春と夏の境目というのは、年々あいまいになっているような気がする。天気予報で知らされる数字が日ごとに上がっていって、太陽光が強さを増していく。制服が眩しいほど白い半袖シャツに変わったら、いつの間にか夏への移行は完了している。季節の変わり目はいつだってそうだ。月日で区切るのではなく、五感で認識する。

 学生は気楽でいいわねぇ、学生に戻りたいなぁ、なんて、お母さんがよく言っていたのを思い出す。だけど高校生って、大人が思うほど楽じゃない。この間中間テストが終わったと思ったのに、実力テスト、期末テストと、せわしない日々が続いた。一応うちの高校はそこそこ進学校なので、授業のペースだって、まるで早送り再生をしているかのよう。日頃の予習復習だって気が抜けないわけで、そうなると、心休まる日なんてないのである。わたしは帰宅部だからまだ時間に余裕があるけれど、部活に所属している子たちは一体どうやって生活しているのだろう。勉強と部活動の両立なんて、わたしには到底むりな話だ。

 梅雨が明けたばかりの七月初旬。かねてから計画していた天体観測の日。

「助けて、雫!」

 朝、サイレンのようなインターホンに起こされ扉を開けたら、今にも泣き出しそうな顔のりせが、大量の服を抱えて飛び込んできた。

「どうしたの?」
「服が全然決まらないの!」

 寝ぼけているわたしの横を風のようにすり抜け、姿見の前に直行する。フローリングの床に服をどさりと捨てて、自分のお人形さんみたいな顔をじぃっと見つめ、

「どうしよう、あと一時間しかない……!」
「……今着てる服でいいじゃん」

 くたびれたTシャツにショートパンツのわたしは、花柄のワンピースを見て大あくびをした。予定より三十分も早く起きてしまったせいで、頭がうまく働かない。

「一週間前からこれにしようって決めてたんだけど、今日着てみたらやっぱ違うなって。そもそも、もっと動きやすい服にするべきだったの! あーもう、何で今更気づくんだろう。やっぱりこっちのショートパンツにしようかな。でも、ちょっと足出すの恥ずかしいかも……」
「あー、うん。いいんじゃない?」

 のそのそと洗面所に行き、冷たい水で顔をパシャパシャと洗う。

「上はどうしよう、このレースのシャツが合うと思うんだけど、前も着たしなぁ。でも、こっちのボーダーでもいいかな。ねぇ、雫はどう思う?」
「かわいいかわいい」

 鏡を見ていたら、目の下のクマが気になった。昨日、遅くまでテレビを見ていたせいだ。歯磨き粉を歯ブラシに乗せて口に含む。歯を磨き終えてリビングに戻ると、着替えを済ませたりせがいた。ボーダーのシャツにショートパンツ。さっきまで着ていたワンピースは床に脱ぎ捨てられている。

「やっぱりこっちにしようかなぁ。夏っぽいし、着てみたらわりとかわいいし。あっ、でもこれならポニーテールの方がいいかなぁ」
「そうだねぇ」

 わたしは衣装ケースを引っ張って、一番上にあるシャツを取り出した。下はいつものジーンズでいいや。

 三十秒ほどで着替えも終わった。髪を軽くヘアブラシでといて、眼鏡をかけて、必要なものをリュックに詰めたら準備完了。振り返ると、りせが数種類のピアスをテーブルに並べて、うーんうーんと唸っていた。

「……どれもかわいいよ?」
「やだ、一番似合うやつがいい」

 りせは頬を膨らませながら、星の形のピアスを指でつまんだ。慣れた手つきで両耳につけて、鏡の前で自分とにらめっこ。そんな彼女の様子を見て、わたしは思わず笑みを漏らした。

 恋を、しているんだな。

 その服もお化粧もピアスも、全部すきな人のためにあるんだ。一生懸命悩んで、迷って、すきな人に褒められようと頑張っている。かわいいなぁ、かわいいなぁ。

「よし、これにする」

 りせは見せつけるように、くるりとその場で一回転した。ポニーテールがふわりと舞う。

「どう?」
「うん。すっごくかわいい」
「ほんと? 変じゃない?」
「ほんと。柊さんも褒めてくれるよ」

 そう言うと、りせはぽっと頬を赤らめて、照れくさそうに下唇を噛んだ。

 ちょうどその時、外から車のエンジン音が聞こえてきた。壁にかかっている時計を見ると、約束の時刻である十時を示している。

「柊くん来た! 行こう、雫」
「ちょっと、待ってよ!」

 さっきまでののろさはどこへやら。風を切って部屋を飛び出すりせのあとを、わたしは笑いながら追いかけた。



 外に出ると、車の運転席の窓が開いて、中から柊さんが手を振ってきた。全速力で駆け寄っていくりせに続いて、わたしも慌てて両足を動かす。りせは後部座席のドアを開け、わたしに乗るように指示した。続いてりせも乗ってくると思ったら、彼女はちゃっかり助手席に乗り込んでいた。

「おはよ、柊くん」
「おはようございます」
「おはよ。何、お前そこに乗るの?」
「うん。だって、もうひとり乗るし」
「あっそ。じゃ、出発しまーす」

 陽気な合図とともに、車が勢いよく前進した。

 りせの努力に応えるように、空はどこまでも青く透き通っていた。窓をちょっとだけ開けたら、隙間から新鮮な風が入ってきた。気持ちいいなぁ。目を細めていると、柊さんがミラー越しにこっちを見てきた。

「雫ちゃん、久しぶり。元気にしてた?」
「はい、元気です」
「今日暑いなぁ。日焼けどめとか持ってきた?」
「ばっちり!」

 わたしの代わりに、りせがバッグから日焼けどめを取り出した。

「日焼けどめと、サングラスと、汗ふきシートと……」
「お前には聞いてないって。今雫ちゃんと話してんの」
「えっ、でもぉ……」

 りせがむぅっと拗ねたように頬を膨らませる。ふたりのやりとりがおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。

「仲よしだね」

 わたしの一言で、りせの顔がぱっと輝く。まるでテレビのチャンネルを変えたみたいだ。柊さんはいじわるをするように、りせの頬を優しくつねった。

「まぁ、付き合いも長いからなぁ。こいつ、母ちゃんとうまくいってないしさ。保護者みたいなもん」
「ふぅん……」

 保護者、か。

 わたしは試すようにふたりを交互に見た。痛い、痛い、とわめくりせは、心なしか嬉しそうだ。比べて柊さんは、さっきから表情一つ変えやしない。本当に、「いいお兄ちゃん」って感じ。

 初めてふたりを見た、あの夜を思い出した。暗闇に隠された、秘密の逢瀬。りせの白い肌だけがぼんやりと照らされていた、あの夜。

 もしあの月の夜、ふたりを見ていなかったら、わたしは柊さんの言葉を信じたかもしれない。今だって、りせの恋心はまごうことなき事実だけれど、ふたりが「そういう関係」だって聞かなければ、ただの微笑ましいやりとりにしか見えない。

 もしかして本当は、ふたりは何もないんじゃないかな。りせが一方的にすきなだけで、本当は、何もないんじゃないかな。

「あ、もうひとりの子に、あと十五分くらいで着くって連絡しといて」
「分かりました」

 わたしはスマートフォンを取り出して、言われた通り奏真に連絡を取った。奏真とは駅前で合流することになっている。駅に近づいたら、首からカメラをぶら下げた、見慣れた男の子がいた。わたしは窓を開けて、「奏真!」と大きく名前を呼んだ。奏真はわたしに気づくと、元気よく手を振って駆け寄ってきた。

 柊さんがロータリーに車を停め、後部座席のドアを開けた。

「おはよう、雫」
「おはよ、待った?」
「ううん。おはようございます」

 奏真はわたしの隣に乗り込むと、柊さんとりせに挨拶をした。おはよ、と柊さんが振り向く。りせは興味深そうに奏真を見つめた。

「この子が雫の幼なじみ?」
「うん。えっと、紹介するね。同じクラスの一色奏真。小学校からの腐れ縁」
「一色奏真です。今日はよろしくお願いします」
「で、こっちが蓮城りせ。話した通り、うちの大家さんの娘。で、こちらが稲葉柊さん。高校の先生で、星にすごく詳しいの」
「雫から聞いてます。おれ、天体観測ってしたことないから、すっげー楽しみ!」
「今日は星だけじゃないからなー。貴重な男手としてこき使うから、覚悟しとけよ」

 柊さんはにやりと口角を上げ、アクセルを踏んだ。ぐん、と車が振動して、旅が再スタートする。車内のスピーカーから、ドライブにぴったりな音楽が流れ始めた。

「ねぇ、奏真って呼んでいい? わたしもりせでいいし」
「いいよ。同じクラスなんだよな? 何で学校来ねーの?」

 突拍子もない質問に、ぎょっとした。仮にも不登校の人間に向かって、いきなりそれを聞くか。こいつの素直さには時折肝を冷やす。りせはまったく気にならないようで、ははっ、と声を上げて笑った。

「いきなりそれ聞いちゃう?」
「こいつ、不良娘だから。あんま関わんない方がいいぞ」
「もぉ、何でそういうこと言うの! 奏真、今日は来てくれてありがとね。雫が男の子連れてくるなんて、ちょっと意外だったけど」
「べ、別にそういうんじゃないから!」
「そういうって、どういう?」

 奏真が首を傾げたので、わたしはますます慌てて、「何でもない、何でもない」と手を振った。

「若いねぇ、高校生。なんかうらやましーわ」

 運転席から、ため息混じりの声が聞こえる。奏真は身を乗り出して、柊さんに尋ねた。

「柊さんっていくつなんですか?」
「二十六。もうアラサー突入ですわ」
「まだまだ若いじゃないですか。大人って感じで、あこがれる」
「今も体が酒と煙草を求めてる」

 ぐうう、と我慢するように、柊さんが体を縮めた。りせはくすくす笑って、

「こんな大人になっちゃだめだよ」
「うるさい、不良娘」

 ふたりの仲睦まじいやりとりを乗せて、車は長い長い高速道路を駆けていく。耳に流れ込む音楽が、突如聞き覚えのあるものに変わった。懐かしいような、さみしいような。どこで聞いたんだっけ……。わたしは思い出すように瞳を閉じた。

 目蓋の裏側に、満開の桜が映し出された。夜空にはたくさんの星と大きな満月。桜の木の上に座って、切なげに歌うきれいな女の子。

 ああ、そうだ。これは、りせがよく口ずさんでいるメロディーだ。どうしてりせがこの曲を歌っているのか、今になってようやく分かった。

 ――柊さんがすきな曲だからだ。

 低い歌声が鼓膜を揺さぶる。スピーカーから流れる音楽に乗せて、柊さんが小さな声で歌い始めた。りせの透明な歌声が重なって、穏やかなハーモニーを生み出していく。

 のどかだなぁ。素敵だなぁ。目を開かなくても、りせが笑っているのが分かる。普段のいたずらっぽい笑顔とは違う。はにかんだような、照れくさそうな、子供っぽい無邪気な笑み。

 ああ、そうか。気づいたら、心にすとんと、小石が落ちたようにしっくり来た。

 ――これが、恋か。



 サービスエリアに寄りながら、ドライブすること約二時間。

 わたしたちがやってきたのは、都心から離れた場所にあるキャンプ場だった。広い芝生に、さらさらと流れる透明な小川。少し離れたところにはドッグランや牧場まである。用意をしなくても、お金さえ払えばバーベキューに必要な道具や食べ物は手に入るらしく、特に大がかりな準備もなく始めることができた。

「ほらほら、食え、若者ども」

 柊さんは慣れた手つきで肉や野菜を焼いていく。奏真はきらきらと目を輝かせ、「いただきまーす」と箸を手に持った。

「柊さん、慣れてますね……」

 トングで野菜をひっくり返す手際のよさに、わたしは思わず息を漏らした。柊さんはそう? と、こともなげに笑った。

「まぁ、大学時代によくやったからなぁ。最近はめっきり」
「わたし、バーベキューって初めて」
「雫って、アウトドアのイメージないもんね」

 りせが隣でくすっと笑った。

「うん。たぶん、想像通り……」
「小学生の時は一緒にプール行ってたよな? うちの父ちゃんに連れてってもらってさ」
「え、そうだっけ?」
「そうそう。おれと雫と、あと姉ちゃん。父ちゃん、雫のこと気に入ってたからさぁ、高校同じになったって言ったら喜んでたよ。また家に連れてこいって」
「仲いいんだね、ふたりの家族」

 りせがわたしと奏真を交互に見た。まぁ、家も近所だったから、とわたしは答えて、柊さんが盛ってくれたピーマンを口に含む。ひとり暮らしだと野菜ってあまり食べないから、とてもありがたい。

「はい、バトンターッチ」

 柊さんがトングをりせに差し出す。りせは自分の箸をテーブルに置いて受け取った。それと同時に、柊さんの分の箸とお皿を渡す。その一連の流れがキャッチボールのようにスムーズで、わたしは思わずまじまじとふたりを見つめてしまった。奏真も同じことを思ったようで、頬張っていたお肉をごくりと飲み込んだ。

「ふたりって、もしかして付き合ってんの?」
「えっ」

 りせとわたしの肩が同時に飛び跳ねた。わたしは両手をぐっと強く握って、奏真の頬をぶん殴りたい衝動に駆られた。こいつは何でこんなに空気が読めないのか。デリカシーがないってレベルじゃない。りせは顔を真っ赤にして固まっている。何言ってんの、とフォローを入れようとしたら、柊さんがぷっと吹き出した。

「そんな風に見えた?」
「え、違うんですか?」
「惜しいけど、おれが付き合ってんのは姉の方。小咲に怒られちまうな」

 特に慌てる様子もなく彼は答える。

 その瞬間、りせの表情が強張ったのを、わたしは見た。

「……うん。付き合ってなんか、ないよ」

 絞り出すように発した声は、傷ついたようにかすれていた。むりに作った笑顔はぎこちなくて、口の端が歪んでいる。

 心の軋む音が、聞こえた気がした。

「……ほら、奏真、そっち焼けてる」
「あ、ほんとだ。いただきまーす」

 わたしはなんとかこのひび割れた空気を変えようと、焼けた肉を奏真のお皿によそっていった。いっぱい食えよー、と、まるで先生のように柊さんが笑う。ああ、そういえば高校教師だった。そうでした。

 ――なんだか、無性に腹が立った。

 わたしは奏真と張り合うように、口の中に大量の肉を詰め込んだ。焼きたての肉はとても熱くて、舌を火傷してしまいそうだ。でも今は、そんなことどうだっていい。

 なんだかとても、いらいらした。

 分かってた。柊さんが付き合っているのはりせじゃなく小咲さんだってことは。分かってる。柊さんは奏真の質問に答えただけだって。分かってはいるけれど、やるせなかった。

 だって、りせはこんなにも柊さんがすきで、すきですきでたまらないのに。柊さんのために何時間もかけて服を選んで、メイクだって頑張ってきたのに。こんなにもふたりは息ぴったりで、恋人よりも恋人らしいのに。ふたりが恋人だったらいいなっていうわたしの願いも、りせの淡い想いも、たった一言で打ち砕かれた気がしたのだ。どうにもならないのに、どうにもならないからこそ、悔しかった。

 バーベキューを終え、日が沈むまでの時間。昼寝をするという柊さんを置いて、わたしたち三人はキャンプ場の中を歩き回ることにした。

 あたたかい太陽光の下、場内ではたくさんの人がバーベキューをしたり、小川で水遊びをしたりと、楽しげに過ごしている。普段はひきこもりがちなわたしだけれど、おいしい空気を肺に取り込んだら、自然と歩調が速くなった。

「へぇ、いいカメラ持ってるんだね」

 小川に沿って散歩をしている時。奏真が持っている一眼レフを見つめて、りせが目を輝かせた。

「この間雫に選んでもらったんだ。まだ腕は全然だけど」
「じゃあ、いっぱい練習しなきゃね」

 そう言うやいなや、突然りせが猛ダッシュした。数メートルくらい全力で走ったあと、振り向いて大きくピースサインを出す。

「ねぇ、撮って撮って!」

 無邪気に笑うりせに向かって、奏真がカメラを構えた。パシャリ。軽快なシャッター音が鳴る。わたしは奏真のカメラをのぞき込んで、思わず笑みを零した。自然に囲まれてVサインをするりせが、とても生き生きと写っている。

「うん、かわいく撮れてる」
「はしゃいでるのが伝わってくるな」

 奏真とうなずき合っていると、またまた猛ダッシュでりせが戻ってきた。

「どう? どう?」
「いい感じだよ、ほら」

 奏真が差し出したカメラをまじまじとのぞいて、りせはむむっと顔をしかめた。

「やだ、髪の毛乱れてる」
「全然分かんねーよ、そんなの」
「そうだよ、十分かわいいよ」

 わたしは力強く奏真に同意した。写真のりせも実物のりせも、ため息が出るくらいかわいくて眩しい。今はやりのアイドルよりも、アカデミー賞を獲った女優よりも、きらきらと輝いている。りせはそうかなぁ、と言いながら、ポニーテールをあっという間に結び直した。ポケットからリップクリームを取り出して、手際よく唇に塗る。その動作一つ一つが「女の子」って感じで、りせの隣に立っている自分がミジンコか何かに思えた。

「やっぱりいいカメラだときれいに写るね。今日はいっぱい撮ってね」
「もちろん!」

 奏真は大きくうなずいて、被写体を探すようにきょろきょろとまわりを見渡し始めた。りせはわたしに向かって笑いかけると、スキップをするようにどんどん前に進んでいった。

 わたしはふと歩みをとめて、はしゃぐように揺れるポニーテールが遠ざかっていくのを眺めた。無邪気で、素直で、明るくて、かわいくて。わたしにないものを全部持っている。分かっていたことなのに、急に、心にずしんと来た。

「どうした?」

 微動だにしないわたしをふしぎに思ったのか、奏真がこちらに戻ってきた。わたしはううん、と首を振り、ぽつりとつぶやいた。

「りせは、かわいいなぁって」

 言葉にしたら、自然と口から息が漏れた。

「顔だけじゃなくて、性格とか仕草とか……」
「確かになぁ」

 奏真は遠くにいるりせを見つめて、納得したようにうなずいた。

「今朝会った時は大人っぽいなと思ったけど、わりと落ち着きないよな」
「あんたも人のこと言えないけど」
「えっ、そうかな?」
「何で今驚いたのよ」

 相変わらずの天然ぶりにあきれ、わたしはゆっくりと歩き出した。遠くから聞こえる人々の笑い声。小鳥のさえずり。水の跳ねる音。すべてが穏やかに流れているのに、心はどこか重たい。どうして、どうして。人はこんなにも違うのだろう。神様って不公平だ。かわいさって武器を手にしたら、それだけで人生は違うのになぁ。りせくらいかわいかったら、人生イージーモードなのに。

「でも、雫もかわいいけどな」

 唐突に後ろから聞こえたのは、あっけらかんとした声だった。わたしはぴたりと足をとめ、口元をきつく結んだまま振り向いた。

 案の定、まぬけな顔をした幼なじみが、カメラを構えてそこにいた。ファインダー越しに見るわたしは、さぞかしふてくされた顔をしているのだろう。いたずらな風にさらわれた葉っぱが、ふたりの視界をさえぎるように、邪魔して、邪魔して。 

 ああ、もう、何も、見えないよ。

「だから、そういうことは誰にでも言うもんじゃないって」
「誰にでも言ってるわけじゃねーよ」

 カメラを下ろした奏真は、めずらしくふくれっ面をしていた。

「雫だから、言うんだよ」
「……なに、それ」

 意味が、よく分からなかった。奏真はきゅっと唇を結んで何も言わない。言おうとしない。わたしもそれ以上何も聞かない。聞けない。一つでも、一言でも核心に触れてしまったら、今手にしている平穏が、一つ残らず消え去ってしまうような気がした。そんな、予感が、していた。

「雫! 奏真!」

 りせの叫び声が、ふたりの沈黙を破った。振り返ったら、膝くらいまで小川に浸かっているりせが、おーい、と大きく手を振っている。わたしは奏真から逃げるように、りせの元へ走っていった。



 夕食を軽く食べたあと、遊び疲れたわたしは、柊さんと入れ替わるように車の中で眠りについた。どこからか、りせと柊さんのひそやかな話し声が聞こえてきたような、そうでないような。昼間の奏真の言葉も、もう夢か現実か分からない。全部、考えないようにしよう。考えないようにすれば、平穏な日々が約束されるんだ。

「……ずく、雫」

 現実の向こう側から、わたしを呼ぶ声が聞こえた。意識がぐぅぅんと深いところから引っ張られていく。ゆっくりと目蓋を開けると、薄暗い闇の中に、りせの白い肌が浮かんでいた。

「起きて。もう夜だよ」

 ひそやかな声に急かされて、わたしは重たい上半身を起こした。もぞもぞと車から降りたら、ふらりとめまいがした。りせは支えるようにわたしの手をつかみ、ふたりの元へと引っ張っていく。

 拓けた原っぱの上で、柊さんが天体望遠鏡をのぞいていた。その隣には興奮した様子の奏真が立っている。わたしに気づいた柊さんが、顔を上げて空を指差した。わたしは眠たい目をこすって、ぼんやりと夜空を見上げた。

 ――瞬間。

「わぁっ……」

 そこに広がっていたのは、宝石箱のような星空だった。きらきら、きらきら。普段見てい
る夜空とは全然違う。まるで星の海の中にいるみたいだ。今にも降り出しそうな星たちが、一斉に、白い光を放っている。

「驚くのはまだ早いぞー」

 柊さんはいたずらっぽく笑うと、望遠鏡をのぞくよう促した。わたしはどきどきしながら、言われるがまま望遠鏡をのぞき込んだ。

「すごい……!」
「きれいだろ」

 そこには、まん丸な月がはっきりと映っていた。手を伸ばしたら触れられそうなくらい大きい。月の模様が隅々まで見える。少し都心を離れただけで、こんなにも違うのか。心が震えて、瞳がじんわり潤んできた。

「すごい、すごいね奏真。のぞいた?」
「ああ、さっき見た。ほんと、想像以上で手が震えてる」

 奏真は興奮ぎみにうなずいて、三脚にセットしてあるカメラのシャッターを切った。この日のために、奏真がまた貯金をはたいて用意した三脚と望遠レンズだ。奏真のカメラを見て、わたしはちょっとだけ後悔した。こんな幻想的な風景を撮れないなんて、もったいないな。やっぱりわたしもカメラを持ってくるべきだったかな。心がむずむずと疼くけれど、やっぱりそう簡単に決心は変えられなくて、小さく息を吐く。

「雫、見て」

 りせがひときわ輝く星を指差した。

「あれがデネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形」
「素敵……」

 夏の大三角形、って、名前だけは聞いたことがあるけれど、結構細長い。正三角形というより、二等辺三角形って感じ。

「あっちに見えるのがわし座。あそこの光ってる三つを線で繋ぐの」
「詳しいな」

 奏真が感心したように言うと、隣で柊さんが「おれの受け売り」と笑った。ポケットから煙草を取り出して、ライターで火をつける。暗闇の中で、オレンジ色の灯がぽうっと灯って、柊さんの端正な顔を明るく浮かび上がらせた。白い煙が宙をたゆたう。りせはあっと声を上げ、柊さんの顔をのぞき込んだ。

「禁煙するんじゃなかったの?」
「今日はいいんですぅ」
「ふぅーん」

 柊さんは煙草を口にくわえたまま、ふいに、りせの耳に手を伸ばした。 

「そのピアス、似合ってるな」
「え?」
「今日にぴったり」

 耳元できらめくそれは、今朝りせが一生懸命選んだ星のピアスだった。ふたりのやりとりを遠目に見ながら、わたしはちょっと嬉しくなった。りせの顔は見えないけれど、きっとはにかんだ笑顔を浮かべているに違いない。

「あっ、流れ星!」

 夜空をじっと眺めていた奏真が、大きく叫んだ。わたしたちは一斉に空を見上げた。

 たくさんの星が、ものすごいスピードで落ちてきた。一、十、二十……いくら数えても数え切れない。目で追うこともできないくらい、無数の星が降ってくる。

「みんな、祈れ!」

 柊さんが号令をかけるように言ったので、わたしは慌てて目をつぶった。どうしよう。両手の指を絡めてみるけれど、願うことなんて思いつかない。無病息災、健康第一? なぜか若者らしくないことばかり浮かんでくる。薄目を開けて隣を見ると、奏真はぎゅーっときつく両目をつぶり、一心に何かを祈っていた。柊さんは煙草を吸ったまま望遠鏡をのぞき込んでいる。りせは何を願っているのだろう。わたしは気づかれないように、そっと視線を動かしてみた。

 暗闇の中、りせは瞳を開けたまま、まっすぐに流れ星を見上げていた。祈ることもせず。願うこともせず。ただひたすら、睨むように見つめ続けている。その瞳には、何かを覚悟したように、強い光が宿っていた。

 わたしは息をすることも忘れ、りせの横顔に見惚れた。風にたなびく栗色の髪。白い肌。鋭い眼差し。そのすべてが、同じ人間とは思えないくらいきれいで、でもどこか、さみしげだった。

 りせは今何を考えているの。星に願うこともせず、何を思っているの。誰を、想っているの。

 わたしはもう一度夜空を見上げ、ぎゅっと強く両目をつぶった。願いを叶える方法は、流れ星に三回祈ること。今、わたしが祈ることは。

 りせのことを知りたい。
 りせのことを知りたい。
 りせのことを、もっと知りたい。

 心が潰れそうなくらい強く願った。こんなことを思うのは初めてだった。わたしは誰かを愛したことがない。興味があるのは写真だけ。ずっと、そうやって生きてきたから。だけど、りせに会ってからどこか変わった。彼女の笑顔の理由も、悲しみのわけも、すべて知りたい。幸福も不幸も、すべて分かち合いたい。星の流れが消えるまで、強く強く、祈り続けた。



 キャンプ場をあとにしたのは、二十一時をまわった頃だった。星空の興奮が冷めやらぬまま車に乗り込んだわたしたちだったけれど、三十分も経つ頃には、穏やかな寝息が車内を包み始めた。あいまいになる意識の中、柊さんとりせのひそやかな話し声が、子守歌のように鼓膜を揺らしていた。

 夜がますます深まり始めた時間。寝静まった車内で、わたしはふと夢から覚めた。ゆっくりと目蓋を開けて隣を見ると、奏真のまぬけな寝顔が目に入った。助手席にいるりせも、窓に寄りかかって寝息を立てている。

「起きちゃった?」

 運転席から、柊さんが小さな声で話しかけてきた。ミラー越しに目が合う。時刻を確認したら、二十三時を過ぎていた。

「まだ時間かかるから、寝てていいよ」
「……柊さん、疲れてないですか?」
「疲れたに決まってるだろ。もう若くねーもん」

 はは、と笑う彼の声には、言葉通り疲れの色が含まれていた。窓の外に見える景色はどこもかしこも真っ暗で、車のライトだけが、薄ぼんやりと一寸先を照らしている。まるで深い海の底から、地上を眺めているみたい。

「今日、ちゃんと楽しめた?」
「はい。すごく、素敵でした」
「そっか」

 柊さんは安心したように、心底優しく微笑んだ。バーベキューの時も天体観測の時も、柊さんはみんなに気を配って、楽しませようとしてくれた。アウトドアの苦手なわたしが気を遣わずに楽しめたのは、柊さんのおかげでもある。きっとこういうところがすきなんだろうな。

 ――すき、なんだろうけど。

「……りせ、今日の服を選ぶのに一時間かかったんです」
「なに、それ。時間かけすぎだろ」
「柊さんに褒めてもらえるようにって、頑張ったの」

 柊さんは何も答えなかった。表情ももう見えないし、何を考えているのかも分からない。夜を知らせる沈黙が、ただ、わたしたちを包んでいる。

 今日、柊さんを見ていて思ったこと。大人。頼りになる。優しい。素敵。……嘘つき。

「……りせは、柊さんのことがすきなんです」
「知ってるよ」

 そっけない、でも優しい声だった。その優しさが、なんだか無性に腹立たしかった。

「柊さんは、どう思ってるの?」
「どうって」

 柊さんの言葉が不自然に途切れた。何かを言いかけて、やめたような様子だった。

 わたしは、心がどんどん冷えていくような感覚に襲われた。聞いてはいけないようなことを聞いてしまったような気がした。踏み込んではいけない、ふたりだけの領域に、足を踏み入れてしまった。その実感がじわじわとつま先から心臓まで駆け上がってきて、急に、こわくなった。

「大人には、いろいろ事情があるんだよ」

 長い長い沈黙のあと、ちょっとぶっきらぼうに、柊さんが答えた。

「雫ちゃんには、まだ早いかな」

 少し笑い声を含んで、ごまかす。今度はわたしが黙る番だった。本当は黙りたくなかったけれど、黙ってあげた。きっとそれ以上問いただすことを、りせは望まないだろうと思ったから。

 言いたいことをすべて飲み込んで、柊さんとの会話をやめた。目蓋を閉じて、再び眠るふりをした。車の振動が体に響いてうっとうしい。さっきまであれだけ眠たかったはずなのに、今はちっとも眠れる気がしない。

 早いって、何よ。わたしが子供だから、分からないって言いたいの。わたしが恋を知らないから? わたしに、恋人がいないから? 人を愛したら理解できるの? もっと、りせのことを知ることができる?

 結局、もやもやを抱えたまま時間が過ぎて、やがて別れの時が来た。

「今日はありがとな。すっげー楽しかった!」

 車から降りた奏真は、さっきまで眠っていたとは思えないほど高いテンションでそう言った。

「ごめんな、遅くなって。親御さん心配してるだろ」
「大丈夫です。連絡もしてあるし」

 りせは助手席の窓を開け、奏真に笑いかけた。

「じゃあね、奏真。また写真見せてね」
「もちろん。……じゃあ、おやすみ、雫」
「うん……」

 わたしは小さくうなずいて、奏真の背中が遠ざかっていくのをぼんやりと眺めた。いつもなら別に何とも思わないのに、なぜだろう。今はなんだか、このまま離れたくない。

 ――雫だから、言うんだよ。

 その言葉の、意味を知りたい。

 気がつくとわたしは、閉まりかけたドアの隙間から、外に飛び出していた。

「雫?」
「ごめん、すぐ戻る!」

 りせの驚いた声に答えながら、わたしは全速力で奏真のあとを追いかけた。

「奏真!」

 曲がり角を曲がったところで、ようやく奏真に追いついた。振り向いた奏真は、びっくりしたように目を見開いた。

「どうした? おれ、忘れ物でもしてた?」
「う、ううん……」

 わたしは膝に手をついて、乱れた呼吸を整えた。ほんの少し走っただけなのに、もう体力が尽きかけている。

 ようやく動悸が正常に戻ったところで、わたしは膝をまっすぐ伸ばした。

「……動物園に行った時、わたしに言ったこと、覚えてる?」
「え?」

 奏真はちょっと首を傾げて笑ったけれど、すぐに笑みは薄れていった。

 ――じゃあ、恋人になる?

「なっても、いいよ」

 その言葉が、どれだけ本気だったのかは分からない。冗談だったのかもしれない。だけど、それはとても都合のいい言葉で。大人に近づくための、ちょうどいい手段だったのだ。

 わたしは眼鏡を外して、まっすぐに奏真を見つめた。夜の闇に紛れて、奏真がどんな表情をしているのか、もうわたしには見えなかった。

「恋人に、なってみようよ」

 それを知らないことが、子供の証だと言うのなら。少しでもあなたに近づきたい。あなたの孤独を理解したい。たとえ、誰を利用しても。

 美しいはずの月はもう、雲に隠れて見えなかった。