も。そして、これから来る別れも。